相変わらずFacebookは凍結したままだ。
個人情報を晒すのは嫌だし書きたいことはブログに書いている。
写真でも載せて「こんなヘタレがこんなヘタレな文章を書いているのですよ」と宣言すれば良いのだろうか?
それに何か書いているからといって誰かと議論したいわけでもない。
「民主党はけしからん」と書いて、みんなで「そうだ」、「そうだ」と言っていれば良いのだろうか?
「言論プラットフォーム」とか何とかいってもガス抜きをしているだけではないかと思う。
「私たちは日本の将来のことをちゃんと考えているんです」みたいな感じで・・・
最近はそういう記事を書く人が増えたような気がする。
既得権益を批判して改革の必要を訴える民衆の味方。
それってまるで政権獲得前の民主党と同じじゃないの?
つまり評論家というのは万年野党のことらしい。
それでFacebookの話
「同様にして、授業の合間の15分の休み時間に15通のメールを確認し、40人のフォロワーの
ツイートを追い、30人のマイミクのボイスをチェックしている平成23年の大学1年生は、
不当なコミュニケーション依存に向けて駆り立てられている。彼が15分の間に交換している
コミュニケーションの総量は、インターネット維新以前の旧石器大学生が丸一日かけて
積み上げていた会話量を凌駕しているはずだ。が、その1年生は、大量のメッセージ交換を
こなしながら、1日の終わりには、単に疲弊している。」
フェイスブックで友達何人できたかな
うっ、かなりめんどくさそうだ。
メッセージ交換に追われている人のコミュニケーションがどんなものか想像もつかない。
常時接続がなかった私の学生時代は物事に集中しやすい環境だったのかもしれない。
アパートで本を読んでいる時に私の邪魔をするものは何もなかった。
そしてメールなんてなかったので手紙を書いていた。
手紙の返事が届いた日はなんとなくうれしかった。
メールを受信するのとは違う。
「昔は良かった」というような話をするつもりはないのだが
あり余る時間を持っていた私たちはとても自由な学生時代を過ごしたのだと思う。
携帯機器という鎖につながれていることが当たり前の世代とは
考え方も随分と違うのだろう。