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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

太宰治全集10

2016-06-04 00:05:09 | 太宰治
太宰治全集10(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。

田舎者/
魚服記に就て/
断崖の錯覚[「黒木舜平」の筆名で発表した小説]/
もの思う葦/
川端康成へ/
碧眼托鉢/
人物に就いて/
古典竜頭蛇尾/
悶悶日記/
走ラヌ名馬/
先生三人/
音に就いて/
檀君の近業について/
思案の敗北/
創作余談/
「晩年」に就いて/
一日の労苦/
多頭蛇哲学/
答案落第/
緒方氏を殺した者/
一歩前進二歩退却/
富士に就いて/
校長三代/
女人創造/
九月十月十一月/
春昼/
当選の日/
正直ノオト/
ラロシフコー/
「人間キリスト記」その他/
市井喧争/
困惑の弁/
心の王者/
このごろ/
鬱屈禍/
酒ぎらい/
知らない人/
諸君の位置/
無趣味/
義務/
作家の像/
三月三十日/
国技館/
大恩は語らず/
自信のなさ/
六月十九日/
貪婪禍/
砂子屋/
パウロの混乱/
文盲自嘲/
かすかな声/
弱者の糧/
男女川と羽左衛門/
五所川原/
青森/
容貌/
「晩年」と「女生徒」/
私の著作集/
世界的/
私信/
或る忠告/
食通/
一問一答/
無題/
小照/
炎天汗談/
天狗/
わが愛好する言葉/
金銭の話/
横綱/
革財布/
「告別」の意図/
芸術ぎらい/
郷愁/
純真/
一つの約束/
春/
返事/
津軽地方とチエホフ/
政治家と家庭/
海/
同じ星/
新しい形の個人主義/
織田君の死/
わが半生を語る/
小志/
かくめい/
小説の面白さ/
徒党について/
黒石の人たち/
如是我聞

「断崖の錯覚」が小説で他はエッセイの類になっている。

「もの思う葦」に「難解」という記述がある。
54ページ
「太初に言あり。言は神と偕にあり。言は神なりき。この言は太初に神とともに在り。
万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。
之に生命あり。この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る。而して暗黒は之を悟らざりき。云々。」
私はこの文章を、この想念を、難解だと思った。ほうぼうへ持って廻ってさわぎたてたのである。
 けれども、あるときふっと角度をかえて考えてみたら、なんだ、これはまことに平凡なことを
述べているにすぎないのである。それから私はこう考えた。文学に於いて、「難解」はあり得ない。
「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、
おのおの自己流の角度から、すぱっと斬っ(たふりをし)て、
その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないのか。

なるほどあたり前と言えばそうなのだ。
「自然」は語り尽くせぬ「難解」なものであって
「言(ことば)」はそこから理解できるものだけを切り取る。
そうすると「文学」にも「科学」にも「難解」はあり得ない。
理解できるものだけしか記述できないというあたり前のことになる。
私たちにはそんな制限されたことしかできなくて
でも現象や生活を切り取っては誰かに知らせたくて仕方がない。
そんなことをずっと続けている。
それしかできることがない。

「『晩年』について」に次のような記述がある。
144ページ
私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。
なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません。
・・・
こんど、ひとつ、ただ、わけもなく面白い長篇小説を書いてあげましょうね。
いまの小説、みな、面白くないでしょう?
やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。
・・・
「晩年」お読みになりますか? 美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、
自分で、自分ひとりで、ふっと発見するものです。
「晩年」の中から、あなたは、美しさを発見できるかどうか、それは、あなたの自由です。
読者の黄金権です。だから、あまりおすすめしたくないのです。
わからん奴には、ぶん殴ったって、こんりんざい判りっこないんだから。

