大橋保夫訳「レヴィ=ストロース 野生の思考」という本を読んだ。
「南アフリカのブッシュマンは、厳しくて複雑な食物禁忌を守っているけれども、トーテミズムにあたるっものは何もない。
なぜならばブッシュマンの場合この体系は違った面で機能しているからである。
弓で殺した獲物はすべて首長がその一片を食べるまでは禁忌物(ソハ)である。ただし肝臓は禁忌の対象にならず、
射止めた男たちがその場で食べてしまう。ただしそれは、女性にとってはいかなる状況においてもソハである。
これらの一般的規則のほかに、若干の機能的社会的範疇だけに限られる恒久的なソハが存在する。
たとえば射止めた男の妻は獲物の後半身の肉および皮下脂肪、内臓、足しか食べられない。
これらの部分は女子供のものとされている。青年男子は腹壁、腎臓、生殖器、乳頭を食べる権利がある。
射止めた男は、獲物の半身から肩およびあばら肉をとる権利がある。首長は各クォーターと両側のヒレの厚い肉と、両側のあばら肉を取る。
一見したところでは、「トーテム禁忌」の体系からこれほど遠い体系は考えられない。ところが、ごく簡単な変換を行うだけで、
一片の体系から他方の体系へ移ることが可能になる。民族動物学を民族解剖学で置き換えればよいのである」
ここでは「トーテミズムという名のもとに信仰や慣習はでたらめに一まとめにされるべきではない」、
「社会集団と自然領域の間に実体的関係はない」ということが主張されている。
動物の種類を臓器の種類に置き換えるとトーテミズムは消失してしまうのだという。
実際のところ何が何と結びつくかなんて「トーテム禁忌」やら「贓物禁忌」を守っている当人は意識していないのだろう。
著者は執拗にトーテミズムを攻撃している。そのような安直な解決は認めないということだろうか?
「まったく奇妙な体系でわけがわからぬということになるところなのだが、それに説明をつけられる仮説がある。
関係と位置がここでは同列に置かれているのである。それゆえ、ある関係が消滅すると、かならずそれに伴って、
社会的にであれ(死者の与えた名前)言語的にであれ(死者の名に似た単語)それと関係のあった固有名も消滅することになる。
そして新しい関係が作り出されると、その関係の領域の中で、かならず再命名の過程[名前のつけなおしの作業]が
はじまることになるのである」
「女性が再婚するたびに新しい夫は、前夫の子のみならず、父親が誰であろうと自分の妻が一生の間に産んだ子供のみんなに
新しい名をつけるのである」、ティウィ族ではそのような再命名が為されるのだという。
プロ野球チームの監督が変わるとコーチが刷新されることと似ているかもしれない。
企業も同様であって次長が部長に昇格すると次長のお気に召さない課長は追放されてしまう。
どのような勘違いをしているのかよくわからないが、
ヒトは「新しい関係」を構築しようとする。
「私にとって『野生の思考』とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。
効率をめるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。
栽培思考は地球上のあるいくつかの地点に、歴史上のあるいくつかの時期に現れたものであって、民族誌の情報を
もたなかったコントが、野生の思考を栽培思考に先立つ精神活動様式として回顧的な形でとらえたのは当然なのである。
今日のわれわれには、この両者が共存し、相互に貫入しうるものであることがもっと理解しやすくなっている。
それはちょうど、野生の動植物と、それを変形して栽培植物や家畜にしたものとが、共存し交配されうるのと同じである。
・・・野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的よく保護されている領域がある。
芸術の場合がそれであって、われわれの文明はそれに対し、国立公園なみの待遇を与えているが、
このように人工的な方式には、当然それに伴う利益と不都合がある」
それ(野生の思考)を野蛮人・未開人・原始人というような偏見から救い出すためには
自らの属する文明の思考を栽培されたとか家畜化されたと呼ばなければならないのかもしれない。
そのような考え方も実は「栽培思考」から生じたものであるかもしれないのだが・・・
そしてそのような「野生の思考」もまた国立公園なみに保護されているということであれば
弱々しい野生というイメージを免れない。
「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする」
「一般言語学講義」にあるように、時間の干渉を受けないで事物の関係を扱うのが共時的、
同時に複数の事物の関係を扱わずに時間に伴う変化を扱うのが通時的ということであるらしい。
野生の思考はそのような区別をしないということである。
私たちが共時的か通時的かを選択するのはそれが家畜化された思考ということもあるが能力が不足しているということもある。
私たちの貧弱な能力では、空間的な変化と時間的な変化を同時に扱えない。
表に出来るような二次元的な関係しか一度には把握できない。
「本書の直接の主題は、文明人の思考と本質的に異なる『未開の思考』なるものが存在するという幻想の解体である。
未開性の特徴と考えられてきた呪術的・神話的思考、具体の論理は、実は『野蛮人の思考』ではなく、
われわれ『文明人』の日常の知的操作や芸術活動にも重要な役割を果たしており、むしろ『野生の思考』と呼ぶべきものである。
それに対して『科学的思考』は、かぎられた目的に即して効率を上げるために作り出された『栽培思考』なのだ」
解説にそのようなことが書かれていた。ここでは「科学的思考」が「栽培思考」であるとして批判されている。
あるいは「かぎられた目的に即して効率を上げるため」の思考や行為が批判されている。
著者は「かぎられた目的」とは書いていないが「効率をめるため」ということは書いている。
ここでは資本論にあるような「資本は自己増殖しか目的としていない」というようなことが批判されているのだろうか?
