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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

あさきゆめみし

2013-09-11 00:05:05 | 源氏物語
ヴィジュアルな表現に対しての侮蔑
現代の価値観に置き換えた時の誤解
視覚情報が引き起こす想像力の停止
音楽的文章を葬り去ることへの危惧
原文から抜け落ちてしまう心理描写

漫画化にあたっては様々な障害があったことと推測される。
桐壺では創作している部分があり、空蝉をすっ飛ばしたりしているが、
全体としては原作に忠実なのではないかと思う。
もっとも現代語訳しか読んだことがないので本当にそうなのか実はわからない。
桐壺で多少の創作を試みて原作よりおもしろくするのは無理だと考えたのかもしれない。
そこから先は、絵としての表現を追及したのではないかと思う。
それにまあ、原作者は女性だし、漫画化したのも女性だし、読者も女性だし、
女人にしかわからないところがきっとあるのだろう。

「ぼく夕霧 きみと同じおばあちゃまの孫だよ」
「わたし・・・雲居の雁ってよばれているの」
さすがにそこは無理があるかな。「雲居の雁」ってどんな名前やねん・・・

六条の御息所は、ますます化け物のように描かれている。
生き霊として葵に取り憑き、死んで物の怪となって紫の上や女三宮に取り憑くが、
源氏が彼女を厭わしいとは思わなくなるまで
彼女は魔物のままなのだ。

紫の上は美しく聡明で身分が高く教養があり芸道に通じ風流も解する、
あらゆる点で素晴らしい女人として描かれているのだが紫式部はその彼女に幸福を与えなかった。
彼女に子どもは生まれなかったし出家も許されなかった。
この時代に女人が自由を獲得する手段は出家しかなかったのだと、
そういうことを再認識出来るという点ではマンガも良いのだが初めは文章で馴染んだ方が良いと思う。
絵なり映像なり視覚的な情報は修正不可能なまでに第一印象を決定してしまう。
文章が許す想像の範囲は広いし何度でも修正できる。

「雀の子を、犬君が逃がしてしまったの、伏籠に入れてあったのに」
大和和紀さんは最後にその回想シーンをもってきた。
さすがに上手い。その時に私は思ったのだ。
ああ、伏籠に閉じ込められていた雀の子は、紫の上だったのだと、
その言葉は彼女の将来を暗示していたのだと・・・
う、少女マンガにしてやられたね。
寂聴さんが「伏籠の中にしっかり入れておいたのに」と訳したのはイマイチだと思う。
「伏籠に入れてあったのに」の方がだんぜんいいですよ。

さて女君として完璧な紫の上に対して、
男君として完璧な源氏はどう描かれているだろうか?
准太上天皇(太上天皇に准じた待遇で実際にはそのような称号はないとのこと)にまで登りつめ、
それぞれ帝・中宮・太政大臣となる三人の子の父となった源氏もまた幸福にはなれず、
無常の世界の中で悟りを開くわけでもない。
物語の初めに「雨中の品定め」で理想の女性像のようなものが語られるが、
物語の結末は完璧な男君と完璧な女君を組み合わせても幸福には程遠いというものだった。
そして持ち越された結論は宇治十帖に書かれる。

本編に比べると「あさきゆめみし」の宇治十帖は失敗していると思う。
匂宮と薫がイケメン高校生のマブダチのように描かれている。
現代語訳では、静の薫と動の匂宮、浮舟を争った二人の貴公子が実はとてもつまらない連中であり、
薫の誠実と匂宮の情熱の両方を欲した浮舟もまた浅ましき者として否定される。
その否定に至るまでのプロセスが狂おしいものであるが故に説得力がある。
そうしたことをマンガで描くことに限界があるというよりは、
そんな話を夢見がちな読者は好まないのだろう。

橘の小島の色はかはらじを
この浮舟ぞゆくへ知られぬ

行方の知れぬ航海を迷いながら続けていかねばならない私たちは
浮舟と同じ素性のちっぽけな人間でしかない。
美しくあるが教養も嗜みもない浮舟は著者と真逆の人物のように思える。
そしてまた完璧な女人である紫の上とも真逆の人物のように思える。
そんな彼女が物語を締め括るということが源氏物語の最も優れたところだと思う。
紫式部は本当は紫の上を出家させたいと思っていたのかもしれない。
それでは物語にならない・・・

植ゑて見し花のあるじもなき宿に
知らずがほにて来ゐる鶯

そんなふうにして誰もいなくなってしまった。
あなたも私もいつかいなくなる。
逃れようがない。

源氏物語(巻十)

2013-09-07 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻十」には、浮舟・蜻蛉・手習・夢浮橋が収められている。

【浮舟】
匂宮は薫が浮舟を宇治に隠していたことを知り、かつて訪れた宇治の山荘に赴く。
薫の声を真似て寝所に忍び込み、浮舟を手に入れる。
全く気付かないうちに信じられないことになってしまったと女君は考えていたが、
片時も遭わずにいたら死んでしまいそうだと激しい情熱を剥き出しにする匂宮に惹かれる。
浮舟は二月に再び宇治を訪れた匂宮と愛欲の限りを尽くす。
そんな中で匂宮は「この人を姉君の女一の宮に女房としてさし上げたら、
どんなに大事になさるだろう」とふと考える。彼にとってはその程度の女なのだろう。
浮舟の不貞に気が付いた薫は山荘の警備を強化するが、
彼もまた正妻として尊重する気持ちはなく、このまま隠し妻にしておこうと考えている。
どちらがいいとも決められない浮舟はやがて自分が死んでしまうのが一番無難な方法だと
考えるようになる。

