32ページ
師匠(パトロン)は向こう側に拉致されるようにして大きい瞑想に入る。自分の意志ではどうにもならない経験で神と居る。
しかしこちら側に戻って、自分としての頭の自由・魂の自由を取り返すとなると、永年自力で考え続けた、
人格神は真実でないという心情をゆずれない。
人格神が真実であるか、汎神論的に様々なものに神は宿っているのか、神などいないのか、
いずれにしても絶対的にそのことが決まっているのであれば、神についての個々の心情なんぞには意味がないのであって、
そんなものが受け入れられるとしても、受け入れられないとしても、その心情の個体の消滅と共に消え失せるものであって、
魂の自由といったことも、めまぐるしく変化する環境と、常に場所を入れ替える餌、異性と交感する状況にあって、
過去に蓄積した経験から最適と考えられる行動をシミュレートする機能が発展していったものを、
要するに生き物を自動操縦する仕掛けといったものを「自由」と呼んでいるだけなのだとしたら、
「取り返した」ところで何になろうという気もするのだが、
そうしたもののために個体のすべてを投げ出して徹底的に抗戦しようというのだから、
私たちというのは、つくづく気まぐれで不可解な存在に違いない。
自分の行動を、選択した結果を後押ししてくれる人格神というのは眉唾物だが、
常に戦闘が強いられる陸続きの大陸でもじもじしていたのなら、自分も家族も血祭りになるので選択の余地はないかもしれない。
ただ、異教徒の住むこの島国では、徹底的に敵を殲滅する人格神のあり方には、違和感が持たれる。
自然の中に、森や川や湖といったところに、人格を前面に押し出したりはしない控えめな神々が、
暮らしているのかもしれない。
32ページ
この世界に神はある。それがなければ、この世界全体は、あなたがそう感じて苦しむようにバラバラで無意味なものだ、
と師匠(パトロン)は説明してくれた。太陽系の外側に、あるいは銀河系よりもなお遠くはずれて実在する、
もうひとつの地球を想像してもらいたい。そこに神はないと仮定する。
その惑星ではなにもかもがバラバラで、その地球に人類が発生し、進化しえたとしても、
何十世紀に及ぶ文明は維持できないだろう。まず初めに人類がバラバラになって滅び、世界は人類のいない場所となる。
それが荒涼とした地獄であるか、人類より他の生きものの倖せな楽園であるかはわからないとしても・・・
観測結果より、この宇宙が存続している期間は、およそ138憶年と見積もられている。
2013年には137億年とされていたが、ここ数年で1憶年増えたらしい。
カール・セーガンがコスモスという番組を主催していた頃は、200憶年くらいだったような気がする。
そしてその200億年を仮に1年に圧縮したなら、どういうことになるかと、科学者というよりは呪い師のような彼は語りかける。
その圧縮された1年で、人類が登場するのは大晦日の10時30分で、火を使い始めたのが23時46分ということだ。
道具を使い始めたのが23時59分20秒、文明が占める時間枠は最後の数秒か数十秒に限られる。
それまでの間、ずっと、宇宙には観測者が不在だったということかもしれない。
そして観測者が不在の世界には意味などなく、バラバラで無意味であって、神もない。
神があるのは、1年の最後の数秒だけなのだ。
その数秒だけ維持し得る文明を誇らしげにしたところで、元旦から大晦日の23時59分までの沈黙があったことは、
変更のしようがない。宇宙は、あるいは世界はずっと人類のいない場所だったという事実は揺らぎもしない。
一方、物質の物理的な結合、科学的な結合を可能とする自然界の法則は、世界に秩序があり従って神があることを連想させる。
ただその法則と呼んでいるものは何かというと、時間と空間と物質(質量、エネルギー)の関係を
私たちが意味として把握できるための形式に他ならないのではないかという気がして、
