140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

久しぶりに「俺の邪悪なメモ」にアクセス

2012-08-30 22:48:12 | Weblog
久しぶりに「俺の邪悪なメモ」にアクセスしてみたら、
『おおかみこどもの雨と雪』根底に流れる絶望についてという記事がありました。
これもネタバレ注意です。

「普通と大きく違う個性は良くない」ということについて、
「私たちの社会は自分たちと違う者をきっと排斥する」という確信と、
「当事者は排斥されることを内面化する」ということについて書かれていました。
なんとなくカフカ的な感じがします。

私は、tsymiyamaさん自身も「違いすぎる個性」の持ち主であり、
「社会から排斥され」、「当事者として排斥されることを内面化」したのだと思います。
人の想像力というものは、自分が経験し得る範囲、自分が思考できる範囲にしか及ばない。
そのことは排斥されてきた者にしかわからない。

「おおかみこども」に生まれてくることが、
「自分の意志では制御しきれない強い個性を持って」生まれてくることを意味しているなら、
なかなかつらいことだとは思います。
それでも「強い個性」に生まれてくることは希少なことであるので
当事者がそのことを受け入れるのであれば、
希少な人生を歩むことができます。

こどもの頃は「普通であること」を強く望んだが、そういう願いは聞きとげられなかった。
私に役割があるのだとしたら「普通でないこと」を曝け出して
誰かに安心してもらうことかもしれない。

論語

2012-08-26 12:35:09 | 
「論語」を読んだ。
東洋の思想といったものを全く知らないので勉強しようと思ったのだが、
礼とか徳とか仁という言葉を使って、
心持ち、心掛け、訓戒のようなことが書かれているだけで、
思想のようなものは見あたらなかった。

解説によると、紀元前五世紀には紙はなく、
竹や木の細い札に書いて綴り合せて巻物にしており、書物は普及していなかったという。
そして孔子が自分で自分の思想を本に書こうとしたわけではないという。
そういうわけで思想がないのは孔子のせいではないのだろう。
本人が意図していないのだから。

二千五百年の間、「論語」は東アジアのあらゆる知識人によって愛読されてきたという。
その理由は、一見平凡な孔子の言葉は、じつは非凡、最高の非凡さであるからだと
訳者は書いている。本当だろうか?

儒学(儒教)が漢王朝の正統な学問として採用されなかったとしたら、
「論語」が今に伝えられることはなかったかもしれない。
君子と臣下、親と子といった上下関係に厳しい体系は支配者にとって都合が良い。
孔子は自分の生きた時代の下克上を嘆いて正義を貫こうとしたようだが
その正義は支配者にとって都合が良い。

君子はいつから君子なのだろうか?
その先祖はかつては成り上がり者ではなかっただろうか?
支配権を確立した漢王朝がその体制を維持するために利用しただけではないだろうか?
江戸幕府が朱子学を採用したことと同じことではないだろうか?

貝塚茂樹さんが訳と注釈を書いている中公文庫のものを読んだ。
読み下し・原文・口語訳・注釈・内容解説の順で書かれている。
注釈と解説がなければ途中で投げ出してしまったかもしれない。
訳者に感謝すべきだろう。

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを

2012-08-25 00:08:12 | ヴォネガット
カート・ヴォネガット「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」を読んだ。
SFではない。

「・・・・・・そう、もしかすると人気の秘訣は、大のおとなならとうに片づいたと
みなしている青くさい問題をわたしが扱うかもしれません。わたしは、神とはなんぞや、
神がのぞむものはいったいなにか、天国はあるか、あるとすればどんなものかなどと
いうことを話します。大学に入って二年目くらいの学生がやることですね。
彼らは喜んでこういう問題を論じます。ところがもっと成熟した人々は、そんなことは
とうに解決ずみといった様子で、ひどく退屈そうな態度を示すのです」

訳者あとがきに、青年のあいだで人気を集めている理由を問われた時のヴォネガットの
答えとして上記の文章が記載されていた。
SFという衣をまといながら、神とはなんぞや、人生の目的とはなんぞやという話を
展開して行くところに著者の魅力があると思う。
ところが本書はSFではないので、その辺のやりとりが少し物足りないという感じがする。

どんなにつまらないと思える人間に対しても、やさしい言葉をかけるという点では、
ムイシュキン公爵に少し似た人物が登場する。
「白痴」であることと「キじるし」であることも共通している。
ヴォネガットの「白痴」と呼んでみたい。

