140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

法の精神(上)

2013-06-29 00:05:05 | モンテスキュー
岩波文庫のモンテスキュー「法の精神(上)」を読んだ。三権分立で有名だ。

「各国家には三種の権力、つまり立法権力、万民法に属する事項の執行権力
および公民法に属する事項の執行権力がある。
第一の権力によって、君公または役人は一時的もしくは永続的に法律を定め、また、すでに
作られている法律を修正もしくは廃止する。第二の権力によって、彼は講和または戦争をし、
外交使節を派遣または接受し、安全を確立し、侵略を予防する。第三の権力によって、彼は
犯罪を罰し、あるいは、諸個人間の紛争を裁く。この最後の権力を人は裁判権力と呼び、
他の執行権力を単に国家の執行権力呼ぶであろう。
公民における政治的自由とは、各人が自己の安全についてもつ確信から生ずる精神の静穏で
ある。そして、この自由を得るためには、公民が他の公民を恐れることのありえないような
政体にしなければならない。
同一の人間あるいは同一の役職者団体においては立法権力と執行権力とが結合されるとき、
自由は全く存在しない。なぜなら同一の君主または暴力的な法律を作り、暴君的にそれを
執行する恐れがありうるからである。
裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はやはり存在しない。もし
この権力が立法権力と結合されれば、公民の生命と自由に関する権力は恣意的となろう。
なぜなら、裁判所が立法者となるからである。もしこの権力が執行権力と結合されれば、
裁判役は圧制者の力をもちうるであろう・・・」

そんなふうに三権分立が説かれている。
君主や皇帝や王やツァーやスルタンや天皇や将軍は恣意的なのだろうか?
なんでも自分の思い通りにしたい。言うことを聞かない奴は殺してやりたい。
権力を握ってしまった者は、そうなってしまうのかもしれない。
さて、上記で語られるところの「自由」とはホッブズの「生存権」にあたるのだろうか?
各人の生存権を確保するためにコモン-ウェルスが設立されるというのは本当だろうか?
「法の精神」では著者によって夥しい数の政体が分析されている。
そのほとんどが専制的であるが故に弱者が強者に従うことでしか社会は成立しなかったと
思えるほどだ。実際にそうなのかもしれない。
しかし、いかに弱者であろうとも被支配者の数は支配者よりもずっと多い。
バッタに支配されていたアリたちが、自分たちの数の多さを自覚することで、
立場を転倒させるというアニメがあったが、欧州で生じた革命もそのようなものかもしれない。
少数の支配者の自由よりも多数の被支配者の自由が優先する。
つまり多数の被支配者の生命が尊重されなければならない。
しかし現代の中国では軍事費よりも多額の治安維持費を使うことにより
専制的な地位を維持することに成功している。
結局のところ力関係で決まっている。それを自由と呼ぶ。
だから第二次世界大戦の勝者であるアメリカ合衆国を自由の国と呼ぶのは
極めて妥当なことだろう。

ところで「法律」とは何だろう?
「自然状態においては、人間は確かに平等の中に生れるが、そこにとどまることは
できないであろう。社会が彼らに平等を失わさせ、彼らは法律によってしか再び平等には
ならない」と書いてあるが、法律によって平等になることができるのだろうか?
そもそも社会が平等を失わせるとはどういうことだろうか?
モンテスキューの解釈は私にはよくわからない。
生れた時に持ち合わせている能力なんて不平等でしかないだろう。
遺伝子の組合せは多様性を作り出すためのものだから
遺伝子的にはどれも優れた遺伝子であるかもしれない。
しかし遺伝子は私たちが形成している社会のことなんてまるで知らない。
ビジネスやらスポーツなどの一部の領域で才能を持つ者たちが優遇される社会形態にあって
多くの人々にとっては不平等の中に生れたとしか思えないだろう。
優遇される人々は公正な競争の結果、彼らの名声や地位や富を獲得したと言うだろう。
私に才能があったとしたら、きっとそう言っていたに違いない。
「多数の被支配者が生存することが自由」であるならば
「多数の凡人で富裕層の資産を分割することが平等」であるだろう。
法律はそうであってはいけないのか?