【蜻蛉】
宇治の山荘では浮舟がいなくなったことに気が付いた女房たちが大騒ぎする。
匂宮も薫も悲しみに暮れる。しかしその嘆きがずっと続くことはなく、
薫は小宰相の君という女房のもとに通ったり、女一の宮に見惚れたりする。
多情が本性の匂宮も宮の君に懸想して、うろうろする。
彼らの誠実やら情熱といったものは時の経過とともに消え失せるものであることを
浮舟の帖で読者を酔わせた著者は示しているのだと思う。
まるで自らの魔法を解く魔法使いのようであり
種明かしをする手品師のようだ。

【手習】
行方不明になっていた浮舟が出家するまでが描かれる。
小説としてはヒロインの死で締めくくることも出来たと思う。
仏教では自殺がたいそう重い罪であることからそうしなかったのかもしれない。
宇治十帖の主人公は薫ということになっているが私は浮舟が主人公ではないかと思っている。
薫や匂宮に比べると身分も低く教養もなく人並みな扱いすらしてもらえなかった浮舟が
最終的には読者に道を示すことになる。

【夢浮橋】
消息を知った薫が連絡を取ろうとするが浮舟は応じない。
そんな浮舟の態度に薫は「女君を誰か男が隠し住まわせているのか」と想像している。
夢浮橋というのが何かという説明もなく物語はそこで唐突に終っているようにも見える。
そんな終り方だが足りないものはないと思う。

解説に「『男はせいぜいこの程度よ』という、紫式部の声が聞こえてくるような気がする」と
書いてあるが、私にはそんな声は聞こえてこなかった。
男より女の方が優れているとか、そんなつまらないことを書いているのではないと思う。
快楽を追求してやまない浅ましさという点では匂宮も薫も浮舟も変わらない。
そのような人物と行為を連ねることで読者自身さえも同一の種類の人間であると
著者は遠回しに語っているのではないかと思う。
浮舟は自身の浅ましさを自覚したという点で他の二人に優っているのだと思う。
地位・名声・快楽を手に入れるために、生きている限り逃れられない欲望を満たすために、
互いを欺き合い、男は女を手に入れようとし、女は女で快楽に身を委ねる。
源氏の孫であり源氏の性質を色濃く引き継いでいる匂宮は源氏の分身のように思える。
そのような高貴で美しくて優れた人間や、誠実を売りにしている薫のような人間が、
父宮に認知してもらえず身分の卑しい教養もない浮舟に最終的に凌駕されてしまう。
私にはそんなふうに紫式部の語る声が聞こえてきた。
ショウペンハウアーが源氏物語を読んでいたなら、そこにも「生きんとする意志の否定」を
見つけ出しただろう。
生化学的な物質の分泌で生じるであろう欲望によって遺伝子は生き物を支配している。
そのことを認識するのであれば積極的にそのような意志を否定し自由という虚構を廃し、
それでも生きることが出来るということを私は示したい。

源氏物語(巻九)

2013-09-04 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻九」には、早蕨・宿木・東屋が収められている。

【早蕨】
匂宮は中の君を京に迎える。
薫は中の君を匂宮のものとしてしまったことを後悔している。

【宿木】
夕霧に説得された明石の中宮は夕霧の娘の六の君との縁談を匂宮にすすめる。
断り切れない匂宮は気のすすまぬまま結婚するが、六の君の美しさに次第に惹かれてゆく。
夜離れの多くなった中の君は薫に手紙を書き、匂宮の留守中に面会する。
匂宮に譲ってしまった口惜しさを忘れていない薫は中の君の袖を捕らえて口説きにかかるが
妊婦のしるしの腹帯に気が付いて思い止まる。
二条の院に戻ってきた匂宮は薫の移り香が中の君にしみついているのに気付き、
「何もかも許してしまったのでしょう」と言って責める。
馴れ馴れしく言い寄ってくる薫に困り果てた中の君は大君に似た異腹の妹に会ったことを
薫に告げる。大君に惹かれていた薫は興味を抱く。
やがて中の君は御子を生み、初めての子どもに匂宮は喜ぶ。
一方、薫は女二の宮の婿となるが、宇治の御堂の造営のことばかり考えている。
関係があるか知らないが平等院の地は、もともと源融の別荘があったところだという。
宇治を訪れた薫は初瀬詣での帰りに山荘に立ち寄った浮舟の姿を覗き見する。

【東屋】
「ゆめゆめ馬鹿馬鹿しい間違いを犯すようなことは、しませんから」と言っていた薫だが、
ためらいなく浮舟との事に及ぶ。大君とは著しく扱いが異なる。
八の宮が女房づとめをした女に手をつけて生まれたのが浮舟であり、
面倒なことになるのを案じた宮は女との縁を切ってしまったと言う。
聖(ひじり)と言われた八の宮や律儀な性格であるはずの薫の二面性を
著者はさりげなく非難しているようだ。
相手の身分が低い時には積極的になる薫はどこか歪んでいる。
薫自身が自己の出生に疑問を感じてきたことがその原因なのだろうか?
あるいは柏木の胤であることを源氏が無意識的に軽蔑していたかもしれないことを
幼い薫は感じ取っていたのかもしれない。
物心ついた時に母が尼の姿をしていたとしたら自身を肯定することは難しいかもしれない。
そういうイメージを持ってしまうので心の奥底で彼に同情してしまうのだが
歪んでしまったものは矯正することが出来ない。
その歪みを自覚して途方に暮れるしかない。

源氏物語(巻八)

2013-08-31 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻八」には、竹河・橋姫・椎本・総角が収められている。

