140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

金枝篇(五)

2013-07-27 00:05:05 | フレイザー
「すなわちクリスマスは、太陽の誕生にかんする古代異教の祭りに取って代わらせるため教会が
制定したものであることが、古い時代の確実な証言によって明らかになっているのである」
ニーチェは命を懸けてキリスト教を攻撃したのだが、フレイザーはただ「パクリ」というだけだ。
これほどキリスト教に冷たい人もいないだろう。
しかし教会がパクッたクリスマスをさらにパクッて楽しんでいる私たち日本人というのは、
ちゃっかりしているのだと思う。

「・・・それゆえ、彼の殺される前にまず『金枝』を折りとることが必要とされた理由が
容易に理解されるのである。彼はカシワの樹の精霊であったから、その生命と死はカシワの
樹上の寄生木にあり、その寄生木が害をこうむらない限り、ボルダーと同じように彼は
死ぬことがなかったのである」

古代人は外魂を信じていたという。
それは「魂を永久的に身体の外の何物か―――動物、植物、その他―――の中に託することが
出来るという信仰」のことだという。
そして「アリキアの森林の祭司(森の王)」は『金枝』の生い繁る樹の擬人格」であることから
彼を殺す前にまず「魂が託された」寄生木を折りとらねばならなかったことになる。
そして寄生木が「金枝」と呼ばれたのは、「寄生木の枝を切って数ヶ月とって置いた時に生じる
見事な金色がかった黄色に由来するものであろう」とされている。

「高等な思惟への動きというものは、それを辿り得る限りにおいては、全体として、
呪術から宗教を通して科学へ向かっていると結論せざるを得ないようである」
最終章において著者はそんなことを書いているのだが実際には「科学」に満足していないようであり、
それは以下の記述から読み取ることが出来る。

「科学がさきにその先輩を排除したと同じく、次には科学自体があるいっそう完全な仮設によって、
おそらくはわれわれこの世代に生きる者が全くその正体をつかみ得ないところの、現象を見る
―――スクリーンに影を記録する―――ある全く異なった方法によって、排除されることに
なるかもしれないのである」

科学が心理現象を説明できないことについては度々触れてきた。
客観的な方法で主観的な現象を説明するのは、そもそも無理があるし、
私たちの思考が「言語」の限界を超えることは出来ない。(そもそも、その限界すら認識できない。)
「科学」が「言語」に縛られないと信じている科学者もいるのだろうが、
そう考えることが呪術のようなものだと思う。
未開人が呪術を信じ続けた期間を思惟が退けられていた暗黒時代と呼ぶのであれば、
科学という別の呪術を信仰し続ける時代もまた暗黒時代のような気がする。
私はその暗黒を突破したいと願っている。

「魂を身体の外の何物かの中に託することが出来る」と信じた未開人を嘲笑する資格が、
私たちにあるとは思えない。思考は脳の働きであるという。それが何だ?
「考える」ということが、どういうことか理解できないし、
「見る」ことが、どうして可能かすら知らない。
脳の特定部位に「私」があるなどという輩もいれば
肉体は朽ち果てるが魂は無限であるとか輪廻転生しているとか
まさに呪術のオンパレード・・・
そのような無秩序に秩序を与えたいと
願っている。

ATH-AD700X

2013-07-23 00:05:05 | 音楽
audio-technicaのATH-AD700Xを買った。
開放型(オープンエア)なので外に音が漏れてしまうが
密閉型のように音がこもらないので聴いていて心地良い。
実は金曜日にコジマに寄って2時間くらい視聴していた。
気に入ったのでスマホを取り出して価格.comの最安値で購入
インナーイヤーヘッドホンに比べて開放的だがデカイので外には持ち出せない。室内専用
iPodに直接つなげると余裕がない。ポタアンがあって良かった。
そうすると圧縮音源でもアンプを改善すれば
もっといけるのかもしれない。

コジマには上位機種のATH-AD900Xも置いてあったが私の耳では違いがわからなかった。
最上位機種のATH-AD2000Xは4万5千円くらいで売っている。
そこまで行こうと思ったらプレーヤーとアンプを変えねば
意味がないだろう。