「共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、
専制政体の国のおいては『恐怖』が必要である」と書いてある。
普通に暮らしていると恐怖で人を動かそうとする人があまりに多いと感じる。
そうするとここは専制政体の国であったわけだ・・・

「一緒にいる人間が多くなればなるほど、人間はますます虚栄的になり、つまらぬことで
自分を目立たせようという欲望が生じてくるのを感じる」
そんなものかもしれない。
「国家、すなわち、法律が存在する社会においては、自由とは人が望むべきことをなしうること、
そして、望むべきでないことをなすべく強制されないことにのみ存しうる」という。
「自由」も曖昧だし「法律」も曖昧だし
よくわからない。

雨よけ

2013-06-26 20:59:17 | Weblog
そこにビニール製の雨よけがあったから巣を作ったのだろう。
よく見ると「Coffee ○○○○」と書いてある。
開店しているところを見たことがないが、どうやら喫茶店のようだ。
そこを行き交うツバメの姿がなかったなら、
そこが喫茶店であること、あるいはかつては喫茶店であったことにすら
気が付かなかっただろう。
この辺りには他にも、いつ開いているかわからないレストランがある。
なんとなく昭和のにおいがする。
かつては個人がなんとか店を維持できるような時代があった。
そんな店はなくてもいいのかもしれないが
あってもいいんじゃないかと思う。
しかし競争の結果として、その店を訪れる人はいなくなってしまった。
一年のうちの限られた期間だけツバメたちが利用する。
今日は雨の中、身を寄せ合ってじっとしていた。

今日のツバメ

2013-06-25 21:21:14 | Weblog
今日は朝方は留守だったが、夕方は兄弟そろっていた。しかも餌をもらっていた。
巣立ちしたんじゃなかったの?
感動して損した・・・
つまり、まだ餌を取ることが出来ないのだろう。まぁ、そんなに急ぐことはないのだろう。
ツバメはマイペースでいいよね・・・グローバル化とかスマホとか関係ないし。

彼らはもうずっと前から同じように暮らしているのだろう。
今年、飛び方を教わった雛は、来年には飛び方を教えているのだろう。
カモメのジョナサンみたいな特別な鳥ではなく、
普通の鳥として飛び、普通の鳥として暮らしていくのだろう。

ダーウィンが自然淘汰とか言ったのはカント風に解釈すると誇張であったかもしれない。
そのような自然法則があるに違いないと私たちは考え、
そして自分たちの生き方に適用する。

ヒトはそうやって過当な競争を自ら想定し、自ら演じている。
あほくさ。

今日は体調がすぐれないので、とっとと帰ってきた。
倒れるまで誰も許さないんだけど
倒れるわけにもいかない。

巣立ち

2013-06-24 20:31:15 | Weblog
通勤途上でツバメの巣を見つけ、しばらくの間、そこを通り過ぎるのが楽しみだった。
鳥の雛なんて、よく見るとあまりかわいくないのだろうが、
少し遠くから見ていると、えさを運んでくる親鳥との触れ合いが微笑ましく思えるものだ。
しかし、ある大雨の夜、そこを通りかかると一家の姿はなかった。
ある日、突然、巣立ってしまうものなんだ。子どもは・・・

今日、空き家になった巣の近くを通りかかったところ、飛ぶのが下手な鳥を発見した。
いや鳥にしては下手すぎるだろう、ありえないです。
泳ぐのが下手な魚とか、飛ぶのが下手な鳥とか・・・
まわりをよく見てみると同じような鳥が数羽、電線にとまっていた。
それはスズメではなく、小さなツバメたちだった。
おや、まあ、久しぶりだねぇ。なんだ、君たちは練習していたんだねぇ。
その近くには子ども達の姿を見守る親鳥の姿もあった。

