太宰治全集10(ちくま文庫)を読んだ。以下の作品が収録されている。
田舎者/
魚服記に就て/
断崖の錯覚[「黒木舜平」の筆名で発表した小説]/
もの思う葦/
川端康成へ/
碧眼托鉢/
人物に就いて/
古典竜頭蛇尾/
悶悶日記/
走ラヌ名馬/
先生三人/
音に就いて/
檀君の近業について/
思案の敗北/
創作余談/
「晩年」に就いて/
一日の労苦/
多頭蛇哲学/
答案落第/
緒方氏を殺した者/
一歩前進二歩退却/
富士に就いて/
校長三代/
女人創造/
九月十月十一月/
春昼/
当選の日/
正直ノオト/
ラロシフコー/
「人間キリスト記」その他/
市井喧争/
困惑の弁/
心の王者/
このごろ/
鬱屈禍/
酒ぎらい/
知らない人/
諸君の位置/
無趣味/
義務/
作家の像/
三月三十日/
国技館/
大恩は語らず/
自信のなさ/
六月十九日/
貪婪禍/
砂子屋/
パウロの混乱/
文盲自嘲/
かすかな声/
弱者の糧/
男女川と羽左衛門/
五所川原/
青森/
容貌/
「晩年」と「女生徒」/
私の著作集/
世界的/
私信/
或る忠告/
食通/
一問一答/
無題/
小照/
炎天汗談/
天狗/
わが愛好する言葉/
金銭の話/
横綱/
革財布/
「告別」の意図/
芸術ぎらい/
郷愁/
純真/
一つの約束/
春/
返事/
津軽地方とチエホフ/
政治家と家庭/
海/
同じ星/
新しい形の個人主義/
織田君の死/
わが半生を語る/
小志/
かくめい/
小説の面白さ/
徒党について/
黒石の人たち/
如是我聞
「断崖の錯覚」が小説で他はエッセイの類になっている。
「もの思う葦」に「難解」という記述がある。
54ページ
「太初に言あり。言は神と偕にあり。言は神なりき。この言は太初に神とともに在り。
万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。
之に生命あり。この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る。而して暗黒は之を悟らざりき。云々。」
私はこの文章を、この想念を、難解だと思った。ほうぼうへ持って廻ってさわぎたてたのである。
けれども、あるときふっと角度をかえて考えてみたら、なんだ、これはまことに平凡なことを
述べているにすぎないのである。それから私はこう考えた。文学に於いて、「難解」はあり得ない。
「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、
おのおの自己流の角度から、すぱっと斬っ(たふりをし)て、
その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないのか。
なるほどあたり前と言えばそうなのだ。
「自然」は語り尽くせぬ「難解」なものであって
「言(ことば)」はそこから理解できるものだけを切り取る。
そうすると「文学」にも「科学」にも「難解」はあり得ない。
理解できるものだけしか記述できないというあたり前のことになる。
私たちにはそんな制限されたことしかできなくて
でも現象や生活を切り取っては誰かに知らせたくて仕方がない。
そんなことをずっと続けている。
それしかできることがない。
「『晩年』について」に次のような記述がある。
144ページ
私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。
なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません。
・・・
こんど、ひとつ、ただ、わけもなく面白い長篇小説を書いてあげましょうね。
いまの小説、みな、面白くないでしょう?
やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。
・・・
「晩年」お読みになりますか? 美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、
自分で、自分ひとりで、ふっと発見するものです。
「晩年」の中から、あなたは、美しさを発見できるかどうか、それは、あなたの自由です。
読者の黄金権です。だから、あまりおすすめしたくないのです。
わからん奴には、ぶん殴ったって、こんりんざい判りっこないんだから。
「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう」というのは
本当にその通りだと思った。
「視野を広げる」とか「感性を豊かにする」とか、
そういう「○○のための××」みたいな考え方が染みついてしまっている。
「感性を豊かにする」とかそんなことが可能なのだろうか。
貧しい感性が豊かになった例に会ったことがない。
そうして最後に「何の役にたつのか?」「何のために読むのか?」と言われておしまい。
「ちっとも楽にならない」「ちっとも偉くならない」のです。
「感動」もしません。作り話に情念を引きずり出されるのは屈辱だと思います。
「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて」
そういうことでよろしくお願いします。
「かすかな声」に次のような記述がある。
285ページ
「生活とは何ですか。」
「わびしさを堪える事です。」
自己弁解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。
「敗北とは何ですか。」
「悪に媚笑する事です。」
「悪とは何ですか。」
「無意識の殴打です。意識的の殴打は、悪ではありません。」
議論とは、往々にして妥協したい情熱である。
「自信とは何ですか。」
「将来の燭光を見た時の心の姿です。」
「現在の?」
「それは使いものになりません。ばかです。」
「あなたには自信がありますか。」
「あります。」
「芸術とは何ですか。」
「すみれの花です。」
「つまらない。」
「つまらないものです。」
「芸術家とは何ですか。」
「豚の鼻です。」
「それは、ひどい。」
「鼻は、すみれの匂いを知っています。」
