140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

宙返り(下)

2017-10-14 00:05:35 | 大江健三郎
32ページ
師匠(パトロン)は向こう側に拉致されるようにして大きい瞑想に入る。自分の意志ではどうにもならない経験で神と居る。
しかしこちら側に戻って、自分としての頭の自由・魂の自由を取り返すとなると、永年自力で考え続けた、
人格神は真実でないという心情をゆずれない。

人格神が真実であるか、汎神論的に様々なものに神は宿っているのか、神などいないのか、
いずれにしても絶対的にそのことが決まっているのであれば、神についての個々の心情なんぞには意味がないのであって、
そんなものが受け入れられるとしても、受け入れられないとしても、その心情の個体の消滅と共に消え失せるものであって、
魂の自由といったことも、めまぐるしく変化する環境と、常に場所を入れ替える餌、異性と交感する状況にあって、
過去に蓄積した経験から最適と考えられる行動をシミュレートする機能が発展していったものを、
要するに生き物を自動操縦する仕掛けといったものを「自由」と呼んでいるだけなのだとしたら、
「取り返した」ところで何になろうという気もするのだが、
そうしたもののために個体のすべてを投げ出して徹底的に抗戦しようというのだから、
私たちというのは、つくづく気まぐれで不可解な存在に違いない。
自分の行動を、選択した結果を後押ししてくれる人格神というのは眉唾物だが、
常に戦闘が強いられる陸続きの大陸でもじもじしていたのなら、自分も家族も血祭りになるので選択の余地はないかもしれない。
ただ、異教徒の住むこの島国では、徹底的に敵を殲滅する人格神のあり方には、違和感が持たれる。
自然の中に、森や川や湖といったところに、人格を前面に押し出したりはしない控えめな神々が、
暮らしているのかもしれない。

32ページ
この世界に神はある。それがなければ、この世界全体は、あなたがそう感じて苦しむようにバラバラで無意味なものだ、
と師匠(パトロン)は説明してくれた。太陽系の外側に、あるいは銀河系よりもなお遠くはずれて実在する、
もうひとつの地球を想像してもらいたい。そこに神はないと仮定する。
その惑星ではなにもかもがバラバラで、その地球に人類が発生し、進化しえたとしても、
何十世紀に及ぶ文明は維持できないだろう。まず初めに人類がバラバラになって滅び、世界は人類のいない場所となる。
それが荒涼とした地獄であるか、人類より他の生きものの倖せな楽園であるかはわからないとしても・・・

観測結果より、この宇宙が存続している期間は、およそ138憶年と見積もられている。
2013年には137億年とされていたが、ここ数年で1憶年増えたらしい。
カール・セーガンがコスモスという番組を主催していた頃は、200憶年くらいだったような気がする。
そしてその200億年を仮に1年に圧縮したなら、どういうことになるかと、科学者というよりは呪い師のような彼は語りかける。
その圧縮された1年で、人類が登場するのは大晦日の10時30分で、火を使い始めたのが23時46分ということだ。
道具を使い始めたのが23時59分20秒、文明が占める時間枠は最後の数秒か数十秒に限られる。
それまでの間、ずっと、宇宙には観測者が不在だったということかもしれない。
そして観測者が不在の世界には意味などなく、バラバラで無意味であって、神もない。
神があるのは、1年の最後の数秒だけなのだ。
その数秒だけ維持し得る文明を誇らしげにしたところで、元旦から大晦日の23時59分までの沈黙があったことは、
変更のしようがない。宇宙は、あるいは世界はずっと人類のいない場所だったという事実は揺らぎもしない。
一方、物質の物理的な結合、科学的な結合を可能とする自然界の法則は、世界に秩序があり従って神があることを連想させる。
ただその法則と呼んでいるものは何かというと、時間と空間と物質(質量、エネルギー)の関係を
私たちが意味として把握できるための形式に他ならないのではないかという気がして、
つまり意味としてしか世界を把握できないという状況は何も変わらず、
そこから把握しえない、類推しえない、気付きもしない真実があったとすれば、当然、気付きもしないことすらわからない。
あるいは原因と結果という関係で物事を把握することには限界があるのだと、
原因がなければならないと考えた瞬間にカントが考えたように無限に原因を遡ることになるのだと、
ちょっと考えればわかりそうなものだが、そうやって人は第一原因である神を仮定してしまう。

333ページ
《十三年後に皇帝暗殺者となって十字架にかかるべきアリョーシャばかりでなく、無実の罪を担う情慾者ドミートリイも、
生の渇望を叫ぶ大審問官イワンも、その位置を一変して、「カラマーゾフ万歳!」の少年達の唱和のなかに、
ともに昇華するのである。》

