goo blog サービス終了のお知らせ 

140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

野生の思考

2015-06-07 00:03:36 | レヴィ=ストロース
大橋保夫訳「レヴィ=ストロース 野生の思考」という本を読んだ。

「南アフリカのブッシュマンは、厳しくて複雑な食物禁忌を守っているけれども、トーテミズムにあたるっものは何もない。
なぜならばブッシュマンの場合この体系は違った面で機能しているからである。
弓で殺した獲物はすべて首長がその一片を食べるまでは禁忌物(ソハ)である。ただし肝臓は禁忌の対象にならず、
射止めた男たちがその場で食べてしまう。ただしそれは、女性にとってはいかなる状況においてもソハである。
これらの一般的規則のほかに、若干の機能的社会的範疇だけに限られる恒久的なソハが存在する。
たとえば射止めた男の妻は獲物の後半身の肉および皮下脂肪、内臓、足しか食べられない。
これらの部分は女子供のものとされている。青年男子は腹壁、腎臓、生殖器、乳頭を食べる権利がある。
射止めた男は、獲物の半身から肩およびあばら肉をとる権利がある。首長は各クォーターと両側のヒレの厚い肉と、両側のあばら肉を取る。
一見したところでは、「トーテム禁忌」の体系からこれほど遠い体系は考えられない。ところが、ごく簡単な変換を行うだけで、
一片の体系から他方の体系へ移ることが可能になる。民族動物学を民族解剖学で置き換えればよいのである」
ここでは「トーテミズムという名のもとに信仰や慣習はでたらめに一まとめにされるべきではない」、
「社会集団と自然領域の間に実体的関係はない」ということが主張されている。
動物の種類を臓器の種類に置き換えるとトーテミズムは消失してしまうのだという。
実際のところ何が何と結びつくかなんて「トーテム禁忌」やら「贓物禁忌」を守っている当人は意識していないのだろう。
著者は執拗にトーテミズムを攻撃している。そのような安直な解決は認めないということだろうか?

「まったく奇妙な体系でわけがわからぬということになるところなのだが、それに説明をつけられる仮説がある。
関係と位置がここでは同列に置かれているのである。それゆえ、ある関係が消滅すると、かならずそれに伴って、
社会的にであれ(死者の与えた名前)言語的にであれ(死者の名に似た単語)それと関係のあった固有名も消滅することになる。
そして新しい関係が作り出されると、その関係の領域の中で、かならず再命名の過程[名前のつけなおしの作業]が
はじまることになるのである」
「女性が再婚するたびに新しい夫は、前夫の子のみならず、父親が誰であろうと自分の妻が一生の間に産んだ子供のみんなに
新しい名をつけるのである」、ティウィ族ではそのような再命名が為されるのだという。
プロ野球チームの監督が変わるとコーチが刷新されることと似ているかもしれない。
企業も同様であって次長が部長に昇格すると次長のお気に召さない課長は追放されてしまう。
どのような勘違いをしているのかよくわからないが、
ヒトは「新しい関係」を構築しようとする。

「私にとって『野生の思考』とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。
効率をめるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。
栽培思考は地球上のあるいくつかの地点に、歴史上のあるいくつかの時期に現れたものであって、民族誌の情報を
もたなかったコントが、野生の思考を栽培思考に先立つ精神活動様式として回顧的な形でとらえたのは当然なのである。
今日のわれわれには、この両者が共存し、相互に貫入しうるものであることがもっと理解しやすくなっている。
それはちょうど、野生の動植物と、それを変形して栽培植物や家畜にしたものとが、共存し交配されうるのと同じである。
・・・野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的よく保護されている領域がある。
芸術の場合がそれであって、われわれの文明はそれに対し、国立公園なみの待遇を与えているが、
このように人工的な方式には、当然それに伴う利益と不都合がある」
それ(野生の思考)を野蛮人・未開人・原始人というような偏見から救い出すためには
自らの属する文明の思考を栽培されたとか家畜化されたと呼ばなければならないのかもしれない。
そのような考え方も実は「栽培思考」から生じたものであるかもしれないのだが・・・
そしてそのような「野生の思考」もまた国立公園なみに保護されているということであれば
弱々しい野生というイメージを免れない。

