140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#112バーンスタインセレナード

2021-10-15 20:52:14 | 音楽
第494回定期演奏会〈大植英次のバーンスタイン〉
バーンスタイン:ミュージカル『キャンディード』序曲
バーンスタイン:セレナード-ヴァイオリン独奏、弦楽、ハープと打楽器のための(プラトンの『饗宴』による)
バルトーク:管弦楽のための協奏曲 Sz.116

帝王カラヤンは画家が羨ましいと言っていたと記憶している。
気に入らない絵があったなら画家はキャンバスを塗りつぶせばよいが、
音楽家は一度録音したものを取り消すことはできないからと言う理由だったと思う。
もちろんここで言う音楽家とは作曲家ではなく指揮者のことだ。
スケッチ帳に思い付いた旋律を書き出した作曲家は十分に納得するまで何度も推敲するだろう。
気に入らない絵を塗りつぶすように。それでも後になって、あれはまずかったと思うかもしれない。
時間が経てば、良いと思っていたものを悪いと考える時が訪れる。
それは端的に自分自身が変わってしまったのだと思う。
ある年齢で完璧な領域に辿り着いて、死ぬまでずっとその状態をキープする人なんていないだろう。
それはすごいというより、つまらないことのように思える。

さて、バーンスタインは帝王カラヤンと比較されるくらい指揮者として極めて高い評価を得ている。
それに比べれば作曲家としての彼の評価はあまり高くない。
今日、演奏されたセレナードもバルトークの管弦楽のための協奏曲と並べられるとかなり分が悪い。
クラシックファンであればバルトークの作品は一通り聞くだろうが、
好んでバーンスタインの作品を聴こうという人は少ないだろう。
今回定期演奏会で取り上げられる曲は予習ということでYoutubeにあった動画をスマホに落として
聴いていたが、演奏会が終わってしまえば、しばらく聴くことはないだろう。

初めの話に戻るが、絵や彫刻や文芸とは違って音楽は演奏者の手助けなしには成立しない。
作曲家の残した楽譜を解釈するということは、自然の風景から感じ取った何かをキャンバスに定着させる
画家の試みと似た何かなのだろうか? 私にはよくわからない。
小説を読んで引き起こされる感情は再生装置を兼ねた読者の言語解析器官に委ねられていて、
その解釈が作家の意図したものと適合しているのか、全くズレてしまっているのかは他人にはわからない。
だが、そもそも作家の意図したものが何かを誰が断定することができるのか?
よく考えてみると事情は音楽と似ているのかもしれない。
脳の中で起きている現象は極めて主観的なものであり、その主観的な現象を定着させる手段はいくつかあり、
たとえばそれが音楽であったり、絵であったり、小説であったりするのだが、
客観的である音階や色の波長や文字という記号を並べて伝えられる情報は
目や耳などの感覚器官を介して脳に伝えられ、そこで再び個人の主観的な体験として組み立てられる。
それが作者の意図したものと全く同じである保証はどこにもない。
あるいは作者が意図したものを作者自身が把握しているという保証もない。
確実なことは、私たちはいつも偉大な故人の残した作品に振り回される運命にあるということだけだ。
そして何かを体験している時に無心でいる状態をとても心地良いものとして感じている。
確かに作曲家であれ、指揮者であれ、私たちに心地良い機会を提供してくれる人々に感謝すべきなのだろう。