「キリスト教は純粋な専制政治からほど遠い。それは福音書が柔和を強く勧めているので、
君公が復讐をしたり残酷なことを行ったりする際の専制的憤怒に
キリスト教が反対するからである」
「キリスト教の性格とマホメット教の性格とから、別段の検討をすることなく、
一方を信奉して他方を捨てるべきであるという結論が出てくる。なぜなら、宗教が人間の
習俗を和らげるはずだということは、宗教が真実であるということが明白であるよりも、
われわれにとってずっと明白だからである。
宗教が征服者によって与えられるとき、それは人類にとって不幸である。剣についてしか
語らないマホメット教は、この宗教を創始したあの破壊的精神で
今もなお人間に働きかけている」
しかしモンテスキューは知らない。剣が殺せる数は限られているが、
原子爆弾投下により4ヶ月以内に9万~16万6千人が死亡したとされる広島と
14万9千人が死亡したとされる長崎のことを。
世界貿易センタービルへの攻撃でニューヨークでは合計で2749人が死亡したということだが
原爆については、そんな正確な数は見積もれないし、亡くなった人々の名前すら確認できない。
そんな非道なことが出来るはキリスト教徒しかいないというのが事実だ。
もしかすると大部分のキリスト教徒は柔和であるのかもしれない。
しかしユダヤ人を虐殺したのもキリスト教徒ではなかったのか?
犠牲者は500万人から700万人と言われている。
キリスト教徒は異教徒を人とすら思っていないのではないかと思う。
彼らが本当にイエスのことを理解しているとは思えない。
彼らは右の頬を打たれたら相手を殺してしまう。
愛について語る人々が、その手を汚すことなく、事をなす。
それこそが人類にとって不幸なことだろう。
「諸公は日本の皇帝が彼の国にいるすべてのキリスト教徒を弱火で火刑に処したことを
嘆いておられます。しかし、日本の皇帝は諸公にこう答えるでありましょう。
われわれは諸君を、われわれと同じ信仰をもたない諸君を、諸君自身が諸君と同じような
信仰をもたない人々を扱うのと同様に扱っているのである」と
キリスト教の宗教裁判に対して批判的なことも書いてあるので
著者は本当はキリスト教徒が柔和であるとは思っていないのかもしれない。
残酷さを正当化するのは宗教であるかもしれないしナショナリズムかもしれない。
信じることが非道につながるのではないかと思う。
「敵対的な各家族がいわば自然状態におかれ、なんらかの国制または公民の法律によって
抑えられることなく、その欲するがままに満足を得るまで報復を行うことができる状態に・・・」
「実際、賠償を受けることを拒んだ者は、復讐の権利を保持することを望んでいたのである」
法治国家は個人から復讐する権利を取り上げる。そして「法の下の平等」とかなんとか言う。
「敵対的な各家族が自然状態におかれる」ことを
コモン―ウェルス設立時に私たちは放棄しているはずなのだろう。
社会契約を結ぶ時に放棄しているはずなのだろう。
それで個人はやむなく復讐を諦めるのだが、
心優しい人権擁護団体が死刑制度は残酷なのでやめましょうとか
日本は人権後進国なので死刑制度をなくしましょうとか
いったい何を言っているんだと思う。
小学校で人権擁護を刷り込まれた人たちは、たいした勉強をすることもなく、
自らを先進的であると確信するためだけに制度を変えようとする。
復讐する権利を取り上げた上に法が使命を果たさないのであれば
個人は復讐を諦めたりはしなくなるだろう。
解説によると「法の精神」の実践的な課題は「ペルシア人の手紙」の一節から推測できるという。
「人々は自分たちが悪い状態にあるということを感じてはいたが、良くなるためには
どうしたらよいかわからなかった」ということらしい。
それは確かにそうだが、そんなことは誰にもわからないのでは?
そんな課題は解決できないのでは?
君公が復讐をしたり残酷なことを行ったりする際の専制的憤怒に
キリスト教が反対するからである」
「キリスト教の性格とマホメット教の性格とから、別段の検討をすることなく、
一方を信奉して他方を捨てるべきであるという結論が出てくる。なぜなら、宗教が人間の
習俗を和らげるはずだということは、宗教が真実であるということが明白であるよりも、
われわれにとってずっと明白だからである。
宗教が征服者によって与えられるとき、それは人類にとって不幸である。剣についてしか
語らないマホメット教は、この宗教を創始したあの破壊的精神で
今もなお人間に働きかけている」
しかしモンテスキューは知らない。剣が殺せる数は限られているが、
原子爆弾投下により4ヶ月以内に9万~16万6千人が死亡したとされる広島と
14万9千人が死亡したとされる長崎のことを。
世界貿易センタービルへの攻撃でニューヨークでは合計で2749人が死亡したということだが
原爆については、そんな正確な数は見積もれないし、亡くなった人々の名前すら確認できない。
そんな非道なことが出来るはキリスト教徒しかいないというのが事実だ。
もしかすると大部分のキリスト教徒は柔和であるのかもしれない。
しかしユダヤ人を虐殺したのもキリスト教徒ではなかったのか?
犠牲者は500万人から700万人と言われている。
キリスト教徒は異教徒を人とすら思っていないのではないかと思う。
彼らが本当にイエスのことを理解しているとは思えない。
彼らは右の頬を打たれたら相手を殺してしまう。
愛について語る人々が、その手を汚すことなく、事をなす。
それこそが人類にとって不幸なことだろう。
「諸公は日本の皇帝が彼の国にいるすべてのキリスト教徒を弱火で火刑に処したことを
嘆いておられます。しかし、日本の皇帝は諸公にこう答えるでありましょう。
われわれは諸君を、われわれと同じ信仰をもたない諸君を、諸君自身が諸君と同じような
信仰をもたない人々を扱うのと同様に扱っているのである」と
キリスト教の宗教裁判に対して批判的なことも書いてあるので
著者は本当はキリスト教徒が柔和であるとは思っていないのかもしれない。
残酷さを正当化するのは宗教であるかもしれないしナショナリズムかもしれない。
信じることが非道につながるのではないかと思う。
「敵対的な各家族がいわば自然状態におかれ、なんらかの国制または公民の法律によって
抑えられることなく、その欲するがままに満足を得るまで報復を行うことができる状態に・・・」
「実際、賠償を受けることを拒んだ者は、復讐の権利を保持することを望んでいたのである」
法治国家は個人から復讐する権利を取り上げる。そして「法の下の平等」とかなんとか言う。
「敵対的な各家族が自然状態におかれる」ことを
コモン―ウェルス設立時に私たちは放棄しているはずなのだろう。
社会契約を結ぶ時に放棄しているはずなのだろう。
それで個人はやむなく復讐を諦めるのだが、
心優しい人権擁護団体が死刑制度は残酷なのでやめましょうとか
日本は人権後進国なので死刑制度をなくしましょうとか
いったい何を言っているんだと思う。
小学校で人権擁護を刷り込まれた人たちは、たいした勉強をすることもなく、
自らを先進的であると確信するためだけに制度を変えようとする。
復讐する権利を取り上げた上に法が使命を果たさないのであれば
個人は復讐を諦めたりはしなくなるだろう。
解説によると「法の精神」の実践的な課題は「ペルシア人の手紙」の一節から推測できるという。
「人々は自分たちが悪い状態にあるということを感じてはいたが、良くなるためには
どうしたらよいかわからなかった」ということらしい。
それは確かにそうだが、そんなことは誰にもわからないのでは?
そんな課題は解決できないのでは?