【竹河】
未亡人となった玉蔓は子どもの将来について悩む。
それにしても髭黒の太政大臣は、あっけなく亡くなってしまった。
二人の娘のうち大君は冷泉院と今上帝の両方から切望されている。
薫についても婿として世話したいと考えている。
明石の中宮の御威勢に気圧されることを案じて大君は院に差し上げることにする。
大君は寵愛され、姫君を生み、続いて若宮を生む。
若宮は源氏の直系の男子ということになるが帝位につくには時期を逸している。
院があまりに若い御息所(大君)に夢中になってしまったので弘徽殿の女御が嫉妬する。
宮仕えがわずらわしくなった御息所は里下がりする。

【橋姫】
源氏の異母弟にあたる八の宮は世間からすっかり見放され零落していた。
かつて弘徽殿の大后が東宮に擁立しようとしたが退けられ源氏の復権とともに冷たくされるようになった。
北の方との間に二人の姫君をもうけたが、北の方には先立たれた。
そうこうするうちに邸が焼けてしまい宇治の山荘に移った。
宇治の山中に聖めいた阿闍梨が住んでおり八の宮を尊敬し参上していた。
この阿闍梨は冷泉院にも伺侯しており八の宮の様子を院に伝える。
その時、御前にひかえていた薫は興味を持ち宇治を訪れる。
それから三年目の秋、月下に琵琶と箏の琴を合奏する姫君たちの姿を見てしまう。
一方、八の宮に仕えている老いた女房から自らの出生の秘密を聞く。
この女房は柏木の乳母の娘であった。

【椎本】
八の宮は薫に姫君たちを託して亡くなる。
薫は大君に思いを寄せ、薫から宇治の姫君たちの様子を聞いていた匂宮は中の君に惹かれる。

【総角】
薫を拒み続ける大君は薫と中の君の間を取り持とうとする。
薫は匂宮と中の君を結びつけてしまえば、大君が振り向いてくれるかもしれないと考える。
大君は中の君のことを思って薫を手引きしようとするが
寝所に手引きされたのは匂宮だった。中の君は次第に匂宮に靡いていく。
紅葉見物で宇治を訪れた匂宮は山荘に立ち寄るつもりだったが
中宮の指示などによりお供が増え大人数になったため素通りする。
このことに憤慨した大君は病気になってしまう。
やがて大君は、匂宮と夕霧の大臣の娘の六の君との縁談が決まったことを知り、
ますます絶望し病状が悪化する。
薫は宇治に見舞いに訪れるが大君は衰弱しきっており、
まもなく亡くなってしまう。

「匂宮」以降の作者は紫式部ではないとする説があるらしい。
確かに「雲隠」以前と「匂宮」以降の雰囲気は違う。
「匂宮」「紅梅」「竹河」と「橋姫」以降の宇治十帖とも違うような気がする。
源氏と彼を取り巻く華やかな女性たちが繰り広げる物語の展開と
薫と大君のストイックな関係が延々と続く「総角」の展開は異なる。
しかし堅物の薫と違って源氏の血を引いている匂宮はとっとと目的を達成する。
読者が望むのであれば同じような話を書くことも出来たと思うが
著者は違った話を書きたかったのだと思う。
男性の性格は、陰の薫と陽の匂宮が描かれている。薫の描写は夕霧よりも細かいと思う。
女性の性格は、大君・中の君・浮舟に分けて描かれる。
大君は現世とか男にまったく期待していない。どうしてそこまで拒むのかよくわからない。
不遇であった父宮の影響なのか相当にプライドが高いのか理想が高いのかわからない。
生きていればちょっとはいいことあるのにと思う。
中の君はわけの分からないまま薫の謀に便乗した匂宮と初夜を迎えてしまうが
その後は次第に匂宮に惹かれていく。姉のようにくどくど言わず現状を肯定する。
浮舟はそのどちらとも異なっている。そしてこのような魅力的な人物を創造したのは、
やはり紫式部ではないかと思う。

源氏物語(巻七)

2013-08-28 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻七」には、
柏木・横笛・鈴虫・夕霧・御法・幻・雲隠・匂宮・紅梅が収められている。

【柏木】
女三の宮が御子を生むが、引き続いて病に伏せる。
その様子を聞いた朱雀院は山を下る。そして出家を願う女三の宮を落飾させる。
葵や紫の上を苦しめた六条の御息所の物の怪が女三の宮取り憑いていたのだという。
子どもが生れてまもなく柏木は亡くなってしまう。
「幼い時から、人とは違った高い理想を抱いて、何事につけても、人よりは一段、まさりたいと、
公私につけて並々ならず自負してきた。しかし、一度、二度と蹉跌を重ねるうち、
そんな望みはなま易しくは叶わないのだと、思い知らされ、その度毎に、次第に自信を失ってきた」
そのようなことを思いながら死んで行く柏木は負け犬なのだろう。
世の中は様々な種類の負け犬に満ちている。
機動戦士ガンダムSEEDの敵役であるラウ・ル・クルーゼも競争社会の不合理を嘆いている。
彼は世界を否定する権利を持って生れてきたのだ。
負け犬にすらなれない哀しい運命・・・

【横笛】
夕霧は未亡人となった女二の宮の邸を訪ねる。母君である御息所がその応対をする。
御息所は柏木の形見である笛を夕霧に贈る。

【鈴虫】
秋好む中宮は、物の怪になって名乗り出る母の妄執の炎をさましてあげたいと考え、
出家を望むが、親代わりの源氏は許そうとはしない。
それにしても全編を通して六条の御息所は化け物のような描かれ方をしていて気の毒だ。
生き霊とか物の怪とか魔女にされた者には無実を証明する手段はない。
真実などはどこにもなく影響力のある人が言ったことや多くの人々が信じたことが
事実に取って代わる。