名古屋フィル#27ワーグナー指環他

2013-07-22 15:22:17 | 音楽
ガイアシリーズ4回目です。
今回のテーマは、「火・水―炎は天界を焼き、指輪は水中に還る」で、
演奏された曲は全てワーグナーで以下の通り

①楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲
②ヴェーゼンドンクの5つの詩
③楽劇「ラインの黄金」より「ヴァルハラ城への神々の入城」
④楽劇「ワルキューレ」より「ワルキューレの騎行」
⑤楽劇「ジークフリート」より「森のささやき」
⑥楽劇「神々のたそがれ」より「ジークフリートの葬送行進曲」、
              「ブリュンヒルデの自己犠牲」

「炎は天界を焼き、指輪は水中に還る」は指環の最終シーンですね・・・
実はワーグナーは、あまり聴かない。
世紀末的で乱痴気騒ぎ的なところは好きだが、なかなか全曲通して聴こうと思わない。
長すぎるせいかと思っていたが最近ではヘンデルのオペラを垂れ流しで聴いているので
どうもそういうことではないらしい。
なんなんでしょうね?

金枝篇(四)

2013-07-21 00:05:05 | フレイザー
「これまでのところでは、神を殺す慣習を、農耕の社会段階に達した諸民族の間でたどって見た。
われわれは穀物霊または他の栽培植物の霊が、一般に人間の形か動物の形で表されていることを
見たし、さらにある地方では毎年神の表象である人間を殺す慣習か、神の表象である動物を殺す
慣習のいずれかが、よりよく普及していることを見た。
このように穀物霊をその表象の身柄において殺す理由の一つは、本書の初めの部分に暗々裡に
与えられている。つまりそのねらいは、精霊がなお強健かつ多産なうちに、それを生気溌剌たる
後継者の身柄に転移することによって、彼または彼女を老年の衰弱から護ろうとするものだ、と
想像することができる。彼の神的精力の更新を希求する願望とは別に、穀物霊の死は刈り手の
鎌や小刀のもとでは不可避だと考えられただろうから、その礼拝者たちはおのずとこの悲しき
必然に盲従せざるを得ないものと感じたであろう。しかしさらに、神を表す人間の形につくった
ものにおいてか動物のかたちにつくったものにおいてか、あるいはまた人間もしくは動物に
似せてつくったパンの形においてか、礼典的に神を食べる慣習があまねく行われたことを
われわれは見出している。こうして神の体を食べる理由は、原始的思惟からすれば極めて
簡単である。一般に未開人は、動物または人間の肉を食べることによって、肉体的性質のみならず
その動物なり人間なりの特性となっている道徳的性質および知的性質までも獲得することが
できると信じている。」

キリストの血であるブドウ酒と肉であるパンを食べるという聖体拝領は、
キリスト教を普及させるために受け入れた慣習のひとつだろう。
キリスト教が異教から取り入れた多くのことが本書に記載されている。
仏教もそうだが世界宗教という性質のものは多くの人々に受け入れてもらえるように変化している。
それが真理であるとか普遍的なものであるというのは勘違いだろう
もちろん勘違いしていることが幸福につながるのであれば
それはそれで良いことだと思う。

しかし「パンを食べブドウ酒を飲むことによって神の体あるいは血を摂取するということを
正気で信じるのを了解しがたいものと気のつく時代」がやって来ているのに、
そのような呪術的なことが継続されているのは何故だろう?
信者になるには正気を捨てなければならないのだろうか?

「・・・一方において、動物は礼拝され、そしてそれゆえに殺されることもなく、
食べられることもない。他方においては、常習的に殺されて食べられるが故に、動物は礼拝される」
「牛は神聖である」ということは、よくわからないが、それ故に「食べない」というのは、
いちおう理に適っている。

アイヌは神の使いである熊を「しっかり」食べている。
しかし彼らが彼らの生活を支える動物を礼拝するのは当然のことかもしれない。
食糧の確保が喫緊の課題である時代には穀物や動物といった食べ物に関心が向かうだろうし、
そのようなものと関連のない神々など誰も興味を持たなかっただろう。
そして人々の関心が食べ物から不死に移行してしまうことにより、
古代の神々は宗教の神に取って代わられたのかもしれない。
そこで本書が使っているのとは違う意味で「神は殺された」のかもしれない。
そして不死を与えることが出来る永遠で無限な唯一神は、
「不死を正気で信じるのを了解しがたいものと気のつく時代」になって
殺されたのかもしれない・・・