「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう」というのは
本当にその通りだと思った。
「視野を広げる」とか「感性を豊かにする」とか、
そういう「○○のための××」みたいな考え方が染みついてしまっている。
「感性を豊かにする」とかそんなことが可能なのだろうか。
貧しい感性が豊かになった例に会ったことがない。
そうして最後に「何の役にたつのか?」「何のために読むのか?」と言われておしまい。
「ちっとも楽にならない」「ちっとも偉くならない」のです。
「感動」もしません。作り話に情念を引きずり出されるのは屈辱だと思います。
「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて」
そういうことでよろしくお願いします。

「かすかな声」に次のような記述がある。
285ページ
「生活とは何ですか。」
「わびしさを堪える事です。」
 自己弁解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。
「敗北とは何ですか。」
「悪に媚笑する事です。」
「悪とは何ですか。」
「無意識の殴打です。意識的の殴打は、悪ではありません。」
 議論とは、往々にして妥協したい情熱である。
「自信とは何ですか。」
「将来の燭光を見た時の心の姿です。」
「現在の?」
「それは使いものになりません。ばかです。」
「あなたには自信がありますか。」
「あります。」
「芸術とは何ですか。」
「すみれの花です。」
「つまらない。」
「つまらないものです。」
「芸術家とは何ですか。」
「豚の鼻です。」
「それは、ひどい。」
「鼻は、すみれの匂いを知っています。」
「きょうは、少し調子づいているようですね。」
「そうです。芸術は、その時の調子で出来ます。」

「豚の鼻」というところが良いと思う。

太宰治全集9

2016-05-28 00:05:32 | 太宰治
太宰治全集9(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。



女神
フォスフォレッスセンス

斜陽
おさん
犯人
饗応夫人
酒の追憶
美男子と煙草
眉山
女類
渡り鳥
桜桃
家庭の幸福
人間失格
グッド・バイ

「斜陽」と「人間失格」が長編で他は短編となっている。
この全集は7巻目くらいから佳作傑作という感じになってくる。
それまでの作品が決して悪いというわけではないと思うがインパクトがあまりない。
エンタメに毒された21世紀に暮らしていると矢鱈とストーリー性を求めてしまいがちで
きっと私もその毒に侵されているので、そんなふうに考えてしまうのだろう。

88ページ
ああ、お金が無くなるという事は、なんというおそろしい、みじめな、救いの無い地獄だろう。
136ページ
プライドとは何だ、プライドとは。
人間は、いや、男は、(おれはすぐれている)(おれにはいいところがあるんだ)などと思わずに、
生きて行く事が出来ぬものか。
181ページ
私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれて来たのだ。
224ページ
僕は死んだほうがいいんです。僕には、所謂、生活能力が無いんです。
235ページ
この世の中に、戦争だの平和だの貿易だの組合だの政治だのがあるのは、なんのためだか、
このごろ私にもわかって来ました。あなたは、ご存じないでしょう。
だから、いつまでも不幸なのですわ。それはね、教えてあげますわ、
女がよい子を生むためです。

「斜陽」にはそんなことが書かれていて、あたり前と言えばそうなのだが、
あたり前のことを抽出して仕上げるのは大変で、かなりの労力を伴う。
おそらくはここまで純粋に抽出したのは太宰が初めてなのではないかと思う。
普通の人間はそんなつらい作業には耐えられない。
苦悩とか闘争とか克己とか、そんな綺麗ごとではないのだと思う。
そこにある人の姿をそのままに写し取っている。
「努力をすればいいではないか」とそんなふうに受け取ったなら台無しになる。
そういう人は読まない方が良い。ディズニー映画でも見ていればいい。

456ページ
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。
どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、
こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

「人間失格」にそんなことが書かれている。
この小説は「地下室の手記」「変身」「異邦人」に似たところがある。
主人公のあまりの「正直さ」に戸惑ってしまい、、
それを自分とは異質の狂人やら変人に固有の性質と見做し、
読んだけど何の教訓も何の感動も得られぬ不快な小説であると突き放して、
世間体を保とうとするのが、一般的な反応ではないかと思う。
作家は特殊なものの中に普遍を見出したからこそ小説にしているのだが、
「人間失格」が好きですとか「変身」が好きですと言った瞬間に、
その人の社会的地位は失われてしまうだろう。
逆に言うと地位なんてその程度のものだろう。
この種の小説には自尊心の反射のような現象がよく見られる。
他人からよく思われようとして地獄に落ちる。
それは「世間」なのか「あなた」なのか?
ここでは「世間は君じゃないか」という説が立てられている。
実際、そうかもしれない。