「タイタンの妖女」で金持ちであることの罪悪感のようなことが書かれていたが
本書でも同様のことが書かれている。
それでヴォネガットは私有財産を認めていないのだろうかと考えてしまう。
そうするとマルクスとエンゲルスのお友達ということになるのだろう。
レッド・パージの国では、そんなことはあり得ないので、深読みしすぎかもしれない。

「でも、あなたはそこでなにをなさるつもりなの、エリオット?」
「ぼくはこの人たちのめんどうを見ていこうと思うんだ」
「それは―それはとてもいいことね」

共産党宣言

2012-08-21 23:43:35 | マルクス
「最近二十五年間に事情はおおいに変化したが、それでもこの『宣言』のなかにのべられている
一般的諸原則は、だいたいにおいて、今日もなお完全な正しさを失っていない」(8ページ)
ロンドン、1872年6月24日
カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス

「完全な正しさ」というところがよい。
普通の人間には、何が正しくて何が間違っているのか、わからない。
わからないまま一生を終える。このことから一つの教訓を得ることが出来る。
つまり自分が正しいと思ったことが正しいのだ。
しかし、皆がそう考えたとしたら、正義と正義は激しく争うことになる。
一神教と一神教の争いのように、一人一人のことをよく知らないくせに互いに憎しみあうのだ。
結局のところ、私たちは他人が何を考えているのかわからないし、知ることも出来ない。
そのような立場にたってみると相手を説得する何の理由もありはしないし、
何が正しいかを主張することもできなくなる。
「完全な正しさ」という表現は、二度の世界大戦があったことを知らないから、
実際に生じた社会主義国における独裁を知らないから、用いることができるのだろう。
そして私たちは事実を知れば知るほど押し黙ることになる。

「人類の全歴史は階級闘争の歴史であった。つまり、搾取する階級と搾取される階級、
支配する階級と圧迫される階級とのあいだの闘争の歴史であった」(27ページ)
「階級闘争の歴史」ではなく単に「闘争の歴史」とする方があたっているだろう。
マルクスが盛んに用いる「階級」や「プロレタリア」という言葉に何の意味があるだろうか?
「私は虐げられているあなた方の味方ですよ」とそのくらいの意味しかないと思う。
それじゃ「国民の生活が第一」とあまり変わらない。

「共産主義者の当面の目的は、あらゆる他のプロレタリア党の目的と同一である。
すなわち、階級へのプロレタリア階級の形成、ブルジョア支配の打倒、
プロレタリア階級による政治権力の奪取である」(63ページ)
省略すると「共産主義者の目的は政治権力の奪取である」となる。
世界中で共産主義者が嫌われるのはそのせいだろうか?
そして政治権力を奪取したプロレタリアなるものは別のものへと変容することになる。
その名は単に「支配者」だ。

「しかしいまやこの闘争は、搾取され圧迫される階級が、かれらを搾取し圧迫する階級から
自分を解放しうるためには、同時に全社会を永久に搾取、圧迫、および階級闘争から
解放しなければならないという段階にまで達した」(10ページ)
「全社会を階級闘争から解放するための闘争」
19世紀の人々はそのような矛盾に満ちたユートピア思想を抱いていたのだ。
マルクスはそのことを知っていたのではないかと思う。
資本論には階級闘争のことは一切書かれていない。
きっと恥ずかしくて書けなかったのだろう。

1872年から140年後のロンドン五輪の閉会式でジョン・レノンのイマジンが流れていた。
///
Imagine all the people
Sharing all the world

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one

想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっとひとつになるんだ
///

ジョン・レノンは好きだが、たった4人のグループを続けることができなかった人に
「世界はひとつ」と言われても困る。

3.8 言語と論理

2012-08-18 00:05:05 | 140憶年の孤独
「言語がなければ考えることすら出来ない」というのが事実であるなら
思想の限界は言語の限界によって制限されているのだろう。
そしてまた不適切な言語の用い方は誤解を生むものなのだろう。
「神はあるか」「不死はあるか」といった問題について
「三次元的、ユークリッド的にしか物事を捉えることが出来ない頭脳」は
何も答えることが出来ない。あちらのことは私たちにはわからない。
それでもなお、「神はあるか」と問う者は後を絶たない。
全く信じないか、無条件に信じるか、好きな方を選べば良いと思う。
それが真であるとか偽であるとか誰にもわかりはしない。

「論理哲学論考」によれば「論理」は先験的(ア・プリオリ)なものであるという。
対象と対象の関係を「論理」で結びつけることが「考える」ということなのだろうか?
そして先験的に「論理」が備わっているということであれば
NOT,AND,ORといった接続が先天的に脳に備わっているということなのだろうか?
ニューロン相互の接続はもっと複雑なもののようだから
そのハードウェア的な(先験的な)接続が「論理」であると考えてよいのだろうか?

