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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

夏目漱石[評論]

2016-01-30 00:05:11 | 夏目漱石
ちくま文庫 夏目漱石全集10には、小品・評論・初期の文章が収められている。
評論の一覧は以下の通り。
作物の批評
写生文
文芸の哲学的基礎
創作家の態度
田山花袋君に答う
文壇の趨勢
コンラッドの描きたる自然について
明治座の所感を虚子君に問われて
虚子君へ
道楽と職業
現代日本の開化
中味と形式
文芸と道徳
私の個人主義

初期の文章は以下の2点が収められている。
倫敦消息
自転車日記

【文芸の哲学的基礎】
319ページ
して見ると普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、
ただ意識の連続して行くものに便宜上私と云う名を与えたのであります。
何が故に平地に風波を起して、余計な私と云うものを建立するのが便宜かと申すと、
「私」と、一たび建立するとその裏には、「あなた方」と、私以外のものも建立する訳になりますから、
物我の区別がこれでつきます。そこがいらざる葛藤で、また必要な便宜なのであります。

323ページ
前に申す通り吾々の生命は―――吾々と云うと自他を樹立する語弊はあるがしばらく便宜のために使用します―――
吾々の生命は意識の連続であります。そうしてどういうものかこの連続を切断する事を欲しないのであります。
他の言葉で云うと死ぬ事を希望しないのであります。もう一つ他の言葉で云うとこの連続をつづけて行く事が
大好きなのであります。なぜ好むかとなると説明はできない。誰が出て来ても説明はできない。
ただそれが事実であると認めるよりほかに道はない。
もちろん進化論者に云わせるとこの願望も長い間に馴致発展し来ったのだと幾分かその発展の順序を
示す事ができるかも知れない。と云うものはそんな傾向をもっておらないようなもの、
その傾向に応じて世の中に処して来なかったものは皆死んでしまったので、
今残っているやつは命の欲しい欲張りばかりになったのだと論ずる事もできるからであります。
・・・
ショウペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志と云う語でこの傾向をあらわしております。
まことに重宝な文句であります。

仏教、マッハ、ショウペンハウアー、あるいは進化論と言った思想・哲学が、文芸の基礎となっているようだ。
評論としてここに示されているので、作品を注意深く読めば辿っていけるのかも知れない。
主客が分離された世界(物我が区別された世界)は捏造されたものであり、
「普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではない」ということだ。
言葉を徹底するならば「客観的に実在」というのも間違っている。客観も主観と共に消失する。
ここでは主客の区別のない感性的諸要素の複合体が相互作用をしているだけなのであって、
知識を取り込むということでさえ、複合体がさらに複雑な複合体に成って行くというだけのことなのだ。
そしてそのような作用を起こす生体なり、物質なり、原子なりというものは、
ショウペンハウアーが意志と呼んだ作用で存続を続けて来たものである。
勝者が生き残ったと主張する進化論は実際のところ何も説明してはいない。
ここで意志というのは神の意志の如きものではない。精神の作用としての意志は否定されている。
宇宙ではそんなふうにして原子・物質・生命が発展してきた。
その生命というのは漱石によれば「意識の連続して行くもの」ということになる。
だが「意識」とは何なのか問えば、やはり路頭に迷ってしまう。
意識が連続して行くためには、つまりは死なないためには、身体が維持されなければならない。
精神的な仕組みは身体的な仕組みを補助する働きに過ぎないのだと、ニーチェや現象学派の哲学者は考えた。
意識とは、判断しないこと(無処理)を含めた生体維持のための判断の仕掛けと仮定しよう。
その場合に、過去の体験を活用するというのは、結局のところ私たちが機械に実行させる制御に似ている。
そうすると私たちは「機械」に過ぎないのだろうか?
赤い血が流れていて熱いハートを持っている私たちは「冷たい機械」なんかじゃないと、
たとえ機械であったとしてもシュワちゃん演じるターミネーターのように人間を助けてくれるもんだと、
人道主義的な人々は抵抗するのだろうが、そんなことではない。
「意識」とか機械に対しての「人間」と言った時には、やはり何の説明にもなっていない。
既に「私」というものが、時系列的に体験を一元管理して行動するために「便宜的に建立されたもの」だ。
そのような便宜的なものがなければ法の適用も難しくなるのだが、「私」というのは虚構なのだ。
そしてその虚構が失われることを怖れ(死を怖れ)、肉体は滅びても精神は無限であるとか、
生けるものは輪廻転生を繰り返しているとか、なにかしら不死につながるものを求めようとする。
そうした安直なものを受け入れたくない者は「意識」の働きにより「意識」を知ろうとする。
それもまた不毛なことだが、たいていのことはこれよりもっと不毛なのだ。

【道楽と職業】
520ページ
だから御覧なさい。世の中には徳義的に監察するとずいぶん怪しからぬと思うような職業がありましょう。
しかもその怪しからぬと思うような職業を渡世にしている奴は我々よりよっぽどえらい生活をしているのが
あります。しかし一面から云えば怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、
事実の上から云えば最も人のためになることをしているから、それがまた最も己のためになって、
最も贅沢を極めていると言わなければならぬのです。

ここでは人のためになる職業として芸妓が挙げられている。
「人のためになる」というのは卑俗の意味であり「人の御機嫌を取る」「人にお世辞を使う」ということだ。
商業主義が発達するとその傾向はさらに顕著となる。
高等な話術により顧客を虜にするホスト、ホステスの類は最も高給取りの部類にいる。
それが露骨なお世辞であったとしても人は喜ぶ。
同様の傾向はあらゆる産業に水平展開され、情報通信技術で社会に貢献しようという企業の経営者もまた
「お客様の欲しがる製品を作れ」ということしか言えなくなってしまう。
結局はホストと変らないのだ。

528ページ
ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。
それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做すよりほかに
仕方がないのです。

530ページ
以上申し上げた科学者哲学者もしくは芸術家の類が職業として優に存在し得るかは疑問として、
これは自己本位でなければとうてい成功しないことだけは明らかなようであります。
なぜなればこれらが人のためにすると己というものは無くなってしまうからであります。
ことに芸術家で己の無い芸術家は蝉の脱殻同然で、ほとんど役に立たない。
自分に気の乗った作ができなくてただ人に迎えられたい一心でやる仕事には自己という精神が籠るはずがない。
すべてが借り物になって魂の宿る余地がなくなるばかりです。

「もちろん世界の全ては道化だ。誰がそれを逃れられるだろう?」
漱石が没してから100年になろうとしているが、大戦が終ってからの世界は急速にエンタメ化してきた。
労働により疎外された(ストレスがたまっていると形容される)人々を癒すための娯楽が発達してきた。
ストレス解消のために必要なのは娯楽であって芸術ではない。
レコード・CD等のコピー媒体により低価格化を実現した音楽は著しく商業化に成功したが、
蝉の脱殻同然の己のない音楽が広く流通する事態となった。
小説もまた内容よりも発行部数で評価されている。
だがそのような音楽も小説も流行が過ぎると誰も関心を持たなる。
そして時代を越えて受け入れられる作品はというと実は「己が籠っているもの」であったりする。
しかし「私」なんて存在しないと言っておきながら、
最後に「己が籠った作品」というのは、どういうことなのだろうか?
それは実は「己」ではないのだ。

夏目漱石[小品]

2016-01-23 00:05:42 | 夏目漱石
ちくま文庫 夏目漱石全集10には、小品・評論・初期の文章が収められている。
小品の一覧は以下の通り。
京に着ける夕
文鳥
夢十夜
永日小品
長谷川君と余
子規の画
ケーベル先生
変な音
三山居士
初秋の一日
硝子戸の中

【夢十夜】
解説(707ページ)に次のようなことが書かれていた。
「夢十夜」は、最近になって注目され出した小品集である。伊藤整が「人間存在の原罪心理」を
主題にしたものと解釈した以来、幾人かの批評家によって、この小品のうちに漱石内面のカオスを
象徴する因子を見出そうとしてのこころみがなされている。
しかしまだ人々を納得させるだけの解説は提示されていないようである。

「漱石内面のカオス」というのは、ちょっとどうなんだろう。

[第一夜]
37ページ
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を
墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
・・・
女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。

39ページ
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の
胸のあたりまで来て止まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、
ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。
・・・
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