太宰治全集8

2016-05-21 00:05:33 | 太宰治
太宰治全集8(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。

パンドラの匣
薄明

親という二字

貨幣
やんぬる哉
十五年間
未帰還の友に
苦悩の年鑑
チャンス

たずねびと
男女同権
親友交歓
トカトントン
メリイクリスマス
ヴィヨンの妻
冬の花火
春の枯葉

11ページ
「君はギリシャ神話のパンドラの匣という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、
病苦、悲哀、嫉妬、貪慾、猜疑、陰険、飢餓、憎悪など、あらゆる不吉の虫が這い出し、
空を覆ってぶんぶん飛び廻まわり、それ以来、人間は永遠に不幸に悶えなければならなくなったが、
しかし、その匣の隅に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、
その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話」

「パンドラ」はギリシャ神話で人類最初の女性とされている。
プロメテウスが天上の火を盗んで人類に与えたことに激怒したゼウスは、
人類に災いをもたらすために神々に「女性」を作らせ、地上に送り出したのだという。
旧約聖書のイブ(あるいはエバ)と同様に「人類最初の女性」に与えられる役割には似通ったものがある。
あらゆる災厄は人間の感情を起源としていて、
その感情はまた、一年中発情期という生態によって動物の行動に変化が生じて、
異性への欲望が異性への関心へと、さらに異性への関心が他の対象への関心へと一般化して
生み出されたということかもしれないから、「人類最初の女性」が災厄をもたらしたという設定には、
あながち間違いとは言い切れないものがある。
「人類最初」でなくとも「女性」は躓きの石に違いないと、
自らの半生を振り返って頷いている人がたくさんいることだろう。

そのパンドラの匣(箱)というか、当時は壷という話だが、これはゼウスが与えという説と、
プロメテウスが人類にとって有害になるであろう一切の災厄を箱に封じ込めて
弟エピメテウス(パンドラの旦那)に保管させていたという説がある。
「絶対に開けてはならない」というセリフを活かしたいのであれば前者が妥当かもしれない。
しかしこの「絶対に○○してはならない」というのは人類史上守られたことがない。
黄泉の国にエウリュディケーを迎えに行ってうっかり振り向いてしまったオルフェウス
同じく伊邪那美を迎えに行って振り返ってしまった伊邪那岐
「開けてはいけない」贈り物を乙姫さんにもらった浦島さん
「押すなよ」のダチョウ
枚挙に暇がない。
オルフェウスやダチョウには同情の余地はないが、浦島さんはちょっと可哀そうだと思う。
「開けてはいけない」贈り物ってあり得ない。

つまらないことを書いてしまったが、最後に「希望」が残るというところも万国共通になっている。
現在にへばりついて生きている動物には希望も絶望もないのではないかと思われるが、
使命や目的のようなものを無理やり持たされてしまった人間は「希望」がないと生きていけない。
いつの間にか考え方が逆転している。
「希望」があるから生きていけるのではなくて「希望」がないと生きていけない。
人生の半ばを通り過ぎ、老い先短い老人になっても、子孫の将来に希望を抱いて生きている。
未来は現在よりも素晴らしいものでなければならないという強迫観念があるような気がする。
そういう考え方が強要されるのもまた悲劇だろう。
「良くなる」ことがあたり前とされ「現状維持」は悪となる。
そうやって自分たちをどんどん追いつめてしまうのが、
この悲しい生き物の性質なのだろう。