「論理」の最小単位はNOT(否定),AND(かつ),OR(または)に他ならない。
コンピューターのソフトウェアもハードウェアも「論理」を組み合わせることで複雑な処理を行う。
そうするとコンピューターはア・プリオリに「論理」を備えているのだから
既に「考えている」ということになるのだろうか?
今、こうしている瞬間、私は「考えた」ことを書こうとしているのだけれど
その瞬間を捉えることは決して出来ない。
ただ、私は「言語」と「論理」を使って「考えている」のだということに気がつく。
コンピューターは「言語」を用いずに「論理」だけを適用する。
彼は「論理」を適用している対象が何であるかを知らない。
そうするとやはり「考えていない」のだろうか?

そして「論理」が接続であるとしたなら「言語」の物理的なイメージは何だろう?
記号と像を結びつけるものとして個々の名詞があるのだろうか?
記号はビット表記のように複数のニューロンで扱われ
像もビット表記として複数のニューロンで扱われるのだろうか?
個別の入力に応じて特定のニューロンが発火するといった現象が度々報告されたり
ある活動をしている時に脳の特定の部位が活発になると報告されたりするが
私たちは「言語」を可能にする脳の仕組みなんて全然わかっていない。
その仕組みは「言語」では語り得ないものかもしれない。
そしてそこで思考停止に至る・・・

アベンジャーズ

2012-08-17 00:05:05 | 映画
「日本よ、これが映画だ」を見てきた。なるほど、これが映画か。
このキャッチコピーを考えたのは日本人だという噂だ。
話題にするためにワザとやっているのだと・・・

「ロザムンデ」が流れるシーンがあったけど長くは続かなかった。
この映画とシューベルトは、どちらかというと、対極にあるのではないかと思う。
何も考えずに楽しめるかと言うと、そんなことはない。
最初から最後まで、よくこれだけ、暴力ばかり続けられるものだと思う。
それで目立たないが、配給が、ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパンになっている。
ウォルト・ディズニーがこの映画を見たら、きっと怒り出すと思う。
彼のエンターテインメントは善意のものであり、人を幸せにすることが目的であり、
なにかしら語り継がれるものはあると思う。
かつての手塚プロも、そういうことがわかっているから、
亡きディズニーに対して、亡き手塚治虫に対して、敬意を持って対応したのだ。
そのようにして彼の精神を大切にしているのであれば
こうした作品をディズニーの名のもとに
扱うことはなかっただろう。

チームとしてまとまるかということが一つ争点のようだったけど
どうみても勝手に暴れているだけです。
そしていかにも続編やりますよという終り方をしていた。
そんなにやりたきゃやればいいさ。

おおかみこどもの雨と雪(ネタバレ編)

2012-08-16 00:05:05 | 映画
【注意】これから映画を観ようという人は読まないでください。
くだらないことをつらつらと書いていこうと思いますが
たぶん思いっきりネタに触れると思います。

①雨と雪
雨と雪がこどもの名前とは知りませんでした。
雪というのはアリとして、雨って名前は聞いたことがありません。
それとお姉さんが雪なので「雪と雨」にしないのはどうして?
語りが雪だから?わかりません。

②狼と人間
狼と人間のどちらを選べばよいかを考えているようでしたといった感じのセリフがあって
この時すでに両方が人間を選ぶということはないのだと
私たちは知らされているようなものです。
そして両方が狼という場合はストーリーが成立しなくなります。
語りが雪であるだけに狼として生きて行くのは雨ということになります。
幼い時は雪の方が狼っぽかったわけですが
次第に雨が狼としての生き方を選んで行くわけでして
弱々しい男の子が立派な狼へと・・・
そして一方ではガサツな女の子が多感な少女へと変貌して行きます。
ここで狼か人間かという選択肢は明示的なものですが
それはきっと観ている人に対しても人生における、あるいは生き方についての、
選択が大切だと伝えたいということなのでしょう。
しかしいったい私は何を選択したのだろうかと自問してしまうのですが
このようなダラダラした文章を書くのも一つの選択ではなかろうかと
自分を慰めるより他にすることがない?