金枝篇(三)

2013-07-20 00:05:05 | フレイザー
第三巻では穀物神(あるいは穀物霊)を扱っている。
古代人は、エジプト・シリア・プリュギア・ギリシャの各地において、
オシーリス、アドーニス、アッティス、ディオニューソス、デーメーテールを礼拝したという。

エジプトの農民は収穫時において、「穀物神の身を鎌でもって切断し、
それを打穀場で家畜の爪にかけて粉々に砕いてしまった」・・・
「オシーリスの切断された骸が国のあちこちに撒き散らされた」という神話は
「穀物を播くこと」を伝える方法であったらしいし、
「穀物霊の代表である人間犠牲を殺して、畑を豊饒肥沃にするためその肉を配布し、
あるいはその灰を撒布した慣習」について説明したものらしい。

「生贄が、地に播かれた種を生気づけるために年ごとに殺され、切断された」という話は、
私たち現代人にとっては、おぞましいものだが、
旱魃や飢饉が身近な脅威になっている古代人にとって必要なことだったらしい。
そして私たちから見て可哀想な犠牲者は、実は神の代理を務めている。
あるいはそれは名誉なことかもしれない。
私はお断りだが・・・

それを科学知識を持たない狂信的で血に飢えた古代人の習性と見做すことも出来るだろうが、
精神は、いつの時代にあっても、それなりに完結した世界観を必要としているのではないだろうか?
現代でも各人の主張は相対化され、それぞれ素晴らしい人生を送っていることになっている。
その世界観は、それなりに価値あるものとして尊重しなければならない。
なんというか、とても、めんどくさい。価値あるものは、価値があると主張したりはしない。
この本のように、ただ存在を示すだけだ。

そして先進国と呼ばれる国々で少子高齢化という現象が発生しているが、
これは、王の老衰や植物の衰微を怖れた古代人にとっては容認し難いことだろう。
きっと年金制度の担当者と古代人の見解は一致するに違いない。
2ヶ月ほど前に「有識者による政府の作業部会『少子化危機突破タスクフォース』は
『結婚・妊娠・出産』への支援を盛り込んだ提言をまとめた」そうだ。
私は子どもが増えるよう祈禱師にお願いした方が良いと思う。

きっとギリシャ神話ファンは穀物と言った瞬間に、デーメーテールとペルセポネーを連想するだろう。
デーメーテールは「穀物の栽培を人間に教えた神」とwikipediaに説明があった。
ペルセポネーはデーメーテールの娘であり、冥王ハーデースの妻である。
このことからペルセポネーは「種子」とされるのが一般の見解であった。
本書では、もう少し深く考察されている。

「・・・デーメーテールは今年の熟した穀物であったろう。そしてペルセポネーは、
それから取られて秋に播かれ、春になってまた芽を出して来る種子であったろう。
こうしてペルセポネーが下界に降ったことは種播きの神話的表現であり、
春になっての再現は新穀の発芽を意味するものであろう。
このような工合に今年のペルセポネーは来年のデーメーテールとなるのであって、
これこそまさに神話の本源的な形態であったはずである。
・・・
母と娘としての穀物の二重性格は論理によって絶滅されるにはあまりに古く、
あまりにも深く常民の心に根をおろしていた」

「不死の女神として人格化される」と母か娘のいずれかに一致させようとしたようだが、
それは無理だったらしい。娘は母になり、母は娘を生む。
そのようにして常に更新されて行くものといえば
生命そのものに他ならない。

金枝篇(二)

2013-07-15 00:05:05 | フレイザー
「・・・ネミの『森の王』が樹木の精霊あるいは植物生育の精霊であったと考えられる理由、
および、このような者として、彼が樹木に果を結ばせたり農作物を生育させたりする
呪術的な力を賦与されていると礼拝者たちが信じていた理由を見た。
・・・しかし、この人間神の生命に結びつけられた価値そのものが、その生命を不可避の
老衰から救う唯一の手段として、彼の非業の最期を必要としたことをわれわれは見た。
・・・すなわち彼もまた、その身に受肉している神的精神が無瑕のまま継承者に
転移されるために殺されねばならなかった。彼はより強い者が彼を殺すまではその職を
保つことができるという規定は、神的生命を最も活発な状態に保つこと、および、
その活発さが害われはじめるや否や適当な後継者にそれを転移すること、の二つを
証明するものと考えられたであろう」