カラマーゾフの兄弟の第二部は書かれなかったので、アリョーシャが皇帝暗殺者として描かれた事実はない。
だが作者がそのようなつもりであったと伝わっている。
小説に書かれた人物として最も美しいと誰もが考えるアリョーシャが人を殺める状況を想像することはできず、
それも相手が皇帝だとしたら、社会体制の不備に不満を持つ革命分子といった矮小化された人物像に、
アリョーシャが縮小されてしまうのだとしたら、それこそが悲劇と言えたかもしれない。
だがドストエフスキーであれば、私たちの予想を遥かに超えた情景を展開していたことだろう。
もしかしたら十字架にかかる救世主を再現していたのかもしれない。

362ページ
チェルノブイリ以後も、この国には原発の大きい事故はありえない、と政府も電力会社も宣伝しています。
NHKはじめ大新聞も同調している。原発の事故が重大なものになることはまあないだろう、と
ナショナルコンセンサスができあがってる国じゃないでしょうか?

かつて事故は起きないと言っていて、それでも重大な事故が発生してしまったが、
そのことすらも地震があったことと一緒に忘れ去られようとしている。そういうものなのだろう。何も変わらない。
安定した電力供給がなければ激しい国際競争に打ち勝つことはできないのだと地位を獲得した人々は言っている。
だが核燃料をリサイクルするシステムはナトリウムを冷却材として用いるという工業的にはあり得ない仕組みを前提としていたから、
あえなく頓挫してしまった。そうして文明の存続期間に比べると長大な半減期を持つ放射性物質が、
安定した電力供給と共に日々生み出されて行く。ウンコをまき散らしながら生きているようなものだ。
私たちは、何も変えれない自分たちにうんざりしてしまって、政治的な無力を直視することを避けている。
そういうふうに自分がダメになって行くことからも目を背けている。
コンセンサスなんてない。あるのは無力な人々の群れだ。

427ページ
「静かな女たち」と「技師団」は、私と案内人(ガイド)の「宙返り」を全面的に拒否していた。そしていまも、そのままだ。
彼女ら、かれらは十年間変わらなかったことがわかる。

いち早く教義に同調した人々が教祖の変化を許さず、信じたものに殉じようとかたくなになる。
そこから一歩も譲歩しようとはしない。そんなふうにして変わらないということが彼らのひたむきさを示しているのだろうか。
日常生活の困難から何かを信じたいと考えている人々は、一度変わってしまうと、もう別の方向へは変われない。
そういう人たちに比べると、わが身のなんという軽薄さだろうか。
その都度、信じて来た思想を、次から次へと破棄しているだけなのかもしれない。そうして何も残らない。
だが、そうやって変わり続けることの可能性を常に確保して行かなければ、
行き詰った思想に殉じて一生を終えるだけなのではないかと、いつも考えている。
そんなふうにして何もかも捨ててしまって何も残らないと笑い者になったとしても、
変化することの可能性を確保していたい。

477ページ
ここは、神のいない教会となったのですか?
―――教会という言葉は、私らの定義で、魂のことをする場所のことです。

「魂のことをする」というのは「燃え上がる緑の木」のギー兄さんが言っていたことで、
それは自分や他人の魂を救うというような意味合いを持っているもののようで、
でもそれは「神」とは無関係、特に人格神とは無関係ということが、宣言される。
宗教の権威とか、神への全面的な服従、全幅の信頼による自意識の消失、忘我による至福、
そういうものとは無縁の、あくまでも自由な人間が苦悩の末に辿り着くべき魂の救済、
作者は、信じない者たちが、どのようにして救われるべきかと考えているかのようだ。
だが私は別に救われなくてもいいやと思っている。
あるいは何かしらの行動を起こしたことが、すなわち救いではないかと思っている。
結果ではなくて、その姿勢によって決まることではないかと思っている。

名古屋フィル#73カルミナ・ブラーナ

2017-10-09 07:33:45 | 音楽
第450回定期演奏会〈名古屋/名古屋の歌声とともに・宗教改革500年〉
メンデルスゾーン: 交響曲第5番ニ長調 作品107『宗教改革』
オルフ: 世俗カンタータ『カルミナ・ブラーナ』

「1803年、ボイエルン修道院が国有化されることになり、調査が行われた。
その結果、図書室から古い歌を集めた写本が発見された。その中の歌は約300編にのぼり、
ラテン語、古イタリア語、中高ドイツ語、古フランス語などで書かれていた。
歌詞の内容は若者の怒りや恋愛の歌、酒や性、パロディなどの世俗的なものが多く、
おそらくこの修道院を訪れた学生や修道僧たちによるものと考えられた」とWikipediaに書かれていた。
その詩歌集から24篇を選び、曲を付けたのがオルフの「カルミナ・ブラーナ」ということだ。