つまり意味としてしか世界を把握できないという状況は何も変わらず、
そこから把握しえない、類推しえない、気付きもしない真実があったとすれば、当然、気付きもしないことすらわからない。
あるいは原因と結果という関係で物事を把握することには限界があるのだと、
原因がなければならないと考えた瞬間にカントが考えたように無限に原因を遡ることになるのだと、
ちょっと考えればわかりそうなものだが、そうやって人は第一原因である神を仮定してしまう。
333ページ
《十三年後に皇帝暗殺者となって十字架にかかるべきアリョーシャばかりでなく、無実の罪を担う情慾者ドミートリイも、
生の渇望を叫ぶ大審問官イワンも、その位置を一変して、「カラマーゾフ万歳!」の少年達の唱和のなかに、
ともに昇華するのである。》
カラマーゾフの兄弟の第二部は書かれなかったので、アリョーシャが皇帝暗殺者として描かれた事実はない。
だが作者がそのようなつもりであったと伝わっている。
小説に書かれた人物として最も美しいと誰もが考えるアリョーシャが人を殺める状況を想像することはできず、
それも相手が皇帝だとしたら、社会体制の不備に不満を持つ革命分子といった矮小化された人物像に、
アリョーシャが縮小されてしまうのだとしたら、それこそが悲劇と言えたかもしれない。
だがドストエフスキーであれば、私たちの予想を遥かに超えた情景を展開していたことだろう。
もしかしたら十字架にかかる救世主を再現していたのかもしれない。
362ページ
チェルノブイリ以後も、この国には原発の大きい事故はありえない、と政府も電力会社も宣伝しています。
NHKはじめ大新聞も同調している。原発の事故が重大なものになることはまあないだろう、と
ナショナルコンセンサスができあがってる国じゃないでしょうか?
かつて事故は起きないと言っていて、それでも重大な事故が発生してしまったが、
そのことすらも地震があったことと一緒に忘れ去られようとしている。そういうものなのだろう。何も変わらない。
安定した電力供給がなければ激しい国際競争に打ち勝つことはできないのだと地位を獲得した人々は言っている。
だが核燃料をリサイクルするシステムはナトリウムを冷却材として用いるという工業的にはあり得ない仕組みを前提としていたから、
あえなく頓挫してしまった。そうして文明の存続期間に比べると長大な半減期を持つ放射性物質が、
安定した電力供給と共に日々生み出されて行く。ウンコをまき散らしながら生きているようなものだ。
私たちは、何も変えれない自分たちにうんざりしてしまって、政治的な無力を直視することを避けている。
そういうふうに自分がダメになって行くことからも目を背けている。
コンセンサスなんてない。あるのは無力な人々の群れだ。
427ページ
「静かな女たち」と「技師団」は、私と案内人(ガイド)の「宙返り」を全面的に拒否していた。そしていまも、そのままだ。
彼女ら、かれらは十年間変わらなかったことがわかる。
いち早く教義に同調した人々が教祖の変化を許さず、信じたものに殉じようとかたくなになる。
そこから一歩も譲歩しようとはしない。そんなふうにして変わらないということが彼らのひたむきさを示しているのだろうか。
日常生活の困難から何かを信じたいと考えている人々は、一度変わってしまうと、もう別の方向へは変われない。
そういう人たちに比べると、わが身のなんという軽薄さだろうか。
その都度、信じて来た思想を、次から次へと破棄しているだけなのかもしれない。そうして何も残らない。
だが、そうやって変わり続けることの可能性を常に確保して行かなければ、
行き詰った思想に殉じて一生を終えるだけなのではないかと、いつも考えている。
そんなふうにして何もかも捨ててしまって何も残らないと笑い者になったとしても、
変化することの可能性を確保していたい。
477ページ
ここは、神のいない教会となったのですか?