この小説は、結核の療養所で繰り広げれる恋愛小説という感じで、
表題(パンドラの匣)はあまり関係がない。

太宰治全集7

2016-05-14 00:05:39 | 太宰治
太宰治全集7(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。

津軽
惜別
お伽草紙

「お伽草紙」には、以下の4編が収められている。
瘤取り
浦島さん
カチカチ山
舌切雀

「津軽」は今までの作品にも何度かあったように私小説的というか自伝的要素が多く含まれている。
123ページ
「金木の生家では、気疲れがする。また、私は後で、こうして書くからいけないのだ。
肉親を書いて、そうしてその原稿を売らなければ生きて行けないという悪い宿業を背負っている男は、
神様から、そのふるさとを取りあげられる。所詮、私は、東京のあばらやで仮寝して、
生家のなつかしい夢を見て慕い、あちこちうろつき、そうして死ぬのかも知れない」
あちこちの作品に生家のことが書かれている。「またか」という感じもする。
他に書くことがないから「肉親を書いて」ということになるわけではないと思う。
思い出が刷り込まれて、ずっとそのことを気にして生きている、
小説を書いているという感じがする。

101ページ
「これは、きつと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、
何を隠そうそれがしは九郎判官、してまたこれなる髯男は武蔵坊弁慶、一夜の宿をたのむぞ、
なんて言って、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違いない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。
鎌倉時代だけじゃなく、江戸時代になっても、そんな義経と弁慶が、うろついていたのかも知れない」
津軽、あるいは東北地方における義経伝説の過多について考察されている。
当たっているような気がする。

「惜別」は魯迅が仙台にいた頃の様子を描いている。初め医学を学んでいたということだ。
若者に固有の直情さが描かれていて、そういう時代が自分にもあったのだということを思い出して
恥ずかしいとか、おもはゆいとかそんな気持ちになる。
それが仙台なのだから、尚更だ。

「お伽草紙」は昔話を題材としている。
芥川龍之介の猿蟹合戦ほど辛辣ではないが、カチカチ山はちょっと厳しいかもしれない。
以下は「浦島さん」より抜粋。
346ページ
「もし、もし、浦島さん。」とその時、足許で小さい声。
 これが、れいの問題の亀である。
352ページ
「それじゃ私だつて言いますが、あなたが私を助けてくれたのは、私が亀で、そうして、
いじめている相手は子供だったからでしょう。亀と子供じゃあ、その間にはいって仲裁しても、
あとくされがありませんからね。それに、子供たちには、五文のお金でも大金ですからね。
しかし、まあ、五文とは値切ったものだ。私は、も少し出すかと思つた。あなたのケチには、
呆れましたよ。私のからだの値段が、たった五文かと思ったら、私は情無かったね」
なんだ亀を助けたんじゃなくて「買った」のか。
確かに五文は安い。亀に同情する。

太宰治全集6

2016-05-07 00:05:32 | 太宰治
太宰治全集6(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。

鉄面皮
赤心
右大臣実朝
作家の手帖
佳日
散華
雪の夜の話
東京だより
新釈諸国噺
竹青

「新釈諸国噺」は井原西鶴の著作を元にした作品ということであり、
以下の12の短編が収められている。

貧の意地
大力
猿塚
人魚の海
破産
裸川
義理
女賊
赤い太鼓
粋人
遊興戒
吉野山

「井原西鶴」を読んだこともないし、この先、読むとも思えないが、
些細なことを気にしたり、行為が自尊心(武士で言うところの恥)に
振り回されてしまうとか、いつの世にもありがちな人の姿が書かれていて面白い。
十両あるはずのに九両しかないとか、何故だか十一両あるとか、
十一文落としたはずなのに実際は九文だったとか、金勘定の差異が生み出す気持ちの変化が、
一瞬の間に周囲の人間に伝搬して行くところが特に面白い。
物語の発端というのは常に金か名誉に絡むことなのかもしれない。
宝くじの当選に喜ぶにやけた締まりのない表情の芸能人が何人も写っている広告が
地下鉄の中に何枚も貼り出されていて嫌な気持ちがした。
きっと自分もそういう人間のひとりなのだ。
夢が金で代替し得るというわけではないにしても
金儲けで疲れ果ててしまう人生から逃れたいと望んでいる。
そして清貧の生活によって金銭欲を逃れた場合も運よく宝くじが当たった場合も
その次には名誉欲が待ち構えているのだろう。
まったく困ったものだ。

