140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか

2015-02-28 00:05:55 | 道元
頼住光子「道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか」という本を読んだ。

「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
・・・
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
・・・
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」
そんなことが書かれていた。

「言葉によって世界を区切る」というのは同語反復のような感じがする。
「世界を語ることは世界を区切る」ことと同じであるような感じがする。
「世界」とか「世界そのもの」であるとか「世界全体」なんて
どうあっても一人の人間の理解の及ぶものではないし、語りつくせるものでもない。
そして多くの人々が共有できる世界は全体ではなく部分であり、
より小さな部分ほど、いっそう多くの人々を惹きつけるものであるかもしれない。
そうすると誰もが理解できる説得力のある「世界観」とは極限までに「世界を切り取った」ものになるだろう。
そして私たちが必要とする生存に有益な情報とは「切り取った世界」の断片を集めたようなものだろう。
たとえば『科学』は本来、分断されるべきではない主客の一方を切り捨て、
全面的に客観に依存することにより現象を記述する。
その恩恵に浴する私たちは素晴らしい生活を手に入れたのだと、それは進歩であり、改革であり、
イノベーションであるのだと言って人類を讃えるのだが、それほど良いものなのだろうか?
進歩という激流に呑み込まれ、右肩上がりの成長戦略しか語ることを許されず、老いを憎み、
権力者の使い走りとして寿命の大半を使い果たし、老後の不安を払拭するために資産を蓄えたところで、
ずっと死と没落を恐れて暮らし続けるのだ。
餓死しないために凍死しないために他人から見下げられないために
カネと共に一生を過ごすのだ。

『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』・・・
「仏教では『無自性』を主張し、あらゆるものに固定的な本質などないことを出発点にしている。
人は、日常生活において、漠然と『自己』という何か固定的なものがあるかのように考え、
その固定的な自己を単位として生活を営んでいる。しかし、仏教的な考え方からすれば、
それはあくまでも日常生活をおくるために仮構されたものであって、実はそのような固定的な
自我もないし、さらに存在するものはすべて固定的な本質などないのである。
『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。
つまり、自己を追求して、自己とは実は固定的なものとしては存在しないということが分かる。
自分だと思っていたものは、自分ではないのである。」
そんなことが書かれていた。

この言葉の対極にあると思われるのが「我考える故に我あり」ではないかと思う。
自我を存在の拠り所とするのが西洋であり、自己は存在しないとするのが東洋ということになる。
そして肥大化した自我の肥大化した欲望が科学技術の発達と活力に満ちた経済活動を生み出すのであるから
東洋的な生き方は世界から駆逐されてきたのではないかと思う。気が付けば世界は西洋化されてしまった。
学校の先生は「日本が世界史に登場するのは日本が近代化されてから」などと言ったりするが
実際には世界史というのは西洋史のことだから「日本が西洋史(世界史)に登場するのは日本が西洋化されてから」という
あたり前のことを言っているのではないかと思う。
しかし夥しいほどの自我が、己が己がと争う様は、個々の原子がその存在を争う様と類似しており、
(ショウペンハウアーがそんなことを書いていたと思う)
自我を原子にたとえるのであれば「自分だと思っていたものは、自分ではない」のだろう。
己が己がと争う夥しいほどの自我また自我は「稲麻竹葦」の如きものだろう。
それらは動物と超人の間にあって生まれては死に、死んでは生まれて来る。
そして西洋では「稲麻竹葦」ではなくて「考える葦」であって、とにかく「考える」ことが大好きらしい。
私たちが「考える」ことから抜け出せないのは、その機能を持つに至った生物としては当然のことと思われる。
「自我」であるとか「意識」とか「思惟」は個体の生存を有利にするための道具であり、
「利己的な遺伝子」が個体に命令しているということだろう。
そうすると「考える」ということは自由でもなく主体性でもないのだろう。
「考える」ということに囚われていることは遺伝子の命令に服従していることになる。
「自己を忘れる」ということはそこから脱するということであり、
遺伝子による支配を免れて本来の自由を取り戻すことのように思われる。
きっとそのような考え方は西洋には受け入れられないだろう。
もちろん西洋化した日本でも受け入れられない。