―――教会という言葉は、私らの定義で、魂のことをする場所のことです。
「魂のことをする」というのは「燃え上がる緑の木」のギー兄さんが言っていたことで、
それは自分や他人の魂を救うというような意味合いを持っているもののようで、
でもそれは「神」とは無関係、特に人格神とは無関係ということが、宣言される。
宗教の権威とか、神への全面的な服従、全幅の信頼による自意識の消失、忘我による至福、
そういうものとは無縁の、あくまでも自由な人間が苦悩の末に辿り着くべき魂の救済、
作者は、信じない者たちが、どのようにして救われるべきかと考えているかのようだ。
だが私は別に救われなくてもいいやと思っている。
あるいは何かしらの行動を起こしたことが、すなわち救いではないかと思っている。
結果ではなくて、その姿勢によって決まることではないかと思っている。
師匠(パトロン)は向こう側に拉致されるようにして大きい瞑想に入る。自分の意志ではどうにもならない経験で神と居る。
しかしこちら側に戻って、自分としての頭の自由・魂の自由を取り返すとなると、永年自力で考え続けた、
人格神は真実でないという心情をゆずれない。
人格神が真実であるか、汎神論的に様々なものに神は宿っているのか、神などいないのか、
いずれにしても絶対的にそのことが決まっているのであれば、神についての個々の心情なんぞには意味がないのであって、
そんなものが受け入れられるとしても、受け入れられないとしても、その心情の個体の消滅と共に消え失せるものであって、
魂の自由といったことも、めまぐるしく変化する環境と、常に場所を入れ替える餌、異性と交感する状況にあって、
過去に蓄積した経験から最適と考えられる行動をシミュレートする機能が発展していったものを、
要するに生き物を自動操縦する仕掛けといったものを「自由」と呼んでいるだけなのだとしたら、
「取り返した」ところで何になろうという気もするのだが、
そうしたもののために個体のすべてを投げ出して徹底的に抗戦しようというのだから、
私たちというのは、つくづく気まぐれで不可解な存在に違いない。
自分の行動を、選択した結果を後押ししてくれる人格神というのは眉唾物だが、
常に戦闘が強いられる陸続きの大陸でもじもじしていたのなら、自分も家族も血祭りになるので選択の余地はないかもしれない。
ただ、異教徒の住むこの島国では、徹底的に敵を殲滅する人格神のあり方には、違和感が持たれる。
自然の中に、森や川や湖といったところに、人格を前面に押し出したりはしない控えめな神々が、
暮らしているのかもしれない。
32ページ
この世界に神はある。それがなければ、この世界全体は、あなたがそう感じて苦しむようにバラバラで無意味なものだ、
と師匠(パトロン)は説明してくれた。太陽系の外側に、あるいは銀河系よりもなお遠くはずれて実在する、
もうひとつの地球を想像してもらいたい。そこに神はないと仮定する。
その惑星ではなにもかもがバラバラで、その地球に人類が発生し、進化しえたとしても、
何十世紀に及ぶ文明は維持できないだろう。まず初めに人類がバラバラになって滅び、世界は人類のいない場所となる。
それが荒涼とした地獄であるか、人類より他の生きものの倖せな楽園であるかはわからないとしても・・・
観測結果より、この宇宙が存続している期間は、およそ138憶年と見積もられている。
2013年には137億年とされていたが、ここ数年で1憶年増えたらしい。
カール・セーガンがコスモスという番組を主催していた頃は、200憶年くらいだったような気がする。
そしてその200億年を仮に1年に圧縮したなら、どういうことになるかと、科学者というよりは呪い師のような彼は語りかける。
その圧縮された1年で、人類が登場するのは大晦日の10時30分で、火を使い始めたのが23時46分ということだ。
道具を使い始めたのが23時59分20秒、文明が占める時間枠は最後の数秒か数十秒に限られる。
それまでの間、ずっと、宇宙には観測者が不在だったということかもしれない。
そして観測者が不在の世界には意味などなく、バラバラで無意味であって、神もない。
神があるのは、1年の最後の数秒だけなのだ。
その数秒だけ維持し得る文明を誇らしげにしたところで、元旦から大晦日の23時59分までの沈黙があったことは、
変更のしようがない。宇宙は、あるいは世界はずっと人類のいない場所だったという事実は揺らぎもしない。
一方、物質の物理的な結合、科学的な結合を可能とする自然界の法則は、世界に秩序があり従って神があることを連想させる。
ただその法則と呼んでいるものは何かというと、時間と空間と物質(質量、エネルギー)の関係を
私たちが意味として把握できるための形式に他ならないのではないかという気がして、
つまり意味としてしか世界を把握できないという状況は何も変わらず、
