岩波文庫のモンテスキュー「法の精神(上)」を読んだ。三権分立で有名だ。
「各国家には三種の権力、つまり立法権力、万民法に属する事項の執行権力
および公民法に属する事項の執行権力がある。
第一の権力によって、君公または役人は一時的もしくは永続的に法律を定め、また、すでに
作られている法律を修正もしくは廃止する。第二の権力によって、彼は講和または戦争をし、
外交使節を派遣または接受し、安全を確立し、侵略を予防する。第三の権力によって、彼は
犯罪を罰し、あるいは、諸個人間の紛争を裁く。この最後の権力を人は裁判権力と呼び、
他の執行権力を単に国家の執行権力呼ぶであろう。
公民における政治的自由とは、各人が自己の安全についてもつ確信から生ずる精神の静穏で
ある。そして、この自由を得るためには、公民が他の公民を恐れることのありえないような
政体にしなければならない。
同一の人間あるいは同一の役職者団体においては立法権力と執行権力とが結合されるとき、
自由は全く存在しない。なぜなら同一の君主または暴力的な法律を作り、暴君的にそれを
執行する恐れがありうるからである。
裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はやはり存在しない。もし
この権力が立法権力と結合されれば、公民の生命と自由に関する権力は恣意的となろう。
なぜなら、裁判所が立法者となるからである。もしこの権力が執行権力と結合されれば、
裁判役は圧制者の力をもちうるであろう・・・」
そんなふうに三権分立が説かれている。
君主や皇帝や王やツァーやスルタンや天皇や将軍は恣意的なのだろうか?
なんでも自分の思い通りにしたい。言うことを聞かない奴は殺してやりたい。
権力を握ってしまった者は、そうなってしまうのかもしれない。
さて、上記で語られるところの「自由」とはホッブズの「生存権」にあたるのだろうか?
各人の生存権を確保するためにコモン-ウェルスが設立されるというのは本当だろうか?
「法の精神」では著者によって夥しい数の政体が分析されている。
そのほとんどが専制的であるが故に弱者が強者に従うことでしか社会は成立しなかったと
思えるほどだ。実際にそうなのかもしれない。
しかし、いかに弱者であろうとも被支配者の数は支配者よりもずっと多い。
バッタに支配されていたアリたちが、自分たちの数の多さを自覚することで、
立場を転倒させるというアニメがあったが、欧州で生じた革命もそのようなものかもしれない。
少数の支配者の自由よりも多数の被支配者の自由が優先する。
つまり多数の被支配者の生命が尊重されなければならない。
しかし現代の中国では軍事費よりも多額の治安維持費を使うことにより
専制的な地位を維持することに成功している。
結局のところ力関係で決まっている。それを自由と呼ぶ。
だから第二次世界大戦の勝者であるアメリカ合衆国を自由の国と呼ぶのは
極めて妥当なことだろう。
ところで「法律」とは何だろう?
「自然状態においては、人間は確かに平等の中に生れるが、そこにとどまることは
できないであろう。社会が彼らに平等を失わさせ、彼らは法律によってしか再び平等には
ならない」と書いてあるが、法律によって平等になることができるのだろうか?
そもそも社会が平等を失わせるとはどういうことだろうか?
モンテスキューの解釈は私にはよくわからない。
生れた時に持ち合わせている能力なんて不平等でしかないだろう。
遺伝子の組合せは多様性を作り出すためのものだから
遺伝子的にはどれも優れた遺伝子であるかもしれない。
しかし遺伝子は私たちが形成している社会のことなんてまるで知らない。
ビジネスやらスポーツなどの一部の領域で才能を持つ者たちが優遇される社会形態にあって
多くの人々にとっては不平等の中に生れたとしか思えないだろう。
優遇される人々は公正な競争の結果、彼らの名声や地位や富を獲得したと言うだろう。
私に才能があったとしたら、きっとそう言っていたに違いない。
「多数の被支配者が生存することが自由」であるならば
「多数の凡人で富裕層の資産を分割することが平等」であるだろう。
法律はそうであってはいけないのか?