【夕霧】
「この帖はまるで現代のサラリーマンの家庭の夫の浮気事件のようで、
ことごとくリアリティのある描写が、はからずもユーモア小説のようなおかしさを誘い、
おもわず笑ってしまう。芝居で言えば世話物に相当する」と解説に書いてある。
夕霧は友人である柏木の妻であった女二の宮を口説こうとするがうまくいかない。
彼は源氏の息子だが女の扱いに慣れていない。父と違って女に恥をかかせてしまったりする。
女の方はうまく騙されたいと思っているだけかもしれないのに・・・
そして大勢の子どもを抱えてすっかり所帯じみた雲居の雁の君とは口論が絶えない。
源氏を中心とした物語がまもなく終ろうとしている中で「ユーモア小説」を挿んでいるのだが、
それは源氏や紫の上のような実在しそうにもない主人公と
夕霧や雲居の雁の君のような実在しそうな人物を
対比させるためではないかと思う。

【御法】
紫の上が亡くなる。解説によると「出家すればセックスが出来ない戒律があったので
源氏は女たちの出家を嫌がった」ということだが、紫の上はとうとう出家もさせてもらえなかった。
幼い頃から源氏に養育され、その教養とたしなみの深さは源氏の虚栄心を満足させ、
その美しさは源氏の欲望を満足させてきた。彼女の人生に何の意味があっただろう?

【幻】
「紫式部はまるで悪意があるかのように、変り果てた源氏の姿を、くどくどしいまでに
書きつける」と解説に書いている。主人公が最愛の人を失って哀しみに暮れ、
人生の無常を悟って、物語が終るというのではなく、ひたすら惨めな晩年が描かれている。
紫の上が亡くなってしまって源氏の生きる意味もまた消失してしまったという感じがする。
経済力のない哀れな女君が源氏の情けを受けて生きていたように見えて
実は源氏が紫の上に依存して生きていたのではないかと思う。
「もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世も今日や尽きぬる」
(物思いにふけっていて月日が経つのもつい知らないでいた間に今年も自分の生涯も今日で終ってしまうのか)
そんな歌で源氏を主人公とした物語は閉じられる。
・・・私たちは明日も生きているという前提で今日を生きている。
目標やノルマを達成するために現在のあり方は制限される。
日々の糧を得るために現在は未来の犠牲となる。場合によっては魂を売ってまで生き延びねばならない。
現在に張り付いている他の生き物たちとは異なる生き方を強いられる。
未来を予測する能力を持ち、未来を変えようとする意思を持ち、
「7つの習慣」に沿って成長を自覚する喜びを持ち、
前向きに主体的に積極的に生きなければならないという教義と
明日も生きているという前提で
私たちは今日を生きている。
ドラッカーさんやコヴィーさんにとって世界はそのようなものだと思う。
それを虚構だと思う人間はニヒリズムに陥ってしまうので彼らは本能的に怖れる。
ニヒリズムやペシミズムはそれ自体が共産主義と同様に遠ざけねばならないものとされる。
疑問を持つこと自体が禁じられている世界にあっては、
一度こぎだした自転車を止めるようなことがあってはならない。
4千本もヒットを打ったことは素晴らしいと言って皆でお祝いしなければならない。
明日、死ぬことがわかっていたら、今日は何をして過ごすだろうか?
来年、死ぬことがわかっていたら、今年は何をして過ごすだろうか?
商業主義に呑み込まれた世界で一個の商品としてしか生きる術がない自分を見つめてみよう。
私は1本もヒットが打てない人間なのです。
そんな自己紹介はOK?・・・

【雲隠】
本文なし

【匂宮】
明石の中宮が生んだ三の宮(匂宮)と柏木の胤で女三の宮が生んだ薫を中心に
源氏の後の世代の話が語られる。

【紅梅】
柏木の弟にあたる按察使の大納言は一の姫君を東宮妃として入内させる。
「后は藤原氏から立てるようにとの春日明神の御宣託も、もしや自分の代で実現することが
出来たらどんなにいいか」と彼は考えている。
源氏物語の時代は藤原氏全盛の時代よりも前に設定されている。
なんで神が藤原氏の味方をしているのかはよくわからない。
その後、中の姫君を匂宮にと考え、
歌のやりとりをしている。

源氏物語(巻六)

2013-08-24 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻六」には、若菜(上・下)が収められている。

【若菜 上】
朱雀院は娘の女三の宮を源氏に降嫁させる。
源氏の異母兄の娘が源氏に降嫁というのも不自然な感じがするが、
六条の院のバランスを消失させ紫の上を不安定な立場に置くことを意図しているのだと思う。
一方、明石の女御が東宮の御子を出産する。
帝の血筋を元に戻す必要があるのだか、仏道に背いているのだか、
理由はよくわからないが源氏の実子である冷泉帝に御子は生れない。
源氏のモデルは源融ということだが、
男系の血筋を残せず女系の血筋を帝位に結びつけるという点では源氏は藤原氏と似ている。
そういう意味では藤原道長がモデルなのかもしれない。
道長の娘の彰子に仕えた著者がひそかに道長を讃えたとしても
不思議はないと思う。

