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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

法の精神(下)

2013-07-07 00:05:05 | モンテスキュー
「キリスト教は純粋な専制政治からほど遠い。それは福音書が柔和を強く勧めているので、
君公が復讐をしたり残酷なことを行ったりする際の専制的憤怒に
キリスト教が反対するからである」

「キリスト教の性格とマホメット教の性格とから、別段の検討をすることなく、
一方を信奉して他方を捨てるべきであるという結論が出てくる。なぜなら、宗教が人間の
習俗を和らげるはずだということは、宗教が真実であるということが明白であるよりも、
われわれにとってずっと明白だからである。
宗教が征服者によって与えられるとき、それは人類にとって不幸である。剣についてしか
語らないマホメット教は、この宗教を創始したあの破壊的精神で
今もなお人間に働きかけている」

しかしモンテスキューは知らない。剣が殺せる数は限られているが、
原子爆弾投下により4ヶ月以内に9万~16万6千人が死亡したとされる広島と
14万9千人が死亡したとされる長崎のことを。
世界貿易センタービルへの攻撃でニューヨークでは合計で2749人が死亡したということだが
原爆については、そんな正確な数は見積もれないし、亡くなった人々の名前すら確認できない。
そんな非道なことが出来るはキリスト教徒しかいないというのが事実だ。
もしかすると大部分のキリスト教徒は柔和であるのかもしれない。
しかしユダヤ人を虐殺したのもキリスト教徒ではなかったのか?
犠牲者は500万人から700万人と言われている。

キリスト教徒は異教徒を人とすら思っていないのではないかと思う。
彼らが本当にイエスのことを理解しているとは思えない。
彼らは右の頬を打たれたら相手を殺してしまう。
愛について語る人々が、その手を汚すことなく、事をなす。
それこそが人類にとって不幸なことだろう。

「諸公は日本の皇帝が彼の国にいるすべてのキリスト教徒を弱火で火刑に処したことを
嘆いておられます。しかし、日本の皇帝は諸公にこう答えるでありましょう。
われわれは諸君を、われわれと同じ信仰をもたない諸君を、諸君自身が諸君と同じような
信仰をもたない人々を扱うのと同様に扱っているのである」と
キリスト教の宗教裁判に対して批判的なことも書いてあるので
著者は本当はキリスト教徒が柔和であるとは思っていないのかもしれない。
残酷さを正当化するのは宗教であるかもしれないしナショナリズムかもしれない。
信じることが非道につながるのではないかと思う。

「敵対的な各家族がいわば自然状態におかれ、なんらかの国制または公民の法律によって
抑えられることなく、その欲するがままに満足を得るまで報復を行うことができる状態に・・・」
「実際、賠償を受けることを拒んだ者は、復讐の権利を保持することを望んでいたのである」

法治国家は個人から復讐する権利を取り上げる。そして「法の下の平等」とかなんとか言う。
「敵対的な各家族が自然状態におかれる」ことを
コモン―ウェルス設立時に私たちは放棄しているはずなのだろう。
社会契約を結ぶ時に放棄しているはずなのだろう。
それで個人はやむなく復讐を諦めるのだが、
心優しい人権擁護団体が死刑制度は残酷なのでやめましょうとか
日本は人権後進国なので死刑制度をなくしましょうとか
いったい何を言っているんだと思う。
小学校で人権擁護を刷り込まれた人たちは、たいした勉強をすることもなく、
自らを先進的であると確信するためだけに制度を変えようとする。
復讐する権利を取り上げた上に法が使命を果たさないのであれば
個人は復讐を諦めたりはしなくなるだろう。

解説によると「法の精神」の実践的な課題は「ペルシア人の手紙」の一節から推測できるという。
「人々は自分たちが悪い状態にあるということを感じてはいたが、良くなるためには
どうしたらよいかわからなかった」ということらしい。
それは確かにそうだが、そんなことは誰にもわからないのでは?
そんな課題は解決できないのでは?