「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする」
「一般言語学講義」にあるように、時間の干渉を受けないで事物の関係を扱うのが共時的、
同時に複数の事物の関係を扱わずに時間に伴う変化を扱うのが通時的ということであるらしい。
野生の思考はそのような区別をしないということである。
私たちが共時的か通時的かを選択するのはそれが家畜化された思考ということもあるが能力が不足しているということもある。
私たちの貧弱な能力では、空間的な変化と時間的な変化を同時に扱えない。
表に出来るような二次元的な関係しか一度には把握できない。

「本書の直接の主題は、文明人の思考と本質的に異なる『未開の思考』なるものが存在するという幻想の解体である。
未開性の特徴と考えられてきた呪術的・神話的思考、具体の論理は、実は『野蛮人の思考』ではなく、
われわれ『文明人』の日常の知的操作や芸術活動にも重要な役割を果たしており、むしろ『野生の思考』と呼ぶべきものである。
それに対して『科学的思考』は、かぎられた目的に即して効率を上げるために作り出された『栽培思考』なのだ」
解説にそのようなことが書かれていた。ここでは「科学的思考」が「栽培思考」であるとして批判されている。
あるいは「かぎられた目的に即して効率を上げるため」の思考や行為が批判されている。
著者は「かぎられた目的」とは書いていないが「効率をめるため」ということは書いている。
ここでは資本論にあるような「資本は自己増殖しか目的としていない」というようなことが批判されているのだろうか?
私たちは「目的」などと言った途端に、効率化・進化・成長といった考え方から逃れられなくなってしまう。
そして利益の増殖を目的とする企業間の競争、遺伝子の増殖を目的とした生き物同士の競争が世界のすべてということになってしまう。
そのような目的に尽くすことほど馬鹿馬鹿しいことはない。
あるいは、ありもしない「未開の思考」に対して優越を感じている文明人を批判しているのだろうか?
現象学と同じように私たち自身の捉え方を身体に即したものとして再考するよう促しているということだろうか?
「メルロー=ポンティの思い出に」ということで
この本は彼に捧げられている。

「しかしながら、数学の言表は、少なくとも精神の自由な活動、すなわち、あらゆる外的拘束から比較的自由で
それ自体の法則のみに従う大脳皮質細胞の活動を反映している。精神もまた一つのものなのであるから、このものの活動は、
さまざまなものの本性についてわれわれに教えてくれる。すなわち、純粋な思索といえとも、つまるところは宇宙の内面化なのである。
それは、外にあるものの構造を象徴的な形で表している。
『形式論理学と記号論理学は、心理学よりもむしろ民族誌に属する経験科学である』」
つまり純粋科学というものはどこにもなく、数学でさえ経験科学ということである。
そのようなことを認めてしまえば「純粋科学」とか「経験科学」という区別も余計なものということになるだろう。
そして「経験科学」だから「真実には辿り着けない」と言ったところでまた無意味なのだろう。
「精神もまた一つのもの」というのはマッハの「感性的諸要素の複合体」と同じことを指しているのだろう。
そこには形而上学的幻想であるところの「自我」とか「意志」はない。

「マルクスとフロイトは、人間は意味の観点に身を置くのでなければ意味がない、ということをわれわれに教えてくれた」
私たちは意味から逃れることは出来ないのだし、混沌を理解することは出来ないのだし、抽象に生きることは出来ない。
神が死んでしまったのは仕方のないことだろう。

構造人類学

2015-06-06 00:05:50 | レヴィ=ストロース
レヴィ=ストロース「構造人類学」という本を読んだ。訳者は以下の通り。
荒川幾男、生松敬三、川田順造、佐々木明、田島節夫