【若菜 下】
冷泉帝が譲位し、明石の女御の皇子が東宮に立った。
明石一族の繁栄を見た人々にとっては「明石の尼君」は幸運な人の代名詞となった。
近江の君は「明石の尼君、明石の尼君」と唱えながら双六の賽を振ったという。
源氏は夕霧の母である葵や秋好む中宮の母である六条の御息所や明石の君といった
これまで関わりのあった女君について紫の上に語り、
「たくさんの女の人と付き合ってきたけれど、あなたのような心ばえの人は二人といなかった」と褒める。
しかし解説で指摘されているように実際の紫の上は、
「源氏の許可なくしては何一つ行動することが出来ない」女性に過ぎない。
そういう女性を理想であると言ったり褒めたりするのは、どこまでいっても源氏の自己都合だろう。
数々の女性遍歴を経て源氏の辿り着いた結論とはそんなものなのだ。
そして源氏に育てられ源氏のためにのみ生きる紫の上は、
現代で言えばペットのようなもので食べ物も幸福も全て主人から与えられる。
さて紫の上の看病で手薄になった六条の院では、太政大臣の長男の柏木が女三の宮と密通してしまった。
それが源氏の知るところとなり柏木は病気になってしまう。
「帝の御寵愛のお后と間違って過ちを犯し、それが発覚した場合にも、これほど苦しみを
味わうのなら、いっそそのために死ぬようなことになっても、辛くも思わないだろう。
自分の場合は、それほどの大罪には当たらないにしても、あの源氏の院に、睨まれ
嫌われるようなことになれば、とても恐ろしくて面目なくてたまらないだろう」
柏木はそんなふうに考えている。
父としての帝を裏切り、帝としての父を裏切った二重の意味で罪のある源氏は、
過ちを犯したとは思っても自責の念に捉われるということがない。
大罪を犯した源氏が自分も同じような目に遭うという点で源氏物語は優れていると言われるが、
源氏は女三の宮をそれほど大切にしていないし罪の意識もないので私はそんなふうには思わない。
自分の顔に泥を塗った柏木に酒をすすめる源氏は不気味だと感じるだけだ。
実際の権力者である道長もそんな感じで周囲に圧力をかけていたのではないだろうか?
柏木と女三の宮の密通を知った源氏は桐壺帝も全てを知っていたのではないかと考える。
だが柏木のような細い神経を持っていないので悩んだりはしない。
女性についても人生についても源氏は悩んだりはしない。
ドストエフスキーの小説の主人公とは違う。
だが悩まない主人公の代わりに読者が悩むことになる。
優れた作品は読者に問い掛けてくる。
「しかし、あなたの若さだって今しばらくのことですよ。決して逆さまに流れていかないのが
年月というもの。老いはどうしたって人の逃れられない運命なのです」と
柏木を見据えて源氏は語る。現代で「あらゆるものは通りすぎる」というアレか?
時の流れを止めることができないのが哀しいというが、
そもそも時間というものがなければ私たちは感じたり考えたりもできないということの方が
もっと哀しくはないだろうか?

源氏物語(巻五)

2013-08-21 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻五」には、
蛍・常夏・篝火・野分・行幸・藤袴・真木柱・梅枝・藤裏葉が収められている。

【蛍】
玉蔓から真木柱までの十帖は、玉蔓十帖と呼ばれているそうだ。
この帖ではイタズラ好きな源氏がこっそり集めた蛍を玉蔓のまわりにばら撒く。
あわてて扇で顔を隠す玉蔓の姿が妖しく映し出される。
兵部卿の宮は思いもかけない光が姫君を照らしているのを目にとめる。
そしてこのことがあってから宮は蛍兵部卿の宮と呼ばれることになる。
あだ名か?

【常夏】
双六をしている相手に小さな目がでるように「小賽、小賽」と唱えながら
近江の君が登場する。内大臣の娘らしいのだが源氏物語の笑われ役になっている。
こうした滑稽な話も長い物語を構成する要素として必要なのだそうだ。
玉蔓十帖では六条の院における源氏の栄華についても描かれているが、
大衆小説的な要素も多く含まれているのではないかと思う。
ベートーヴェンの第九交響曲は大衆について語ると共に大衆について語りかけるものだと
言われている。それを高尚なものと考えている音楽ファンは、
演奏が終った途端に余韻に浸ることなく自らの感情のままにブラヴォーと叫ぶ。
そんなんじゃAKBとおんなじですから・・・
近江の君は笑われ役ではあるが、親しみやすくて愛嬌もある。
樋洗の役でも何でもやると言っている。
内大臣つまり藤原氏の一族にしてもやがては政治の中枢から追い出される。
貴族のたしなみがないということでバカにされる近江の君は、
多様性の一端を担うことで藤原氏の遺伝子の存続に寄与しているのかもしれない。
それにしても笑いや蔑みの対象というのは今も昔もあまり変わらないようだ。
人と違うとか時代に即していないということで笑われたり蔑まされたりする。
そもそも美人の顔とは平均的な顔だという。
平均から逸脱した顔は醜いし、平均から逸脱した行動は受け入れられない。
そんな平均的な世の中は面白みがない。

【篝火】
内大臣の息子たちが玉蔓の前で合奏する。
音楽は、この時代の楽しみのひとつだろうが、どんな曲を聴いていたのだかわからない。
ギリシャ神話の時代にしてもオルフェウスがどんなに素晴らしかったかなんてわからない。
私たちはバッハ・ヘンデル以前の音楽についてほとんど知らない。
彼らはそれ以前の音楽を淘汰してしまったのかもしれない。
何らかの形で平安時代の音楽が残っていたとしても価値あるものと捉えられるか疑問だ。
百万枚の絵を見れば、よい絵とわるい絵を見わけることが出来るとヴォネガットは語る。
音楽についても同じことで数をこなせば判断を可能にする回路が脳に形成される。
MP3プレーヤーに1000枚以上のCDが収納できる時代に生きていることに感謝しよう。
その気になれば何だって聴けるのだ。

【野分】
激しい野分が吹き荒れ、夕霧が六条の院の各御殿を見舞う。
この帖は夕霧の視点で書かれている。

【行幸】
冷泉帝の大野原への行幸について書かれている。源氏は内大臣に玉蔓のことを打ち明ける。
昔気質の末摘花はお決まりの歌を添えて玉蔓の御裳着のお祝いの品を送る。
彼女の歌には「唐衣」が欠かせない・・・