法の精神(中)

2013-07-06 00:05:05 | モンテスキュー
「精神の性格や心の諸情念がさまざまな風土のもとでは極端に違っているということが
本当であるとすれば、法律は、これらの情念の差異とも、これらの性格との差異とも
相関的であらざるをえない」

「われわれはすでに、烈しい暑さは人間の力や勇気を挫けさせ、他方、寒い風土では、
人間をして永続的で、骨が折れ、偉大でしかも大胆な行動をとらせうるような肉体的、
精神的なある種の能力が現れるということを述べた・・・
それゆえ、暑い風土の住民の無気力さが彼らをほとんど常に奴隷化してきたのであり、
寒い風土の住民の勇敢さが彼らに自由を維持させてきたのであるということには、
驚くべきことはない。これは、自然的原因に由来する結果である」

「数多くの事柄が人間を支配している。風土、宗教、法律、統治の格律、過去の事物の例、
習俗、生活様式。こうしたものから、その結果である一般精神が形成されるのである」

寒い風土の住民は勇敢であり、自由を欲するということだが、エスキモーもそうなのだろうか?
暑い寒いは程度の問題であって、人間の勇気を挫けさせるような限度があると思う。
その限度を超えた暑さの下では、人間はぐったりして何もやる気が起きないし、
その限度を超えた寒さの下では、人間は布団から出たくなくなる。
人間というよりは、私個人のネコに似た傾向ではあるが、他の人もだいたい同じだと思う。
そうすると冷暖房が完備されている現代では自然に屈従的になることはない。
しかし克服できる暑さや寒さも同時に失われてしまうのであれば、
偉大な行動からは遠のいて奴隷化してしまうのかもしれない。
快適な生活もほどほどにした方がよい。

しかし「風土が人間を支配して一般精神を形成する」といったところで、
何も説明していないのではないかという感じもする。
「習俗が人間を支配して一般精神を形成する」という場合は、
一般精神が習俗を形成するのだとしたら、循環論になるだろうから、
結局のところ、法律は習俗と乖離していてはならないと書いているだけだと思う。
そして習俗は歳月とともに変化していくので、
法律も追随していかなければならないということになるのだろう。
しかし「法律」とは何なのか?

「loiとは、元来は宗教用語であったが、世俗化して『私人間の合意』や『契約』を
意味するようになり、そこから民会において構成員の合意によって成立する法規範
つまり『法律』を指すようになった」と、まえがきに書いてあった。
代表者によって明文化された習俗ということになるのかもしれない。
そして暴君が明文化したものであれば習俗と対立するのだろう。
しかし専制的な地位が維持されるのであれば対立した法律が制定・維持される。
そして日本では国家的詐欺とも言えるような年金制度が維持され、
今後も改悪されていくことだろう。
「法の精神」には日本についての記載が結構ある。だいたい良くない例として記載されている。
タタール人についてもボコボコに書いてある。
著者は日本人の祖先はタタール人であると考えている。
そしてヨーロッパにあらずば人にあらず自由すらないと著者は考えているようだが
実際にそうなのかもしれない。

「土地を耕作しない人民の自由を最も保障するのは、貨幣が彼らには知られていないことである。
狩猟、漁撈、または牧畜の成果は、それをもって一人の人間が他の全ての人間を
腐敗堕落させてしまうことができるほど大量に集積されることも、貯蔵されることもできない。
これに対して、富の標識が存在しているときには、これらの標識を大量に蓄積し、
自分が欲する者にそれを分け与えることができる」
富の標識と、その集積ほど、人間にとって災いとなっているものはないだろう。
あらゆる人間が富の標識を求め、富の標識の前に跪く。
富の標識が有限な量の金属であった頃は集積の程度も限られていたが、
今や「付加価値を創出できない労働者」の時間つまりは命を吸い尽くすほどに
集積は集中されている。

日本的な隷属に比較すると、ヨーロッパ的な自由の精神は素晴らしいものなのだろう。
気まぐれな専制君主による恣意的な支配を受けないという意味での自由、
社会契約における義務を果たすことで生存が脅かされなくなるという意味での自由、
職業や住居や婚姻などについて選択できるという意味での自由、
しかし実際には食うために精一杯であったりする。
ヒトはオートマトンであって、
その内部状態は時間の経過によって周期的に訪れる「欲望」によって決まっているんじゃないかな?
睡眠欲・食欲・性欲は、その都度、満たされる必要がある。
修行僧は、そのような煩悩を克服しようとしているのかもしれないが、
そもそも欲望がなければ、生き物は生存できなかったし、生殖できなかったし、
生殖できないならば絶滅してしまっただろう。だから「煩悩」と呼んでも仕方がない。
そんな不自由な生き物が自由を語るというのは少し笑える。
もし出来るのであれば自由に意志すれば良いと思う。
実際には「意志」と呼んでいるものですら
オートマトンの機能のひとつでは
ないだろうか?