太宰治全集5

2016-04-30 00:05:46 | 太宰治
太宰治全集5(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。

新郎
十二月八日
律子と貞子
待つ
水仙
正義と微笑
小さいアルバム
花火
帰去来
故郷
禁酒の心
黄村先生言行録
花吹雪
不審庵

長編「正義と微笑」は歌舞伎俳優T君の少年時代の日記帳から着想を得たものだという。
「微笑もて正義を為せ!」と69ページに書いてあって、
これはマタイ六章の十六節にある思想なのだという。
新約聖書翻訳委員会訳(岩波書店)を引っ張り出してみると以下のような記述であった。
「また、あなたたちが断食する時、偽善者たちのように陰鬱になるな。
彼らは、[いかにも]断食していると人々に見られるために、自分の顔を見苦しくするのである。
アーメン、私はあなたたちに言う、彼らはその報いを受けてしまっている。
むしろ、あなたが断食するときは、あなたの頭に油を塗って、あなたの顔を洗え。
断食していることが人々に見られず、隠れたところにおられるあなたの父に[こそ]
見られるためである。すると、隠れたところに見ておられるあなたの父が、
あなたに報いて下さるであろう」
「あなたの父」が神だが超自我だかなんだかよくわからないが、
他人によく思われたいとか、他人の目を気にするとか、
そういうことはおよしなさいよというありがたい教えではないかと思う。
為すとか行動するとか、それはそうしたいからそうするのだ。
ここでは「微笑」とは「辛い振りをするな」という意味で、
「正義を為せ」というのは福音書では「断食」に当たるのだろうが、
商業的ではない無報酬の行為というのが現代でもまだ存在するというのであれば、
やはり自らの信じるところに従って為すべきことを為しなさいということに
なるのではないかと思う。
今までなんとか生き延びて来たし、日銭を得ることの大変さは身に染みているが、
永遠に生きられるたけでもないのだから、やりたいことをやりたい。
最近は本当にそう思う。

短編では「花火」と「黄村先生言行録」が良かった。

太宰治全集4

2016-04-23 00:05:59 | 太宰治
太宰治全集4(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。

きりぎりす
ろまん灯篭
東京八景
みみずく通信
佐渡
清貧譚
服装に就いて
令嬢アユ
千代女
新ハムレット
風の便り



「新ハムレット」は戯曲風の小説で、初めての書き下ろし長編小説ということだ。
確かにこれまで読んできた中で一番長い。
オリジナルのストーリーとは随分と異なっている。
キャラクターも近代風にアレンジされていて、
悪党クローディアスも小悪党になってしまった感じで
オフィーリアはしっかり者で、王妃は総入れ歯で、もしかするとパロディなのかもしれない。
私は王妃の次のようなセリフにうんうんと頷いていた。

「女は、だめですね。いいえ、女だけでなく、私にはこのごろ、人間というものが、
ひどく頼りなくなって来ました。よっぽど立派そうに見える男のかたでも、なに、
本心は一様にびくびくもので、他人の思惑ばかりを気にして生きているものだという事が、
やっとこのごろ、わかって来ました。人間というものは、みじめな、可哀そうなものですね。
成功したの失敗したの、利巧だの、馬鹿だの、勝ったの負けたのと眼の色を変えて力んで、
朝から晩まで汗水流して走り廻って、そうしてだんだんとしをとる、それだけの事をする為に
私たちは此の世の中に生れて来たのかしら。虫と同じ事ですね。ばかばかしい。どんな悲しい、
つらい事があっても、デンマークのため、という事を忘れず、
きょうまで生きて努めて来たのですが、私は馬鹿です。だまされました。
先王にも、現王にも、またハムレットにも、みんなに、だまされていたのです。
デンマークのため、という言葉は、なんだか大きい崇高な意味を持っているようで、
私はいつでも、デンマークのためとばかり思って、くるしい事でも悲しい事でも怺えて来ました」