「無分節、無意味、無時間、『無差別』から、存在を意味付け、時として配列することによって、
意味=存在を刻み出し、世界を『現成』させるのである。自己は、そのような『現成』を実現する担い手である。
自己が時として存在を配列し、配列することによって、無分節な『空』における全体性を相互相依する世界というかたちで表す。
自己が時として構造化することで、世界は世界として、存在は存在として立ち現れ、また、世界や存在や時を
『現成』させ、それらと関係を結ぶことを通じて自己も自己となる。」
そんなことが書かれていた。

過去・現在・未来とか時間の流れといったものは虚構ではないかと思う。
「時として存在を配列する」というのはエピソード記憶のことを記載しているのではないかと思う。
自己は遭遇した現象を時系列に沿って蓄積して行く。
もし自己というものがなかったなら時系列に沿って並べることに意味はなくなるだろう。
そういう意味で自己が無ければ時はない。時が無ければ蓄積される情報に意味はなく存在も無ければ世界も無い。
時が何であるかとか存在とは何であるかとか個別に考えても仕方がない。
『いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。』
ここで「有」は「存在」を意味する。

名古屋フィル#44カリンニコフ交響曲第1番

2015-02-22 22:08:37 | 音楽
第421回定期演奏会、曲目は以下の通り
ムソルグスキー: 聖ヨハネ祭のはげ山の夜(交響詩『はげ山の一夜』原典版)
ショスタコーヴィチ: ピアノ協奏曲第1番ハ短調 作品35
カリンニコフ: 交響曲第1番ト短調

今回のテーマは<ロシアの1番>ということだ。
確かに「はげ山の一夜」を聴いた途端、これは間違いなくロシアの音楽だろうという感じがする。
ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番は、弦楽の他にピアノ独奏・トランペット独奏という
ちょっと変わった編成になっている。
トランペットはシニカルにもコミカルにも振舞いピアノ協奏曲にはない余韻を残す。
ピアノもまた華麗であるというよりは独りよがりで小刻みなリズムをつなぎ滑稽であり寂しげだ。
この作曲家は恐怖とユーモアを両立させたりする。道化も得意だが笑えない道化であったりする。
カリンニコフ交響曲第1番は古典的な曲だがロシアの匂いがたちこめている。
チャイコフスキーやラフマニノフと交流があったそうだが
作曲家として報酬を受け取ることなく
34歳で世を去ったということだ。

道元の世界

2015-02-21 00:05:34 | 道元
有福孝岳「朝日カルチャーブックス49 道元の世界」という本を読んだ。
売れてなさそうだが、良い本だと思う。

道元の書いていることは何なのか、わからないところがたくさんある。
宗教なのか哲学なのか、そのような区分を超えている思想なのか、何と呼べば良いのかすらわからない。
著者は哲学の専門家であり、道元を理解するための手がかりとして西洋の哲学を引用している。
デカルト、カント、ニーチェ、ハイデッガー・・・
書店に純粋理性批判は置いてあっても正法眼蔵は置いていないのが現状だ。
21世紀の日本人にとっては、西洋の哲学の方がより親しみやすいということになる。
梅原猛さんの本で正法眼蔵が推奨されていたので、私はなんとかここに辿り着くことが出来たのだが
その道筋にしても宗教方面から入って、キリスト教・イスラム教・仏教と進み、
仏教をあれこれ調べてやっと見つけたという感じだった。
ほとんどの日本人が日本最大の思想家のことを知らないでいるというのはとても悲しいことなのだろう。
道元という名前は知っていても、その思想が驚くべきものであることを
数ヶ月前の私と同様に、ほとんどの人が知らない。
たとえば、小説を読み漁っていた人がある日、ドストエフスキーに遭遇してショックを受ける。
道元体験というのは、そういうのに似ている。
ただドストエフスキー体験というのはひたすらにショックなのだが
道元は、さまよい続けている凡夫にとっては、啓示のようなものである。
キリスト様であり、マリア様である。
現代日本の哲学と呼ばれているものはウィトゲンシュタインの影響が強くて
西洋の哲学の延長みたいなものであって、オリジナリティなんてものはあまり見当たらない。
その結果、日本には哲学は不在なのかといった妙な劣等感を持ってしまうことにもなる。
道元には、そのようなつまらない感情を払拭するのに十分なものがある。
誇るもののない日本人が失っていた自信を取り戻すことが出来る。