そこから把握しえない、類推しえない、気付きもしない真実があったとすれば、当然、気付きもしないことすらわからない。
あるいは原因と結果という関係で物事を把握することには限界があるのだと、
原因がなければならないと考えた瞬間にカントが考えたように無限に原因を遡ることになるのだと、
ちょっと考えればわかりそうなものだが、そうやって人は第一原因である神を仮定してしまう。
333ページ
《十三年後に皇帝暗殺者となって十字架にかかるべきアリョーシャばかりでなく、無実の罪を担う情慾者ドミートリイも、
生の渇望を叫ぶ大審問官イワンも、その位置を一変して、「カラマーゾフ万歳!」の少年達の唱和のなかに、
ともに昇華するのである。》
カラマーゾフの兄弟の第二部は書かれなかったので、アリョーシャが皇帝暗殺者として描かれた事実はない。
だが作者がそのようなつもりであったと伝わっている。
小説に書かれた人物として最も美しいと誰もが考えるアリョーシャが人を殺める状況を想像することはできず、
それも相手が皇帝だとしたら、社会体制の不備に不満を持つ革命分子といった矮小化された人物像に、
アリョーシャが縮小されてしまうのだとしたら、それこそが悲劇と言えたかもしれない。
だがドストエフスキーであれば、私たちの予想を遥かに超えた情景を展開していたことだろう。
もしかしたら十字架にかかる救世主を再現していたのかもしれない。
362ページ
チェルノブイリ以後も、この国には原発の大きい事故はありえない、と政府も電力会社も宣伝しています。
NHKはじめ大新聞も同調している。原発の事故が重大なものになることはまあないだろう、と
ナショナルコンセンサスができあがってる国じゃないでしょうか?
かつて事故は起きないと言っていて、それでも重大な事故が発生してしまったが、
そのことすらも地震があったことと一緒に忘れ去られようとしている。そういうものなのだろう。何も変わらない。
安定した電力供給がなければ激しい国際競争に打ち勝つことはできないのだと地位を獲得した人々は言っている。
だが核燃料をリサイクルするシステムはナトリウムを冷却材として用いるという工業的にはあり得ない仕組みを前提としていたから、
あえなく頓挫してしまった。そうして文明の存続期間に比べると長大な半減期を持つ放射性物質が、
安定した電力供給と共に日々生み出されて行く。ウンコをまき散らしながら生きているようなものだ。
私たちは、何も変えれない自分たちにうんざりしてしまって、政治的な無力を直視することを避けている。
そういうふうに自分がダメになって行くことからも目を背けている。
コンセンサスなんてない。あるのは無力な人々の群れだ。
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「静かな女たち」と「技師団」は、私と案内人(ガイド)の「宙返り」を全面的に拒否していた。そしていまも、そのままだ。
彼女ら、かれらは十年間変わらなかったことがわかる。
いち早く教義に同調した人々が教祖の変化を許さず、信じたものに殉じようとかたくなになる。
そこから一歩も譲歩しようとはしない。そんなふうにして変わらないということが彼らのひたむきさを示しているのだろうか。
日常生活の困難から何かを信じたいと考えている人々は、一度変わってしまうと、もう別の方向へは変われない。
そういう人たちに比べると、わが身のなんという軽薄さだろうか。
その都度、信じて来た思想を、次から次へと破棄しているだけなのかもしれない。そうして何も残らない。
だが、そうやって変わり続けることの可能性を常に確保して行かなければ、
行き詰った思想に殉じて一生を終えるだけなのではないかと、いつも考えている。
そんなふうにして何もかも捨ててしまって何も残らないと笑い者になったとしても、
変化することの可能性を確保していたい。
477ページ
ここは、神のいない教会となったのですか?
―――教会という言葉は、私らの定義で、魂のことをする場所のことです。
「魂のことをする」というのは「燃え上がる緑の木」のギー兄さんが言っていたことで、
それは自分や他人の魂を救うというような意味合いを持っているもののようで、
でもそれは「神」とは無関係、特に人格神とは無関係ということが、宣言される。
宗教の権威とか、神への全面的な服従、全幅の信頼による自意識の消失、忘我による至福、
そういうものとは無縁の、あくまでも自由な人間が苦悩の末に辿り着くべき魂の救済、
作者は、信じない者たちが、どのようにして救われるべきかと考えているかのようだ。
だが私は別に救われなくてもいいやと思っている。
あるいは何かしらの行動を起こしたことが、すなわち救いではないかと思っている。
結果ではなくて、その姿勢によって決まることではないかと思っている。