「デンマークのため」という部分をその人が一番大切にしていることに置き換えると
この文章はそっくりそのまま誰にでもあてはまるような気がする。
「成功したの失敗したの」「勝ったの負けたの」に毎日振り回され続けて
もうそんなに長くも生きられない自分に気が付く。
そうすると人生そのものがパロディという感じもする。
復讐とか復讐の虚しさの中に生きて死んで行く「ハムレット」の登場人物は幸せだろう。
それに比べて「新ハムレット」の登場人物というのは・・・

太宰治全集3

2016-04-16 00:05:43 | 太宰治
太宰治全集3(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。

八十八夜
座興に非ず
美少女
畜犬談
ア、秋
デカダン抗議
おしゃれ童子
皮膚と心
春の盗賊
俗天使
兄たち

女人訓戒
女の決闘
駈込み訴え
老〈アルト〉ハイデルベルヒ
誰も知らぬ
善蔵を思う
走れメロス
古典風
盲人独笑
乞食学生
失敗園
一灯
リイズ

この中で一番有名なのは「走れメロス」だろう。
読んですぐに忘れてしまう竹馬の友の名はセリヌンティウス
妹婿を、自身の世嗣を、妹を、臣下を次々に殺してしまった暴君の名はディオニスである。
この猜疑心に満ちた王は私たちの心を代弁している。

「おまえらの望みは叶かなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。
信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。
どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
ラストシーンでの王の言葉である。

私たちも彼と同じように「信じる」ための理由を探している。
感動する映画が見たいという理由も同じようなものではないかと思う。
実際、この短い物語にはエンタメ的要素が凝縮されている。
氾濫した川が橋を破壊したり、山賊が登場するのはお約束である。
だが最大の敵は自分自身の弱い心というアレで川も山賊もその引き立て役にすぎない。
そして最後は強い意志でもってすべてに打ち勝ち、王の猜疑心まで解いてしまう。
ああ、仲間は素晴らしい。信じあう心は素晴らしい・・・

信じるとか信じないとかこだわりすぎではないかと思う。
理由が必要な人はいつまでたっても「信じられない」のだと思う。

太宰治全集2

2016-04-09 00:00:22 | 太宰治
太宰治全集2(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。

創生記
喝采
二十世紀旗手
あさましきもの
HUMAN LOST
灯篭
満願
姥捨
I can speak
富嶽百景
黄金風景
女生徒
懶惰の歌留多
葉桜と魔笛
愛と美について

51ページ
「・・・かかる悲惨の孤独地獄、お金がほしくてならないのです。
ワンと言えなら、ワン、と言います。どんなにも面白く書きますから、一枚五円の割でお金ください」

切実なものがある。
どこに行っても「ワンと言え」と言われる。
たいていは自分がそうさせられた経験に対する復讐のために「ワンと言え」などと言う。
そんなふうにして無駄な時間が費やされる。
そんなことが何度も繰り返される。

120ページ
「私は、歴史的に、悪役を買おうと思った。
ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す。
私は自身を滅亡する人種だと思っていた」

がんばってもそれほどの悪人にはなれない。小悪といったところだ。
それだとキリストの引き立て役にもなれない。

157ページ
「・・・あたしは毎朝、お客さんの書き散らした原稿用紙、番号順にそろえるのが、とっても、たのしい。
たくさんお書きになって居れば、うれしい。ゆうべもあたし、二階へそっと様子を見に来たの、
知ってる? お客さん、ふとん頭からかぶって、寝てたじゃないか。」