私たちは「目的」などと言った途端に、効率化・進化・成長といった考え方から逃れられなくなってしまう。
そして利益の増殖を目的とする企業間の競争、遺伝子の増殖を目的とした生き物同士の競争が世界のすべてということになってしまう。
そのような目的に尽くすことほど馬鹿馬鹿しいことはない。
あるいは、ありもしない「未開の思考」に対して優越を感じている文明人を批判しているのだろうか?
現象学と同じように私たち自身の捉え方を身体に即したものとして再考するよう促しているということだろうか?
「メルロー=ポンティの思い出に」ということで
この本は彼に捧げられている。
「しかしながら、数学の言表は、少なくとも精神の自由な活動、すなわち、あらゆる外的拘束から比較的自由で
それ自体の法則のみに従う大脳皮質細胞の活動を反映している。精神もまた一つのものなのであるから、このものの活動は、
さまざまなものの本性についてわれわれに教えてくれる。すなわち、純粋な思索といえとも、つまるところは宇宙の内面化なのである。
それは、外にあるものの構造を象徴的な形で表している。
『形式論理学と記号論理学は、心理学よりもむしろ民族誌に属する経験科学である』」
つまり純粋科学というものはどこにもなく、数学でさえ経験科学ということである。
そのようなことを認めてしまえば「純粋科学」とか「経験科学」という区別も余計なものということになるだろう。
そして「経験科学」だから「真実には辿り着けない」と言ったところでまた無意味なのだろう。
「精神もまた一つのもの」というのはマッハの「感性的諸要素の複合体」と同じことを指しているのだろう。
そこには形而上学的幻想であるところの「自我」とか「意志」はない。
「マルクスとフロイトは、人間は意味の観点に身を置くのでなければ意味がない、ということをわれわれに教えてくれた」
私たちは意味から逃れることは出来ないのだし、混沌を理解することは出来ないのだし、抽象に生きることは出来ない。
神が死んでしまったのは仕方のないことだろう。
「南アフリカのブッシュマンは、厳しくて複雑な食物禁忌を守っているけれども、トーテミズムにあたるっものは何もない。
なぜならばブッシュマンの場合この体系は違った面で機能しているからである。
弓で殺した獲物はすべて首長がその一片を食べるまでは禁忌物(ソハ)である。ただし肝臓は禁忌の対象にならず、
射止めた男たちがその場で食べてしまう。ただしそれは、女性にとってはいかなる状況においてもソハである。
これらの一般的規則のほかに、若干の機能的社会的範疇だけに限られる恒久的なソハが存在する。
たとえば射止めた男の妻は獲物の後半身の肉および皮下脂肪、内臓、足しか食べられない。
これらの部分は女子供のものとされている。青年男子は腹壁、腎臓、生殖器、乳頭を食べる権利がある。
射止めた男は、獲物の半身から肩およびあばら肉をとる権利がある。首長は各クォーターと両側のヒレの厚い肉と、両側のあばら肉を取る。
一見したところでは、「トーテム禁忌」の体系からこれほど遠い体系は考えられない。ところが、ごく簡単な変換を行うだけで、
一片の体系から他方の体系へ移ることが可能になる。民族動物学を民族解剖学で置き換えればよいのである」
ここでは「トーテミズムという名のもとに信仰や慣習はでたらめに一まとめにされるべきではない」、
「社会集団と自然領域の間に実体的関係はない」ということが主張されている。
動物の種類を臓器の種類に置き換えるとトーテミズムは消失してしまうのだという。
実際のところ何が何と結びつくかなんて「トーテム禁忌」やら「贓物禁忌」を守っている当人は意識していないのだろう。
著者は執拗にトーテミズムを攻撃している。そのような安直な解決は認めないということだろうか?