「共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、
専制政体の国のおいては『恐怖』が必要である」と書いてある。
普通に暮らしていると恐怖で人を動かそうとする人があまりに多いと感じる。
そうするとここは専制政体の国であったわけだ・・・
「一緒にいる人間が多くなればなるほど、人間はますます虚栄的になり、つまらぬことで
自分を目立たせようという欲望が生じてくるのを感じる」
そんなものかもしれない。
「国家、すなわち、法律が存在する社会においては、自由とは人が望むべきことをなしうること、
そして、望むべきでないことをなすべく強制されないことにのみ存しうる」という。
「自由」も曖昧だし「法律」も曖昧だし
よくわからない。
「各国家には三種の権力、つまり立法権力、万民法に属する事項の執行権力
および公民法に属する事項の執行権力がある。
第一の権力によって、君公または役人は一時的もしくは永続的に法律を定め、また、すでに
作られている法律を修正もしくは廃止する。第二の権力によって、彼は講和または戦争をし、
外交使節を派遣または接受し、安全を確立し、侵略を予防する。第三の権力によって、彼は
犯罪を罰し、あるいは、諸個人間の紛争を裁く。この最後の権力を人は裁判権力と呼び、
他の執行権力を単に国家の執行権力呼ぶであろう。
公民における政治的自由とは、各人が自己の安全についてもつ確信から生ずる精神の静穏で
ある。そして、この自由を得るためには、公民が他の公民を恐れることのありえないような
政体にしなければならない。
同一の人間あるいは同一の役職者団体においては立法権力と執行権力とが結合されるとき、
自由は全く存在しない。なぜなら同一の君主または暴力的な法律を作り、暴君的にそれを
執行する恐れがありうるからである。
裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はやはり存在しない。もし
この権力が立法権力と結合されれば、公民の生命と自由に関する権力は恣意的となろう。
なぜなら、裁判所が立法者となるからである。もしこの権力が執行権力と結合されれば、
裁判役は圧制者の力をもちうるであろう・・・」
そんなふうに三権分立が説かれている。
君主や皇帝や王やツァーやスルタンや天皇や将軍は恣意的なのだろうか?
なんでも自分の思い通りにしたい。言うことを聞かない奴は殺してやりたい。
権力を握ってしまった者は、そうなってしまうのかもしれない。
さて、上記で語られるところの「自由」とはホッブズの「生存権」にあたるのだろうか?
各人の生存権を確保するためにコモン-ウェルスが設立されるというのは本当だろうか?
「法の精神」では著者によって夥しい数の政体が分析されている。
そのほとんどが専制的であるが故に弱者が強者に従うことでしか社会は成立しなかったと
思えるほどだ。実際にそうなのかもしれない。
しかし、いかに弱者であろうとも被支配者の数は支配者よりもずっと多い。
バッタに支配されていたアリたちが、自分たちの数の多さを自覚することで、
立場を転倒させるというアニメがあったが、欧州で生じた革命もそのようなものかもしれない。
少数の支配者の自由よりも多数の被支配者の自由が優先する。
つまり多数の被支配者の生命が尊重されなければならない。
しかし現代の中国では軍事費よりも多額の治安維持費を使うことにより
専制的な地位を維持することに成功している。
結局のところ力関係で決まっている。それを自由と呼ぶ。
だから第二次世界大戦の勝者であるアメリカ合衆国を自由の国と呼ぶのは
極めて妥当なことだろう。
ところで「法律」とは何だろう?
「自然状態においては、人間は確かに平等の中に生れるが、そこにとどまることは
できないであろう。社会が彼らに平等を失わさせ、彼らは法律によってしか再び平等には
ならない」と書いてあるが、法律によって平等になることができるのだろうか?
そもそも社会が平等を失わせるとはどういうことだろうか?
モンテスキューの解釈は私にはよくわからない。
生れた時に持ち合わせている能力なんて不平等でしかないだろう。
遺伝子の組合せは多様性を作り出すためのものだから
遺伝子的にはどれも優れた遺伝子であるかもしれない。
しかし遺伝子は私たちが形成している社会のことなんてまるで知らない。
ビジネスやらスポーツなどの一部の領域で才能を持つ者たちが優遇される社会形態にあって
多くの人々にとっては不平等の中に生れたとしか思えないだろう。
優遇される人々は公正な競争の結果、彼らの名声や地位や富を獲得したと言うだろう。
私に才能があったとしたら、きっとそう言っていたに違いない。
「多数の被支配者が生存することが自由」であるならば
「多数の凡人で富裕層の資産を分割することが平等」であるだろう。
法律はそうであってはいけないのか?
「共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、
専制政体の国のおいては『恐怖』が必要である」と書いてある。
普通に暮らしていると恐怖で人を動かそうとする人があまりに多いと感じる。
そうするとここは専制政体の国であったわけだ・・・
「一緒にいる人間が多くなればなるほど、人間はますます虚栄的になり、つまらぬことで
自分を目立たせようという欲望が生じてくるのを感じる」
そんなものかもしれない。
「国家、すなわち、法律が存在する社会においては、自由とは人が望むべきことをなしうること、
そして、望むべきでないことをなすべく強制されないことにのみ存しうる」という。
「自由」も曖昧だし「法律」も曖昧だし
よくわからない。