頼住光子「道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか」という本を読んだ。
「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
・・・
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
・・・
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」
そんなことが書かれていた。
「言葉によって世界を区切る」というのは同語反復のような感じがする。
「世界を語ることは世界を区切る」ことと同じであるような感じがする。
「世界」とか「世界そのもの」であるとか「世界全体」なんて
どうあっても一人の人間の理解の及ぶものではないし、語りつくせるものでもない。
そして多くの人々が共有できる世界は全体ではなく部分であり、
より小さな部分ほど、いっそう多くの人々を惹きつけるものであるかもしれない。
そうすると誰もが理解できる説得力のある「世界観」とは極限までに「世界を切り取った」ものになるだろう。
そして私たちが必要とする生存に有益な情報とは「切り取った世界」の断片を集めたようなものだろう。
たとえば『科学』は本来、分断されるべきではない主客の一方を切り捨て、
全面的に客観に依存することにより現象を記述する。
その恩恵に浴する私たちは素晴らしい生活を手に入れたのだと、それは進歩であり、改革であり、
イノベーションであるのだと言って人類を讃えるのだが、それほど良いものなのだろうか?
進歩という激流に呑み込まれ、右肩上がりの成長戦略しか語ることを許されず、老いを憎み、
権力者の使い走りとして寿命の大半を使い果たし、老後の不安を払拭するために資産を蓄えたところで、
ずっと死と没落を恐れて暮らし続けるのだ。
餓死しないために凍死しないために他人から見下げられないために
カネと共に一生を過ごすのだ。
『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』・・・
「仏教では『無自性』を主張し、あらゆるものに固定的な本質などないことを出発点にしている。
人は、日常生活において、漠然と『自己』という何か固定的なものがあるかのように考え、
その固定的な自己を単位として生活を営んでいる。しかし、仏教的な考え方からすれば、
それはあくまでも日常生活をおくるために仮構されたものであって、実はそのような固定的な
自我もないし、さらに存在するものはすべて固定的な本質などないのである。
『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。
つまり、自己を追求して、自己とは実は固定的なものとしては存在しないということが分かる。
自分だと思っていたものは、自分ではないのである。」
そんなことが書かれていた。
この言葉の対極にあると思われるのが「我考える故に我あり」ではないかと思う。
自我を存在の拠り所とするのが西洋であり、自己は存在しないとするのが東洋ということになる。
そして肥大化した自我の肥大化した欲望が科学技術の発達と活力に満ちた経済活動を生み出すのであるから
東洋的な生き方は世界から駆逐されてきたのではないかと思う。気が付けば世界は西洋化されてしまった。
学校の先生は「日本が世界史に登場するのは日本が近代化されてから」などと言ったりするが
実際には世界史というのは西洋史のことだから「日本が西洋史(世界史)に登場するのは日本が西洋化されてから」という
あたり前のことを言っているのではないかと思う。
しかし夥しいほどの自我が、己が己がと争う様は、個々の原子がその存在を争う様と類似しており、
(ショウペンハウアーがそんなことを書いていたと思う)
自我を原子にたとえるのであれば「自分だと思っていたものは、自分ではない」のだろう。
己が己がと争う夥しいほどの自我また自我は「稲麻竹葦」の如きものだろう。
それらは動物と超人の間にあって生まれては死に、死んでは生まれて来る。
そして西洋では「稲麻竹葦」ではなくて「考える葦」であって、とにかく「考える」ことが大好きらしい。
私たちが「考える」ことから抜け出せないのは、その機能を持つに至った生物としては当然のことと思われる。
「自我」であるとか「意識」とか「思惟」は個体の生存を有利にするための道具であり、
「利己的な遺伝子」が個体に命令しているということだろう。
そうすると「考える」ということは自由でもなく主体性でもないのだろう。
「考える」ということに囚われていることは遺伝子の命令に服従していることになる。
「自己を忘れる」ということはそこから脱するということであり、
遺伝子による支配を免れて本来の自由を取り戻すことのように思われる。
きっとそのような考え方は西洋には受け入れられないだろう。
もちろん西洋化した日本でも受け入れられない。
「無分節、無意味、無時間、『無差別』から、存在を意味付け、時として配列することによって、
意味=存在を刻み出し、世界を『現成』させるのである。自己は、そのような『現成』を実現する担い手である。
自己が時として存在を配列し、配列することによって、無分節な『空』における全体性を相互相依する世界というかたちで表す。
自己が時として構造化することで、世界は世界として、存在は存在として立ち現れ、また、世界や存在や時を
『現成』させ、それらと関係を結ぶことを通じて自己も自己となる。」
そんなことが書かれていた。
過去・現在・未来とか時間の流れといったものは虚構ではないかと思う。
「時として存在を配列する」というのはエピソード記憶のことを記載しているのではないかと思う。
自己は遭遇した現象を時系列に沿って蓄積して行く。
もし自己というものがなかったなら時系列に沿って並べることに意味はなくなるだろう。
そういう意味で自己が無ければ時はない。時が無ければ蓄積される情報に意味はなく存在も無ければ世界も無い。
時が何であるかとか存在とは何であるかとか個別に考えても仕方がない。
『いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。』
ここで「有」は「存在」を意味する。
「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
・・・
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
・・・
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」
そんなことが書かれていた。
「言葉によって世界を区切る」というのは同語反復のような感じがする。
「世界を語ることは世界を区切る」ことと同じであるような感じがする。
「世界」とか「世界そのもの」であるとか「世界全体」なんて
どうあっても一人の人間の理解の及ぶものではないし、語りつくせるものでもない。
そして多くの人々が共有できる世界は全体ではなく部分であり、
より小さな部分ほど、いっそう多くの人々を惹きつけるものであるかもしれない。
そうすると誰もが理解できる説得力のある「世界観」とは極限までに「世界を切り取った」ものになるだろう。
そして私たちが必要とする生存に有益な情報とは「切り取った世界」の断片を集めたようなものだろう。
たとえば『科学』は本来、分断されるべきではない主客の一方を切り捨て、
全面的に客観に依存することにより現象を記述する。
その恩恵に浴する私たちは素晴らしい生活を手に入れたのだと、それは進歩であり、改革であり、
イノベーションであるのだと言って人類を讃えるのだが、それほど良いものなのだろうか?
