ヴィジュアルな表現に対しての侮蔑
現代の価値観に置き換えた時の誤解
視覚情報が引き起こす想像力の停止
音楽的文章を葬り去ることへの危惧
原文から抜け落ちてしまう心理描写
漫画化にあたっては様々な障害があったことと推測される。
桐壺では創作している部分があり、空蝉をすっ飛ばしたりしているが、
全体としては原作に忠実なのではないかと思う。
もっとも現代語訳しか読んだことがないので本当にそうなのか実はわからない。
桐壺で多少の創作を試みて原作よりおもしろくするのは無理だと考えたのかもしれない。
そこから先は、絵としての表現を追及したのではないかと思う。
それにまあ、原作者は女性だし、漫画化したのも女性だし、読者も女性だし、
女人にしかわからないところがきっとあるのだろう。
「ぼく夕霧 きみと同じおばあちゃまの孫だよ」
「わたし・・・雲居の雁ってよばれているの」
さすがにそこは無理があるかな。「雲居の雁」ってどんな名前やねん・・・
六条の御息所は、ますます化け物のように描かれている。
生き霊として葵に取り憑き、死んで物の怪となって紫の上や女三宮に取り憑くが、
源氏が彼女を厭わしいとは思わなくなるまで
彼女は魔物のままなのだ。
紫の上は美しく聡明で身分が高く教養があり芸道に通じ風流も解する、
あらゆる点で素晴らしい女人として描かれているのだが紫式部はその彼女に幸福を与えなかった。
彼女に子どもは生まれなかったし出家も許されなかった。
この時代に女人が自由を獲得する手段は出家しかなかったのだと、
そういうことを再認識出来るという点ではマンガも良いのだが初めは文章で馴染んだ方が良いと思う。
絵なり映像なり視覚的な情報は修正不可能なまでに第一印象を決定してしまう。
文章が許す想像の範囲は広いし何度でも修正できる。
「雀の子を、犬君が逃がしてしまったの、伏籠に入れてあったのに」
大和和紀さんは最後にその回想シーンをもってきた。
さすがに上手い。その時に私は思ったのだ。
ああ、伏籠に閉じ込められていた雀の子は、紫の上だったのだと、
その言葉は彼女の将来を暗示していたのだと・・・
う、少女マンガにしてやられたね。
寂聴さんが「伏籠の中にしっかり入れておいたのに」と訳したのはイマイチだと思う。
「伏籠に入れてあったのに」の方がだんぜんいいですよ。
さて女君として完璧な紫の上に対して、
男君として完璧な源氏はどう描かれているだろうか?
准太上天皇(太上天皇に准じた待遇で実際にはそのような称号はないとのこと)にまで登りつめ、
それぞれ帝・中宮・太政大臣となる三人の子の父となった源氏もまた幸福にはなれず、
無常の世界の中で悟りを開くわけでもない。
物語の初めに「雨中の品定め」で理想の女性像のようなものが語られるが、
物語の結末は完璧な男君と完璧な女君を組み合わせても幸福には程遠いというものだった。
そして持ち越された結論は宇治十帖に書かれる。
本編に比べると「あさきゆめみし」の宇治十帖は失敗していると思う。
匂宮と薫がイケメン高校生のマブダチのように描かれている。
現代語訳では、静の薫と動の匂宮、浮舟を争った二人の貴公子が実はとてもつまらない連中であり、
薫の誠実と匂宮の情熱の両方を欲した浮舟もまた浅ましき者として否定される。
その否定に至るまでのプロセスが狂おしいものであるが故に説得力がある。
そうしたことをマンガで描くことに限界があるというよりは、
そんな話を夢見がちな読者は好まないのだろう。
橘の小島の色はかはらじを
この浮舟ぞゆくへ知られぬ
行方の知れぬ航海を迷いながら続けていかねばならない私たちは
浮舟と同じ素性のちっぽけな人間でしかない。
美しくあるが教養も嗜みもない浮舟は著者と真逆の人物のように思える。
そしてまた完璧な女人である紫の上とも真逆の人物のように思える。
そんな彼女が物語を締め括るということが源氏物語の最も優れたところだと思う。
紫式部は本当は紫の上を出家させたいと思っていたのかもしれない。
それでは物語にならない・・・
植ゑて見し花のあるじもなき宿に
知らずがほにて来ゐる鶯
そんなふうにして誰もいなくなってしまった。
あなたも私もいつかいなくなる。