「殺される神」あるいは「神聖な王の弑殺」について著者はそう説明している。
ここで「神的生命」とされているのは「霊魂」ということになっている。
宗教的な霊魂(あるいは精神)は有限な肉体に対して無限であるとされるが、
未開人が霊魂を無限なものとして捉えていたかについては、よくわからない。
ま、有限とか無限とか、そんなことは考えていなかっただろう。
そして「その観察範囲が狭くて伝統の短い未開人」は自然が安定なものであると
確信できなかったと著者は書いている。記録のない時代はそういうものだろう。
私なんて先週書いたブログの内容をもう覚えていないのだが、読めば思い出す。
そんなわけで記録のないところで記憶だけを頼りに生きていたならば、
春がまた訪れるという確信は持てないかもしれない。

「・・・軽蔑と嘲笑、嫌悪と弾劾―――ただそれだけが余りにもしばしば原始未開人と
その生き方に対して下された規定であった。われわれが感謝をもって記念すべき恩人たちの
多くは、おそらく大多数は原始未開人であったのである。窮極するところ、
われわれが彼らに似ている点が、彼らと異なっている点よりも遙かにいっそう多いからである」

「この著作の中心命題は殺される神の概念」ということだが
それとともに「われわれが彼らに似ている」ことを示そうという意図が感じられる。
私たちが今でも呪術や魔法が大好きであることは現代の娯楽が示している。
娯楽(エンタ―テイメント)において魔法を使う目的は平和や正義のためであると偽装されてはいるが
本当は自分の思い通りに事を運びたいという思惑がある。
出来れば努力を必要としない手っ取り早い方法で・・・
いちおう修行のシーンなどは挿入されるが、
10年の修行期間は10分くらいの上映時間に圧縮される。
そんなもんだ。

未開人は自然の認識について誤謬に陥ったのだが、
「富の標識」が発明された時に私たちは新しい誤謬に陥ったのではないだろうか?
手に入れれば益々欲しくなるという性質の利益の追求
プラスでなければならない経済成長
世界中のどこに行っても成長・成長・成長が求められる。
加速度的に増加した世界人口、それはおそらくは「自然の安定」から外れている。
アジアが成長し、アフリカが成長した後には、もう何も出てこないだろう。
現代の様子を未開人が認識できたとしたら、きっと異様な光景に見えるだろう。
彼らは胃袋を満たしてくれるのであれば、それ以上は求めない。
私たちは虚栄心を満たすために多くの時間を割いている。
どうしてあいつがオレより上なのかと、それは収入であったり地位であったりする。
そして利益を獲得してくる者こそが王になれる。

「軽蔑と嘲笑、嫌悪と弾劾」は未開人に向けられるのではなく、
現代人に向けられた方が良いのでは?

金枝篇(一)

2013-07-13 00:05:05 | フレイザー
フレイザー「金枝篇(一)」を読んだ。岩波文庫から出ているものは全五巻になる。
序文に「この著作の中心命題は殺される神の概念」であると書かれている。
一巻を読み終えて確かにそうだと感じるが、
ここで「神」と呼ばれているものは私たちが「神」と呼んでいるものとは違うと思う。
そもそも私たちの間でも「神」がなんであるかは一致しないと思われるが、
原初的な社会にとっての「神」は私たちの間の相違など無視できるほどに
異なるものではないだろうかと思った。
そしてまた呪術が宗教に先行したであろうと著者は書いている。
私たちは呪術を科学の対極にあるものとして捉えているが身近なところに呪術は残っている。
雨雲を連想させる黒は雨乞いに用いられるので晴れを望む場合は白を用いるそうだ。
それで「てるてる坊主」は白いのだと思うが
それはどう見ても「首を吊っている姿」にしか見えない。
よく考えてみると全然かわいくない。

