ちくま文庫 夏目漱石全集10には、小品・評論・初期の文章が収められている。
評論の一覧は以下の通り。
作物の批評
写生文
文芸の哲学的基礎
創作家の態度
田山花袋君に答う
文壇の趨勢
コンラッドの描きたる自然について
明治座の所感を虚子君に問われて
虚子君へ
道楽と職業
現代日本の開化
中味と形式
文芸と道徳
私の個人主義
初期の文章は以下の2点が収められている。
倫敦消息
自転車日記
【文芸の哲学的基礎】
319ページ
して見ると普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、
ただ意識の連続して行くものに便宜上私と云う名を与えたのであります。
何が故に平地に風波を起して、余計な私と云うものを建立するのが便宜かと申すと、
「私」と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから、
物我の区別がこれでつきます。そこがいらざる葛藤で、また必要な便宜なのであります。
323ページ
前に申す通り吾々の生命は―――吾々と云うと自他を樹立する語弊はあるがしばらく便宜のために使用します―――
吾々の生命は意識の連続であります。そうしてどういうものかこの連続を切断する事を欲しないのであります。
他の言葉で云うと死ぬ事を希望しないのであります。もう一つ他の言葉で云うとこの連続をつづけて行く事が
大好きなのであります。なぜ好むかとなると説明はできない。誰が出て来ても説明はできない。
ただそれが事実であると認めるよりほかに道はない。
もちろん進化論者に云わせるとこの願望も長い間に馴致発展し来ったのだと幾分かその発展の順序を
示す事ができるかも知れない。と云うものはそんな傾向をもっておらないようなもの、
その傾向に応じて世の中に処して来なかったものは皆死んでしまったので、
今残っているやつは命の欲しい欲張りばかりになったのだと論ずる事もできるからであります。
・・・
ショウペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志と云う語でこの傾向をあらわしております。
まことに重宝な文句であります。
仏教、マッハ、ショウペンハウアー、あるいは進化論と言った思想・哲学が、文芸の基礎となっているようだ。
評論としてここに示されているので、作品を注意深く読めば辿っていけるのかも知れない。
主客が分離された世界(物我が区別された世界)は捏造されたものであり、
「普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではない」ということだ。
言葉を徹底するならば「客観的に実在」というのも間違っている。客観も主観と共に消失する。
ここでは主客の区別のない感性的諸要素の複合体が相互作用をしているだけなのであって、
知識を取り込むということでさえ、複合体がさらに複雑な複合体に成って行くというだけのことなのだ。
そしてそのような作用を起こす生体なり、物質なり、原子なりというものは、
ショウペンハウアーが意志と呼んだ作用で存続を続けて来たものである。
勝者が生き残ったと主張する進化論は実際のところ何も説明してはいない。
ここで意志というのは神の意志の如きものではない。精神の作用としての意志は否定されている。
宇宙ではそんなふうにして原子・物質・生命が発展してきた。
その生命というのは漱石によれば「意識の連続して行くもの」ということになる。
だが「意識」とは何なのか問えば、やはり路頭に迷ってしまう。
意識が連続して行くためには、つまりは死なないためには、身体が維持されなければならない。
精神的な仕組みは身体的な仕組みを補助する働きに過ぎないのだと、ニーチェや現象学派の哲学者は考えた。
意識とは、判断しないこと(無処理)を含めた生体維持のための判断の仕掛けと仮定しよう。
その場合に、過去の体験を活用するというのは、結局のところ私たちが機械に実行させる制御に似ている。
そうすると私たちは「機械」に過ぎないのだろうか?