批評であれば書けるが、創作になるとパタリと手が止まる。
適当なことであれば書けるが、自分が満足できる文章というのはなかなか書けない。
書いては削るの繰り返し、消しゴムで書くと言った人は的を得ている。
それでも楽な方には戻れない。
批評なんていくら書いても何も残らないということに気付いてしまっては仕方がない。
滅んで行く方に向かっているのだとしても途中下車できない。

215ページ
「私の数ある悪徳の中で、最も顕著の悪徳は、怠惰である。これは、もう、疑いをいれない。
よほどのものである。こと、怠惰に関してだけは、私は、ほんものである」

「こと、怠惰に関してだけは、私は、ほんものである」というのがいいよねぇ。
「ほんものである」というところが素晴らしい。

216ページ
「人は、自分以上の仕事もできないし、自分以下の仕事もできない。働かないものには権利がない。
人間失格、あたりまえのことである」

この頃から「人間失格」という言葉はあるのだと思った。

245ページ
「姉さん、あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。ああ、死ぬなんて、いやだ。
あたしの手が、指先が、髪が可哀そう。死ぬなんて、いやだ。いやだ」

本当にこのまま死んで行くなんて可哀そうだ。
誰が? 私が。

太宰治全集1

2016-04-02 00:05:52 | 太宰治
太宰治全集1(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。

晩年
「葉」
「思い出」
「魚服記」
「列車」
「地球図」
「猿ヶ島」
「雀こ」
「道化の華」
「猿面冠者」
「逆行」
「彼は昔の彼ならず」
「ロマネスク」
「玩具」
「陰火」
「めくら草紙」
ダス・ゲマイネ
雌に就いて
虚構の春
狂言の神

19ページ
「死ねば一番いいのだ。いや、僕だけじゃない。少なくとも社会の進歩にマイナスの働きを
なしている奴等は全部、死ねばいいのだ」

人が進歩を信じるのは、そうでもしなければニヒリズムに転落してしまうからだろう。
「社会の進歩」に与っているからこそ「有限の寿命」を受け入れることが出来る。
そうでなければ「私の人生」というのはまったく無駄になってしまうではないか?
私には進歩や意味にすがるよりも、無駄を無駄として受け入れることの方が健全ではないかと思われる。
だからまあ「マイナスの働き」だろうが何だろうが生きていればいいのだ。
その方が余程「ポジティブ」なのでは?

223ページ
「彼は昔の彼ならず」
人と人の相互作用がスラスラと書かれている。

418ページ
そのような夜半には、私もまた、菊池寛のところへ手紙を出そうか、サンデー毎日の三千円大衆文芸へ
応募しようか、何とぞして芥川賞をもらいたいものだ、などと思いを千々にくだいてみるのであるが、

太宰は選考委員(佐藤春夫や川端康成ら)に受賞を請う手紙を送ったということだが
結局、芥川賞をもらえなかった。
金に困っていたとか、中学生の頃から芥川を敬愛していたとか、
受賞を望んだ理由がいくつか推測されている。

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ああ、作家をよしたい。もがきあがいて捜しあてた言葉は、「江の島の海は、殺風景であった」
私はぐるっと海へ背をむけた。

何か見るたびに、感じるたびに、言葉を捜しあてようとするならば作家に休息はない。
起きている時間、生きている時間、ずっと仕事を続けることになる。
書き続ける苦痛から逃れたければ死ぬしかない。
そういう人生を選んだのは作家自身ではないか、彼の意志によるものではないかと言っても仕方がない。
私たちはもともと言葉を紡ぐ道具なのであって、取り込んだ言葉を様々に組み合わせては出力する。
そういう「感性的諸要素の複合体」ということなのだろう。
遺伝子や資本の自己増殖の担い手であると共に、
言葉の組み合わせのパターンを見つけ出すことに利用される道具なのだろう。
芸術家がしばしば書かされていると語るのはそういうことではないのだろうか?

分析的に書くのはほどほどにしようと思っている。
何かやりすぎると反動が来るものだ。