140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#118ヴォーン・ウィリアムズ交響曲第5番

2022-05-17 21:00:37 | 音楽
第501回定期演奏会〈ヴォーン・ウィリアムズ/生誕150年記念〉
エルガー:序奏とアレグロ 作品47
モーツァルト:オーボエ協奏曲ハ長調 K.314(285d)
ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番ニ長調

静けさ。哀しみ。祈り。この曲は1938年から1943年にかけて作曲されたということだが、
作曲家は1872年10月生まれだから、1943年というと70歳を過ぎていることになる。
それくらいの年齢になると野心とか功名心といった感情は無くなってしまうものなのだろうか? 
死ぬまで金と権力の亡者となっている一部の政治家を除けば、
加齢に伴って人間は粛々とあらゆる物事を受け入れるようになるのではないかと、そんな気がしている。
それは諦めに似た哀しみのようなものかもしれない。
一度ならず二度までも世界大戦を目にしてしまったなら、それにまつわる哀しい出来事を体験したのなら、
静けさと哀しみと祈りしか残らないものなのかもしれない。
余計なものが一切取り除かれた静けさと哀しみと祈り。
私が今、聴いているのはそのような音楽なのだろうか? 正直なところ戸惑っている。
私はそんなに物分かりが良い方ではなく何事も強制されると目一杯抵抗するタイプなので、
こんなふうに静かに何でも受け入れようという音楽には、ものすごく戸惑いを感じる。
本当の哀しみを知っていれば受け入れられるような音楽。でも本当の哀しみって何だろう? 
私はそんなものを知っているのだろうか? 
父が亡くなった時、母が亡くなった時に訪れた虚無感のことだろうか? 
哀しくて泣いてしまいたいけれど泣けない。
胸に開いてしまった穴を塞ぐものが何処にもないと感じた時のあの気持ちのことだろうか? 
確かにその頃から、周りの目をあまり気にしなくなった。次に世の中を去って行くのは私なのだと思った。
嘆きという起伏の激しい感情は本当の哀しみではないのかもしれない。
ただ静かに、ただひたすらにその場に立ち尽くし、祈りを捧げる。
何かを求めてではなくて、誰かにひれ伏すというのではなくて、単に祈りを捧げる。
捧げるというのも少し違うかもしれない。祈る。ただそれだけ。
野心からすっかり解き放たれた70歳の作曲家の作品には、そうした祈りが宿るものかもしれない。