進歩という激流に呑み込まれ、右肩上がりの成長戦略しか語ることを許されず、老いを憎み、
権力者の使い走りとして寿命の大半を使い果たし、老後の不安を払拭するために資産を蓄えたところで、
ずっと死と没落を恐れて暮らし続けるのだ。
餓死しないために凍死しないために他人から見下げられないために
カネと共に一生を過ごすのだ。
『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』・・・
「仏教では『無自性』を主張し、あらゆるものに固定的な本質などないことを出発点にしている。
人は、日常生活において、漠然と『自己』という何か固定的なものがあるかのように考え、
その固定的な自己を単位として生活を営んでいる。しかし、仏教的な考え方からすれば、
それはあくまでも日常生活をおくるために仮構されたものであって、実はそのような固定的な
自我もないし、さらに存在するものはすべて固定的な本質などないのである。
『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。
つまり、自己を追求して、自己とは実は固定的なものとしては存在しないということが分かる。
自分だと思っていたものは、自分ではないのである。」
そんなことが書かれていた。
この言葉の対極にあると思われるのが「我考える故に我あり」ではないかと思う。
自我を存在の拠り所とするのが西洋であり、自己は存在しないとするのが東洋ということになる。
そして肥大化した自我の肥大化した欲望が科学技術の発達と活力に満ちた経済活動を生み出すのであるから
東洋的な生き方は世界から駆逐されてきたのではないかと思う。気が付けば世界は西洋化されてしまった。
学校の先生は「日本が世界史に登場するのは日本が近代化されてから」などと言ったりするが
実際には世界史というのは西洋史のことだから「日本が西洋史(世界史)に登場するのは日本が西洋化されてから」という
あたり前のことを言っているのではないかと思う。
しかし夥しいほどの自我が、己が己がと争う様は、個々の原子がその存在を争う様と類似しており、
(ショウペンハウアーがそんなことを書いていたと思う)
自我を原子にたとえるのであれば「自分だと思っていたものは、自分ではない」のだろう。
己が己がと争う夥しいほどの自我また自我は「稲麻竹葦」の如きものだろう。
それらは動物と超人の間にあって生まれては死に、死んでは生まれて来る。
そして西洋では「稲麻竹葦」ではなくて「考える葦」であって、とにかく「考える」ことが大好きらしい。
私たちが「考える」ことから抜け出せないのは、その機能を持つに至った生物としては当然のことと思われる。
「自我」であるとか「意識」とか「思惟」は個体の生存を有利にするための道具であり、
「利己的な遺伝子」が個体に命令しているということだろう。
そうすると「考える」ということは自由でもなく主体性でもないのだろう。
「考える」ということに囚われていることは遺伝子の命令に服従していることになる。
「自己を忘れる」ということはそこから脱するということであり、
遺伝子による支配を免れて本来の自由を取り戻すことのように思われる。
きっとそのような考え方は西洋には受け入れられないだろう。
もちろん西洋化した日本でも受け入れられない。
「無分節、無意味、無時間、『無差別』から、存在を意味付け、時として配列することによって、
意味=存在を刻み出し、世界を『現成』させるのである。自己は、そのような『現成』を実現する担い手である。
自己が時として存在を配列し、配列することによって、無分節な『空』における全体性を相互相依する世界というかたちで表す。
自己が時として構造化することで、世界は世界として、存在は存在として立ち現れ、また、世界や存在や時を
『現成』させ、それらと関係を結ぶことを通じて自己も自己となる。」
そんなことが書かれていた。
過去・現在・未来とか時間の流れといったものは虚構ではないかと思う。
「時として存在を配列する」というのはエピソード記憶のことを記載しているのではないかと思う。
自己は遭遇した現象を時系列に沿って蓄積して行く。
もし自己というものがなかったなら時系列に沿って並べることに意味はなくなるだろう。
そういう意味で自己が無ければ時はない。時が無ければ蓄積される情報に意味はなく存在も無ければ世界も無い。
時が何であるかとか存在とは何であるかとか個別に考えても仕方がない。
『いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。』
ここで「有」は「存在」を意味する。