「私がこれを書いているとき、ミシシッピ河下流のルイジアナ、ボヴァティ・ポイントでの考古学的発見のことを知った。
どうか私がこの問題に脱線してゆくことを許していただきたい。というのは、このホープウェルの町は
西暦紀元前1000年ごろに発するものだが、過去に存在したかもしれぬボロロ族の村落と奇妙な類似点をもっているからである。
その平面図は八角形をしている(ボロロ族の八氏族を思わせる)。そして住居は六列に配置され、全体として六つの
同心八角形の形となる。東西と南北の二本の垂直線が村落を仕切り、その線の端には鳥の形をした塚の目印がある」
そのような社会構造の類似性が認められるということである。
蟻の巣であるとかビーバーのダムといったものも似たようなものかもしれない。
それは本能的なものであるとか原始的なものであるとか言って私たちは人や文明の優位を語ろうとするのだが
いったい何が原始的なものなのかと考えてみると実は何もわからない。
超高層ビルの並びであるとか人口の密集の仕方にしても私たちの意識していない規則性に従っているかもしれない。
原始的なものと文明的なものの差異というのは結局のところ複雑性でしか測れないのではないだろうか?
私たちはより複雑なものに対して価値を認めているだけなのだ。

「最後に、ヴァリアントの完全な系列を、置換群の配列することが成功すれば、群の法則を発見することも
期待できる。研究の現状にかんがみるとき、ここではまったく近似的な指示だけで満足せねばならない。
ここに述べる式が将来どのような正確化と修正を要するにしても、あらゆる神話(そのすべてのヴァリアントの総体と
みなされた)が次のような型の標準的関係に還元されるということは、いまや既得成果であるように思われる。
Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y)
上の式の意味は、フロイトの場合、ノイローゼを構成する個人的神話が生まれるためには、二つのショック
(非常にしばしば信ぜられがちなように一つだけではない)が必要とされることを想起することによって、
完全に理解されるだろう。これらのショックの分析にこの式の適用を試みることによって、
たぶん神話の発生法則により精確で厳密な表現が首尾よくあたえられるであろう」
二つのショックによりノイローゼが構成され、その積み重ねにより神話が構成されるのだという。
世界各地の神話が互いに似ているのはそれらが共通の発生法則に基づいているからであるという。
個体の間の差異は累積により相殺されてしまうものなのかもしれない。
よく考えてみると個体に「自我」「創造」「自由」というような形而上学的幻想はないのであり、
そのような個体は動物と超人の間で繰り返し発生するものであるから語り継がれる神話もまた似たものになってしまうだろう。
上の式のような単純な関係がすべてではないとしても何かしらの規則性に沿って私たちは生きているのだろう。
言語を操るための土台となっている構造と言語を加工編集している流動的な構造
そのようなものが従う規則性を私たちは探している。

「私の考えるところでは、構造の名に値するためには、モデルはもっぱら四つの条件をみたしていなければならない。
第一に、構造というものは、体系としての性格を示す。構造は、構成要素のどれか一つが変化すると、
それにつれて他のすべてのものが変化するような要素から成り立っている。
第二に、あらゆるモデルは、一つの変換群―――その変換の各々が族を同じくするモデルの一つに対応する―――に
属しており、その結果、これらの変換の集合がモデルの一群を構成する。
第三に、右に述べたような特性は、モデルの要素の一つに変化が起った場合、モデルがどのように変化するかを
予見することを可能にする。
最後に、モデルは、それがはたらくとき、観察されたすべての事象が考慮に入れられているようなやり方で
つくられなければならない」
著者が考える「構造」とは上述のものであるらしい。
「言語」は意識されない構造を持っているのだろうし、「無意識」も文字通り意識されない構造に相当するのだろう。
社会に潜んでいる構造も「言語」や「無意識」と似ていて私たちはそれを捉えたと思った瞬間に手放している。
私たちには説明のつかぬ「無意識」しか残らない。
それでも探求を止めないのだ。

「さらに、両方(社会のゲームと婚姻の規則)のばあいとも、いったん規則が定められると、各個人や集団は、
同じやり方でゲームをおこなおうとする。つまり、他者の犠牲において自分自身の利益をふやそうとするのである。
婚姻においては、これはより多くの女性、または審美的・社会的・経済的にみてより望ましい妻を得ようとすることである」
ゲームが成り立つためには勝者と敗者が必要となる。
サッカーにしても野球にしても企業間の競争にしても敗者の犠牲において勝者が利益を得る。
そして多くの敗者と一握りの勝者を容認する制度においては度が過ぎた利益を獲得しようとして益々競争が激しくなる。
一生使い切れぬような資産を獲得してもなお数字の上で他者の優位に立とうとする。
他者を犠牲にしてどうしてそこまで利益を得ようとするのか?
そのような卑しい性根のビジネスパーソンと一途な想いを胸に秘めながら恋を成就しようとする少年は実は同じようなものなのだ。
彼らは自分の意志でそうしていると考えているのだが、実際には規則に基づいてゲームを行っているだけなのだ。