[第三夜]
45ページ
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年だろう」
なるほど文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」
自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年のこんな闇の晩に、この杉の根で、
一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。
おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。

女が百合となって生まれ変わるのを百年待っていたり、
百年前に殺した子供を背負ってその殺害現場を訪れたりしている。
同一人物による体験なのだろうか?
百年の間、持続する個体は稀であり、個々の人格の仕業というより、
時代が変わっても人間は同じようなことを繰り返しているだけなのだということを
暗示しているのではないかと思う。
愛しい女のことを忘れないという体験はうつくしいが、
殺した子のことを忘れたいという体験はおぞましい。

【永日小品】
[蛇]
73ページ
途端に流れに逆らって、網の柄を握っていた叔父さんの右の手首が、蓑の下から肩の上まで
弾ね返るように動いた。続いて長いものが叔父さんの手を離れた。
それが暗い雨のふりしきる中に、重たい縄のような曲線を描いて、向うの土手の上に落ちた。
と思うと、草の中からむくりと鎌首を一尺ばかり持上げた。
そうして持上げたまま屹と二人を見た。
「覚えていろ」
声はたしかに叔父さんの声であった。同時に鎌首は墓の中に消えた。叔父さんは蒼い顔をして、
蛇を投げた所を見ている。
「叔父さん、今、覚えていろと云ったのはあなたですか」
叔父さんはようやくこっちを向いた。そうして低い声で、誰だかよく分らないと答えた。
今でも叔父にこの話をするたびに、誰だかよく分らないと答えては妙な顔をする。

蛇が自分の声でこたえたなら、誰だかよく分らないと答えるしかない。
蛇でなくともそうだろう。私たちは自分が二人いることに慣れてはいない。

[猫の墓]
96ページ
猫は吐気がなくなりさえすれば、依然として、おとなしく寝ている。
この頃では、じっと身を竦めるようにして、自分の身を支える縁側だけが便であるという風に、
いかにも切りつめた蹲踞まり方をする。眼つきも少し変って来た。
始めは近い視線に、遠くのものが映るごとく、悄然たるうちに、どこか落ちつきがあったが、
それがしだいに怪しく動いて来た。けれども眼の色はだんだん沈んで行く。
日が落ちて微かな稲妻があらわれるような気がした。けれども放っておいた。
妻も気にかけなかったらしい。小供は無論猫のいる事さえ忘れている。

猫の死に際が淡々と描写されている。
猫の方も命を惜しんでいるわけでもないだろうから淡々としている。
燃料を切らした炎が消え入るように寿命を迎えた猫は死を迎えても淡々としている。
誰が与えた命でもないし、誰に奪われる命でもないのだろう。
死を怖れる人間は、生にしがみついて離れない。私の大切な命を奪われてなるものかと必死になる。
医学の進歩により寿命が延びた我々人類は遺伝子すら想定していなかったであろう病気に悩まされたりする。
数十年の間、こつこつ保険料を支払い続けたりするが、年金の支給年齢は引き上げられる一方であり、
満足できる支給額でもないので、怒って焼身自殺する人も中にはいる。
金にも命にも執着しない猫はあっぱれな生き物かもしれない。

[印象]
102ページ
自分はこの時始めて、人の海に溺れた事を自覚した。この海はどこまで広がっているか分らない。
しかし広い割には極めて静かな海である。ただ出る事ができない。右を向いても痞えている。
左を見ても塞がっている。後をふり返ってもいっぱいである。それで静かに前の方へ動いて行く。
ただ一筋の運命よりほかに、自分を支配するものがないかのごとく、
幾万の黒い頭が申し合わせたように歩調を揃えて一歩ずつ前へ進んで行く。

「人の海」というスケールで眺めてみると、
私たちの一人ひとりは海水を構成する一つひとつの水分子のようなもので、
周りの分子と結合して一つの波を作っては浜辺に打ち寄せて砂を洗うのだが、
誰かがそうしようと考えたというわけでもなく結果としてなんとなくそうなっているだけだ。
そんなふうにして私たちは「前の方へ動いて行く」ことになる。
そうすることで何かしら社会の進歩の如きものに貢献できれば良いのだが
「人の海」に目的なんてものはない。
そのことを認めてしまうと常に論理的思考をするよう訓練されてきた私たちは路頭に迷う。
私たちは避けようのないニヒリズムが眼前に横たわっているという状況に
耐えるような訓練は受けていないのでたいへんつらい。
根拠無く否定するか、宗教に逃れるか、矛盾を抱えてままでいるか、
選択肢はあまりない。

【硝子戸の中】
190ページ
私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。私はそうした種類の文字が、忙しい人の眼に、
どれほどつまらなく映るだろうかと懸念している、私は電車の中でポッケットから新聞を出して、
大きな活字だけに眼を注いでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字を列べて
紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。
これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、
自分が重大と思う事件化、もしくは自分の神経を相当に刺激し得る辛辣な記事のほかには、
新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。
・・・
私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑を冒して書くのである。

忙しい人は、本を読まない。
忙しい人は、結論とか要点ばかり知りたがるのだが、
そのご要望にお応えするというのであれば、哲学や文学はスカスカになってしまうだろう。
そもそも彼らは哲学や文学は閑な人間のすることだと考えているのだろう。それは幾分当たってはいる。
私たちはそういうことに時間を費やそうとする奇特な人間の生き残りであり、
あと10年もすれば絶滅してしまうのかもしれない。
忙しい人は、経済を何よりも優先する。
でも資本論は読まない。

214ページ
「こんな事を云ったら笑われはしまいか、恥を掻きはしまいか、または失礼だといって
怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗り潰した所ばかり示す工夫をするならば、
私がおくらあなたに利益を与えようと焦慮ても、私の射る矢はことごとく空矢になってしまうだけです。

264ページ
客の帰ったあとで私はまた考えた。―――継続中のものはおそらく私の病気ばかりではないだろう。
私の説明を聞いて、笑談だと思って笑う人、解らないで黙っている人、
同情の念に駆られて気の毒らしい顔をする人、―――すべてこれらの人の心の置くには、私の知らない、
また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。

注釈に「これは漱石文学の代表的テーマの一つに関わることば」と書かれている。
「道草」のラストシーンも以下のようなものだった。
「じゃどうすれば本当に片づくんです」
「世の中に片づくなんてものはほとんどありゃしない。一遍起った事はいつまでも続くのさ。
ただいろいろな形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまのおっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
細君はこう云い云い、幾度か赤い頬に接吻した。(「道草」582ページ)
この「継続中」というのは評論のところで深堀りされているので詳しくはそちらに書くが、
おそらくは私たちの意識が継続中なのであり、私たち自身が自らの生命の継続を望んでいる、
あるいはそのことを前提として活動しているということだろう。
そしてその継続は私たちの望まぬやり方で断ち切られる。

273ページ
もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前に跪ずいて、
私に毫髪の疑いを挟む余地もないほど明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめん事を祈る。
でなければ、この不明な私の前に出て来るすべての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、
私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわん事を祈る。
今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか、
この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。

こうした文章を読んでいると漱石自身がドストエフスキーの小説の登場人物のように思えてくる。
きっと誰とも友達になれない。

夏目漱石[紀行・随筆]

2016-01-16 00:05:29 | 夏目漱石
ちくま文庫 夏目漱石全集7には「行人」の他に「満韓ところどころ」と「思い出す事など」が
収められている。「満韓ところどころ」は紀行に分類され、「思い出す事など」は随筆に分類されている。
以下は「思い出す事など」から抜粋した。

590ページ
進んで無機有機を通じ、動植両界を貫き、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間なく発展して来た
進化の歴史と見做すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁を埋むべき材料に過ぎぬ事を
自覚するとき、百尺竿頭に上りつめたと自任する人間の自惚はまた急に脱落しなければならない。
支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、
無気味な黒船が来て日本だけが神国ではないという事を覚った時よりも、
さらに遡っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点せしめられた時よりも、
進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛きジスイリュージョン(幻滅)を甞めている。
種族保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、
一疋の大口魚が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣になるとそれが二百万の倍数の上るという。
そのうちで生長するのはわずか数匹に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者であり、
徳義上には恐るべく残酷な父母である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、
しばらく立場を易えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当の成行で、
そこに喜びそこに悲しむ理屈は毫も存在していないだろう。
こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。
そこでことさらに気分を易えて、この間大磯で亡くなった大塚夫人の事を思い出しながら、
夫人のために手向の句を作った。
有る程の菊抛げ入れよ棺の中