それにしても、なんであの大雨の夜に彼らは巣にいなかったんだろう?
雨露をしのぐには最適の場所だと思うのだが・・・
まったくツバメの考えていることは
わからないねぇ。

恋することしか出来ないみたい

2013-06-24 00:05:05 | 音楽
恋することしか出来ないみたい

まるで恋することしか出来ないみたい
甘い色に世界を染めるんだ
遠い国まで連鎖してもっと愛に溢れ出す力
流れるよう・・・

僕は君と出会い
ただ愛おしく
君が誰をみてるとしても
変わらずに大切にしてゆこうって思えたんだ
どんな形でも

★★★
愛するということは自発的なことであって
ま、愛されなくても、どうでもいいことなんですね。
いえ、別にストーカーを擁護するわけではないです・・・

愛おしく感じたということが後々になって貴重な財産になります。
そうだねぇ。人を愛せるということは自慢できるだろうねぇ。
愛するってエッチしたいとかそういうことじゃないよ。
ここでも与え続けることでしか満たされないと
そういうことになるんじゃないかと思う。
愛は与えるものだから・・・

今はそういうことがよくわかる。

スマホ中毒に思うこと

2013-06-23 00:05:05 | Weblog
韓国におけるスマホ中毒がひどいとかでリアルな人間関係の構築を危ぶむ声がある。
日本でも常につながりを確認していないと気がすまない人もたくさんいるらしい。
電車の中でもスマホをじっと眺めている人がたくさんいる。
私はiPod classicにポタアンをぶら下げて音楽を聴いている。
これは音楽中毒というものだろう。先日、audio-technicaのCKS90が壊れてしまった。
イヤフォンは1年か2年で壊れてしまう。ま、仕方がない。

どちらかというと、つながりとかウザイと思っている。
メールもほとんどしない。電話もしない。
しかし、つながりを求めたいなら、そうすれば良いのではないかと思う。
SNSの普及のおかげで途上国で革命が起きるとかなんとか、それも良いのでは?
結局のところ、弱者は群れるしかない。過労社会につぶされる若者たちは慰めあうしかない。
それで、ハァー?リアルな人間関係が構築できずに結婚できなくなる若者が増えることを
心配しているとか?

ちゃんとした収入があれば結婚できると思う。
別に人間関係の構築なんて結婚してからだって出来るだろう。
昔は一億総一流と皮肉られたがこんなギスギスした社会ではなかったと思う。
私たちは社会が進歩しているという幻想を捨てよう。
そしてまた迷走する政治に何かしてもらおうという幻想も捨てよう。
私たちは競争社会を勝ち抜くことを子どもたちに教えるのではなく
そのことに疑問を感じるような子どもたちを育てよう。

社会契約論

2013-06-22 00:05:05 | ルソー
「だから、もし社会契約から、その本質でないものを取りのぞくと、それは次の言葉に
帰着することがわかるだろう。『われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして
一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、
ひとまとめとして受けとるのだ。」本文にはそんなことが書いてある。
「『自然状態』のもとでの人間の自由と平等、これは『社会契約論』においてもルソーの
不動の前提となっている。この自由と平等とを目ざす人間の意志は、社会状態のもとでも、
決して失われるものではない。ルソーはそれを人民の『一般意志』のなかに見出す。
この人民の意志のみが最高の決定者であり、主権も法も権利も政府もすべてがこの
『一般意志』からみちびき出され、それによって審判される。」
解説には、そのように書いてある。

ここで特にわけがわからないのは『一般意志』という言葉だ。
「たとえば、『主権者』という言葉は、彼においては、社会契約をむすんで一体となった
人民全体のことをさすので、決して一個の人間をさすのではないこと、をつねに頭に
入れておかねば、この本はわからない」と、まえがきに書いてあるが、
人民全体に人格を与えるということろで既にわからねぇ・・・
「主権は代表されえない。」「一般意志は決して代表されるものではない。」
そういったことも書かれている。
人民全体のことを指していれば、確かに「代表されるものではない」と思う。
しかしそういう肝心な概念を曖昧にしたままで「政治を語る」とことに
どういう意味があるのだろうかと思う。
政治をリアルなものとして捉えようとすると『一般意志』は『過半数』としか解釈できない。
そして過半数に支持されたなら『代表者』であると解釈されてしまうだろう。