逃れようがない。
現代の価値観に置き換えた時の誤解
視覚情報が引き起こす想像力の停止
音楽的文章を葬り去ることへの危惧
原文から抜け落ちてしまう心理描写
漫画化にあたっては様々な障害があったことと推測される。
桐壺では創作している部分があり、空蝉をすっ飛ばしたりしているが、
全体としては原作に忠実なのではないかと思う。
もっとも現代語訳しか読んだことがないので本当にそうなのか実はわからない。
桐壺で多少の創作を試みて原作よりおもしろくするのは無理だと考えたのかもしれない。
そこから先は、絵としての表現を追及したのではないかと思う。
それにまあ、原作者は女性だし、漫画化したのも女性だし、読者も女性だし、
女人にしかわからないところがきっとあるのだろう。
「ぼく夕霧 きみと同じおばあちゃまの孫だよ」
「わたし・・・雲居の雁ってよばれているの」
さすがにそこは無理があるかな。「雲居の雁」ってどんな名前やねん・・・
六条の御息所は、ますます化け物のように描かれている。
生き霊として葵に取り憑き、死んで物の怪となって紫の上や女三宮に取り憑くが、
源氏が彼女を厭わしいとは思わなくなるまで
彼女は魔物のままなのだ。
紫の上は美しく聡明で身分が高く教養があり芸道に通じ風流も解する、
あらゆる点で素晴らしい女人として描かれているのだが紫式部はその彼女に幸福を与えなかった。
彼女に子どもは生まれなかったし出家も許されなかった。
この時代に女人が自由を獲得する手段は出家しかなかったのだと、
そういうことを再認識出来るという点ではマンガも良いのだが初めは文章で馴染んだ方が良いと思う。
絵なり映像なり視覚的な情報は修正不可能なまでに第一印象を決定してしまう。
文章が許す想像の範囲は広いし何度でも修正できる。
「雀の子を、犬君が逃がしてしまったの、伏籠に入れてあったのに」
大和和紀さんは最後にその回想シーンをもってきた。
さすがに上手い。その時に私は思ったのだ。
ああ、伏籠に閉じ込められていた雀の子は、紫の上だったのだと、
その言葉は彼女の将来を暗示していたのだと・・・
う、少女マンガにしてやられたね。
寂聴さんが「伏籠の中にしっかり入れておいたのに」と訳したのはイマイチだと思う。
「伏籠に入れてあったのに」の方がだんぜんいいですよ。
さて女君として完璧な紫の上に対して、
男君として完璧な源氏はどう描かれているだろうか?
准太上天皇(太上天皇に准じた待遇で実際にはそのような称号はないとのこと)にまで登りつめ、
それぞれ帝・中宮・太政大臣となる三人の子の父となった源氏もまた幸福にはなれず、
無常の世界の中で悟りを開くわけでもない。
物語の初めに「雨中の品定め」で理想の女性像のようなものが語られるが、
物語の結末は完璧な男君と完璧な女君を組み合わせても幸福には程遠いというものだった。
そして持ち越された結論は宇治十帖に書かれる。
本編に比べると「あさきゆめみし」の宇治十帖は失敗していると思う。
匂宮と薫がイケメン高校生のマブダチのように描かれている。
現代語訳では、静の薫と動の匂宮、浮舟を争った二人の貴公子が実はとてもつまらない連中であり、
薫の誠実と匂宮の情熱の両方を欲した浮舟もまた浅ましき者として否定される。
その否定に至るまでのプロセスが狂おしいものであるが故に説得力がある。
そうしたことをマンガで描くことに限界があるというよりは、
そんな話を夢見がちな読者は好まないのだろう。
橘の小島の色はかはらじを
この浮舟ぞゆくへ知られぬ
行方の知れぬ航海を迷いながら続けていかねばならない私たちは
浮舟と同じ素性のちっぽけな人間でしかない。
美しくあるが教養も嗜みもない浮舟は著者と真逆の人物のように思える。
そしてまた完璧な女人である紫の上とも真逆の人物のように思える。
そんな彼女が物語を締め括るということが源氏物語の最も優れたところだと思う。
紫式部は本当は紫の上を出家させたいと思っていたのかもしれない。
それでは物語にならない・・・
植ゑて見し花のあるじもなき宿に
知らずがほにて来ゐる鶯
そんなふうにして誰もいなくなってしまった。
あなたも私もいつかいなくなる。
逃れようがない。