【藤袴】
夕霧は玉蔓に藤袴(蘭の花)を送る。彼女のことを姉だと思っていたのだが、
そうではないことがわかると口説きにかかるところはさすがに源氏の息子だ。
いちおう源氏物語の中ではまじめな方なんですけど・・・

【真木柱】
弁のおもとという女房の手引きにより髭黒の大将が玉蔓を手に入れる。
やってしまったものは仕方がない。それが平安時代の結婚というものらしい。
おもとは里で謹慎しているということだが江戸時代であれば命はなかっただろう。
平安時代というのは命令系統が厳格ではないためか寛容な感じがする。
近代国家では官僚制が発達し厳格な体系が築かれ虐殺までもが効率化されていた。
そんな時代に比べれば平安時代の方がよいかもしれない。
さて玉蔓を手に入れた髭黒の大将には家庭崩壊が待っていた。
北の方は父宮を頼って子どもを連れて邸を出て行く。
父に可愛がられていた姫君は「真木の柱はわれを忘るな」と書いて
邸を去っていった。

【梅枝】
源氏は明石の姫君の入内の準備を進める。まわりが源氏と競争したくないという噂を聞くと
「宮仕えというものは、大勢のお妃たちがお仕えして、その中で少しでも魅力を競争し合うのが
元々の筋道だろう。こんなことで多くのすばらしい姫君たちが、みんな家に引き籠められて
しまったら、惜しい話だ」などと言う。
何を競うのだかよくわからないが、実態は娘に皇子を生ませ、皇子を東宮にし、
そして帝に擁立した者が権力を掌握するというだけのことだ。
そもそもそんな嫌らしい競争の中で母である桐壺は亡くなったのではなかったのか?
栄耀栄華を極めた源氏には必ず勝利する競争であるわけだ。
そんなものは競争とは呼ばない。

【藤裏葉】
夕霧が雲居の雁の君とようやく結ばれる。
「乙女」の帖で内大臣が夕霧にケチをつけてから七年が過ぎていた。
四月になって明石の姫君が入内した。
北の方が付き添うのが慣例であったが明石の君が後見として付き添うことになった。
明石の君はたいそう嬉しくなったということだ。

源氏物語(巻四)

2013-08-17 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻四」には、
薄雲・朝顔・乙女・玉蔓・初音・胡蝶が収められている。

【薄雲】
源氏は明石の姫君の将来を考え、紫の上に養育させようと考える。
母方の素性次第で身分に相違ができるのだと母の尼君に明石の君は言い聞かされる。
生みの親が卑しくても育ての親が高貴であれば良いのだろうか?
私には、そういうことはよくわからない。
迎えの車に乗った幼い姫君は母も一緒に行くものだと思って袖を引っ張る。
著者の作戦であることはわかっているのだが泣けてしまう・・・
しばらくして、太政大臣が亡くなり、藤壺も亡くなる。
そして藤壺が祈祷を命じていた僧が出生の秘密を冷泉帝に漏らしてしまう。
帝が自分に譲位しようなどと言ったりして様子がおかしいことから、
源氏は秘密が漏れたことを察する。
帝王の血筋が乱れていることについて平安時代の読者は平気だったのだろうか?
冷泉帝の子孫が即位しなかったことから一時的に乱れた血筋は
元に戻っているのでお咎めがなかったのかもしれない。
実際には帝が主人公の物語を描いてもおもしろくもなんともないので、
ギリギリを狙った人物設定なのだろう。

【朝顔】
朝顔の斎院は父宮の服喪のため、斎院の職を下がった。
伊勢神宮に仕えるのが斎宮で賀茂神社に仕えるのが斎院ということだ。
賀茂神社は上賀茂神社と下鴨神社の両方を含むらしい。内親王もたいへんだ。
朝顔の姫宮は源氏を袖にしたことで存在を示しているということだが、
読者が源氏の色恋沙汰の成功パターンに飽きているということを
想定した内容になっているのではないかと思う。

【乙女】
源氏は六条京極あたりの四町ほどの広大な敷地に女君を集めて一緒に暮らそうと計画する。
解説によると四町というのは六万平方メートルでかつての後楽園球場の五倍の広さだという。
それを可能とする経済力は強大なものなのだろう。
解説には「男としての最高の贅沢と願望の実現」ということが書いてある。
島耕作を見ていても男は経済力で目的は女でしかないということがよくわかる。
西南の町は秋好む中宮(六条の御息所の娘の前斎宮)がお住まいになり、
東南の町は源氏と紫の上が、東北の町は花散里、西北の町は明石の君がお住まいになる。
六条の院には築山やら泉やら池やら遣水の流れやら季節を彩る草木やら
様々な趣向が凝らされている。

【玉蔓】
夕顔が亡くなって筑紫に逃れていた玉蔓が京に帰還する様子が描かれている。
解説によると「平安シンデレラ物語」ということらしい。
ディズニーによると王子様が迎えにくるのを待っている白雪姫とは違い、
王子様に会いに行くシンデレラは積極的だということだ。
なるほど幸運は自らの行動で掴み取るという姿勢は西洋的であり、
現代においては世界中のビジネスパーソンに信仰されている成功の秘訣なのだろう。
そういう意味では、かつて夕顔の女房であった右近が源氏に奉公しており、
玉蔓の一行がその右近に偶然出会うという展開は、
シンデレラ的ではなくて白雪姫的なのだろう。
私だって本当は高貴な生まれかもしれないと玉蔓を読んだあらゆる時代の人々は
胸をときめかせては夢が果たされることもなく死んでいったのかもしれない。
シンデレラでなくとも白雪姫でもいいんじゃない?
夢を見させることが目的であれば