図書館から借りて来たオイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団の演奏をリッピングして
MP3プレーヤーで何年も聴いていたが、詩の内容や意味はずっと知らずに過ごして来た。
冒頭は非情な運命に対する嘆きのように聴こえて、そこで一気に惹きつけられたりもするが、
そんな掴みだけでは到底もたないくらい演奏時間が長い。
言葉はわからないが全編を通して何かしら親近感のようなものが感じられるのであって、
クラシック音楽ではどちらかというと珍しい種類の聴こえ方ではないかと思う。
その得体の知れぬ親近感の正体を掴めぬままコンサートホールで着々と進む演奏を聴いていたが、
突然、その尻尾が見えたような気がした。もともと世俗的な詩であるから、それにつける曲も世俗的になるのであって、
そこに音楽化されているのは私たちの生活そのものではないかと、そんな気がした。
11世紀から13世紀の間に書かれたと推測されている詩歌は凡人の手によるものであり、
遥かな時を超えて私たちの暮らしで最も大切とされているもの、それは酒や恋にまつわるものであって、
その凡庸さに安心してしまい、作曲家が最上の芸術でその凡庸さを表現し得たということを忘れて、
指揮者と演奏者とソリスト、合唱団がたゆまぬ努力の上に最高の演奏を実現しているということを忘れて、
ただひたすらにそこに馴染みの生活、馴染みの感情を見出している自分がいた。
あまりに人間的で性的にだらしない神々が登場するギリシャ神話が現代でも受け入れられているように
この楽曲は20世紀を代表する楽曲であり続けるのだろう。

宙返り(上)

2017-10-07 00:05:44 | 大江健三郎
27ページ
私が改めて大きい瞑想をして向こう側へ行けても、そこで経験することは、ウワゴトを言い散らすようにしか表現できないんだから。
それを案内人(ガイド)が聞きとって、意味のある文脈に並べ変えてくれる。
それではじめて、私の言葉は、こちら側の言葉となるわけだ。
その手続きなしでは、私の言葉が意味を持つことはない。

超越的な体験は決して他人には伝達されないものではないかと思う。
あるいは視覚や聴覚を活用した感性的感覚的直感的な表現手段を用いれば、幾分かは伝えられるものかもしれないが、
色彩、音階というのは実は光の周波数、音の周波数と切れない関係にあり、
その並びが好ましいと思えるのは、あらかじめ私たちの身体が受け付けられる周波数の並びを先験的に知っているからのようでもあり、
そうするとそれが超越的な形態を取った場合に示されるのはランダムな記号でしかないような気がする。
感性的なものでさえそうであれば、言語を介して伝えられる手段、つまりは意味が支配する世界においては、
超越的なものは最も伝えられにくいものではないかと思う。
「意味のある文脈に並べ変える」過程で、それは著しく損なわれてしまうだろう。
そうして教祖のみに許された神秘的な体験というものは、狂人の妄想と同列のものに成り下がってしまう。
それでも「意味のある文脈」に神秘的な体験を見出せるというのであれば、それは自分があらかじめ準備していたからであって、
感動したい人が感動するためのネタを常に探しているのとそう変りはないだろう。

37ページ
百年後を考えれば、そこで全人類規模の悔い改めが行われなければならないということは、誰の眼にも明瞭ではないか?
百年後のこの惑星の徹底的な行き詰りは、避けることができぬものとしていまから見えている。
しかもなお先進国の消費文化の繁栄と低開発国のそれへの追走は、旧約の語っている滅びの前の享楽的な都市の栄え
そのままではないだろうか?

今、現在が堕落しているから、このまま百年が経過すれば末世に至るという、いつの時代にもある人々の懸念。
人類を何十回も抹殺できるほどの核兵器の製造保有を許してしまっている時点で私たちは等しく罪を背負っているとも言う。
そのような邪悪な兵器と、その保有を正当化する邪悪な精神の存在を許している者として私たちは罪人なのだろう。
一方では数十億年に渡ってこの惑星が蓄積して来た資源を数代で浪費してしまう勢いの著しい消費経済があり、
自転車操業のように前年度よりも高い売上利益が求められる狂信的な企業経営があり、
個人としての評価が金儲けの才能に大きく依存しているのであれば、その状況は変わりそうにはない。
食物連鎖の頂点にある肉食動物が増え過ぎたなら、相対的に不足する獲物の減少によって、その数は調整されるだろう。
そうして享楽的な都市の繁栄は、怒れる神の雷だか、自然法則によって、滅びることになる。
百年に満たない兵器開発の営みが知識人の激しい批判を誘発するのなら、あるいはそんな悔い改めをして許されると考えているのなら、
私たちの想像が及ばぬほどの何億年もの間、繁栄した大型爬虫類、あるいは恐竜を環境の変化に追随できぬ種として
愚弄してきた私たちのいかに小さいことだろうか。悠久の時の流れを理解できぬ私たちは、いつだって性急すぎる。
そして自分の生きている時代を末世と考える傲慢さも備えている。