「百万疋の子を生む恐るべき残酷な父母」であるとか、
無限に流れる時間の「単なる一頁を埋むべき材料に過ぎぬ事」であるとか、
そういうことを「自然になり済ました気分で観察したら」喜び悲しむ理屈はなくなるということだ。
この頃の進化論はまだかわいいもので、やがて遺伝子という自然の神様のようなものが発見され、
私たちはその乗り物に過ぎないのだという話が展開されることになる。
そして感情や知性すら進化の道具に過ぎない、それは象の鼻とかキリンの首と同じように、
自然界を生き抜いていくために発達した器官の一部に過ぎないと認めなくてはならなくなってくる。
そうするともっと「心細く」なったり、「つまらなく」なったりするのだろう。
そして身近なことに没頭したくなってくる。考えても仕方のないことは考えないのだと言いたくなってくる。
私たちを感動させる物語であるとか、厳粛な気持にさせる死であるとか、人間本意のことを考えたくなる。
人間が人間で閉じていればそれで済むのだが、結局は物質の固まりであり、空間の一部を占めており、
わずかな時間を生きながらえるものであり、世界の構成員であり、世界を語るものである。
そうすると「百万疋の子の恐るべき残酷な父母」に戻ってしまう。
もともと「心細さ」「つまらなさ」を感じる器官そのものが自然の所与であり、循環は免れない。
見出されかけた生きる意味や目的といったものは、考えの及ばないものの前で無力となる。
そのような開き直りがまずは出発点なのだろう。

627ページ
ツルゲニェフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイェフスキーはには、
人の知るごとく、小供の時分から癲癇の発作があった。われら日本人は癲癇と聞くと、ただ白い泡を
連想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なる疾と称えていた。
この神聖なる疾に冒かされる時、あるいはその少し前に、ドストイェフスキーは普通の人が大音楽を聞いて
始めて到り得るような一種微妙の快感に支配されたそうである。
それは自己と外との円満に調和した境地で、ちょうど天体の端から、無限の空間に足を滑らして
落ちるような心持だとか聞いた。

630ページ
同じドストイェフスキーもまた死の門口まで引き摺られながら、辛うじて後戻りをする事のできた幸福な人である。
けれども彼の命を危めにかかった災は、余の場合におけるがごとく悪辣な病気ではなかった。
彼は人の手に作り上げられた法と云う器械の敵となって、どんと心臓を打ち貫かれようとしたのである。

ドストエフスキーの癲癇と仕組まれた死刑判決について書かれている。
漱石にあてはめると神経衰弱と悪辣な胃潰瘍ということになるかもしれない。
百万疋の中の一疋の大口魚が子を生む成魚となるように、自然は気質と運命の百万通りの組合せを試して、
一人の優れた作家を生み出そうとしているのかもしれない。
作家が生き延びる確率が高ければ、世界は百万疋の作家の作品で溢れてしまうかもしれないが、
そんなに多くの作品を読むことは出来ないので、やはり数人の作家しか生き残らない。
草食動物とそれを捕食する肉食動物の関係のように、読者と作家の関係にもある比率が保たれているのだろう。
自殺していった何人かの日本人作家は、ロシアの作品を消化し切れなかったということかもしれないが、
漱石の作品にはそういうところがなく、どこから見ても日本の作家という感じがする。

636ページ
今の青年は、筆を執っても、口を開いても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。
それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。
「自我の主張」を正面から承れば、小憎らしい申し分が多い。
けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてして憚かるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。
ことに今の経済事情である。
「自我の主張」の裏には、首を縊ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶が含まれている。
ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。
そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。

ニーチェは病弱であったということだ。
「超人」というのは病弱な人間とはかけ離れた存在であるように思えるが、
どちらかというと、どこまで行っても到達点のない橋のような存在の人間を表現するために必要なものなのだろう。
動物と超人のあいだで何回も生死を繰り返しているというふうに永劫回帰を単純に解釈することも出来る。
あらゆることを受け入れ肯定するチョー前向きな思想と解釈する人もいる。(人それぞれだ。)
「自我の主張」のようなことが主張されていたか記憶にない。
自我とか意識のような精神を賞賛するのではなくて、そうしたものは身体に含まれていると最初に考えたのが、
ニーチェではなかったかと思う。

夏目漱石[短編]

2016-01-09 00:05:02 | 夏目漱石
【倫敦塔】
17ページ
兄は「今日もまたこうして暮れるのか」と弟を顧みる。
弟はただ「寒い」と答える。
「命さえ助けてくるるなら伯父様に王の位を進ぜるものを」と兄が独り言のようにつぶやく。
弟は「母様に逢いたい」とのみ云う。
この時向うに掛っているタスペトリに織り出してある女神の裸体像が風もないのに二三度ふわりふわりと動く。
忽然舞台が廻る。見ると塔門の前に一人の女が黒い喪服を着て悄然として立っている。

この兄と弟は「エドワード四世の王子たちで、彼らをだまして即位した叔父リチャード三世の野望の犠牲となり、
この塔に幽閉され、一四八三年に暗殺された」のだという。
塔門の前に立つ女は「エドワード四世の妃エリザベスで王子たちの母」ということだ。
そのような陰鬱なものとしてロンドン塔は描かれている。囚われた者の苦しみについて以下のように書かれている。

25ページ
およそ世の中に何が苦しいと云って所在のないほどの苦しみはない。
意識の内容に変化のないほどの苦しみはない。
使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬほどの苦しみはない。
生きるというは活動しているという事であるに、生きながらこの活動を抑えらるるのは生という意味を
奪われたると同じ事で、その奪われたを自覚するだけが死よりも一層の苦痛である。
この壁の周囲をかくまでに塗抹した人々は皆この死よりも辛い苦痛を甞めたのである。

動物であるだけに活動を抑えられるのは苦痛であるし、社会的動物であるだけに所在のないのも苦痛であるし、
人間であるだけに思考を抑えられるのは苦痛である。
そのような苦痛に逢わせるぞと脅かされ続けるのが実社会であったりする。
偉い人の言うことを聞かないと仕事が与えられなかったり報復人事に逢って飛ばされたりする。
権力をめぐって争っているのはリチャード三世に限ったことではない。
エドワード四世の王子たちが生き残っていたら互いに王位をめぐって争っていたかもしれない。
王族や政治家に限らず、世界の至るところで、性別や年齢に関わりなく、組織の大小を問わず、
およそ部外者から見れば争う理由がまるでわからないことについて、
さして重要とも思えない地位をめぐって、私たちは争い続けている。
他人の言いなりになりたくないという理由だけで他人に害を為すというのが私たちの本性かもしれない。
その権力を正当化するために名君であるとか優れたリーダーの資質であるとか様々な理由付けがなされるが、
そういうところに本質的なことが含まれているとは思えない。
勝てば官軍、生き残った者が権力者というだけのことだ。
彼らが本物であるならが何故他人の活動を抑制し他人に害を為す必要があるのだろう。
彼らに敵対するものはいつも悪でありテロリストであるというのはどうしてだろう。
負けた者は弁解することが出来ない。
死に方も選べない。

【カーライル博物館】
49ページ
声。英国においてカーライルを苦しめたる声は独逸においてショウペンハウアを苦しめたる声である。
ショウペンハウア云う。「カントは活力論を著せり、余は反って活力を弔う文を草せんとす」

カーライルの著作は岩波文庫で扱っているようだが読んだことがない。
ショウペンハウアーの「意志と表象としての世界」の「表象」のところはカントと同じだが
「意志」のところは違っている。

【幻影の盾】
57ページ
ウィリアムはこの盾を自己の室の壁に懸けて朝夕眺めている。人が聞くと不思議な盾だと云う。
霊の盾だと云う。この盾を持って戦に臨むとき、過去、現在、未来に渉って吾願を叶える事のある盾だと云う。
名あるかと聞けばただ幻影(まぼろし)の盾と答える。ウィリアムはその他を言わぬ。

74ページ
「不断は帆柱の先に白い小旗を掲げるが、女が乗ったら赤に易えさせよう。戦さは七日目の午過からじゃ。
城を囲めば港が見える。柱の上に赤が見えたら天下太平・・・」