「無常観とニヒリズム」について著者は考察している。
「ところで、仏教における無常観をヨーロッパ思想に対比させるならば、何といっても最初に思いつくのは
『ニヒリズム』の思想であるが、両者はたいへん似ているようで、根本的に違うところがある」
「本当に、厳密な意味での『生成』変化に着目すれば、そこに恒常不変なもの、実体的なもの、
統一的なもの、普遍的なものは何一つ見い出すことはできない。
仮りに、人間が無理矢理、生成消滅の中に目的を立て、意味を見い出したところで、
それは『真実』ではなくて、『仮象』としての『絵空事』にすぎないであろう」
「ニーチェの強調するところに従えば、『目的』とか『統一』とか『真理』というような、
それでもってこれまで世界と現存在を解釈することにしていた『形而上学的範疇』が今や価値を失ってしまったわけである。
このようなニヒリズムは極めて哲学的、自覚的なニヒリズムである。
ニーチェはまた、『哲学的ニヒリストは、一切のできごとは無意味で無駄なものであるということを確信している』という。
このように、ニーチェはニヒリズムを規定するとき、単に一切のできごとや行為の無意味さのみを見て、
自暴自棄を推奨しているわけではない」
「このような能動的ニヒリズムの側面は、仏教の空観や無常観にも大いに当てはまる。
ちなみに、否定の論理としての空観は、単に有の否定としての二分の一的否定ではなくて、
どこまでも有無の二元的対立を超え、有と無、定立と反定立という両方の主張を超越しつつ、
両方を生かす論理である。無常観もまた、さしあたっては、一切の事象や人間の営みの頼りなさ、はかなさ、
束の間的性質の観察から出発しつつ、そのように、よるべなき人生と世界の恐るべき根本事実をつきつけることによって、
この無常のまっただ中で、無常さにめげず無常を強く生き抜く知恵として、
発菩提心としての菩薩道・無常仏性としての自覚的主体的無常観を確立したのである。
同じく、ニーチェのニヒリズムもまた、どこまでも歴史的現実の中で思惟し行為する主体が
自ら引き受け、耐え忍び、打ちかたねばならないもの、つまり、自律的な、自給自足的な
ニヒリズムである」

ニヒリズムと言えば、成長することしか考えていない連中が無条件に遠ざけるものだろう。
彼らは夢とか希望とか自己実現などと語っている。
目的とか統一とか真理とか神とか、そういうものに身を委ねることは楽なのだろうし、
人間は目的がないことに耐えられない。
だが偽りのない健全な知性は「一切のできごとは無意味で無駄なものであるということ」を知っている。
そこから目を背けてしまうようであれば、その先には行けないことを知っている。
その先に行こうとしない人は、どうあっても「人生はすばらしいもの」でなければ気がすまない。
一切は無意味であり、そのような時が積み重ねられ、連綿と続き、未来永劫そのままであるといった
「世界の恐るべき根本事実」を認めようとはしない。
そのことを認めてしまった瞬間に彼らの人格と価値観は崩壊してしまい自暴自棄に至るしかなくなる。
あるいは知性を捨ててしまうことによってそのような根本事実から逃れることができるかもしれない。
空の思想とは、知性を放棄してしまうことではないかと思っていたが、どうやら違うらしい。
知性はありのままの事実を認め、自ら引き受け、耐え忍ぶのだという。
おそらくは自覚することが一番大切なことなのだろう。