「まったく奇妙な体系でわけがわからぬということになるところなのだが、それに説明をつけられる仮説がある。
関係と位置がここでは同列に置かれているのである。それゆえ、ある関係が消滅すると、かならずそれに伴って、
社会的にであれ(死者の与えた名前)言語的にであれ(死者の名に似た単語)それと関係のあった固有名も消滅することになる。
そして新しい関係が作り出されると、その関係の領域の中で、かならず再命名の過程[名前のつけなおしの作業]が
はじまることになるのである」
「女性が再婚するたびに新しい夫は、前夫の子のみならず、父親が誰であろうと自分の妻が一生の間に産んだ子供のみんなに
新しい名をつけるのである」、ティウィ族ではそのような再命名が為されるのだという。
プロ野球チームの監督が変わるとコーチが刷新されることと似ているかもしれない。
企業も同様であって次長が部長に昇格すると次長のお気に召さない課長は追放されてしまう。
どのような勘違いをしているのかよくわからないが、
ヒトは「新しい関係」を構築しようとする。
「私にとって『野生の思考』とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。
効率をめるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。
栽培思考は地球上のあるいくつかの地点に、歴史上のあるいくつかの時期に現れたものであって、民族誌の情報を
もたなかったコントが、野生の思考を栽培思考に先立つ精神活動様式として回顧的な形でとらえたのは当然なのである。
今日のわれわれには、この両者が共存し、相互に貫入しうるものであることがもっと理解しやすくなっている。
それはちょうど、野生の動植物と、それを変形して栽培植物や家畜にしたものとが、共存し交配されうるのと同じである。
・・・野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的よく保護されている領域がある。
芸術の場合がそれであって、われわれの文明はそれに対し、国立公園なみの待遇を与えているが、
このように人工的な方式には、当然それに伴う利益と不都合がある」
それ(野生の思考)を野蛮人・未開人・原始人というような偏見から救い出すためには
自らの属する文明の思考を栽培されたとか家畜化されたと呼ばなければならないのかもしれない。
そのような考え方も実は「栽培思考」から生じたものであるかもしれないのだが・・・
そしてそのような「野生の思考」もまた国立公園なみに保護されているということであれば
弱々しい野生というイメージを免れない。
「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする」
「一般言語学講義」にあるように、時間の干渉を受けないで事物の関係を扱うのが共時的、
同時に複数の事物の関係を扱わずに時間に伴う変化を扱うのが通時的ということであるらしい。
野生の思考はそのような区別をしないということである。
私たちが共時的か通時的かを選択するのはそれが家畜化された思考ということもあるが能力が不足しているということもある。
私たちの貧弱な能力では、空間的な変化と時間的な変化を同時に扱えない。
表に出来るような二次元的な関係しか一度には把握できない。
「本書の直接の主題は、文明人の思考と本質的に異なる『未開の思考』なるものが存在するという幻想の解体である。
未開性の特徴と考えられてきた呪術的・神話的思考、具体の論理は、実は『野蛮人の思考』ではなく、
われわれ『文明人』の日常の知的操作や芸術活動にも重要な役割を果たしており、むしろ『野生の思考』と呼ぶべきものである。
それに対して『科学的思考』は、かぎられた目的に即して効率を上げるために作り出された『栽培思考』なのだ」
解説にそのようなことが書かれていた。ここでは「科学的思考」が「栽培思考」であるとして批判されている。
あるいは「かぎられた目的に即して効率を上げるため」の思考や行為が批判されている。
著者は「かぎられた目的」とは書いていないが「効率をめるため」ということは書いている。
ここでは資本論にあるような「資本は自己増殖しか目的としていない」というようなことが批判されているのだろうか?
私たちは「目的」などと言った途端に、効率化・進化・成長といった考え方から逃れられなくなってしまう。
そして利益の増殖を目的とする企業間の競争、遺伝子の増殖を目的とした生き物同士の競争が世界のすべてということになってしまう。
そのような目的に尽くすことほど馬鹿馬鹿しいことはない。
あるいは、ありもしない「未開の思考」に対して優越を感じている文明人を批判しているのだろうか?
現象学と同じように私たち自身の捉え方を身体に即したものとして再考するよう促しているということだろうか?
「メルロー=ポンティの思い出に」ということで
この本は彼に捧げられている。
「しかしながら、数学の言表は、少なくとも精神の自由な活動、すなわち、あらゆる外的拘束から比較的自由で
それ自体の法則のみに従う大脳皮質細胞の活動を反映している。精神もまた一つのものなのであるから、このものの活動は、
さまざまなものの本性についてわれわれに教えてくれる。すなわち、純粋な思索といえとも、つまるところは宇宙の内面化なのである。
それは、外にあるものの構造を象徴的な形で表している。
『形式論理学と記号論理学は、心理学よりもむしろ民族誌に属する経験科学である』」
つまり純粋科学というものはどこにもなく、数学でさえ経験科学ということである。
そのようなことを認めてしまえば「純粋科学」とか「経験科学」という区別も余計なものということになるだろう。
そして「経験科学」だから「真実には辿り着けない」と言ったところでまた無意味なのだろう。
「精神もまた一つのもの」というのはマッハの「感性的諸要素の複合体」と同じことを指しているのだろう。
そこには形而上学的幻想であるところの「自我」とか「意志」はない。
「マルクスとフロイトは、人間は意味の観点に身を置くのでなければ意味がない、ということをわれわれに教えてくれた」
私たちは意味から逃れることは出来ないのだし、混沌を理解することは出来ないのだし、抽象に生きることは出来ない。
神が死んでしまったのは仕方のないことだろう。