③育児
おおかみこどもが部屋を散らかしてくれたりするわけですが
これも人間のこどもの姿を「おおかみこども」というテーマに載せて
私たちに再確認させているのだと思います。
そしてスクリーンの中に育児をしていた自分たちと幼かった頃の子どもたちの姿を
見つけることで私たちは物語の中に主体的にとりこまれて行くわけです。
そういうわけで客観的に見ようとしても感情移入してしまう。

④自然
雨と雪が美しい自然の中を駆け回るのですが
彼らの視点で躍動感ある描写をしたり実写よりもリアルな風景を出現させています。
そういうのってけっこう普通のことだと思ったりしますが
意外と誰もやっていないのではないでしょうか?
ここには「もののけ姫」の森とは違った美しさがあるのではないかと・・・
そういえばキャメロン監督もオマージュを捧げたのだっけ。

⑤お父さん
おおかみおとこのお父さんがあっけなく死んでしまいます。
清掃車に放り投げられて惨いです。
それにしても彼は何を学びに大学に出入りしていたのか気になります。
こっそりと図書館に入って、うれしそうにページをめくっていました。
本好きなおおかみおとこの知り合いがほしい!

⑥その後
雨は狼として生きて行くので子どもに恵まれる可能性は少ないと思います。
雪は人として生きて行くので子どもに恵まれるのだろうかと考えました。
そうするとその子は「おおかみこどもこども」になるわけで
狼の血はどんどん薄くなり、変身できるのはどこまで?
というくだらないことを考えてしまうのでした。
おしまい。

タイタンの妖女

2012-08-15 18:53:28 | ヴォネガット
カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」を読んだ。
地球から火星に行って、それから水星に行って、地球に戻って、
それから土星の衛星であるタイタンに行ってというSFのお話になっている。
それはワクワクするような冒険物語になっているわけではなく
SFらしからぬ重苦しい雰囲気を維持し続けている。

その重苦しさの正体は何かと考えてみれば
「生物たちの最高の目的はなんであるか」という問いに対する
「生物たちがなにかの目的を持っているとはとうてい考えることができない」という結論に
要約されているのではないかと思う。
あるいはその結論は愛することが目的であるとか
誰かに利用される人生であったとしても全く必要とされないよりは良いという考え方に
変形されてはいるが、およそ愚直なまでに「問い」に答えようとしたり、
宗教や科学の不毛さについて語ったりして、益々、重苦しくなってゆく。

そのようなテーマを扱うこと自体に「ある種の不器用さ」を感じる場合もあるが、
少なくともそれは著者が誠実であろうとしていることを示していると思う。
あるいはドストエフスキーが突きつけるような「問い」に対して
この人は真摯に答えようとしているのだと思う。

「おまけにこの哀れな生物たちは、存在するものすべてなんらかの目的を持たねばならず、
またある種の目的はほかの目的よりもっと高尚だという観念にとりつかれていた」
目的や意味それ自体が、思考するという行為にとっては必要不可欠なものとなっている。
思考があるところには目的や意味がなければならない。
そうでないとしたら何の為の思考か?

そして実際には目的なんてないという事実は
思考することのない多くの生物の存在によって
あるいは思考することのない多くの無機物の存在によって容易に示される。
遺伝子は個体から個体に引き継がれてゆくが自己増殖以外の目的を持っていない。
そして自己増殖というのは「生きるために生きる」という類のものだろう。
宇宙に遍く存在する物質に至っては単に存在するにすぎない。
それらは重力との相互作用をするものとして認識されたり
光との相互作用を持つものとして認識される。

このような考え方は結局のところ行き場所がない。
無意味を主張すること自体が無意味だ。それでも自覚しておいた方が良いと思う。
そのように自覚することでカート・ヴォネガットと共に
あらゆることを笑い飛ばすことができる。

おおかみこどもの雨と雪

2012-08-14 22:20:06 | 映画
予想通り、泣かされた。
「サマーウォーズ」のような娯楽性を排除している。
この人は二度とサマーウォーズのような作品を作る気がないのだと思った。
たとえば、ポケモンでも、「バトルしようぜ」といった格闘モノから逃れられない。
そのくせ、愛や正義や希望や勇気や友情などを語る。
私は主人(ポケモンマスター?)の命令をいつも忠実に聞いて格闘を繰り広げる
ポケモンたちが可哀想でならない。

「日本よ、これが映画だ」というキャッチコピーに不快感を覚えている人も多いと思う。
その上から目線はいったい何なのかと?
そして暴力がないとストーリーを作ることができない人々は
結局のところ映画を観る人々をバカにしているのだと思う。
「おまえたちが感動する映画というのは、こういうものだろう?」と
強大な敵と打ち克つべき試練と大逆転のラストシーンを用意してあげたのだ。
さあ感動しろ!!!!!