【初音】
千年前にボーカロイドがいたわけではない。
「年月をまつにひかれて経る人にけふ鶯の初音聞かせよ」と明石の君が書いている。
娘に会えずに過ごしている明石の君が可哀想で涙が溢れてしまう。
本当にかわいそうだ。

【胡蝶】
玉蔓という年頃の姫君を迎えたことで六条の院に求婚者たちが集まるようになる。
源氏の弟にあたるさして若くもない兵部卿の宮も含まれている。
家柄はよいがあまり雅な感じがしない髭黒の右大将や
内大臣(かつての頭の中将)の息子の柏木も玉蔓に恋焦がれる。
柏木は実の姉であるということを知らない。
そんな中、親代わりの源氏までもが恋心を抑えきれず、添い寝までしてしまう。
兄弟やら親代わりの源氏にまで言い寄られてしまい、
読者は玉蔓の身を案じるばかりだ。

源氏物語(巻三)

2013-08-14 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻三」には、
須磨・明石・澪標・蓬生・関屋・絵合・松風が収められている。

【須磨】
朧月夜との密通がもとで源氏は官位を剥奪され除名の処分を受ける。
そして流罪の辱めを受ける前に自分から都を離れようと考え須磨を訪れる。
都の女君たちと便りを交わしたり絵を描いたりして日々を過ごす。
須磨で暮らしてから一年近くが過ぎた三月のはじめ、天候が急変し暴風雨となる。

【明石】
亡き桐壺院が夢に現れ、須磨を立ち去るよう告げる。
それと同期して明石の入道が源氏を迎えに現れ、一行は明石へと渡る。
やがて源氏は入道の娘の明石の君と結ばれる。
都では太政大臣(元右大臣)が亡くなり、弘徽殿の大后も病となり、夢で父帝に叱責された
朱雀帝も目を患う。心細くなった帝は源氏に京へ帰るようとの宣旨を下す。
その頃には明石の君は源氏の子を身篭っていた。
このように源氏の復権は悪天候と桐壺院の亡霊によるもので権力闘争に勝利してのことではない。
詩吟や音楽や舞いや絵画のすべてに優れた光り輝く君には腹黒い闘争は似合わない。
そこにある現実の権力闘争を藤原氏の腹から生まれた一条天皇に
意識させてはならないということだったかもしれない。

【澪標】
朱雀帝が譲位し、十一歳の冷泉帝が即位する。明石では姫君が誕生する。
六条の御息所は娘である前斎宮の後見をしてくれるよう源氏に遺言して亡くなる。

【蓬生】
末摘花は父宮の邸を一途に守ろうとする。彼女の窮乏を事細かに描く著者は、
きっと源氏が助けてくれるに違いないと読者に思わせる。
それで、この帖は恋愛小説ではなくて人情物語になっている。
そして読者の期待は裏切られることなく果たされる。
しかし実際には零落していく貴族は打ち捨てられるのだろう。
何も貴族に限った話ではなく、繁栄する一族があれば衰退する一族がある。
生きんとする意思は互いを退け合うだけだ。しかし実際には勝った者にも何も残らない。
望月の欠けたることもなかった藤原道長が何を残せただろうか?
彼は紫式部を庇護することで類稀な物語を残したと言えるかもしれない。
誰もが自分の人生の成功を願っているらしい。
しかしその成功とはいったい何なのか?

【関屋】
空蝉の後日談。夫に先立たれた後、継息子に言い寄られた空蝉は出家する。

【絵合】
源氏は藤壺と共謀し彼らの息子である十三歳の冷泉帝に九歳上の前斎宮を嫁がせる。
ところで斎宮とは、伊勢神宮を祭る宮のことらしい。伊勢では天照大神を祭っている。
古代においては王族は祈祷師の役割りも果たしていたとされている。
それで神に仕える斎宮は皇族から選出されたのだろう。
そして神に仕えている間は仏の庇護はないのだろう。
古来よりの神と輸入した仏教が両立するというのもよくわからない。
神社と寺が混在するこの国の宗教のあり方がよくわからない。
それもまた思考停止の産物なのかもしれない。

【松風】
明石の君とその姫君が嵯峨に移り住む。
あちこちで契ってはいるのだが源氏の実子は三人だけだ。
藤壺が生んだ冷泉帝、葵の上が生んだ夕霧、そして明石の君が生んだ姫君
恋に生きると言ってもそれは遺伝子に操られてのことだ。
しかし遺伝子そのものに意志があるわけでもなく存続することが自己目的化している。
それを生存競争に勝利したかのように私たちは語るのだが、
先にも書いたように成功とか勝利が何であるか私にはよくわからない。
一生懸命恋に生きた源氏の世代が過ぎ去ってしまうと何もなかったような静寂が訪れる。
かつて生きていた人はあっという間にいなくなる。
それを無常と呼ぶのも憚られる。

源氏物語(巻二)

2013-08-11 00:05:05 | 源氏物語
瀬戸内寂聴訳「源氏物語巻二」には、
末摘花・紅葉賀・花宴・葵・賢木・花散里が収められている。

【末摘花】
源氏物語で笑えるのは、末摘花と近江の君ではないかと思う。
この帖に書かれている末摘花の描写はちょっとかわいそうな気もするが、
後々になって出て来る彼女の態度には思わず微笑んでしまう。
容姿がすぐれていないことを笑うのではなく貴族として一途な姿に微笑んでしまう。
流行に疎く、まわりに合わせることが出来ないという点では、
実は自分にそっくりなのではないかと思う。