「そもそもインド古来の伝統的な『僧』というのは、純粋な出家者であるから、
衣食にわずらわされぬのみならず、家すなわち住をも捨てなければならない。
いわゆる人間生活を支える基盤である衣食住を捨てろということは大変な厳命である。
特に個人持ちの家を捨てるということ、この絶対否定によって、かえって大きな家、
すなわちこの大地自然を直接に自らの棲家とするという逆転の絶対肯定が仏教的世界観の中にはあるわけである」

「出家」とは家を出ると書くのだが、つまりは家を捨てることなのだと、いまさらながら気が付いた。
生活を支える基盤を捨てるとは、生命を危険に晒すということだ。
動物たちと同じように大地自然を棲家とするのは良いかもしれないが、明日にも命を落とすかもしれない。
そのような暮らしは私有財産の否定であって、産業とか文化の発展を望むことは出来ない。
自給自足でもなく生産活動を行っている在家者の援助を受けて生活するというところが矛盾している気もする。
人生における一番高い買い物が「家」であると言われる。そのために数十年のローンを組んだりする。
よくよく考えてみれば衣食住という安定した生活を確保するために二十年だか三十年の束縛を引き受けることになる。
命を保証してもらうためには国家や企業に対して忠誠を誓わなくてはならない。
愛する家族と暮らすためには国家や企業に対して忠誠を誓わなくてはならない。
この世界では二度と手に入れることの出来ない時間、つまりは命の大部分を捧げるよう強いられる。
そんなにまでして努力して老後の安定を手に入れては死んで行く。
そのようなことの繰り返しに対して疑問は生じないのだろうか?
逆転の絶対肯定というのがあっても良いと感じるのはそのような時かもしれない。
子供たちを育ててしまったなら自分は出家した方が良いかもしれない。
経済が牛耳る社会にあって職がないとか収入がないというのは心細い。
生き延びて行くにはお金が必要なのだ。
80歳まで生きると仮定した場合に、これこれの蓄えが必要なのだ。
そんなにお金を貯めなければならないとしたら、とっとと死んでしまった方が良くないか?
死ぬのが怖いとは言っても、いつまでも生きられるわけではない。
生死そのものが涅槃ということらしいから仏教は永遠の生命を欲する他の宗教とは違う。
生死に執着することもなくなり、生死に執着しないということにも執着しなくなる。
そうすると死を恐れることはなくなるのだと思った。
なるほど、とても簡単なことなのだ。

「だから、仏教における真理(真如)は、いわゆる真理―科学的であれ、日常的であれ―のように、
人間的自己の思惟と認識によってとらえられるものではなく、むしろ、そういう人為的把握の態度を
放棄することによって、つまり、非思量的無心的自己となって、大自然の真理(万法)と一体化するとき、
はじめて体得されるのである」
「思惟と認識」という「人為的把握の態度」を放棄することによって「真理(真如)」をとらえるのだと
ここでそのことを伝えたり、伝えられたりしているのもまた、人為的なことなのだろう。
人為と大自然を行ったり来たりしようとしても、なかなかそうはいかない。
いっそ大自然の中に入ってしまえば楽かもしれないが
人為的把握の態度を放棄しようとしても思惟そのものを放棄したりは出来ない。
放棄すること自体がすでに人為的なのだ。
そのことを表現することは出来ない。

「しかし、つらつら考えてみれば、本当はわれわれも身心一如で生きている。いくら心意識が身体活動とは
別の活動をすると頑張っても、体が生きている間だけしか心意識は働かないのだし、その身体が存在しうるためには、
さまざまな自然的条件、水、空気、酸素、温度、湿度など、天地宇宙のありように全面的に依存している。
この尽大地を離れて、われわれの身心は一瞬たりとも生きられない。ちなみに、現実問題としても、
地震、台風、洪水、寒波、旱魃、ガス爆発などのどの一つが起こっても、たちどころに人間生活は危機に瀕するほど、
人生は大地自然の運行に支配されている。それゆえ、尽大地など知らないと反問する人があったならば、
『それでいいのかね』と問いかえすことである。この宇宙の大真理をいくら否認しようとしても、
その人が尽大地是真実人体であることがなくなるわけではありえない。尽大地是真実人体でなくなれば、
たちどころに落命する」