82ページ
焦け爛れたる高櫓の、機熟してか、吹く風に逆いてしばらくは燄と共に傾くと見えしが、
奈落までも落ち入らでやわと、三分二を岩に残して、倒しまに崩れかかる。
取巻く燄の一度にパッと天地を燬く時、堞の上に火のごとき髪を振り乱して佇む女がある。
「クララ!」とウィリアムが叫ぶ途端に女の影は消える。
焼け出された二頭の馬が鞍付のまま宙を飛んで来る。

88ページ
「赤だっ」とウィリアムは盾の中に向って叫ぶ。「白い帆が山影を横ぎって、岸に近づいて来る。
三本の帆柱の左右は知らぬ、中なる上に春風を受けて棚曳くは、赤だ、赤だクララの舟だ」
・・・舟は油のごときう平なる海を滑って難なく岸に近づいて来る。
舳に金色の髪を日に乱して伸び上るは言うまでもない、クララである。

「堞の上に火のごとき髪を振り乱して佇む女」が現実であり、
「赤い小旗を掲げて岸に近づいて来る舟」というのは幻影の盾の為せる非現実なのだろう。

【琴のそら音】
108ページ
「遠い距離において、ある人の脳の細胞と、他の人の細胞が感じて一種の化学的変化を起すと・・・」

ある人の脳の中での作用とは、秩序をより複雑な秩序へと移行させることであって、
その活動を可能にしているところの(伝達)手段は化学的なものであったり電気的なものであったりする。
無線通信のようなもので、離れ離れの人と人とが相互にコミュニケーション出来る手段があるのかもしれない。
あったとしても別に驚かない。

118ページ
普通犬の鳴き声というものは、後もあきも鉈刀で打ち切った薪雑木を長く継いだ直線的の声である。
今聞く唸り声はそんなに簡単な無造作の者ではない。声の幅に絶えざる変化があって、曲りが見えて、
丸みを帯びている。蝋燭の灯の細きより始まって次第に福やかに広がってまた油の尽きた灯心の花と次に消えて行く。
どこで吠えるか分らぬ。百里の遠きほかから、吹く風に乗せられて微かに響くと思う間に、
近づけば軒端を洩れて、枕に塞ぐ耳にも薄る。
ウウウウと云う音が丸い段落をいくつも連ねて家の周囲を二三度繞ると、いつしかその音がワワワワに変化する拍子、
疾き風に吹き除けられて遥か向うに尻尾はンンンと化して闇の世界に入る。
陽気な声を無理に圧迫して陰鬱にしたのがこの遠吠である。躁狂な響を権柄ずくで沈痛ならしめているのがこの遠吠である。
自由でない。圧制されてやむをえずに出す声であるところが本来の陰鬱、天然の沈痛よりも一層嫌である、聞き苦しい。
余は夜着の中に耳の根まで隠した。夜着の中でも聞える、しかも耳を出しているより一層聞き苦しい。
また顔を出す。

犬の遠吠えでここまで書けるというのはすごい。
圧倒的

【一夜】
145ページ
また思う百年は一年のごとく、一年は一刻のごとし。一刻を知ればまさに人生を知る。

146ページ
八畳の座敷に髯のある人と、髯のない人と、涼しき眼の女が会して、かくのごとく一夜を過した。
彼らの一夜を描いたのは彼らの生涯を描いたのである。

一夜は生涯、あるいは人生そのものということかもしれない。
時間は単純に加算できるものではない。

【薤露行】
薤露歌とは葬送のとき柩を引く者が歌う歌ということだ。

175ページ
「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と鷹の眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は
ことごとく右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪は逃れず」と口々に云う。
ギニヴィアは倒れんとする身を、危うく壁掛に扶けて「ランスロット!」と幽に叫ぶ。
王は迷う。肩に纏わる緋の衣の裏を半ば返して、右手の掌を十三人の騎士に向けたるままにて迷う。

ランスロットは長じて立派な騎士となり、アーサー王の宮殿を訪れて円卓の騎士に列せられることになった。
ランスロットは武勇でも騎士道を守る心でも、円卓の騎士の中で並ぶ者がなかった。
トマス・マロリーのキャクストン版では、トリストラムと並ぶ最高の騎士とされる。
しかし、アーサー王の王妃グィネヴィアと恋に落ち、騎士道と不義の恋との板挟みに苦しむことになる。
と、wikipediaに書いてあった。この小説はランスロットと彼を愛したエレーンを扱っている。

179ページ
エレーンは盾を眺めている。ランスロットの預けた盾を眺めて暮らしている。
その盾には丈高き女の前に、一人の騎士が跪いて、愛と信とを誓える模様が描かれている。
騎士の鎧は銀、女の衣は炎の色に燃えて、地は黒に近き紺を敷く。
赤き女のギニヴィアなりとは憐れなるエレーンの夢にだも知る由がない。

182ページ
舟はカメロットの水門に横づけに流されて、はたと留まる。白鳥の影は波に沈んで、岸高く峠てる楼閣の
黒く水に映るのが物凄い。水門は左右に開けて、石階の上にはアーサーとギニヴィアを前に、
城中の男女がことごとく集まる。

ランスロットと共にあることの空想が崩れてしまったエレーンは食を断ち息絶える。
その亡骸を載せた舟はカメロットのアーサーとギニヴィアの元へ流れ着く。
ギニヴィアの涙がエレーンの頬に落ちる。

【趣味の遺伝】
244ページ
余が平生主張する趣味の遺伝と云う理論を証拠立てるに完全な例が出て来た。
ロメオがジュリエットを一目見る。そうしてこの女に相違ないと先祖の経験を数十年の後に認識する。
エレーンがランスロットに始めて逢う、この男だぞと思い詰める、やはり父母未生以前に受けた記憶と情緒が、
長い時間を隔てて脳中に再現する。

ここで趣味とは「男女相愛するという趣味の意味」ということだ。
簡単に言うと「好み」であり、異性の好みが遺伝に支配されているという意味になる。。
記憶や感情が人に比べると乏しい鳥や獣にも「好み」はあるだろうから、あるいはそうかもしれない。
美人の目鼻立ちは平均的であり、平均から逸脱した子孫を残したくないという遺伝子の振る舞いに
私たちの「好み」が支配されているということかもしれない。いずれにしても大抵の場合、私たちは逆らえない。
ロメオに分別があって計算高かったならばロメオではない。
私たちは遺伝子に強く支配された身体を操りきれずに悲劇に遭ったり地獄を見たりする。
しかしそういう十字架を抱えていないというのであれば
人生はつまらないかもしれない。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集2のものである。

明暗

2016-01-02 00:05:42 | 夏目漱石
14ページ
「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、
ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。
ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、
またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」

卵子と精子の配合に加えて環境要因の組合せにより偉人の存在する確率は非常に稀なものとなる。
偉人の発生する確率が凡人のそれに比較してあまり変わらないというのであれば、
世の中は偉人ばかりが跋扈して非常に面倒であり、迷惑であり、生き延びるのは苦痛である。
軍人とか政治家の類は私たちの暮らしを平穏にしておかぬものとして迷惑である。
画家とか音楽家とか小説家の類もまた私たちに変化をもたらし平穏にしてはくれない。
ただ、そのような蹂躙のされ方は心地良いものだ。
圧倒的に私たちを蹂躙するような音楽を、小説を、哲学を、私たちは望んでいる。
私たち自身がそうしたものを生み出せたとしたら、どんなに良いだろう、と想像してみることはあっても、
いつまでたっても私たちは何も生み出せない。そんなふうにして何千回もの、何万回もの朝が訪れた。
そして何千回もの、何万回もの朝は、私たちが若い時分に持っていた可能性を少しずつ奪って行った。
今では何も残らないのだろうか?
いや実際のところ何の希望もないのであれば、こんな文章すら書けないのではないかと思う。
何かしら活動しているということは、何かしら悪あがきをしているということだ。
「便宜的な結婚みたいな職業」に従事せざるを得ない人たち、
私にはそういう人たちの気持ちがわかる、つまり私がそういう人たちの代表みたいなものだ。
労働に疲れ果てているのに、あなたは何ゆえに流行らない本を読んでは、つまらない感想を書くのか?
誰がそんなものを好んで読んだりするだろうか?
今日だって、つまらないことで職場で諍いがあったりして、精神的にも消耗しているんじゃないのか?
でもそういうことは世の中のほとんどすべての人が体験していることなのだから、
それを言い訳にして私は私の活動をやめたりはしない。そしてそのことをたいして得意に思ったりもしない。
結局のところ、これが私の生き方というだけのことなのだ。