・・・そして私は太古の時代を思い浮かべてみる。
十分に発達していない精神ほど扱いに困るものはないだろう。
知性とも呼べず感性とも呼べず
悪戯に与えられた能力と未熟な技量は空腹を増幅させるだけであり
満たされない欲求は怒りの対象を探すことに躍起になる。
そんな連中を支配することに意味なんてないだろうが
村だか群れのナンバーワンになりたいと欲することは
きっと遺伝子の命じることであり抗えないことなのだろう。
だが宗教も道徳もない時代にあっては善も悪もなく
支配者から転落することは死ぬことであったろう。
富の標識を知らない時代にあっては胃袋を満たしてくれる者を求める。
自然を支配することなど決してできないので
彼はなんらかの欺瞞を抱えているには違いないが
彼の嘘に群れは関心を持たない。
とにかく獲物や豊作をもたらしてくれる者を王と崇める。
たまたまその年が豊作だったとしても群れは王を称えるだろう。
そして王が優れていたとしても凶作は彼に死を与えるだろう。
現代でもやはり人々は暮らし向きが良ければ満足する。
経済が良ければ内閣の支持率は上がる。
生活が苦しくなってくると誰かに責任をとってもらわなくてはならない。
そんなふうにして「神」は殺される。
自然を支配すると信じられた呪術師は、やがてその欺瞞の責任を取ることになる。
経済を良くすると主張する政治家の姿と古代の呪術師の違いは何処にあるだろうか?
まさにそういう感じの呪術師のようなリーダーが今もたくさんいるのではないだろうか?
彼らは自らの権威を疑う者を追放し、追従者を集めることで権威を作る。
そんなわけで私たちはやはり彼らに似ている。
彼らは間違いなく私たちの祖先だ。

「ネミの聖所の神域には一本の樹があって、その枝は一本も折りとることが許されなかった。
ただ逃亡して逃げた奴隷だけが、もしできるなら、それを一本だけ折りとることが
許されるのであった。この企てに成功すれば、かの祭司と一騎討ちをする資格が与えられ、
相手を殺すことができたならば、ここに『森の王』の称号を帯びて、代わりに治めることになる。
古代人の一致した意見によれば、この運命の枝こそアイネーイスが死の世界へ冒険旅行を
試みたとき、巫女の命令で折りとったところの、あの『金枝』にほかならなかったのである」
そのことを説明するのが、この著作の目的になっている。
しかしそのことを理解するために
よりいっそう多くの回り道が
必要になるのだろう。

耳をすませば

2013-07-10 23:01:11 | 映画
子どもが「耳をすませば」を見ていた。
これって95年の作品なんだけど、それで原作は少女マンガらしいけど、
もう20年くらいも愛されている。

リア充の物語なのだが、「そんなことはありえねー」と、
「あー、過ぎ去ってしまった二度と戻らない青春時代を返してくれ」と、
つまりは、その時代に何も起こらなかったことを悔やむ声が多いらしいけど、
そんでもって14歳の頃の私がリア充だったわけではないけど、
私はなんとなく好きなんだわ。

そんでもって、この映画に引用されているのが、「カントリーロード」

「ひとりぼっち おそれずに
生きようと 夢みてた
さみしさ 押し込めて
強い自分を 守っていこ」

いえ、強くはないです。
ま、そんなに上手に歌っているわけではないと思うけど、
なんか素人っぽいところが好きなんですわ。

そんでもって、キャラクター紹介!
月島靖也 雫の父で45歳。市立図書館司書。本業は一文にもならない郷土史家。
おおー、いいねー、お父さん。
図書館司書でもないし郷土史家でもないですが、
一文にもならない文章を延々と書いている無名ブロガーです。
なんか親近感を持ってしまいます。

「どんな挫けそうな時だって
決して涙は見せないで」
ええ、泣いたりはしませんよ。GARNET CROW解散の時は不覚の涙・・・
もう泣いたりはしません。

法の精神(下)

2013-07-07 00:05:05 | モンテスキュー
「キリスト教は純粋な専制政治からほど遠い。それは福音書が柔和を強く勧めているので、
君公が復讐をしたり残酷なことを行ったりする際の専制的憤怒に
キリスト教が反対するからである」