「いわゆる歴史的進化は、一般に、次のような事実の上に立っている。すなわち、最終の社会形成は、
それ以前の社会形成を最終のものに至るのに必要な段階とみなしており、しかも最終の社会形成が
自分自身を批判することができるのは、まれに、きわめて限定された条件においてだけであるから、
それら以前の段階を、つねに偏った観点からとらえている、という事実である」
マルクスからの引用ということである。
社会は常に更新されるので最終の社会というものはないのだし、
社会が以前の段階を偏った観点からとらえているのであれば常に偏ったままとなる。
封建社会の身分制度は誤ったものであり市民革命という必然によって社会は進歩を遂げたのだと
そのような偏りが常に私たちを捉えて話さない。
進化とか成長を語ろうとして人はそのような謬見に落ち込んでしまうのだが、
進化とか成長という目的がなければ毎日を過ごせない。
目的なしに生きるのは苦痛なのだ。

「このような立場にとっては、本書の第七、八、十五章にくりかえし述べられているように、対象となる「異なる社会」が
自分自身についての説明として提示するモデル、つまり「意識された構造」は「意識されない構造」を明らかにするための
貴重な手がかりではあっても、前者にくらべて、しばしば貧しい、ゆがめられたものである。研究者は、彼が精錬した
モデルを操作しながら、この「意識されない構造」をあきらかにしようとするわけである」
解説に、そのようなことが書かれていた。
そうするとこの著作が「意識された」ものであれば「ゆがめられた」ものである可能性もある。
「意識されない」ものを語ろうとして人はぎりぎりの表現を求める。
言語や社会の構造が私たちを媒体とし「意識されない構造」に従って何かを語らせようとするのであれば
私たちの意志とは関係なく「いつかは語られる」ことであったに違いない。
そして誰が語るかということもあまり問題ではない。

悲しき熱帯Ⅱ

2015-05-31 00:05:47 | レヴィ=ストロース
「みな互いに親族関係にあったが、それは、ナンビクワラ族が姪―――姉妹の娘―――、または民族学者が
『交叉いとこ』と呼んでいる従姉妹との婚姻を優先させているからである。交叉いとこというのは、
父親の姉妹の娘や母親の兄弟の娘を指している。この定義に当て嵌まるいとこ同士は、生まれた時から
『夫』『妻』を意味する言葉で呼び合うが、他のいとこは、互いに相手を『兄弟』『姉妹』として意識し、
彼らのあいだで結婚することはできない」
「構造主義」の紹介では「交叉いとこと婚」がしばしば引用される。
「交叉イトコ婚による婚姻体系ではインセスト・タブーと外婚制が裏表となっているという意味で基本構造と呼ばれている」
「交叉イトコ婚という制度も、集団間における女性の交換システムと考えることで、理解できることがわかった」
「それぞれの社会での女性の交換規則がその社会の構造を形づくる」
ググってみるとそうした説明を見つけることができる。
ここでは社会の構成員の誰もが「交叉いとこ」に該当する関係を意識しているのだが、
それが「女性の交換規則として社会の構造を形づくる」ということには誰も気付いていない。
構造の担い手である人間は次々に生まれ次々に死んでゆくが、構造そのものは世代を超えて維持される。
誰かが作った制度が存続するというのではなく、誰も意識していない制度が目的もなしに存続する。
言語の担い手である人間は次々に生まれ次々に死んでゆくが、言語そのものは世代をまたがって維持されるという点では、
ソシュールはレヴィ=ストロースに先行している。
ソシュールは多くの言語に触れる中で、レヴィ=ストロースは多くの民族に触れる中で、構造の持つ恣意性に気付いたのだろうか?
だがそうした多くの事例から共通点を見つけ出すという知性の働きも私たち自身が知らない下部構造に支配されているのだろう。
私たちは、成長・成功・進歩・進化・発展といったものを求めるのだが、私たちが属している構造、私たちを支配している構造は、
そのような目的であるとか成果とは無関係に、そして恣意的に変化している。
私たちが求めるものは単に私たちの行動パターンを決めている生物学的な仕組みに左右されている。
それを意志であるとか自由であると言って美談にしたところで
何の説明にもならない。