26ページ
「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。
年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金のいる間際になって、
こんな事を云って来て・・・」

「それから」の代助のように生活費の全額を親から援助してもらっている高等遊民ではないが、
ここでも親からの送金を待ち望む子供の姿が描かれている。

111ページ
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。
いかに人間が下賤であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、
涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、
泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」

ソーニャ、グルーシェニカ、ドストエフスキーの小説には下賤で無教育で心の美しい女性が登場する。
警察あるいは自分自身によって追い詰められたラスコーリニコフをソーニャが救い、
尊敬していた師の死臭で自棄になってしまったアリョーシャをグルーシェニカが救う。
そういう魂の美しさといったようなものに陶酔できる心地良さがあるのだが、
一方では多すぎる知性に苦しみ、抜け出すことの出来ない人々に自分の人生を重ねてしまったりする。
知恵を巡らしているつもりだが実際には不幸にまっしぐらという登場人物は「明暗」にも数えられる。
おそらくは清子だけが例外なのだろうが、その彼女の特質が十分書かれないまま、
この小説は未完に終わってしまった。

148ページ
「良人というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿に過ぎないのだろうか」
これがお延のとうから叔母にぶつかって、質して見たい問であった。
不幸にして彼女には持って生れた一種の気位があった。

273ページ
「けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、
その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。
僕だってまさか生まれたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」
小林はまた大きな声を出して笑った。

小林は厭な奴かもしれないが、スメルジャコフほどではない。
生れや育ちのハンディキャップにめげずに生きている人がいるのだから世を恨むのは自分勝手ということだが、
スメルジャコフのような生まれ育ちだと、たいていの場合は、世の中に復讐しようと考えるだろう。
そして復讐しようということは、つまり自分のことをそれほど大切に思っていないということだろう。
自分を愛せないとか、自分を信じることができないというのは、不幸なことだ。
何の疑念もなく、自分を信じることができるのであれば、生れや育ちに感謝すべきだろう。
損なわれて長い間、疑いの中で生きることを強いられるという不毛さを体験せずに済む。
そのような地獄から逃れる力を与えるのもまた愛情であり、
子供を愛するという生来の自分自身の感情が愛されなかった自分自身を救う。

435ページ
有体にいうと、お延と結婚する前の津田は一人の女を愛していた。そうしてその女を愛させるように
仕向けたものは吉川夫人であった。世話好な夫人は、この若い二人を喰っつけるような、
また引き離すような閑手段を縦ままに弄して、そのたびにまごまごしたり、
または逆せ上ったりする二人を眼の前に見て楽しんだ。

483ページ
彼女は前後の関係から、思量分別の許す限り、全身を挙げてそこへ拘泥らなければならなかった。
それが彼女の自然であった。しかし不幸な事に自然全体は彼女よりも大きかった。
彼女の遥か上にも続いていた。公平な光りを放って、可憐な彼女を殺そうとしてさえ憚らなかった。
彼女が一口拘泥るたびに、津田は一足彼女から退ぞいた。二口拘泥れば、二足退いた。
拘泥るごとに、津田と彼女の距離はだんだん増して行った。
大きな自然は、彼女の小さい自然から出た行為を、遠慮なく蹂躙した。
一歩ごとに彼女の目的を破壊して悔いなかった。彼女は暗にそこへ気がついた。
けれどもその意味を悟る事はできなかった。

小さな自然というのは、自我であるとか虚栄心であって、漱石に否定される。
大きな自然というのは、そうした彼女の小さな自然を蹂躙し、破壊する。

「私の兄弟よ、君が「精神」と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。
君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である」とニーチェは書いている。
ここで大きい理性とは「肉体(身体)」であり、小さい理性とは「精神」のことだ。
何か関係があるだろうか?

大きな自然というは、相互作用する人と人との関係のことかもしれない。
小さな自然は、そのことに考えが至らない。

515ページ
「事実当世にいわゆるレデーなるものと芸者との間に、それほど区別があるのかね」

520ページ
「僕から見ると、君の腰は始終ぐらついているよ。度胸が坐ってないよ。厭なものをどこまでも
避けたがって、自分の好きなものをむやみに追かけたがってるよ。そりゃなぜだ。
なぜでもない、なまじいに自由が利くためさ。贅沢をいう余地があるからさ。
僕のように窮地に突き落とされて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」

571ページ
「おれは今この夢見たようなものの続きを辿ろうとしている。東京を立つ前から、
もっと几帳面に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、
お延と結婚する前から、―――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に背中を向けられた
その刹那から、自分はもうすでにこの夢のようなものに祟られているのだ。
そうして今ちょうどその夢を追かけようとしている途中なのだ」

その時、その刹那に、彼の時間は止まってしまったのだろう。
そんなふうにして自分の最も輝ける時代を人は突然失ってしまう。
一度失ってしまうと、後は急な坂道を転がり落ちるだけだろう。
そんな目に遭ったくせに、もう一度、その夢を追いかけようとする。
なんか悲しくなってくる。

575ページ
「彼女に会うのは何のためだろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずに
いるではないか。では彼女を忘れるため? あるいはそうかも知れない。
けれども会えば忘れられるだろうか。あるいはそうかも知れない。
あるいはそうでないかも知れない」

きっと忘れることはできないのだろう。
目的があって会うわけでもない。会いたいから会うというだけのことだ。

621ページ
「相変わらずあなたはいつでも苦がなさそうで結構ですね」
「ええ」
「ちっとももとと変りませんね」
「ええ、だって同なじ人間ですもの」

おそらくは清子には、駆け引きなんてない、知性すらないのではないかと思う。
いくつになっても変わることから逃れられないのは不幸かもしれないが、
生まれつきそうなのだから、受け入れるしかない。
私はソーニャではないし、グルーシェニカでもないし、
清子でもない。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集9のものである。

道草

2015-12-26 00:05:11 | 夏目漱石
587,588ページ
「道草」は漱石の全作品中もっとも自伝的な匂いの濃いものである。
(正宗)白鳥は、「道草」を芸術上の見地から最も傑出しているという意味ではなく、
漱石の作品の注釈書として、多大の価値をおく。
いろいろな作品の生まれた源をここにたどることが出来る意味で、
全作中最も大切な小説だといっている。

そう解説に書かれていた。

365ページ
「来たか長さん待ってたほい。冗談じゃないよ。使でも出そうかと思ってたところです」

「きたかチョーさん まってたドン」というのもありました。
明治時代の小唄の一節に、
♪ 碓氷峠の権現様よ 私が為には守り神 スイスイ~ ♪
♪ 来たか長さん 待ってた ホイ ♪
というのがあるそうです。

419ページ
人が溺れかかったり、または絶壁から落ちようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、
その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。
「人間は平生彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟に起ったある危険のために
突然塞がれて、もうおれは駄目だと事がきまると、急に眼を転じて過去を振り向くから、
そこですべての過去の経験が一度に意識に上るのだというんだね。その説によると」

ベルグソン「物質と記憶」にそういうことが書いてあるそうだが、
死ぬほどの目に遭ったことがないので「一瞬間の記憶として描き出される過去全体」を想像することが出来ない。
過去全体とは、未来の行動を決定するために活用される蓄積された体験の全体ということだろうか?
音の響きが類似しているとか、意味が似ているとか、記憶は何らかの関連で紐付けられている。
その連鎖は分岐したり結合したりしているが、表象されるのはその連鎖の中の一部に限られている。
論理的に結合された情報がハードディスクからメモリに、メモリからレジスタに転送されるにつれて、
扱える情報の量が減って来るのと同じようなことではないかと思う。一度に全部を演算することは出来ない。
本当に過去全体を表象できるのだろうか?
よくわからない。

422ページ
「解らないね、どうも。いったい魚と獣ほど違うんだから」

519ページ
「ああ云うものが続々生れて来て、必竟どうするんだろう」
彼は親らしくもない感想を起した。その中には子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、
必竟どうするんだろうという意味も朧気に交っていた。