「キリスト教の性格とマホメット教の性格とから、別段の検討をすることなく、
一方を信奉して他方を捨てるべきであるという結論が出てくる。なぜなら、宗教が人間の
習俗を和らげるはずだということは、宗教が真実であるということが明白であるよりも、
われわれにとってずっと明白だからである。
宗教が征服者によって与えられるとき、それは人類にとって不幸である。剣についてしか
語らないマホメット教は、この宗教を創始したあの破壊的精神で
今もなお人間に働きかけている」

しかしモンテスキューは知らない。剣が殺せる数は限られているが、
原子爆弾投下により4ヶ月以内に9万~16万6千人が死亡したとされる広島と
14万9千人が死亡したとされる長崎のことを。
世界貿易センタービルへの攻撃でニューヨークでは合計で2749人が死亡したということだが
原爆については、そんな正確な数は見積もれないし、亡くなった人々の名前すら確認できない。
そんな非道なことが出来るはキリスト教徒しかいないというのが事実だ。
もしかすると大部分のキリスト教徒は柔和であるのかもしれない。
しかしユダヤ人を虐殺したのもキリスト教徒ではなかったのか?
犠牲者は500万人から700万人と言われている。

キリスト教徒は異教徒を人とすら思っていないのではないかと思う。
彼らが本当にイエスのことを理解しているとは思えない。
彼らは右の頬を打たれたら相手を殺してしまう。
愛について語る人々が、その手を汚すことなく、事をなす。
それこそが人類にとって不幸なことだろう。

「諸公は日本の皇帝が彼の国にいるすべてのキリスト教徒を弱火で火刑に処したことを
嘆いておられます。しかし、日本の皇帝は諸公にこう答えるでありましょう。
われわれは諸君を、われわれと同じ信仰をもたない諸君を、諸君自身が諸君と同じような
信仰をもたない人々を扱うのと同様に扱っているのである」と
キリスト教の宗教裁判に対して批判的なことも書いてあるので
著者は本当はキリスト教徒が柔和であるとは思っていないのかもしれない。
残酷さを正当化するのは宗教であるかもしれないしナショナリズムかもしれない。
信じることが非道につながるのではないかと思う。

「敵対的な各家族がいわば自然状態におかれ、なんらかの国制または公民の法律によって
抑えられることなく、その欲するがままに満足を得るまで報復を行うことができる状態に・・・」
「実際、賠償を受けることを拒んだ者は、復讐の権利を保持することを望んでいたのである」

法治国家は個人から復讐する権利を取り上げる。そして「法の下の平等」とかなんとか言う。
「敵対的な各家族が自然状態におかれる」ことを
コモン―ウェルス設立時に私たちは放棄しているはずなのだろう。
社会契約を結ぶ時に放棄しているはずなのだろう。
それで個人はやむなく復讐を諦めるのだが、
心優しい人権擁護団体が死刑制度は残酷なのでやめましょうとか
日本は人権後進国なので死刑制度をなくしましょうとか
いったい何を言っているんだと思う。
小学校で人権擁護を刷り込まれた人たちは、たいした勉強をすることもなく、
自らを先進的であると確信するためだけに制度を変えようとする。
復讐する権利を取り上げた上に法が使命を果たさないのであれば
個人は復讐を諦めたりはしなくなるだろう。

解説によると「法の精神」の実践的な課題は「ペルシア人の手紙」の一節から推測できるという。
「人々は自分たちが悪い状態にあるということを感じてはいたが、良くなるためには
どうしたらよいかわからなかった」ということらしい。
それは確かにそうだが、そんなことは誰にもわからないのでは?
そんな課題は解決できないのでは?

法の精神(中)

2013-07-06 00:05:05 | モンテスキュー
「精神の性格や心の諸情念がさまざまな風土のもとでは極端に違っているということが
本当であるとすれば、法律は、これらの情念の差異とも、これらの性格との差異とも
相関的であらざるをえない」

「われわれはすでに、烈しい暑さは人間の力や勇気を挫けさせ、他方、寒い風土では、
人間をして永続的で、骨が折れ、偉大でしかも大胆な行動をとらせうるような肉体的、
精神的なある種の能力が現れるということを述べた・・・
それゆえ、暑い風土の住民の無気力さが彼らをほとんど常に奴隷化してきたのであり、
寒い風土の住民の勇敢さが彼らに自由を維持させてきたのであるということには、
驚くべきことはない。これは、自然的原因に由来する結果である」