【紅葉賀】
藤壺が皇子を出産する。源氏に生き写しの若宮の顔だちに藤壺は苦しむ。
藤壺は桐壺に似ているのだから、帝と桐壺の間に生れた源氏とそっくりだとしても、
不思議はないと思うのだが、藤壺は醜聞が発覚することを恐れ疑心暗鬼に陥る。
源氏は相変わらず自分の欲望のままに動くが母となった藤壺は源氏を受け入れない。
帝は光り輝く御子を寵愛する。そして若宮の後見として藤壺を中宮に立てる。
譲位の準備を進め藤壺の生んだ若宮を東宮にと考えている。
桐壺帝は藤壺の不義を知らなかったのだろうか?
若宮を抱いて喜んでいる帝を描くことで著者は藤壺の苦しみをいっそう深いものにしている。
「この子は実にそなたに似ている。ごく小さい間は、みなこんなふうなのだろうか」という
帝の仰せに源氏は顔色の変わる心地がしたということだが、
「自分が若宮に似ているのなら、我ながら自分をたいそう大切にしなければならない」と
お思いになるというのだから、やはり罪の意識なんてないらしい。

【花宴】
朧月夜が登場する。朧月夜は右大臣の娘で弘徽殿の女御(のちの大后)の妹にあたる。
そして源氏は、いつものように事に及ぶ。
「わたしは何をしても誰からも咎められないから、人をお呼びになっても何にも
なりませんよ」と言う不敵な源氏に、女はさては源氏の君だったのかとわかって安心している。
そんなふうにしているものだから弘徽殿の女御にはいっそう憎まれることになる。

【葵】
亡くなった東宮が寵愛していて今は源氏の恋人のひとりである六条の御息所の生き霊により、
左大臣の娘で源氏の正妻である葵の上が絶命するという話になっている。
フレイザーが研究した未開人と同様に、この時代、病気の原因は物の怪であると信じられていた。
そして人々は病気の治療のためすぐれた験者に加持祈祷をさせる。
きっと仮定した原因に対する処置は正しいのだろう。
しかしそのすぐれた験者というのは実際には詐欺師なわけだ。
病床の妻に付き添っていた源氏は、病人の声音や様子がおかしいことに気付く。
その姿をよく見れば六条の御息所に入れ替わっており、不気味に思う。
読者もまた人を呪い殺そうとする生き霊にぞっとするのだが、
実際には恨みや呪いで復讐を果たそうとする原初的な感情が自らの内にあることを
認めてぞっとしているのかもしれない。
それとは対象的に、すべてにおいて優れている源氏は恨みという感情を持たない。
そして喪中に紫の上との初夜を果たすなど不謹慎というか自己チューな人生を謳歌している。
著者は六条の御息所ほどには葵の心理を描写していない。
左大臣や源氏や兄である頭の中将が葵を偲ぶシーンが続くが、
読者に惜しいと思わせないように配慮していると感じる。
そういう意味で葵が哀れに思えてならない。
彼女の役割は六条の御息所の恨みの対象であることと夕霧を生むことだけだった。
他人の恨みを買い子孫を残すだけという点で
葵は私たち凡人の代表と言える。

【賢木】
既に譲位していた桐壺院がおかくれになる。
源氏の異母兄である朱雀帝は母の弘徽殿の大后に頭が上がらない。
右大臣の娘である弘徽殿の大后は桐壺が寵愛されている頃から源氏を憎んでいた。
そんなわけでしばらくは右大臣派の天下が続き左大臣派は干されてしまう。
そして桐壺院の一周忌には藤壺が出家する。
藤壺の出家は東宮を守るためのもの、源氏の執拗な要求を拒むためのものであり、
宇治十帖における出家の意味に比べるとそんなに重たい感じはしない。
朧月夜との密会現場を右大臣に見られてしまったことで
源氏はますます窮地に陥っていく・・・
しかし源氏物語そのものが権力闘争の道具だったかもしれないので、
この物語で実際の権力闘争が描かれることはない。
紫式部のパトロンは娘の彰子を入内させた藤原道長であったが、
藤原道隆の娘の定子に仕えた清少納言との確執はどのようなものであったか?
源氏物語の最も大切な読者であったという一条天皇は、
母親も皇后も中宮も女御も藤原氏の娘であって
藤原氏とはズブズブの関係であったらしい。
かつて王とは、強き者、優れた者、美しき者であった。
源氏物語の時代の皇族は優れた者、美しき者として描かれているが強き者ではない。
強き者、つまり実際の権力者は天皇との外戚関係によりその地位を築き上げた。
欧州その他の地域における王が、より強き者にとって代わられたのとは異なり、
我が国における王は千年以上前より時の権力者に利用されてきた。
そうする方が新しい王朝を作るよりも手間がかからないのだと思う。
帝は時の権力者の地位を権威付けるための基準として維持されてきたのではないだろうか?
数十年前ですら統帥権を利用した大本営に利用されていた。
敗戦国として統治される際にも天皇は基準として利用された。
進駐軍は天皇よりも偉かったのだ。
そして現代において象徴とされた天皇に我慢がならず、
皇国史観と武士道の入り混じったものを日本人のこころと考えた、とある作家は、
割腹自殺を遂げたのだろう。
しかし基準であることと象徴であることに、それほどの違いがあるのだろうか?
藤原氏のDNAも入っていれば小和田氏のDNAも入っている。
男系優先なら秋篠宮親王が継ぐのだろうか?そうすると川嶋氏のDNAが入るのか?
神武天皇のY染色体がそれほど大切なものなのだろうか?
紀元前660年に即位したというが本当なのだろうか?
そのようにしていろいろ考えていると面倒になって思考停止に陥る。
そんなふうにして、いつの時代も思考停止していたのではないだろうか?
おそらくは紀元前より思考停止してきた結果が
天皇の存続であったのではないだろうか?

【花散里】
花散里は他の女君に比べて美しいというわけではないが温厚な性格の人物だ。
障害の多い恋にしか興味を持たない源氏にも
安らぎを得たいと思うことがあるらしい。