続々と生れて来た私たちは、気が付けば世界に投げ出されている。
そしていったん生れて来たならば、死にたくはないので、なんとかして生き延びて行かねばならない。
「どうするんだろう」と言われても、続々と生れて来て、連綿と続いて行くのが生き物だ。
やがて「どうするんだろう」と考えた個体も消失することになるので、
「どうするんだろう」という心配もその時には消失している。
気に病むことはない。

548ページ
「食わすだけは仕方がないから食わしてやる。しかしそのほかの事はこっちじゃ構えない。
先方でするのが当然だ」
父の理屈はこうであった。
島田はまた島田で自分に都合のいい方からばかり事件の成行を観望していた。
「なに実家へ預けておきさえすればどうにかするだろう。そのうち健三が一人前になって少しでも
働けるようになったら、その時表沙汰にしてでもこっちへ奪還くってしまえばそれまでだ」
健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。
同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。
実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。
むしろ物品であった。

実父と養父の狭間で、物品として扱われながら、漱石は育ったらしい。
そのような状況に遭いながら、その状況を俯瞰していた、もうひとりの漱石が作家になったのだろう。
物品として扱われ、愛情を受けずに育った人間の不幸は、愛情の与え方を学べなかったことではないかと思う。
そこから回復するのは、なかなか大変なことだ。

564ページ
人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。
「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」
彼の頭のどこかでこういう質問を彼に投げかけるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。
なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。
何遍でも同じ事を繰返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。
「分らない」
その声はたちまちせせら笑った。
「分らないのじゃあるまい。分っていても、そこへ行けないのだろう。途中で引かかっているのだろう」
「おれのせいじゃない。おれのせいじゃない」
健三は逃げるようにずんずん歩いた。

「何をしに生れて来たのか?」ということについて答なんてないだろう。あるは問いが不適切であるかもしれない。
続々生れて来た順に世界に投げ出されているだけのことだ。
資質と環境が複雑に組み合わされ時間が経過すると人格が特定の興味へと方向付けられ、
「何かがやりたい」という気持ちが生じるが、力量がなければ「そこへ行けない」だろう。
そういう場合は「分らない」と思っていた方が傷が浅くて済むのだが、
いつまでもそうしているわけにはいかない。

582ページ
「じゃどうすれば本当に片づくんです」
「世の中に片づくなんてものはほとんどありゃしない。一遍起った事はいつまでも続くのさ。
ただいろいろな形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」
健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱上げた。
「おお好い子だ好い子だ。御父さまのおっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」
細君はこう云い云い、幾度か赤い頬に接吻した。

「世の中に片づくなんてものはほとんどありゃしない」
まったく同感です。

こころ

2015-12-19 00:05:19 | 夏目漱石
154ページ
実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、
間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、
ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。
あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいと云ったから。

「先生」は真面目な「あなた」だけに私の「過去」を物語りたいのだというのだが、
本当は漱石が「真面目」な読者だけに私の「小説」を物語りたいということではないかと思う。
人には、自分のことを、自分の考えたことを、自分の作品を物語りたいという欲望がある。

170ページ
「一口でいうと、叔父は私の財産をごまかしたのです。事は私が東京へ出ている三年の間に
容易く行われたのです」

195ページ
「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供の時からの仲好しでした」

198ページ
私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお経の名をたびたび彼の口から聞いた覚えが
ありますが、基督教については、問われた事も答えられた例もなかったのですから、ちょっと驚きました。
私はその理由を訊ねずにはいられませんでした。Kは理由はないと云いました。
これほど人のありがたがる書物なら読んでみるのが当り前だろうとも云いました。
その上彼は機会があったら、コーランも読んで見るつもりだと云いました。
彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。

聖書やコーランを読んだところで宗教を体験することはできないのだろうが、読まないよりは良い。
それほど多くの人がどうして惹き付けられるのかということを知っていた方が良い。
仏教とキリスト教とイスラム教が宗教という括りで共通したものを持っているとは思わない。
正しい行いや悪しき行いがすべて天の帳簿に記載されることで安心する人々もいれば、
自己を忘るることが身心脱落とか言っている人々もいる。
そんなことも知らないで互いの意見を尊重するとか多様性を認めようと言っても仕方がないのだ。
多様性を理解しようと思うなら個別の価値に触れねばならない。
Kが「理由はない」と言うのはそういうことだろう。

238ページ
だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の
私を想像してみてください。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。
口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。

250ページ
私はまず「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と云い放ちました。
これは二人で房州を旅行している際、Kが私に向って使った言葉です。私は彼の使った通りを、
彼と同じような口調で、再び彼に投げ返したのです。しかしけっして復讐ではありません。
私は復讐以上に残酷な意味をもっていたという事を自白します。
私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです。

251ページ
「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」
私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。
「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」

「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」ということだが、向上心というのは精神的なものに決まっている。
そうすると「向上心のないものは馬鹿だ」に短縮できそうだが、当時の二十代は「精神的に」という言葉に
弱かったのかもしれない。あるいは酔いしれていたのかもしれない。
そのような言葉は「向上心」のある者にしか効かない。向上心のない者は何とも思わない。
そして真面目な二十代の人間は、そのことが何なのかよくわかってはいないのだが、向上したいと考えている。
二十代を過ぎてしまうと、向上して来た、成長して来た、と考えたがる。
右肩上がりの成長を善と見做す高度資本主義社会は、そのような人間のためにある。
それは結局のところ加速度的に資源とエネルギーを消費するだけのことかもしれない。
あるいはもうすぐ行き止まりなのかもしれない。
ここでは二度繰り返された「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉が
Kを追い込んだということだ。

266ページ
奥さんの云うところを綜合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって
迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、
最初はそうですかとただ一口云っただけだったそうです。
しかし奥さんが、「あなたも喜んでください」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て
微笑を洩らしながら、「おめでとうございます」と云ったまま席を立ったそうです。

269ページ
手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。
自分は意志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺するというだけなのです。

277ページ
私は妻と顔を合わせているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり妻が中間に立って、
Kと私をどこまでも結び付けて離さないようにするのです。妻のどこにも不足を感じない私は、
ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。

愛する妻と自分が殺してしまったと考えているKが常に不可分のものとして映る。
生きていることが幸福であると共に地獄となる。

278ページ
叔父に欺かれた当時の私は、他の頼みにならない事をつくづくと感じたには相違ありませんが、
他を悪く取るだけあって、自分はまだ確かな気がしていました。
世間はどうあろうともこの己は立派な人間だという信念がどこかにあったのです。
それがKのためにみごとに破壊されてしまって、自分もあの叔父と同じ人間だと意識した時、
私は急にふらふらしました。他に愛想を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。

エゴイズムを追求していくと「自分もあの叔父と同じ」という結論に辿り着き、自殺することになった。
だからみなさん、そうならないようにお互いを尊重しましょう、愛し合いましょう、
利他主義で行きましょうと、そんなことを言っているわけではないと思う。
言い方を変えると「あの叔父も自分と同じ」エゴに振り回されたということになるのだと思う。
そういうやっかいなもの、制御できないものを抱えた生き物であるという点でこそ、
私たちの相互理解の可能性が残されている。

280ページ
Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかしだんだん落ち付いた気分で、
同じ現象に向かってみると、そうたやすくは解決が着かないように思われて来ました。
現実と理想の衝突、―――それでもまだ不十分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で
淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。
そうしてまたぞっとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、
折々風のように私の胸を横過り始めたからです。

Kは失恋のために死んだのではなくて、友達に裏切られたから死んだのではなくて、
彼もまた己のエゴを始末できないことに悩み抜き、ひとりで淋しくて死んでいったのではないかと思う。
そういう意味で「先生」はKと同じ道を辿っている。

『考え方が違うから闘うんでしょ?』と208が追求した。
『そうとも言える。』
『二つの対立する考え方があるってわけね?』と208。
『そうだ。でもね、世の中には百二十万くらいの対立する考え方があるんだ。いや、もっと沢山かもしれない。』
『殆んど誰とも友だちになんかなれないってこと?』と209。
『多分ね。』と僕。『殆んど誰とも友だちになんかなれない。』
それが僕の一九七○年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。

キリーロフもスタヴローギンも死んで行った。
殆ど誰とも友達になんかなれない。
その自覚から相互理解の可能性へと、村上春樹の初期から中期の作品は、発展して行った。
漱石の頃から、あまり変ってはいない。
そして現代では、誰とも友達になれない人々が、つながりを求めてか、つながりが絶えることを怖れてか、
LINE中毒から逃れられない。