「全裸で暮らしている民族も、私たちが羞恥と呼んでいる感情を知らないわけではない。ただ彼らは、その境界を、
違ったところに設定しているのだ。ブラジルのインディオにおいても、インドネシアの或る地域と同様に、
この境界は肉体の露出の二段階のあいだにではなく、むしろ、平静か興奮しているかのあいだに置かれているように思われる」
アダムとイヴは全裸であることに羞恥を覚えたのだが、インディオは興奮していることに羞恥を覚えるということらしい。
私たちにしても「裸でいること」よりも「裸で勃起していること」の方により羞恥を感じるのではないかと思う。
女性はどうなのか知らないが・・・

「文字をもつ人々ともたない人々。前者は、先人が獲得したものを累積してゆくことができ、自分に割り当てた目標に向かって
次第に速さを増しながら進歩することができるのに対し、後者は、個々の記憶に留め得る範囲を超えては過去を保持することが
できず、起源と、未来を構想する持続的な意識とを常に欠いた、波動する歴史の虜であることから逃れられない」
「文字の出現に忠実に付随していると思われる唯一の現象は、都市と帝国の形成、つまり相当数の個人の一つの政治組織への
統合と、それら個人のカーストや階級への位付けである。エジプトから中国まで、文字が登場した時代に見られた典型的な進化は、
少なくともそのようなものであった。文字は、人間に光明をもたらす前に、人間の搾取に便宜を与えたように見える。
幾千という労働者を過酷な作業に従わせるべく召集することもできたこの搾取は、先に問題にした建造物と文字を直接関係づける
遣り方よりも、よりよく建造物の誕生を説明する」
つまり「文字の出現により国家が生まれた」ということである。
国家は誰かの発明ではなくて文字の出現に付随する現象であって
そういう意味では文字が社会の構造を形成したということであるかもしれない。
そもそも社会契約というようなものも文字がなければ実現できない。
交わした会話は忘れ去られるが一度書かれた文字は消えない。
そして命令を発した王がそこにいなくても、王が命じたことを書いた文字が、王に代わって人々を支配する。
「相当数の個人を一つの政治組織に統合」するためには会話では足りない。
会話がまとめ上げることが可能な人数には限りがある。
そして現代においても知識の累積によって加速度的な進歩を可能にしたという文字の効用よりは
文字の使用による命令や支配といった現象をより頻繁に観測することが出来るだろう。
私たちが意識せずとも文字はそのように働く。

「イスラムの近隣で感じられる、あの居心地の悪さ、その理由が、私には解り過ぎるほどわかる。イスラムのうちに、
私は、自分が後にして来た世界を再び見出す。イスラム―――それは東洋(オリエント)の西洋(オクシデント)だ」
「死者に嘖まれること、あの世での邪悪な処遇、そして呪術の責め苦―――それらのものから解放されようとして、
人間は三つの大きな宗教的試みをした。およそ五百年の間隔で隔てられて、人間は仏教、キリスト教、それからイスラムを次々に考案した。
そして、各々の段階が、前者との関係での進歩を記すどころか、むしろ後退を示しているのは驚くべきことだ」
「私は実際、私が耳を傾けた師たちから、私が読んだ哲人たちから、私が訪れた社会から、西洋が自慢の種にしている
あの科学からさえ、継ぎ合わせてみれば木の下で聖賢釈尊の瞑想に他ならない教えの断片以外の何を学んだというのか?
理解するための一切の努力は、われわれが執着していた対象を打ち壊す。それは、その努力を無に帰するもう一つの努力のためなのだが、
それはさらに第三の努力のためであり、以下同様にして、われわれが唯一の持続性ある存在に到達するまで続くのである。
それは、意味と意味の不在との区別がそこでは消え失せてしまうような存在であり、われわれがそこから出発したのと
同じものなのである。ここに、人間がこれらの真実を発見し、表明して来た二千五百年がある。
爾来、次から次へとすべての出口の扉に当たってみながら、われわれがそれから逃れたがってでもいたかのような結論をめくっての、
これほど多くの補足的な証明の他に、われわれは何も見出さなかったのだ」