「エコ」がどうとか言っているのは、ほとんど「エゴ」の発想ではないかと思う。
地球が温暖化すると人間が住めなくなるから困るとそういうことなのだが私たちに選択など出来ない。
ある日、小惑星が落下してきて、直接的な衝突で死んだり、間接的な季候変動で絶滅したり、
そんなことがずっと繰り返されて来ているのが天地宇宙というものではないだろうか?
水の惑星とか言われるが、ほんの表層が覆われているだけで、そんなものなくなってしまうかもしれない。
かつて火星に存在した水は、どうなってしまったのだろうか?
そんなふうにして悠久の時の流れが生み出す微妙な平衡の中に私たちは生きている。
そんな中で精神は朽ち果てることがないとか、万物の霊長であるとか、世界を支配しようとか、
業界でNo.1になるとかいうのは、どうなんだろう?
そうしたこと一切は心意識が生み出す自惚れや幻想のようなものだろう。
それで「尽大地是真実人体」ですか・・・
なんじゃそれ・・・

「すなわち、われわれはお互いに全く同じものではないが、同一種としての人類が、
ニーチェ流にいえば動物と超人の間に横たわり、同一形態をもった人間が生まれ変わり、死に変わっているにすぎない。
彼らがどんなに貴い行為を営んでも、いかに卑劣な行為をたくらんででもある。
人類が現代のように二本足で歩き始めてすでに久しいわけであるが、この同じことの繰り返しを
仏教ないしインドの哲学者は『輪廻転生』と呼び、ニーチェは『永劫回帰』と呼んだ」
つまり、永劫回帰というのは、『私』が帰ってくるということではないのだろう。
輪廻転生というのは、『私』が転生するということではないのだろう。
おそらくは『私』に囚われることがなくなれば、『私』が転生するかどうかなんて、
どうでもよくなるのだろう。

名古屋フィル#43ワルキューレ第1幕

2015-02-15 18:11:06 | 音楽
第420回定期演奏会、曲目は以下の通り
R. シュトラウス: セレナード変ホ長調 作品7
ブリテン: シンプル・シンフォニー 作品4
ワーグナー: 楽劇『ワルキューレ』第1幕

もう2週間前のことになるので忘れてしまいました。
感想はすぐに書かないとダメです・・・
・・・前回も、前々回もそんなことを書いていました・・・

ワルキューレ第1幕では、ジークムントとジークリンデが登場する。
彼らは生き別れになった双子の兄妹であり、近親相姦の結果、英雄ジークフリートが生まれる。
このモチーフが後々の文学作品に影響を与えたということだが、
ニーベルングの指環にそれほど深い意味が込められているとは思わない。
ワルキューレの騎行のような世紀末的音楽を堪能すれば
それで良いのではないかと思う。

歌劇・楽劇を鑑賞するには言語の壁があり、苦手な人が多いのではないかと思う。
今回は縦に長い表示器に逐次日本語訳が表示されていた。
これは良いのではないかと思う。

現代文 正法眼蔵6

2015-02-14 00:02:54 | 道元
「尊者は尋ねた、『お前が求めるのは、身の出家なのか、心の出家なのか』。
堤多伽は答えて云った、『私が尊者のもとに参って出家するのは、身心のためではありません』。
尊者は云った、『身心のためでなければ、誰が出家するのか』。
答えて云った、『そもそも出家者にとって、己れはありません、己れは己れの所有ではないのですから、
心は生死に囚われません。心が生死に囚われないのであれば、出家は遍く誰もの道であります。
諸仏はまた常に心に形相はありません、身体もまた同じであります』。」
そんなことが書かれていた。