118ページ
若い時、私は思っていた、真実は水平線を越えてやって来る、と。

常に求め続けていれば、追求する努力を怠らなければ、やがて真実に到達できると、かつて私も信じていた。
その考え方が、いつ頃、離れて行ったのか、今となってはそれもよく覚えてはいない。
「真実」という言葉が、決して実体を伴ったものではあり得ないという確信があったのかもしれないし、
それは例の「物自体」に決して到達できないということと似ているかもしれない。
あるいは「真実」などという観念的なものの価値を認めないという立場に転向してしまったのかもしれない。
いずれにしても私は「真実」に対して魅力を感じなくなってしまったし、
そんなものにやって来てもらおうとも思わなくなった。

199ページ
「宙返り」をやることで、われわれ自身が運動を放棄するまで、私はなにを信者たちに説いていたのか?
それは端的に、この世界を悔い改めた人間でいっぱいにしたい、ということだった。
唯一それが、この惑星に再生の手がかりを作ることだから。

生れて来た人間がすべて「悔い改めて」世界が慈愛で満たされる。いったい何を悔い改めれればいいのだろう。
子供の時に飼っていた栗鼠を餓死させてしまったのは私だし、性欲のままに弄んだ恋人を捨ててしまったのも私だし、
いつだって楽しようとして周りの人々の期待を裏切って来たのも私だし、
確かにこんな人間が生き続けることに意味なんてなくて、子育てが終わったなら、とっとと死んでしまった方が良いだろう。
悔い改めて、突然、世の為、人の為、人格を入れ替えて活動を始めるとも思えない。
もう二度と実行する機会の与えられない「もっとこうすれば良かった」という思い、
「あんなひどいことをするんじゃなかった」という後悔、
決して成し遂げられぬ行為を可能にすることが、この惑星の再生につながるのだろうか。
いや、そんな行為は何世紀にも渡って、ずっと続けられて来たのだ。
そうして「悔い改め」は不完全に心に留まり続け、数え切れない世代に渡って罪をつぐない切れぬ行動の欠落が蓄積され、
そしてまだ反省が足りないと言われ続ける。神はそんなに偉いのか。

230ページ
しかし私らは、自分らのなかに、唯一者というか唯一なるものというか、平たくいえば神によってもたらされた、
光の粒子/波動を持っている。一個の人間として、信仰を確立するということは、その光の粒子/波動を、
あいまいな概念から切り離して、自分の身体と精神の良い環境に置く、そういうことです。
その光の粒子/波動は私らのなかにあるが、私らの所有ではない。ましてや私らの作ったものではない。
私らが唯一者から預かっているものですね。

やがて朽ちる有機体でできた身体は借り物なのだという気持ちがどこかにある。それは百年に満たないうちに返さなければならない。
返却された物は最小単位に分解されて、次にこの世界を満たす一員の身体に使われる。
その最小単位を、分割不可能なものとして、あるいは破壊不可能なものとして「光の粒子/波動」と呼んでいるのだろうか。
物質、あるいは原子、さらに小さな陽子、中性子と、知性の働きのままに分割していったとして、
やがてその振る舞いは粒子なのか波動なのか断定できないものとなる。
ついたてに穴を二つ開けておくとスクリーンには干渉縞が現れる。
光の粒子はどちらかの穴を通ったはずだが、一つを閉じてしまうと干渉縞はなくなる。
微小な世界というのは、宇宙開闢の時と同様にオカルトに満ちている。
テロメアに制限がなければ、あるいは染色体が円環をなして再生時にテロメアの欠落のない生物であれば、
借用した身体の返却期限はもっと延長され、無へと還元されてしまうことの恐怖を幾分緩和することができるかもしれない。
しかし振り返ってみた時の、時の経過が速いように、いくらか延長されたところで一瞬とそう変りはないのだろう。
そして時間を与えられたからといって何をしようというのだろう。
何かをする度に才能の欠落を思い知らされて、存在を続けることに自信を失くして行く。
そういう時には信仰にすがりたくなる。