最終章でどういうわけだが宗教の話になる。
キリスト教とイスラム教は異母兄弟であり、おそらくは似ているということで憎しみ合うのだろう。
そして人間は、仏教、キリスト教、イスラム教という各々の段階で後退を示しているということだ。

「道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」
「『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』
『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。
つまり、自己を追求して、自己とは実は固定的なものとしては存在しないということが分かる。
自分だと思っていたものは、自分ではないのである。」
以上のように仏道を習うというのは「自我という囚われから脱する」ということであった。
そしてマッハが「感性的諸要素の複合体」という時、やはり「自我」も「実体」もないということであった。
自我があるから自我に囚われてはいけないというのではなく「自我はない」のだ。
あるいは釈尊の教え以外に学ぶべきものはないのかもしれない。
もはや「自我」もなく「目的」もなく「進歩」もない。
そうであったとしても「感性的諸要素の複合体」は知覚し行動を続ける。
目的がなくても生きるのだ。

悲しき熱帯Ⅰ

2015-05-30 00:05:48 | レヴィ=ストロース
川田順造訳「レヴィ=ストロース 悲しき熱帯Ⅰ」という本を読んだ。

「しかし、このような美術史の教育においては、誰も、何が美しく、何が美しくないかを
問題にしようとしないであろう。意味を表すもの(シニフィアン)は、意味されるもの(シニフィエ)と
何の関係ももおっておらず、指示されたものは、もはや存在しなかった」
「まず私は、『合理的なもの』の彼方に、より一層重要でより肥沃な、もうひとつの範疇が存在するのを知った。
それは、『意味するもの』という範疇で、『合理的なもの』の最も高度な存在様式である。
それにもかかわらず、私たちの習った諸先生は、その言葉を口に出すことさえしなかった
(恐らく、フェルディナン・ド・ソシュールの『一般言語学講義』よりも、ベルクソンの
『意識に直接与えられたものについての試論』について考えをめぐらすのに忙しかったためであろう)。
ついで、フロイトの著作は、私にこれらの対立は実際に対立しているのではないということを啓示してくれた」
「マルクス主義は、創始者がそれに与えた意味において理解する限り、地質学や精神分析学とは、
実在の中での異なった次元で、しかし同じ遣り方で働くように私には思われた」
「私が三人の師から学んだこと」と著者は書いている。
「ある特定の言語の規則の総体」はラングと呼ばれるが、それは「無意識」と同様に私たちには意識されていない。
私たちは時折、文法に適っていないと言って間違いを指摘するが、文法に注意しながら会話しているわけではない。
そのような無意識のうちに私たちが従っている構造に即していれば「文法が合っている」と言い、
そうでなければ「文法が間違っている」というのだが、
「無意識」という言葉が「無意識」を説明していないように「文法」が「構造」なのではない。
そしてそのような言語や行動を支配する構造があるのであれば、
その影響は当然、文化や文明や社会と呼ばれるものまで及ぶことになるだろう。
それはまた言語がそうであるように「構造」が私たちを支配しているという一方的な関係ではなく
「実存」が「構造」を恣意的に変化させている双方向的な関係となる。
そこに必然的なものは認められない。
「進化論」や「精神分析」が眉唾ものとして受け止められてしまう原因はそのあたりにあるかもしれない。
適者が生き残るのだし、無意識が行動を支配しているのだと言ったところで、
原因を語らずに結果を述べているにすぎないだろう。
だが因果関係の説明に汲々としているような考え方には付き合っていても何も得られはしない。
そんなアリストテレスだかニュートンの時代には戻れない。