シュメールのような最古の文明がそれなりに発展するためには
つまりは人の集まりが初めて「文明」と呼ばれるものに発展するために必要だったものは
「私有財産」であったと推測されている。
もはや誰もが信じて疑わない資本主義社会は私有財産制を認めている。
それがなければ誰も努力せず企業家は出現せず社会は停滞してしまうのだという。
進歩も成長も発展も世界から消え失せる。
私有財産どころか、己は己の所有でないと言い切る仏教はその対極に位置するのだろう。
そういう意味では仏教を中心に据えた社会は発展しないに違いない。
進歩もなく変化もなく心静かに暮らしている。
そのような進歩や成長や発展から切り離された暮らしというのは実は良いものかもしれない。
進歩と成長と発展は現代社会において強要されている。
その価値観を信じて疑わない様はキリスト教の得意とするところだろうう。
彼らは何かを信じることが得意であり、信じたもののために滅ぼしあう。
そんな暮らしは富の奴隷であったり、その裏づけとなる思想の奴隷であったりする。
進歩から退けないということは自由ではなく不自由であるような気がする。
キリスト教徒が自由意志によって信仰を持ち自由を失うことに似ているかもしれない。
仏教の方も己がないのであるから自由意志なんてものはない。
どちらも自由意志がないのだがどちらが良いだろうか?

心が生死に囚われないというのも自然界の競争を模擬して語る自由主義経済の価値観とは相容れない。
自然界の競争である遺伝子相互の生存競争は種族の維持と己の維持を最優先させている。
意識が遺伝子の所産であるならば己の生死こそが最も重大な関心事となる。
そうすると「心が生死に囚われる」ということは実は私たちの意志ではなく遺伝子の企みによるものであって
そのことから解放されることこそ己を取り戻すということになるかもしれない。
実に己を捨てることが己を取り戻すことになっている。取り戻したところでまた手放すのだが・・・
そうしたことに囚われないことこそ遺伝子という呪われた因子に対する復讐となり得る。

「ここに明らかに知るのである。たとえ閻魔王でさえも、人の世に生まれることを請い願うのはこのようなのだ。
すでにこの世に生まれた人は、いそぎ剃髪し、三種の袈裟を身に著けて、仏道を学ばねばならない。
これは六道に優れた人の世の功徳である。このようであるのに、人間に生まれながら、
官途や世俗の道を貪り求めて、虚しく国王や大臣の使い走りとなって、一生を夢幻のうちに過ごし、
後の世には闇黒世界に堕ちて、いまだに依りどころをもたないのは愚の至りである」
そんなことが書かれていた。

権力者の使い走りというのはよくあることだ。
上司に阿ることが上司になる最上の手段となるので進んで使い走りになろうとする。
人の意に従うとは相手に我が身を捧げることであり
平時には戦地に赴くわけにもいかないので自分の時間を最大限に捧げることが身を捧げることとなる。
累積した時間のことを寿命と呼んでいるわけだからその大部分を捧げることは命を捧げることになる。
そのような犠牲が権力者のお気に入りであり、その犠牲を払った者が次世代の権力者となることが出来る。
彼らは地位を拠り所としていて齢を重ねて地位もないということこそ彼らにとって無駄な一生なのだ。
私は何が無駄であり、何が意味があるとか、そういうことを語るのはやめようと思う。
意味があると主張することすら意味があるとは思えない。
そんなことで相手を言い負かすことに意味はない。
日々をどのように過ごすのか、どのように命を磨り減らすのかを決めるのは、自分自身であり、
納得していればそれでよいのだと思う。
そのように考えた時には「使い走り」となることは
自然と選択肢から外れる。