「きょうは、少し調子づいているようですね。」
「そうです。芸術は、その時の調子で出来ます。」
「豚の鼻」というところが良いと思う。
田舎者/
魚服記に就て/
断崖の錯覚[「黒木舜平」の筆名で発表した小説]/
もの思う葦/
川端康成へ/
碧眼托鉢/
人物に就いて/
古典竜頭蛇尾/
悶悶日記/
走ラヌ名馬/
先生三人/
音に就いて/
檀君の近業について/
思案の敗北/
創作余談/
「晩年」に就いて/
一日の労苦/
多頭蛇哲学/
答案落第/
緒方氏を殺した者/
一歩前進二歩退却/
富士に就いて/
校長三代/
女人創造/
九月十月十一月/
春昼/
当選の日/
正直ノオト/
ラロシフコー/
「人間キリスト記」その他/
市井喧争/
困惑の弁/
心の王者/
このごろ/
鬱屈禍/
酒ぎらい/
知らない人/
諸君の位置/
無趣味/
義務/
作家の像/
三月三十日/
国技館/
大恩は語らず/
自信のなさ/
六月十九日/
貪婪禍/
砂子屋/
パウロの混乱/
文盲自嘲/
かすかな声/
弱者の糧/
男女川と羽左衛門/
五所川原/
青森/
容貌/
「晩年」と「女生徒」/
私の著作集/
世界的/
私信/
或る忠告/
食通/
一問一答/
無題/
小照/
炎天汗談/
天狗/
わが愛好する言葉/
金銭の話/
横綱/
革財布/
「告別」の意図/
芸術ぎらい/
郷愁/
純真/
一つの約束/
春/
返事/
津軽地方とチエホフ/
政治家と家庭/
海/
同じ星/
新しい形の個人主義/
織田君の死/
わが半生を語る/
小志/
かくめい/
小説の面白さ/
徒党について/
黒石の人たち/
如是我聞
「断崖の錯覚」が小説で他はエッセイの類になっている。
「もの思う葦」に「難解」という記述がある。
54ページ
「太初に言あり。言は神と偕にあり。言は神なりき。この言は太初に神とともに在り。
万の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。
之に生命あり。この生命は人の光なりき。光は暗黒に照る。而して暗黒は之を悟らざりき。云々。」
私はこの文章を、この想念を、難解だと思った。ほうぼうへ持って廻ってさわぎたてたのである。
けれども、あるときふっと角度をかえて考えてみたら、なんだ、これはまことに平凡なことを
述べているにすぎないのである。それから私はこう考えた。文学に於いて、「難解」はあり得ない。
「難解」は「自然」のなかにだけあるのだ。文学というものは、その難解な自然を、
おのおの自己流の角度から、すぱっと斬っ(たふりをし)て、
その斬り口のあざやかさを誇ることに潜んで在るのではないのか。
なるほどあたり前と言えばそうなのだ。
「自然」は語り尽くせぬ「難解」なものであって
「言(ことば)」はそこから理解できるものだけを切り取る。
そうすると「文学」にも「科学」にも「難解」はあり得ない。
理解できるものだけしか記述できないというあたり前のことになる。
私たちにはそんな制限されたことしかできなくて
でも現象や生活を切り取っては誰かに知らせたくて仕方がない。
そんなことをずっと続けている。
それしかできることがない。
「『晩年』について」に次のような記述がある。
144ページ
私の小説を、読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。
なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません。
・・・
こんど、ひとつ、ただ、わけもなく面白い長篇小説を書いてあげましょうね。
いまの小説、みな、面白くないでしょう?
やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう。
・・・
「晩年」お読みになりますか? 美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、
自分で、自分ひとりで、ふっと発見するものです。
「晩年」の中から、あなたは、美しさを発見できるかどうか、それは、あなたの自由です。
読者の黄金権です。だから、あまりおすすめしたくないのです。
わからん奴には、ぶん殴ったって、こんりんざい判りっこないんだから。
「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう」というのは
本当にその通りだと思った。
「視野を広げる」とか「感性を豊かにする」とか、
そういう「○○のための××」みたいな考え方が染みついてしまっている。
「感性を豊かにする」とかそんなことが可能なのだろうか。
貧しい感性が豊かになった例に会ったことがない。
そうして最後に「何の役にたつのか?」「何のために読むのか?」と言われておしまい。
「ちっとも楽にならない」「ちっとも偉くならない」のです。
「感動」もしません。作り話に情念を引きずり出されるのは屈辱だと思います。
「やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて」
そういうことでよろしくお願いします。
「かすかな声」に次のような記述がある。
285ページ
「生活とは何ですか。」
「わびしさを堪える事です。」
自己弁解は、敗北の前兆である。いや、すでに敗北の姿である。
「敗北とは何ですか。」
「悪に媚笑する事です。」
「悪とは何ですか。」
「無意識の殴打です。意識的の殴打は、悪ではありません。」
議論とは、往々にして妥協したい情熱である。
「自信とは何ですか。」
「将来の燭光を見た時の心の姿です。」
「現在の?」
「それは使いものになりません。ばかです。」
「あなたには自信がありますか。」
「あります。」
「芸術とは何ですか。」
「すみれの花です。」
「つまらない。」
「つまらないものです。」
「芸術家とは何ですか。」
「豚の鼻です。」
「それは、ひどい。」
「鼻は、すみれの匂いを知っています。」
「きょうは、少し調子づいているようですね。」
「そうです。芸術は、その時の調子で出来ます。」
「豚の鼻」というところが良いと思う。