そしてルソーは「自然状態のもとでは人間は自由で平等」という立場をとっていて
ホッブズに反対しているわけだが、もう少し自然を観察してみてはどうかと思う。
サルの群れにだって序列がある。No.1が誰で、No.2が誰で、No.3が・・・ということが
群れの中で厳密に決まっている。そして加齢に応じて順位が入れ替わったりする。
「平等」とか「正義」なんて概念は社会状態があるから成立している。
ま、なんというかルソーはホッブズには及ばないと思う。
サッカーでいえば日本とブラジルのようなもの

「わたしは、あらゆる事物は結局、政治によって左右されるということ、また、ひとが
どうしようとしても、国民はその政府の性質によって限定される以外のものでは
決してありえないということに気がついた」とルソーは書いているそうだが
「あらゆる事物」と断言してしまうのはどうかと思う。
現代でも政治に無関心な人に対して「政治は私たちの暮らしに直結している」云々といって
投票にいきましょうという類の人は、けっこういると思う。
しかし彼らの語る「あらゆる事物」とか「暮らし」といったものには
私が好きだと思っているものは含まれていないだろう。
娯楽とかスポーツとか、そんなもので気晴らしをした方が良いという意味ではない。
読書でも音楽でもそうなんだけど直観的に好きになれるものがあるということ、
そういうことに価値を見つけられないで、自由とか平等といって何になるのだろう?
結局のところ、政治を変えようという人々は、政治が変わった途端に
もはや何もすることがないことに気づくしかないのだし、
変わったはずの政治はまたすぐに元に戻る。

社会契約論の公判後27年、ルソーの死後11年にして、フランス革命が勃発した。
主権が人民にあるという思想が現実化したのだ。・・・いや、そうではないだろう。
その後、共和制・帝政・王政がめまぐるしく入れ替わったことを考えてみれば、
単に主権を取った者が「人民」を語っているだけだと推測できる。
現代の世界中の国々も似たような状態ではないだろうか?
ルソーの無邪気な思想は利用されただけなのでは?

クルマの広告に思うこと

2013-06-20 00:05:05 | Weblog
ポータルサイトでクルマの広告を見かけたが
インターネットをしているような連中がクルマを買うものだろうかと思う。
若者がクルマ離れしているというよりは世の中全体がクルマを必要としていない。
そもそも、こっちからあっちへ移動するために、
時間を費やして、神経を集中させて、かもしれない運転を心掛けるなんて無意味
排気ガスを撒き散らして地球温暖化に貢献する点では何らかの意味はあるかもしれない。
なにかうしろめたい気分になってしまう人はハイブリッドを購入して
地球へのやさしさをアピールする。ああ、めんどくさい・・・
電車であれば移動する間に本でも読めるだろう。
そして使わなければ使わないで維持費がかかり中古車としての価格は下落して行く。
なんというか第二の税金みたいなもんですな。
いつでも好きな場所に行けるということが「自由」なのだと思いたいのだろうか?
公共の交通機関が整っていない国ではそうかもしれない。

維持費がかかるという点ではスマホも共通する。
元を取ろうとすると一生懸命通信したり一生懸命運転したりしなければならない。
そんなふうに考えるとバカバカしくなってくる。
コミュニケーションの自由であったり行動の自由であったりするものは
企業にあっては利益の源泉となる。自由はカネになる。
カネかカモかよくわからないが・・・

思い通りの人生を歩んでいると考えていたとしても
実は企業にとって「思い通りの人生」であったりする。
つまりは利益を追求して留まることを決して知らない亡者たちにとって都合の良い人生
そもそも「思い通り」というのが何パターンあるのか考えてごらん?
本にしても音楽にしても想定外ということの方がおもしろい。
自分が囚われていた世界というものは
そこを離れてみないことには
確認すらできない。