現代文 正法眼蔵5

2015-02-07 00:05:12 | 道元
「第七十 虚空 道元にあっては、仏法も時間空間もすべて虚空と捉えられていることに留意」
そんなことが書かれていた。
「虚空と捉えられている」と言ったところで「虚空を捉える」のはむずかしそうだ。
「虚空を捉えるなら、虚空は塊りとなってしまう」あるいは
「虚空を捉えたなら、虚空は地に落ちるほかはない」そうである。
それは物質とエネルギーに似ているのかもしれない。
物質とエネルギーは等価ということだが、エネルギーというのは掴みどころがない。
「エネルギーを捉える」のはむずかしい故に「物質を捉える」こともまたむずかしい。
真空というのも何もないというわけではなく、常に粒子と反粒子が生成消滅しているのだという。
物理学が扱っている時空やら物質やらエネルギーとは日常現象に比べるとオカルトみたいなものだ。
そしてこうしている間にも宇宙は膨張を続け、空間に潜む暗黒エネルギーもどんどん増えて行く。
「エネルギー保存の法則」は局所的なものであって、宇宙の全エネルギーは一方的に増えている。
いや、しかしエネルギーが増えていると言っても、エネルギーを捉えるのもむずかしいので、
いったい何が増えているのかもよくわからない。
そういうわけで「すべて虚空」であることに賛成してもよいのだが、
そう言ったところで何も説明してはいないのだ。

「『私は今、何処に在るか』は『私は何者か』という問いに同じなのだ。さらに『私は今、何処にあるか』は
『今とは何のような時か』の問いなのだ。また『何処に在るか』は『在る処とは何のような処か』と問うているのだ」
そんなことが書かれていた。
『「今・此処・私」は分離することは出来ない』と正法眼蔵2のところでも書いた。
どれかについて問えば、循環することになる。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という絵がある。
ここでも問いは循環している。
『われわれはどこから来たのか』と言ったところで場所を特定することは出来ない。
『われわれは何者か』という問いと同じである。
『われわれはどこへ行くのか』と言ったところで場所を特定することは出来ない。
『われわれは何者か』という問いと同じである。
『僕は今、どこにいるのだろう?』と問うて『ここは僕の人生だ』と答えるのも反則だろう。
場所に対する問いの答えが主体になっている。
そういうことは不完全である言語をこねくり廻した言葉遊びであり
言語の不完全さを身にしみて感じている人にとっては、どうでも良い問題ではないだろうか?
『私は何者か』ということがわかっているとか、わかっていないとか、
そんなこと自体がどうでも良いことではないだろうか?

「迷悟を超越した無上の覚りと一体の人であるとき、これを仏と云うのである。仏が無上の覚りにあるとき、
これを無上の覚りそのものと云うのである。この仏そのままにある在りようを、知らないようでは愚かであろう。
ここに云うその真面目は、なにものにも囚われぬ覚りである」
そんなことが書かれていた。「無上の覚り」と言われてもよくわからない。
「なにものにも囚われぬ」ということであれば少しはわかるかもしれない。
生きて行くことは常に何かに囚われて行くことであって私たちは常に何かに執着して生きている。
ああすればよかった、こうすればよかったと、そんなことばかり考えている。
経験を参考にして行動を決めるという機能が人間には備わっている。
私たちは行動を決するまでに、ひたすらシミュレーションを続ける。そういうことが死ぬまで続く。
そんなふうにして結果を求めて「常に何かに囚われている」という状態の反対が
「なにものにも囚われぬ」ということではないかと思う。
「なにものにも囚われぬ」ことで私たちは考え続ける、あるいは求め続ける苦しみから逃れられる。
だからそういう時に、知恵であるとか、思考の類は不要になるのだろう。
思惟の範囲外のことは概念とはならないので「覚り」と呼ぶしかないのかもしれない。

「仏となるのにまことにたやすい道がある、もろもろの悪を作らず、生死に執着する心がなく、
一切衆生のために、憐れみ深く、上を敬い、下を憐れみ、なにものをも厭う心なく、
心に思うことなく、憂いもなければ、それが仏である」
そのようなことが書かれていた。
確かにそう、人は生死に執着している。生き物は、子孫を残すこと、生存を続けることを遺伝子に命じられている。
そうでなかったなら、その生き物は、ここに存在することはなかった。
明確な意識を持たない原始的な生き物もきっと生死には執着しているだろう。
生きるために食うのだし、食われないために逃げる。
そうすると仏であるということは、本能であるとか、生存のために不可欠な欲であるとか、
遺伝子そのものであるとか、そういうものの「否定」ということかもしれない。
生存競争を繰り広げる世界の「意志」を「否定」することについて
ショウペンハウアーが書いたことと同じようなことであるかもしれない。
生死に執着するのが生き物の宿命であるのだとしても、最後まで遺伝子の言いなりになるというのはどうだろうか?
生きんとする意志を否定するということは遺伝子に縛られた身心を解放するという意味では
最高度に自由を肯定している。