287ページ
私は私の出来る限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、
今までの叙述で己れを尽くしたつもりです。

私というものは、いつまでたっても、私にとって不可思議であり、不可解であり続ける。
その不可思議なものを語り尽くそうとする行為もまた不可解であり続ける。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集8のものである。

行人

2015-12-13 00:05:20 | 夏目漱石
270ページ
「二郎、なぜ肝心な夫の名を世間が忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか。その訳を知ってるか」
「おれはこう解釈する。人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸した恋愛の方が、実際神聖だから、
それで時を経るに従って、狭い社会の作った窮屈な道徳を脱ぎ棄てて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、
我々の耳を刺激するように残るのではなかろうか。」

380ページ
「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない。
徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、
どこまで行っても休ませてくれない。どこまで伴れて行かれるか分らない。実に恐ろしい」

科学の発展により暮らしが豊かになった、自然の脅威に晒されていた人間は飢えや寒さを克服したということだ。
インフラ、電化製品、自動車やパソコンやスマートフォン、世界はますます発展を続けているということだ。
だがいったんその世界に身を委ねてしまったら途中下車できなくなる。
漱石が生きた時代は、日本が近代化した時代、あるいは近代化せざるを得なかった時代のように思える。
近代化は西洋化であり、科学を武器にして西洋は世界を侵食していた。
その勢力に対抗するためには己れ自身が西洋化する必要があった。
江戸時代やオーストラリア大陸のように、世界の片隅で干渉されずにいることは不可能になった。
深海に逃れた古代魚のように他の生き物との接点を無くしていけば進化と無縁でいられるのかもしれない。
端末を持ったあらゆる人が動画撮影可能な時代にあっては、たったひとりの労働者さえ見逃されることはない。
世界中の出来事が瞬時に伝えられる時代にあっては、情報を共有するための枠組みから逃れることが出来ない。
右肩上がりが強要されるこのキチガイ地味た世界の構成員から逃れることは出来ない。
誰も彼もが進歩と無縁ではいられない、進歩に身を捧げなければならない、自分の時間を捧げねばならない。
そうしてお互いの身体を精神を拘束し合い「どこまで行っても休ませてくれない」。
今では漱石が予言したその怖ろしい世界を「怖ろしい」と思う人もあまりいないのだろう。
進歩と消費のためだけに生きることは、それほど苦痛ではないのかもしれない。
そんなふうに生きていて、ある時ふと「自分は空っぽだ」と気付くのが、私は怖ろしい。
「わが生涯に一片の悔い無し(ラオウ昇天!)」みたいなことを言える人が羨ましいわけではないが、
進歩の道具になりたくないと思いながら、進歩のために働くことでしか稼ぎを得ることが出来ない状況を
さして苦にもせずに過していたりする。

383ページ
「君でも一日のうちに、損も得も要らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、
一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ」

391ページ
「自分に誠実でないものは、けっして他人に誠実であり得ない」

398ページ
「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」
「しかし宗教にはどうも這入れそうもない。死ぬのも未練に食いとめられそうだ。なればまあ気違だな。
しかし未来の僕はさておいて、現在の僕は君正気なんだろうかな。もうすでにどうかなっているんじゃないかしら。
僕は怖くてたまらない」

あるいはニーチェもそんなふうだったかもしれない。
死ぬというのは、人生は生きるに価しないという果敢な判断の結果であり、
気が違うというのは、生きるという矛盾から逃げ出さずに過した忍耐の結果であり、
宗教に入るというのは、主客を分離させなければ生き延びることが出来ない世界への反乱であり、
そのいずれもが尊いのではないかと思う。

409ページ
兄さんは神でも仏でも何でも自分以外に権威のあるものを建立するのが嫌いなのです。
(この建立という言葉も兄さんの使ったままを、私が踏襲するのです)。
それではニイチェのような自我を主張するのかというとそうでもないのです。

410ページ
兄さんは純粋に心の落ちつきを得た人は、求めないでも自然にこの境地に入れるべきだと云います。
一度この境界に入れば天地も万有も、すべての対象というものがことごとくなくなって、
ただ自分だけが存在するのだと云います。そうしてその時の自分は有るとも無いとも片のつかないものだと云います。
偉大なようなまた微細なようなものだと云います。何とも名のつけようのないものだと云います。
すなわち絶対だと云います。そうしてその絶対を経験している人が、俄然として半鐘の声を聞くとすると、
その半鐘の音はすなわち自分だというのです。言葉を換えて同じ意味を表わすと、
絶対即相対になるのだというのです、したがって自分以外に物を置き他を作って、苦しむ必要がなくなるし、
また苦しめられる掛念も起らないのだと云うのです。

419ページ
「君は絶対絶対と云って、この間むずかしい議論をしたが、何もそう面倒な無理をして、
絶対なんかに這入る必要はないじゃないか。ああいう風に蟹に見惚れてさえいれば、
少しも苦しくはあるまいがね。
まず絶対を意識して、それからその絶対が相対に変る刹那を捕えて、そこに二つの統一を見出すなんて、
ずいぶん骨が折れるだろう。第一人間にできる事か何だかそれさえ判然しやしない」
兄さんはまだ私を遮ろうとはしません。いつもよりはだいぶ落ちついているようでした。
私は一歩先に進みました。
「それより逆に行った方が便利じゃないか」
「逆とは」
こう聞き返す兄さんの眼には誠が輝いていました。
「つまり蟹に見惚れて、自分を忘れるのさ。自分と対象とがぴたりと合えば、
君の云う通りになるじゃないか」

主客をひとつにするには、自分を忘れる方が簡単だろう。
釈迦牟尼仏も道元もエルンスト・マッハも皆、同じことを言っている。
種と自己の繁栄あるいは維持(つまりは遺伝子の自己増殖)を至上命題として存在している生命が
自動操縦の仕掛けとして意識を備えた時から悲劇は始まっている。殺戮と呼んでも良い。
それまでは虚しく死んで行く生命体はさして尊くもなかったのだ。
神風特攻隊とか人間魚雷回天とか旧日本軍のイカレタ兵器と同様に
自然と言う名のイカレタ神はいずれ死んで行く個体に心を与えた。
そうして気が付けば世界の中に投げ出されている人間は
自分を忘れることで自然に一矢報いる。

430ページ
私の見た兄さんはおそらくあなた方の見た兄さんと違っているでしょう。
私の理解する兄さんもあなた方の理解する兄さんではありますまい。
もしこの手紙がこの努力に価するならば、その価は全くそこにあると考えて下さい。
違った角度から、同じ人を見て別様の反射を受けたところにあると思って
ご参考になさい。

多すぎる知性に悩まされる人物をいろいろな作家が描いてきた。
「もしこの手紙がこの努力に価するならば、その価は全くそこにあると考えて下さい」というのは、
イワンを救おうとするアリョーシャに似ているところがあって、
この小説が書かれた目的はそこにあるのではないかと思う。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集7のものである。

彼岸過迄

2015-12-06 00:05:58 | 夏目漱石
248ページ
かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、
新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうかという意見を持していた。

まえがきに小説の構成について書かれている。

572ページ
彼は森本の口を通して放浪生活の断片を聞いた。けれどもその断片は輪郭と表面から成る極めて浅いものであった。
したがって罪のない面白味を、野生の好奇心に充ちた彼の頭に吹き込んだだけである。
・・・
彼は田口と云う実際家の口を通して、彼が社会をいかに眺めているかを少し知った。
同時に高等遊民と自称する松本という男からその人生観の一部を聞かされた。
・・・
彼は千代子という女性の口を通して幼児の死を聞いた。
千代子によって叙せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、美くしい画を見るようなところに、
彼の快感を惹いた。けれどもその快感のうちには涙が交っていた。
・・・
彼は須永の口から一調子狂った母子の関係を聞かされて驚いた。彼も国元に一人の母を有つ身であった。
けれども彼と彼の母との関係は、須永ほど親しくない代りに、須永ほどの因果に纏綿されていなかった。
・・・
彼はまた須永から彼と千代子との間柄を聞いた。そして彼らは必竟夫婦として作られたものか、
朋友として存在すべきものか、もしくは敵として睨み合うべきものかを疑った。
その疑いの結果は、半分の好奇と半分の好意を駆って彼を松本に走らしめた。
彼は案外にも、松本をただ舶来のパイプを銜えて世の中を傍観している男でないと発見した。