法の精神(上)

2013-06-29 00:05:05 | モンテスキュー
岩波文庫のモンテスキュー「法の精神(上)」を読んだ。三権分立で有名だ。

「各国家には三種の権力、つまり立法権力、万民法に属する事項の執行権力
および公民法に属する事項の執行権力がある。
第一の権力によって、君公または役人は一時的もしくは永続的に法律を定め、また、すでに
作られている法律を修正もしくは廃止する。第二の権力によって、彼は講和または戦争をし、
外交使節を派遣または接受し、安全を確立し、侵略を予防する。第三の権力によって、彼は
犯罪を罰し、あるいは、諸個人間の紛争を裁く。この最後の権力を人は裁判権力と呼び、
他の執行権力を単に国家の執行権力呼ぶであろう。
公民における政治的自由とは、各人が自己の安全についてもつ確信から生ずる精神の静穏で
ある。そして、この自由を得るためには、公民が他の公民を恐れることのありえないような
政体にしなければならない。
同一の人間あるいは同一の役職者団体においては立法権力と執行権力とが結合されるとき、
自由は全く存在しない。なぜなら同一の君主または暴力的な法律を作り、暴君的にそれを
執行する恐れがありうるからである。
裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はやはり存在しない。もし
この権力が立法権力と結合されれば、公民の生命と自由に関する権力は恣意的となろう。
なぜなら、裁判所が立法者となるからである。もしこの権力が執行権力と結合されれば、
裁判役は圧制者の力をもちうるであろう・・・」

そんなふうに三権分立が説かれている。
君主や皇帝や王やツァーやスルタンや天皇や将軍は恣意的なのだろうか?
なんでも自分の思い通りにしたい。言うことを聞かない奴は殺してやりたい。
権力を握ってしまった者は、そうなってしまうのかもしれない。
さて、上記で語られるところの「自由」とはホッブズの「生存権」にあたるのだろうか?
各人の生存権を確保するためにコモン-ウェルスが設立されるというのは本当だろうか?
「法の精神」では著者によって夥しい数の政体が分析されている。
そのほとんどが専制的であるが故に弱者が強者に従うことでしか社会は成立しなかったと
思えるほどだ。実際にそうなのかもしれない。
しかし、いかに弱者であろうとも被支配者の数は支配者よりもずっと多い。
バッタに支配されていたアリたちが、自分たちの数の多さを自覚することで、
立場を転倒させるというアニメがあったが、欧州で生じた革命もそのようなものかもしれない。
少数の支配者の自由よりも多数の被支配者の自由が優先する。
つまり多数の被支配者の生命が尊重されなければならない。
しかし現代の中国では軍事費よりも多額の治安維持費を使うことにより
専制的な地位を維持することに成功している。
結局のところ力関係で決まっている。それを自由と呼ぶ。
だから第二次世界大戦の勝者であるアメリカ合衆国を自由の国と呼ぶのは
極めて妥当なことだろう。

ところで「法律」とは何だろう?
「自然状態においては、人間は確かに平等の中に生れるが、そこにとどまることは
できないであろう。社会が彼らに平等を失わさせ、彼らは法律によってしか再び平等には
ならない」と書いてあるが、法律によって平等になることができるのだろうか?
そもそも社会が平等を失わせるとはどういうことだろうか?
モンテスキューの解釈は私にはよくわからない。
生れた時に持ち合わせている能力なんて不平等でしかないだろう。
遺伝子の組合せは多様性を作り出すためのものだから
遺伝子的にはどれも優れた遺伝子であるかもしれない。
しかし遺伝子は私たちが形成している社会のことなんてまるで知らない。
ビジネスやらスポーツなどの一部の領域で才能を持つ者たちが優遇される社会形態にあって
多くの人々にとっては不平等の中に生れたとしか思えないだろう。
優遇される人々は公正な競争の結果、彼らの名声や地位や富を獲得したと言うだろう。
私に才能があったとしたら、きっとそう言っていたに違いない。
「多数の被支配者が生存することが自由」であるならば
「多数の凡人で富裕層の資産を分割することが平等」であるだろう。
法律はそうであってはいけないのか?

「共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、
専制政体の国のおいては『恐怖』が必要である」と書いてある。
普通に暮らしていると恐怖で人を動かそうとする人があまりに多いと感じる。
そうするとここは専制政体の国であったわけだ・・・

「一緒にいる人間が多くなればなるほど、人間はますます虚栄的になり、つまらぬことで
自分を目立たせようという欲望が生じてくるのを感じる」
そんなものかもしれない。
「国家、すなわち、法律が存在する社会においては、自由とは人が望むべきことをなしうること、
そして、望むべきでないことをなすべく強制されないことにのみ存しうる」という。
「自由」も曖昧だし「法律」も曖昧だし
よくわからない。