「数多くの事柄が人間を支配している。風土、宗教、法律、統治の格律、過去の事物の例、
習俗、生活様式。こうしたものから、その結果である一般精神が形成されるのである」

寒い風土の住民は勇敢であり、自由を欲するということだが、エスキモーもそうなのだろうか?
暑い寒いは程度の問題であって、人間の勇気を挫けさせるような限度があると思う。
その限度を超えた暑さの下では、人間はぐったりして何もやる気が起きないし、
その限度を超えた寒さの下では、人間は布団から出たくなくなる。
人間というよりは、私個人のネコに似た傾向ではあるが、他の人もだいたい同じだと思う。
そうすると冷暖房が完備されている現代では自然に屈従的になることはない。
しかし克服できる暑さや寒さも同時に失われてしまうのであれば、
偉大な行動からは遠のいて奴隷化してしまうのかもしれない。
快適な生活もほどほどにした方がよい。

しかし「風土が人間を支配して一般精神を形成する」といったところで、
何も説明していないのではないかという感じもする。
「習俗が人間を支配して一般精神を形成する」という場合は、
一般精神が習俗を形成するのだとしたら、循環論になるだろうから、
結局のところ、法律は習俗と乖離していてはならないと書いているだけだと思う。
そして習俗は歳月とともに変化していくので、
法律も追随していかなければならないということになるのだろう。
しかし「法律」とは何なのか?

「loiとは、元来は宗教用語であったが、世俗化して『私人間の合意』や『契約』を
意味するようになり、そこから民会において構成員の合意によって成立する法規範
つまり『法律』を指すようになった」と、まえがきに書いてあった。
代表者によって明文化された習俗ということになるのかもしれない。
そして暴君が明文化したものであれば習俗と対立するのだろう。
しかし専制的な地位が維持されるのであれば対立した法律が制定・維持される。
そして日本では国家的詐欺とも言えるような年金制度が維持され、
今後も改悪されていくことだろう。
「法の精神」には日本についての記載が結構ある。だいたい良くない例として記載されている。
タタール人についてもボコボコに書いてある。
著者は日本人の祖先はタタール人であると考えている。
そしてヨーロッパにあらずば人にあらず自由すらないと著者は考えているようだが
実際にそうなのかもしれない。

「土地を耕作しない人民の自由を最も保障するのは、貨幣が彼らには知られていないことである。
狩猟、漁撈、または牧畜の成果は、それをもって一人の人間が他の全ての人間を
腐敗堕落させてしまうことができるほど大量に集積されることも、貯蔵されることもできない。
これに対して、富の標識が存在しているときには、これらの標識を大量に蓄積し、
自分が欲する者にそれを分け与えることができる」
富の標識と、その集積ほど、人間にとって災いとなっているものはないだろう。
あらゆる人間が富の標識を求め、富の標識の前に跪く。
富の標識が有限な量の金属であった頃は集積の程度も限られていたが、
今や「付加価値を創出できない労働者」の時間つまりは命を吸い尽くすほどに
集積は集中されている。

日本的な隷属に比較すると、ヨーロッパ的な自由の精神は素晴らしいものなのだろう。
気まぐれな専制君主による恣意的な支配を受けないという意味での自由、
社会契約における義務を果たすことで生存が脅かされなくなるという意味での自由、
職業や住居や婚姻などについて選択できるという意味での自由、
しかし実際には食うために精一杯であったりする。
ヒトはオートマトンであって、
その内部状態は時間の経過によって周期的に訪れる「欲望」によって決まっているんじゃないかな?
睡眠欲・食欲・性欲は、その都度、満たされる必要がある。
修行僧は、そのような煩悩を克服しようとしているのかもしれないが、
そもそも欲望がなければ、生き物は生存できなかったし、生殖できなかったし、
生殖できないならば絶滅してしまっただろう。だから「煩悩」と呼んでも仕方がない。
そんな不自由な生き物が自由を語るというのは少し笑える。
もし出来るのであれば自由に意志すれば良いと思う。
実際には「意志」と呼んでいるものですら
オートマトンの機能のひとつでは
ないだろうか?