名古屋フィル#26シュミット交響曲第4番他

2013-06-16 00:05:05 | 音楽
ガイアシリーズ3回目です。
今回のテーマは、「水―波に翻弄される舟」で、曲目は以下の通り。
①ラヴェル:海原の小舟
②プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番
③フランツ・シュミット:交響曲第4番
④ラフマニノフ:ヴォカリーズ

今日の指揮は、元常任指揮者のティエリー・フィッシャーです。
きゃー、久しぶりだねー。

①と④は短い曲なので客寄せなのかもしれない。
ラヴェルとかラフマニノフとか好きそうな人は多いと思う。
プロコフィエフは「チェロと管弦楽のための交響的協奏曲」は好きなんですけど
他に好きな曲はないですね。ピアノ協奏曲は全曲持っているけど・・・
シュミットの交響曲第4番もCDで聴く限り、あまりおもしろくないし、
それで今日は失礼ですが、ハズレの日かなと、思っていたんですけど
いやー、生で聴く「シュミット交響曲第4番」良かった・・・

この曲を聴かせるために、①とか②とか④とかガサツなオーケストレーションの曲を
選んでいるんじゃないかと疑ってしまいます。
強弱・スピード・音色・重なり・旋律・・・そういったものの組合せが気持ちよくて
聴き入ってしまいました。さすがにフィッシャーさんです。
また来て欲しいです。

はじめてのインド哲学

2013-06-15 00:05:05 | 
立川武蔵「はじめてのインド哲学」という本を読んだ。
久しぶりにつまらない本を読んでしまったという感じがする。
よく考えてみると講談社現代新書でおもしろかった本というのは記憶にない。
これもアマゾンの古書で購入したのだがネットだと出版社がどこかチェックしなかったりする。

「インドの哲学者たちはおよそ3000年にわたって、一貫して自己と宇宙とが本質的に
同一であると訴え続けてきた。もしも『わたしが宇宙であり、宇宙はわたしである』と
確信するに足る根拠をわれわれが受け入れるならば、われわれの生のあり方はかなり
異なったものとなるだろう」
「万物はブラフマン(宇宙原理)であり、ブラフマンはアートマン(個我)である」
「仏教タントリストたちが、宇宙と自己との同一性を直証するために作り出した
シンボルがマンダラ(曼荼羅、曼陀羅)である」
「インド哲学が今日の精神状況の中で提供し得るものがあるとすれば、それは本書で述べた、
『世界の中に聖なるものを見出』してきたことであろう。インド精神の歴史は、一貫して
世界を人間たちにとっての―――あるいは、自己にとっての―――世界として把握し、
さらにその自己にとっての世界に『聖なるもの』としての価値を与えようと
してきたのである」

いや、すごいですねー。深遠ですねー。
しかし私には、どうして自己と宇宙が同一でなければならないのかよくわからないし、
世界から聖なるものだけを取り出そうという意図もよくわからない。
そんなものの、どこが哲学なのかわからない。

世界の中の私と私の中の世界をつきつめていくと世界と私は一致するとかそういうことでもない。
現象を把握する時に主観と客観が分裂してしまうが、それを統一しようというものでもない。
だいたい「宇宙原理」ってなんなのさ?
意味がわからない。

観測によると宇宙は膨張を続け、暗黒エネルギーは一方的に増加して行く。
マクロな宇宙ではエネルギー保存の法則なんて成り立っていない。
そして微視的な世界では物質の最小単位がなんなのかわからなくなりつつある。
単独では存在できない素粒子が陽子や中性子を構成しているといってもよくわからない。
原子核と電子雲を回る電子の間には「何もない」のだが
さて素粒子により構成される陽子の中はいったいどうなっているのか?
物質は何かが充填されている中身のあるものというわけではない。
そういうの宇宙原理を扱うインド哲学的にはどうなのさ?

ま、講談社現代新書にケチをつけても仕方がないわけで
もうちょっとマシな本を見つけるべきなのだろう。