最後に小説全体の要約が示されている。
幼児の死、歪な母子の関係、寄り添っては敵対してしまうような男女関係
個々の短篇のテーマを再確認しているようだ。
解説に次のようなことが書かれている。

582ページ
加えるに須永という人間が、性格的に、この作に次ぐ「行人」「心」の主人公と共通するものを
多分にもっているために、また主題が、個我の孤独な内面の、深刻な分析という共通性をもっているために、
この作を第二の三部作の冒頭に置く見方が定説に近い。

須永は「三四郎とも、代助とも、宗助ともちがっている」ということである。
引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集6のものである。

2015-11-29 00:05:35 | 夏目漱石
35ページ
彼らはそれほどの年輩でもないのに、もうそこを通り抜けて、日ごとに地味になって行く人のように見えた。
または最初から、色彩の薄い極めて通俗の人間が、習慣的に夫婦の関係を結ぶために
寄り合ったようにも見えた。

42ページ
「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。
細君はようやく気がついて口を噤んでしまう。

83ページ
すると道具屋がまた来た。また売らなかった。御米は断るのが面白くなって来た。
四度目には知らない男を一人連れて来たが、その男とこそこそ相談して、とうとう三十五円に価を付けた。
その時夫婦も立ちながら相談した。そうしてついに思い切って屏風を売り払った。

道具屋が父の残した抱一の屏風につけた値は最初は六円だった。
売らないでいたら値が上がっていったというところにささやかな幸せが見つかりそうだ。
この小説には他には微笑ましいところがほとんどない。
そして三十五円で買った屏風を道具屋が売った値を知ったら
その束の間の喜びも消えてしまいそうになってしまう。

115ページ
宗助から見ると、主人は書にも俳句にも多くの興味を有っていた。いつの間にこれほどの知識を頭の中へ
貯え得られるかと思うくらい、すべてに心得のある男らしく思われた。
宗助は己れを恥じて、なるべく物数を云わないようにして、ただ向うの話だけに耳を借す事を力めた。

書とか俳句とか、漱石の時代の趣味、興味の対象は今では廃れてしまった。
今では私たちを違う私たちに変えてくれるであろう体験をもたらす小説や音楽は大量生産されている。
即時的であった音楽は録音により商業化され、容易に手に入り、容易に聴くことができる。
著作権の切れた本は電子化されたものであれば無料で手に入る。
世界はコンテンツで溢れ、各々のコンテンツは一人ひとりの自由時間を獲得しようと激しい競争の中にある。
仕掛けられたベストセラーを人々は狂喜して求める。その熾烈な競争がもたらすものは通俗化であるが、
時代を越えて生き延びるのは、結局のところ通俗化を免れている作品ということになる。
だがそれにしたって随分と数が多い。そうした作品についての体験を驚くほど貯えている人がいる。
一日の大半を衣食住のための労働に費やす人間には出来ないことだと思う。
「いつの間にこれほどの知識を頭の中へ貯え得られるかと思うくらい、すべてに心得のある男らしく思われた」と
そういう気持ちはよくわかる。

142ページ
「なに金があるばかりじゃない。一つには子供が多いからさ。
子供さえあれば、大抵貧乏な家でも陽気になるものさ」と御米を覚した。
その云い方が、自分達の淋しい生涯を、多少自ら窘めるような苦い調子を、御米の耳に伝えたので、
御米は覚えず膝の上の反物から手を放して夫の顔を見た。

148ページ
これが子供に関する夫婦の過去であった。この苦い経験を甞めた彼らは、それ以後幼児について余り多くを
語るを好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために淋しく染めつけられて、
容易に剥げそうには見えなかった。

152ページ
「あなたは人に対してすまない事をした覚がある。その罪が祟っているから、子供はけっして育たない」と
云い切った。御米はこの一言に心臓を射抜かれる思があった。

小さい子供がいるとどんなに貧しい家庭も陽気になる。
子供は明るい未来の象徴であり、その未来には子供を育てている親も参加することが出来る。
子供がいることで私たちは希望を手にすることが出来る。未来を手にすることが出来る。
幸福を手にすることが出来る。幸福というのは、つまりは希望や未来のことなのだ。
罪が祟っていて好い事を期待する権利のない夫婦には子供は授からない。
既に未来も希望も奪われている。

172ページ
宗助は当時を憶い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、
自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。
事は冬の下から春が頭を擡げる自分に始まって、散り尽くした桜の花が若葉に色を易える頃に終った。
すべてが生死の戦であった。青竹を炙って油を絞るほどの苦しみであった。
大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。
二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。
彼らは砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。
・・・
曝露の日がまとめに彼らの眉間を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣の苦痛を乗り切っていた。
彼らは蒼白い額を素直に前に出して、そこに燄に似た焼印を受けた。
そうして無形の鎖で繋がれたまま、手を携えてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を
見出した。彼らは親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。
もしくはそれらから棄てられた。
学校からは無論棄てられた。ただ表向だけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしい迹を留めた。
これが宗助と御米の過去であった。

なんとなく「緋文字(The Scarlet Letter)」を思い出した。
二人を吹き倒した大嵐を下衆な表現にすると姦通ということなのだろう。
秩序を維持しようとする社会と情動の支配から逃れられない個人の関係はしばしば小説の主題になる。
その場合に犯した罪の重さは相手の男性が受けたダメージであるとか社会的地位によって算定される。
簡単に言うと、ヤクザの親分の女に手を出してはいけないということだ。
一生をかけて罪を償うという考え方は西洋的あるいは露西亜的(ラスコーリニコフ)かもしれない。
日本だと切腹で終わってしまいそうだ。

203ページ
宗助は一封の紹介状を懐にして山門を入った。

212ページ
彼は悟という美名に欺かれて、彼の平生に似合わぬ冒険を試みようと企てたのである。
そうして、もしこの冒険に成功すれば、今の不安な不定な弱々しい自分を救う事ができはしまいかと、
はかない望を抱いたのである。

215ページ
「書物を読むのはごく悪うございます。有体に云うと、読書ほど修業の妨になるものは無いようです。
私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当がつきません。
それを好加減に揣摩する癖がつくと、それが座る時の妨になって、自分以上の境界を予期して見たり、
悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫ができます。
大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう」

たとえばこの小説を読むためには仏教の心得が必要だと思う。
そして村上春樹の小説を読むためにはフィッツジェラルドやドストエフスキーの理解が必要だと思う。
初めて何かに触れた場合にはわからないことだらけだ。
予備知識なしに小説を読むと大抵の場合は勘違いするだけで終わってしまうのだが、
どこかから、何かから始めないことには、わかっていないことすらわからないまま終わってしまう。
そして作品を読むための予備知識である哲学や宗教の方が難しかったりする。
そうするといったいいつになったら何かを理解できるようになるのだろうということになる。
二年前に自分が書いたことを読み返していると、何もわかっていないということがわかった。
その後、哲学や宗教について関心を寄せていたら、様々なことが結びついていった。
いつそうなるかはわからない。何をすればわかるようになるか、わからない。
今だってわかっているつもりだが一年後にはわかっていなかったと書いているかもしれない。
そのような勘違いの連続だ。

232ページ
彼自身は長く門外に佇立むべき運命をもって生れて来たものらしかった。それは是非もなかった。
けれども、どうせ通れない門なら、わざわざそこまで辿りつくのが矛盾であった。
彼は後を顧みた。そうしてとうていまた元の路へ引き返す勇気を有たなかった。
彼は前を眺めた。前には堅固な扉がいつまでも展望を遮っていた。
彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。
要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

「狭き門」のアリサを思い出した。
門は閉ざすために設けられているのであって、大抵の場合は通れない。
そこを抜けると心清く、心穏やかに、達観した境地に辿り着けるのではないかと人々は期待を寄せるが、
そういう願いを持つ者の通れる門ではない。
物質的な窮乏、心理的な圧迫や強迫を逃れるための門ではない。
逃れようとする者が通り抜けれられる門ではない。
それは己が己を塞いでいる門かもしれない。

引用箇所のページ番号はちくま文庫の夏目漱石全集6のものである。