赤い血が流れていて熱いハートを持っている私たちは「冷たい機械」なんかじゃないと、
たとえ機械であったとしてもシュワちゃん演じるターミネーターのように人間を助けてくれるもんだと、
人道主義的な人々は抵抗するのだろうが、そんなことではない。
「意識」とか機械に対しての「人間」と言った時には、やはり何の説明にもなっていない。
既に「私」というものが、時系列的に体験を一元管理して行動するために「便宜的に建立されたもの」だ。
そのような便宜的なものがなければ法の適用も難しくなるのだが、「私」というのは虚構なのだ。
そしてその虚構が失われることを怖れ(死を怖れ)、肉体は滅びても精神は無限であるとか、
生けるものは輪廻転生を繰り返しているとか、なにかしら不死につながるものを求めようとする。
そうした安直なものを受け入れたくない者は「意識」の働きにより「意識」を知ろうとする。
それもまた不毛なことだが、たいていのことはこれよりもっと不毛なのだ。
【道楽と職業】
520ページ
だから御覧なさい。世の中には徳義的に監察するとずいぶん怪しからぬと思うような職業がありましょう。
しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりよっぽどえらい生活をしているのが
あります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、
事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、
最も贅沢を極めていると言わなければならぬのです。
ここでは人のためになる職業として芸妓が挙げられている。
「人のためになる」というのは卑俗の意味であり「人の御機嫌を取る」「人にお世辞を使う」ということだ。
商業主義が発達するとその傾向はさらに顕著となる。
高等な話術により顧客を虜にするホスト、ホステスの類は最も高給取りの部類にいる。
それが露骨なお世辞であったとしても人は喜ぶ。
同様の傾向はあらゆる産業に水平展開され、情報通信技術で社会に貢献しようという企業の経営者もまた
「お客様の欲しがる製品を作れ」ということしか言えなくなってしまう。
結局はホストと変らないのだ。
528ページ
ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。
それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做すよりほかに
仕方がないのです。
530ページ
以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、
これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明らかなようであります。
なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。
ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉の脱殻同然で、ほとんど役に立たない。
自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠るはずがない。
すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。
「もちろん世界の全ては道化だ。誰がそれを逃れられるだろう?」
漱石が没してから100年になろうとしているが、大戦が終ってからの世界は急速にエンタメ化してきた。
労働により疎外された(ストレスがたまっていると形容される)人々を癒すための娯楽が発達してきた。
ストレス解消のために必要なのは娯楽であって芸術ではない。
レコード・CD等のコピー媒体により低価格化を実現した音楽は著しく商業化に成功したが、
蝉の脱殻同然の己のない音楽が広く流通する事態となった。
小説もまた内容よりも発行部数で評価されている。
だがそのような音楽も小説も流行が過ぎると誰も関心を持たなる。
そして時代を越えて受け入れられる作品はというと実は「己が籠っているもの」であったりする。
しかし「私」なんて存在しないと言っておきながら、
最後に「己が籠った作品」というのは、どういうことなのだろうか?
それは実は「己」ではないのだ。
評論の一覧は以下の通り。
作物の批評
写生文
文芸の哲学的基礎
創作家の態度
田山花袋君に答う
文壇の趨勢
コンラッドの描きたる自然について
明治座の所感を虚子君に問われて
虚子君へ
道楽と職業
現代日本の開化
中味と形式
文芸と道徳
私の個人主義
初期の文章は以下の2点が収められている。
倫敦消息
自転車日記
【文芸の哲学的基礎】
319ページ
して見ると普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、
ただ意識の連続して行くものに便宜上私と云う名を与えたのであります。
何が故に平地に風波を起して、余計な私と云うものを建立するのが便宜かと申すと、
「私」と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから、
物我の区別がこれでつきます。そこがいらざる葛藤で、また必要な便宜なのであります。
323ページ
前に申す通り吾々の生命は―――吾々と云うと自他を樹立する語弊はあるがしばらく便宜のために使用します―――
吾々の生命は意識の連続であります。そうしてどういうものかこの連続を切断する事を欲しないのであります。
他の言葉で云うと死ぬ事を希望しないのであります。もう一つ他の言葉で云うとこの連続をつづけて行く事が
大好きなのであります。なぜ好むかとなると説明はできない。誰が出て来ても説明はできない。
ただそれが事実であると認めるよりほかに道はない。
もちろん進化論者に云わせるとこの願望も長い間に馴致発展し来ったのだと幾分かその発展の順序を
示す事ができるかも知れない。と云うものはそんな傾向をもっておらないようなもの、
その傾向に応じて世の中に処して来なかったものは皆死んでしまったので、
今残っているやつは命の欲しい欲張りばかりになったのだと論ずる事もできるからであります。
・・・
ショウペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志と云う語でこの傾向をあらわしております。
まことに重宝な文句であります。
仏教、マッハ、ショウペンハウアー、あるいは進化論と言った思想・哲学が、文芸の基礎となっているようだ。
評論としてここに示されているので、作品を注意深く読めば辿っていけるのかも知れない。
主客が分離された世界(物我が区別された世界)は捏造されたものであり、
「普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではない」ということだ。
言葉を徹底するならば「客観的に実在」というのも間違っている。客観も主観と共に消失する。
ここでは主客の区別のない感性的諸要素の複合体が相互作用をしているだけなのであって、
知識を取り込むということでさえ、複合体がさらに複雑な複合体に成って行くというだけのことなのだ。
そしてそのような作用を起こす生体なり、物質なり、原子なりというものは、
ショウペンハウアーが意志と呼んだ作用で存続を続けて来たものである。
勝者が生き残ったと主張する進化論は実際のところ何も説明してはいない。
ここで意志というのは神の意志の如きものではない。精神の作用としての意志は否定されている。
宇宙ではそんなふうにして原子・物質・生命が発展してきた。
その生命というのは漱石によれば「意識の連続して行くもの」ということになる。
だが「意識」とは何なのか問えば、やはり路頭に迷ってしまう。
意識が連続して行くためには、つまりは死なないためには、身体が維持されなければならない。
精神的な仕組みは身体的な仕組みを補助する働きに過ぎないのだと、ニーチェや現象学派の哲学者は考えた。
意識とは、判断しないこと(無処理)を含めた生体維持のための判断の仕掛けと仮定しよう。
その場合に、過去の体験を活用するというのは、結局のところ私たちが機械に実行させる制御に似ている。
そうすると私たちは「機械」に過ぎないのだろうか?
赤い血が流れていて熱いハートを持っている私たちは「冷たい機械」なんかじゃないと、
たとえ機械であったとしてもシュワちゃん演じるターミネーターのように人間を助けてくれるもんだと、
人道主義的な人々は抵抗するのだろうが、そんなことではない。
「意識」とか機械に対しての「人間」と言った時には、やはり何の説明にもなっていない。
既に「私」というものが、時系列的に体験を一元管理して行動するために「便宜的に建立されたもの」だ。
そのような便宜的なものがなければ法の適用も難しくなるのだが、「私」というのは虚構なのだ。
そしてその虚構が失われることを怖れ(死を怖れ)、肉体は滅びても精神は無限であるとか、
生けるものは輪廻転生を繰り返しているとか、なにかしら不死につながるものを求めようとする。
そうした安直なものを受け入れたくない者は「意識」の働きにより「意識」を知ろうとする。
それもまた不毛なことだが、たいていのことはこれよりもっと不毛なのだ。
【道楽と職業】
520ページ
だから御覧なさい。世の中には徳義的に監察するとずいぶん怪しからぬと思うような職業がありましょう。
しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりよっぽどえらい生活をしているのが
あります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、
事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、
最も贅沢を極めていると言わなければならぬのです。
ここでは人のためになる職業として芸妓が挙げられている。
「人のためになる」というのは卑俗の意味であり「人の御機嫌を取る」「人にお世辞を使う」ということだ。
商業主義が発達するとその傾向はさらに顕著となる。
高等な話術により顧客を虜にするホスト、ホステスの類は最も高給取りの部類にいる。
それが露骨なお世辞であったとしても人は喜ぶ。
同様の傾向はあらゆる産業に水平展開され、情報通信技術で社会に貢献しようという企業の経営者もまた
「お客様の欲しがる製品を作れ」ということしか言えなくなってしまう。
結局はホストと変らないのだ。
528ページ
ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。
それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做すよりほかに
仕方がないのです。
530ページ
以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、
これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明らかなようであります。
なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。
ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉の脱殻同然で、ほとんど役に立たない。
自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠るはずがない。
すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。
「もちろん世界の全ては道化だ。誰がそれを逃れられるだろう?」
漱石が没してから100年になろうとしているが、大戦が終ってからの世界は急速にエンタメ化してきた。
労働により疎外された(ストレスがたまっていると形容される)人々を癒すための娯楽が発達してきた。
ストレス解消のために必要なのは娯楽であって芸術ではない。
レコード・CD等のコピー媒体により低価格化を実現した音楽は著しく商業化に成功したが、
蝉の脱殻同然の己のない音楽が広く流通する事態となった。
小説もまた内容よりも発行部数で評価されている。
だがそのような音楽も小説も流行が過ぎると誰も関心を持たなる。
そして時代を越えて受け入れられる作品はというと実は「己が籠っているもの」であったりする。
しかし「私」なんて存在しないと言っておきながら、
最後に「己が籠った作品」というのは、どういうことなのだろうか?
それは実は「己」ではないのだ。