「一つの民族の習俗の総体には常に、或る様式を認めることができる。すなわち、習俗はいくつかの体系を
形作っている。私は、こうした体系は無数に存在していないものであり、人間の社会は個人と同じく、
遊びにおいても夢においても、さらには錯乱においてさえも、決して完全に新しい創造を行うことはないのだと
いうことを教えられた。社会も個人も、全体を再構成してみることも出来るはずの、理論的に想定可能な
或る総目録の中から、幾つかの組み合せを選ぶに過ぎない。観察された、あるいは神話の中で夢想された
習俗のすべて、さらには子供や大人の遊びのうちに表されている習俗、健康なまたは病気の人間の夢、
精神病患者の行動、それらすべての一覧表を作ることによって、丁度元素の場合のように、一種の周期律表を
描くことが可能になるかもしれない。その表の中では、一切の、実在の、あるいは可能性として存在する習俗が、
様々な系列に纏められて姿を現わすことになるだろう。そして最早われわれは、社会が実際に採用している
習俗を、その周期律表によって確かめさえすればよいことになるであろう」
「彼らの文明は、われわれの社会が、古くからある一つの遊びの中で夢想して楽しんでいる文明を
―――ルイス・キャロルの空想が、あれほど見事に典型を取り出すことに成功したように―――
想い起こさせずにはおかない。つまり、騎士であるこれらのインディオは、『トランプの絵姿』に似ているのである。
この特徴は、まず彼らの服装によく表われている。襟の詰まった上着、それに皮のマントが、肩幅を拡げて
見せてから硬直した襞になって下へ落ちており、昔の著者たちがトルコ絨毯のようだと書いている赤と黒の模様
―――スペード、ハート、ダイヤ、クラブの形のモティーフがそこには見られる―――で飾られている」
世界中の神話のうちに認められる共通点についてユングは「普遍的無意識」のようなものを想定したが、
それは有限な秩序の組み合わせが形作る体系が似通ってくるというだけのことなのかもしれない。
戦争やテロで憎み合っていたとしても、結局のところ私たちは似たもの同士なのだ。
結局のところ私たちは「意味の運び屋」「意味を再構成する者」であって「新しい創造」を行う者ではない。
しかし私たちの周期律表を構成する要素はたくさんあるし、その組み合せは膨大なものになるだろうから、
体系が有限であるというのであれば、体系を制限するような何かがあるのかもしれない。
そこには「スペード、ハート、ダイヤ、クラブの形のモティーフ」に集約するような働きがあるのだろうか?
私たちが担い得る秩序といったものはスペードやハートといったモティーフへと
結び付けられる傾向があるのだろうか?

「パラグアイのグアナ族も中部マト・グロッソのボロロ族も、ムバヤ族のものに近い、身分序列のはっきりした
構造を持っていた。これらの種族は三つの階級に分けられていたか、現在も分けられており、三つの階級は、
少なくとも過去においては、異なる掟に従っていたように思われる。これらの階級は世襲で、それぞれの階級内で
婚姻を行なっていた。
・・・異なる階級成員のあいだの結婚は禁じられていたにせよ、それとは逆の義務が二つの半族には課せられていた。
つまり、一つの半族の男はもう一方の半族の女を娶る義務があり、それは相互的なものであった。
・・・序列化された三階級と均衡をもった二つの半族とから成るこの複合構造を、不可分な一つの体系として
考察すべきであろうか。それも可能である。
・・・ここでわれわれにとって関心のある問題は、これとは異なる性質のものである。グアナ族とボロロ族の
体系について、私は極く簡単に叙述しただけであるが、この体系が、カデュヴェオ芸術に関して様式の次元で
私が取り出した構造に類似した構造を、社会学的な次元で示していることは明らかである。
両者いずれにおいても二重の対立が問題なのである」
構成員が無意識に従っている社会機構の構造が、顔面塗飾という幾何学的な芸術の様式に出現するのだという。
私たちが「創造的」と呼んでいる行為は二重の意味で無意識的であるのかもしれない。
マーラーの交響曲にしても作曲家が意識してはいない何らかの構造を出現させるための様式であるかもしれない。
それを聴いた私たちは何ものかにたとえようとするのだが、それが何なのかよくわからない。
構造や秩序は形を変えて伝播するが、形を変えても意味はわからない。