サマーウォーズは悪役のいないということで一部で批判されている。
確かに、AIが悪役であり、最後はAIを作った開発者も味方に加わり、
みんなで人格のない悪役を倒して感動するというのは甘っちょろい。
もっとギラギラした敵を、憎悪の塊りのようなエイリアン(侵略者)を倒すべきなのだ。
そういう意味では、最後は息子を助けるアナキン・スカイウォーカー
(つまりはダース・ベイダー)も敵役としては甘いのだ。
そして「時をかける少女」に悪役は出てこない。
「ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島」は・・・よくわからないです。
それで私は思うのだけれど、「どうしても悪役は必要なの?」

「おおかみこども―」の緩急のテンポと細やかな感情描写も
刺激を求める人々には不要なものかもしれない。
美しい雪景色や駆け回る子どもたちの姿も平々凡々たるものかもしれない。
そのような「普通の話」が終わって、映画の最後に曲が流れて、
すぐに劇場を出ようとする人はひとりもいなかった。
映画に限らず、およそ作品というものは、伝えないことがないのなら、
何の価値もないだろう。

私にとって良い作品とそうでない作品を区別する方法はただひとつだけある。
もう一度、読みたいと思う本
もう一度、聴きたいと思う音楽
もう一度、観たいと思う映画
それだけです。

アメリカの光と陰~ディズニーとフィッツジェラルド~

2012-08-13 00:05:05 | Weblog
京都で開催されていたウォルト・ディズニー展に行った。
私はディズニーのファンではないので知らないことばかりだった。
ミッキーマウス以前にはスタッフを引き抜かれたりして苦労も多かったそうだが
何事も諦めることなく新しいアイデアを採用して
様々なことを実現していった点では20世紀を代表する実業家なのだろう。
長編アニメーション「白雪姫」の成功は1939年であり
1963年にアニメ化された「鉄腕アトム」よりもずっと前の出来事だ。
ディズニーの「ライオン・キング」が「ジャングル大帝」に似ていることについて
「手塚プロは抗議するどころか、ディズニーに似ているといわれて光栄ですという
コメントまで出した」そうだ。手塚治虫はディズニーの影響を受けていたのだろう。

ディズニー・ランドには1回しか行ったことがない。「並ぶのが嫌」なのだ。
行列の出来る店に行かないのも同様の理由による。
「私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、
共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所で
あって欲しいと願っています」とディズニーは語ったという。
幸福になるためにはアトラクションを待つ行列に並ばなければならない。

1901年生まれのウォルト・ディズニーは
1896年生まれのフィッツジェラルドより5歳下になる。
暗い世情の中で人々に希望を与えるエンターテイメントの提供と
暗い世情から目をそらすためのハッピーエンドな作品を拒否する姿勢は
20世紀におけるアメリカの多様性の一面を示しているように思える。
しかし今でもビジネスで成長を続けるディズニーと
借金まみれでアルコールに溺れカネのためにハリウッドに雇われていた
フィッツジェラルドの差異は大きい。
ディズニーのファンのうちの何%がフィッツジェラルドの名前を知っているだろう?
おそらくはフィッツジェラルドのファンの100%がディズニーの名を知っている。

だがアニメーションを芸術の域にまで高めたと自負していたディズニーの作品は
やはり芸術には届かなくてエンターテイメントでしかない。
クラシックとアニメーションを融合させたという「ファンタジア」を見る人は
今ではほとんどいないだろう。
クラシックなんてアニメーションと融合させる必要もないのだ。
それがオペラでないならば純粋に音だけで人を惹きつけるのが
クラシックの優れたところだろう。
それに芸術なんてものは高級なものでも高尚なものでもなく
どちらかというと狂気に近い。

ディズニーの作品が人種差別的であるとか
社会学の用語に、侮蔑と批判をこめた「ディズニー化(Disneyfication)」という
言葉があるといったことには、あまり興味はない。
どちらかというと単調になりつつあるディズニー映画について心配している。
窮乏したフィッツジェラルドを雇うことなどたいしたことではなかった
ハリウッドと同様にエンターテイメントという巨大な資本の集積所は
ハッピーエンドだとか勧善懲悪という単調なストーリーに
人々を縛り付ける。