第457回定期演奏会〈バイロン『マンフレッド』〉
モーツァルト: ホルン協奏曲第1番ニ長調 K.412+514(386b)
モーツァルト: 歌劇『皇帝ティートの慈悲』 K.621 序曲
モーツァルト: ホルン協奏曲第4番変ホ長調 K.495
チャイコフスキー: マンフレッド交響曲 作品58
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あらすじ
アルプス山脈のユングフラウの城郭を舞台にマンフレッドと魔女、聖霊たちの形而上学的対話が展開される。
人間でありながら、神ほどの万能感を獲得したマンフレッドは、愛する人を失うという過去を持つ。
その悲痛な記憶を失いたくて、精霊を呼び出して、「忘却」をくれ、と要求する。精霊たちは、それはできないと言う。
「獲得」は自由なのに「喪失」は思いのままにならぬと悟ったマンフレッドは、
「喪失」の最高形態である「死」の問題に立ち向かうのであった。
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「マンフレッド」でググるとそういう説明があった。
読んだことはない。読んでみようかと少し考えたが、いまさら形而上学というのもどうなのだろう。
プラトンとキリスト教が共謀して、精神とか自由意志と呼ばれるものが異様に高い位置にあり
自然を改変して競争を生き抜いて行く科学と民主主義が重宝されるようになった。
精神性に対する賛美は、哲学、形而上学が最上のものであるという妄想につながって、
身体を離れた観念に閉じた思索が展開されていた時期が続いたが、
やがて脳とか精神とかいうのは身体の一部にすぎないという事実に気付く賢明な人々が現れた。
知性を駆使すればこの世で理解できないものはないという思い込み、
忙しくても時間を作って本を読んでいけばいずれはあらゆる現象を理解できるに違いないという期待、
このブログの主要な記事を読んだなら、その思い込みと期待が次第に打ち砕かれていったことに気付くかもしれない。
私は無知な自分をいずれは変えることができると信じていたが、たいして賢くもなれないのだと悟った。
知性にしても感性にしても、人間の取り分を少しずつ拡大して行くといった作業が続いている。
その作業を地道に続けていったとしていつになったら満足できるのだか。
そんなことを考えている間に寿命も尽きてしまうだろう。
チャイコフスキーの作品の中ではそんなに好きな方ではない。
最も高い評価を受けている第六番のような圧倒的なものは感じられない。
その第六番「悲愴」は日常的に聴けるような曲ではないので、第一番「冬の日の幻想」を聴く機会が多い。
長い冬を耐え忍んだ人々が春の訪れを待ちわびる気持ちと、
若い頃の希望に満ちた作曲家がとても丁寧に自分の第一交響曲を書いている姿が重なって
それも私の勝手な思い込み、幻想にすぎないのだけれども、それも含めて何だか満ち足りた気分になる。
そういう要素が、憧憬とメランコリーの共存というようなものがこの曲ではあまり感じられない。
あのチャイコフスキーが残した曲だから、そう思って聴いている。
モーツァルト: ホルン協奏曲第1番ニ長調 K.412+514(386b)
モーツァルト: 歌劇『皇帝ティートの慈悲』 K.621 序曲
モーツァルト: ホルン協奏曲第4番変ホ長調 K.495
チャイコフスキー: マンフレッド交響曲 作品58
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あらすじ
アルプス山脈のユングフラウの城郭を舞台にマンフレッドと魔女、聖霊たちの形而上学的対話が展開される。
人間でありながら、神ほどの万能感を獲得したマンフレッドは、愛する人を失うという過去を持つ。
その悲痛な記憶を失いたくて、精霊を呼び出して、「忘却」をくれ、と要求する。精霊たちは、それはできないと言う。
「獲得」は自由なのに「喪失」は思いのままにならぬと悟ったマンフレッドは、
「喪失」の最高形態である「死」の問題に立ち向かうのであった。
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「マンフレッド」でググるとそういう説明があった。
読んだことはない。読んでみようかと少し考えたが、いまさら形而上学というのもどうなのだろう。
プラトンとキリスト教が共謀して、精神とか自由意志と呼ばれるものが異様に高い位置にあり
自然を改変して競争を生き抜いて行く科学と民主主義が重宝されるようになった。
精神性に対する賛美は、哲学、形而上学が最上のものであるという妄想につながって、
身体を離れた観念に閉じた思索が展開されていた時期が続いたが、
やがて脳とか精神とかいうのは身体の一部にすぎないという事実に気付く賢明な人々が現れた。
知性を駆使すればこの世で理解できないものはないという思い込み、
忙しくても時間を作って本を読んでいけばいずれはあらゆる現象を理解できるに違いないという期待、
このブログの主要な記事を読んだなら、その思い込みと期待が次第に打ち砕かれていったことに気付くかもしれない。
私は無知な自分をいずれは変えることができると信じていたが、たいして賢くもなれないのだと悟った。
知性にしても感性にしても、人間の取り分を少しずつ拡大して行くといった作業が続いている。
その作業を地道に続けていったとしていつになったら満足できるのだか。
そんなことを考えている間に寿命も尽きてしまうだろう。
チャイコフスキーの作品の中ではそんなに好きな方ではない。
最も高い評価を受けている第六番のような圧倒的なものは感じられない。
その第六番「悲愴」は日常的に聴けるような曲ではないので、第一番「冬の日の幻想」を聴く機会が多い。
長い冬を耐え忍んだ人々が春の訪れを待ちわびる気持ちと、
若い頃の希望に満ちた作曲家がとても丁寧に自分の第一交響曲を書いている姿が重なって
それも私の勝手な思い込み、幻想にすぎないのだけれども、それも含めて何だか満ち足りた気分になる。
そういう要素が、憧憬とメランコリーの共存というようなものがこの曲ではあまり感じられない。
あのチャイコフスキーが残した曲だから、そう思って聴いている。