現代文 正法眼蔵4

2015-02-01 00:05:49 | 道元
「孔老の教えは、わずかに聖人の見聞によって大地乾坤の現象を考察するものではあるが、
これらによっては大聖釈迦が説いた仏因仏果またそれを透脱した教えを一生を尽くし多生を尽くしても
明らかにすることはできない。老子がわずかにわれわれの身心の動きをもって、
『無為なるものの為すところ』と考えても、それは尽十方界の真実を無限の宇宙を覆って、
余すところなく明らかにするものではない」
そんなことが書かれていた。
たとえば荘子を読むと孔子をバカにしているのがわかる。
確かに孔子なんておもしろくもないし、あまりに生真面目であるし、堅苦しくてついていけない。
著者は儒教道教は仏教に及ばないと考えているが孔老がまったくダメと言っているわけではない。
ただ仏教と並べても仕方がないとそんな感じであると思う。
無為自然に比較して仏教がどれほど優れているのであるか私にはよくわからない。
「私にはわからない」ということがわかっている。
そんなレベルだ。

「大小便ののちに洗浄を怠ってはならない。舎利弗はこの洗浄の法をもって外道を降伏させたことがあった」
そんなふうに洗浄のこと書かれていた。
現代では水あるいはお湯で洗浄できるので紙で拭いていた頃に比べると格段に衛生的になった。
紙だと、所詮はこすり取るわけで、どうしても残るだろう、微小であっても・・・
しかし、どうして大小便を汚いと思うのか、考えたことはあるだろうか?
動物園のふれあいコーナーでは自分の糞を踏んづけてなんとも思わない生き物を見ることが出来る。
彼らは必要なものを食って栄養分を吸収して利用できないものを体外に出しているだけだ。
それだけのことであって綺麗も汚いもない。
彼らは食物あるいは汚物と共に自然と一体化している。
人間が排泄物を汚いと感じるのにはいくつか理由があるだろう。
いかに崇高な精神を持ってはいても、どんなに美人であっても、ウンコはする。
あらゆる気高さを、美しさを、ウンコは否定してしまう。
肉体という有限なもの、やがては腐敗してしまうもの、あるいは腐敗したもの、
排泄物は生身の肉体を、有限な存在である肉体を、常に意識させるので私たちは嫌っている。
汚いから嫌いというよりは、嫌いだから汚いのだ。
そしてそれはまた役に立たないものである。
有用なものを求め続ける人間が役に立たないものを毎日排出する。
便秘の人は毎日ではないかもしれない・・・
私たちは本当に役に立たないものが嫌いなのだ。
料理する前の野菜と料理の後に残った生ゴミに成分の違いはあまりないと思うが
私たちは生ゴミの汗のようなものを徹底的に憎み汚いと思う。
それらが腐臭を発する前にすでに私たちは嫌っている。
そういうわけで肉体を意識させるだけでなく役にも立たないウンコは汚いのだ。
そういうわけで大小便を汚いと思うのは、あなたの心が生み出す錯覚だ。
どうだわかったか、道元?

「およそ全宇宙は、真実人の身体である、真実とは在るがままのものであり、真実人とは仏である、
真実に参じ徹することを遍参とするのである」
そんなことが書かれていた。
特別なことをしなくても、真実は身近にあるのだと思う。
何かを求めて何処かに出かける必要もない。
そもそも自分自身が最大の謎ではないかという感じもする。
その主観の謎の前では立ち尽くすしかない。
「人とは仏である」と言っていることの意味がわからない。
「神」も「仏」もよくわからない。
「不動の第一動者」であるとか「創造主」であるとか「存在」であるとか
「神」をそんなふうに捉える場合は、そこに思考の限界を設定している感じがする。
「仏」も同じようなものなのだろうか?
よくわからない。