140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

現代文 正法眼蔵3

2015-01-31 00:05:02 | 道元
「十悪として殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見が挙げられるが、
それぞれを行為・現象に還元すれば、殺生は生きものの現象である、偸盗は物などの移動である、
邪淫は生殖である、妄語・両舌・悪口・綺語は言葉である、貪欲・瞋恚・邪見はさまざまな煩悩の
現われである。このように還元された行為は悪と定義されない」
そのようなことが書かれていた。
ミリエル司教は盗まれた銀の食器をジャン・ヴァルジャンにあげたのだと言っていた。
それは物の移動であり悪ではない。
個体が生きて行くためには食わなければならないので殺生は避けられない。
種族が存続して行くためには生殖は避けられない。
生き物はそのように作られている。それを悪と呼ぶのであれば生き物自体が悪ということになる。
愛のあるセックスの場合は悪にはならないので罪から逃れることが出来ると
キリスト教であればそんな論理をこねくり回すかもしれない。
私たちが私たちの行為であるとか、生命現象を悪と見做したがる理由は何なのだろう?
私たちは食べ物や異性を求める身体自体を不自由なものとして憎んでいるのだろうか?
そんなものがなければ心は自由に飛翔できるのになどと考えているのだろうか?
集団での生活を維持するために必要とされた悪の他に
自らを束縛する欲望の数々を私たちは悪と呼ぶ。

「趙州真際大師は衆に示して云った、『汝がもし一生禅院を離れないならば、座禅して十五年のあいだ
言葉を発しなくとも、人は汝を啞者と喚ぶことなく、以後は諸覚者もまた汝に及ばないだろう。』
そうであるから、十五年のあいだ禅院に在れば、幾歳の霜雪を経るわけだが、さらに一生のあいだ
禅院を離れずにする修行と努力を想えば、その座り切った座禅は、それなりの得られた言葉である」
そんなことが書かれていた。
私たちは「失われた十年」などと言って経済成長率の低迷を嘆く。
個人は睡眠時間を削って業績改善に繋がるようなあらゆる努力を尽くす。
きっと私たちは「無駄に時間を過ごした」と他人に思われたくないのだろう。
売上げと利益を拡大し、地位と所得を向上させることで他人の謗りを免れることが出来ると考えているのだろう。
そのような生き方しか許されていない身の上にあっては「禅院で一生を過ごす」という考え方に馴染めない。
「そんなことをして何になるの?」「一生を棒に振ってしまうのでは?」などと考えてしまう。
だが彼らから見れば、一生を棒に振っているのは私たちなのだろう。
私たちがどれほどビジネスに尽くしたところで「それなりの得られた言葉」は得られない。
成功する者は器が大きいといったロジックを振り回すことで
ビジネスだけでなく「人間的にも成長」したと言い張ったところで
その「人間的」というのがいったい何なのかはよくわからない。
おそらくは優越を感じたいだけ、優越感を裏付けたいだけなのだ。
結局のところ「経済的な成功」を手にしたなら他のものも手に入れることが出来るというのが
「資本主義社会」のわかりやすいところだ。
おそらく「座り切った座禅」というのは、そのような価値観を「座る」ことだけで超えている。
彼らは別に羨ましくもなんともないのだ。
そのことだけでも及ばない。

「諸覚者の覚りが言葉となって現われる、それが仏教である。それは仏祖が仏祖のために説くのであり、
教えが正しく伝わるために説くのである」
そんなことが書かれていた。
「それが仏教である」と言われても私にはわからない。
仏祖にしかわからないのであればわかるわけがない。おそらく一生わからない。
衆生には「念仏を唱えるだけ」の仏教しか理解できないのだろう。
「諸覚者の覚りが言葉となって現われる」仏教は宗教ではなく
「念仏を唱えるだけ」の仏教が信者を有する宗教として認知されている。
正法眼蔵は仏祖から仏祖に正伝されるものであるから修行を積んでも凡夫には理解できない。
そのような教えはいったい誰のためのものなのかよくわからないが
いつの時代も求め続ける人々がいる。

現代文 正法眼蔵2

2015-01-25 00:05:05 | 道元
「行持している時間としての『今』は、形而上の有ではなく形而上のものではない、行持の今とは、
人の自発性としてする修行であるから自分から離れたりやって来たり出たり入ったりするものではない、今の連続なのだ」
ここで訳者はハイデッガーを引用している。
「時間の存在とは、今である。しかし、おのおのの今は<今や>もはやすでに《無く》、
あるいは未だ《無い》ので、《今》はまた、非存在とも捉えられる。時間は《直観された》生成である、
とは、思考される移行ではなく、今の連続という形で立ち現われる移行を意味している」
そんなことが書かれている。
「時間とは○○である」「今とは○○である」と語るのは不毛だ。
時間は経験を語るための形式のようなものだから、本来、経験を語るための言語が形式について語ることは出来ない。
物理学の方程式も空間と時間という形式を使って質量や電荷の関係を述べているのではないかと思う。
たいていの場合、時間について語れることは「今の連続」ということしかない。
「《直観された》生成」だか何だか知らないが「今の連続」とは「私は生きている」とか「私は存在する」というのと
同じことではないかと思う。存在しない私は今を語ることは出来ない。
「今・此処・私」は分離することは出来ない。
「今」は時間であり、「此処」は空間であり、合わせて客観の形式であり、
「私」は主観の形式であり、これら形式は分離出来ない。

「人が考えているとき、それが何であるかが認識されるには言語が現われなければならないのだが、
概念言語は客観性を本質とする、音声言語は主観性を本質とする。言語による認識の超越はこれらの超越である」
そんなことが書かれていた。
カントの超越論は18世紀のものであり、その時にはまだ「言語」についての言及はなかったと思う。
「それが何であるかが認識されるには言語が現われなければならない」としっかり原文に書いてあるのか、
18世紀以降の西洋哲学を知っている訳者がそのように読み取ってしまったのかはわからない。

「古人は云った、仏法を重んじるならば、たとえ霜柱であろうと、たとえ燈籠であろうと、たとえ諸覚者であろうと、
たとえ野狐であろうと、鬼神であろうと、男であろうと女であろうと、大いなる仏法を保ち、
その真髄を得たものであるならば、身心を仏法に乗せる場として、自己の無量の時間のなかにも仕えるのである。
自己の身心などどうでもよいのである、己れの身心などは世界中に生えている稲や麻や竹葦のようなものだ。
己れの身心に囚われているならば、仏法に出遭うことは稀である」
そんなことが書かれていた。
「己れの身心などは世界中に生えている稲や麻や竹葦のようなものだ」という言葉にはどこかほっとするものがある。
私たちは競争社会での成功が幸福であるという価値観で子供を教育する。
新聞もインターネットもそのような価値観で溢れている。
その結果、「オレが」「俺が」「私が」「自己主張が」「自らの存在の証が」という考えが染み付いてしまう。
「前向き」「主体的」「生産的」という言葉が己れの存在の拡張に貪欲な人々に取り憑いている。
肥大化した自我が際限の無い富の蓄積を、地位の向上を、名声を、支配を、徳を、求めている。
「世界中に生えている稲や麻や竹葦」がいっせいにそんなことを目論んだなら大変なことになるのだが
実際のところそうなので、世界は「己れ」がせめぎ合う修羅場と化している。
「己れの身心などは世界中に生えている稲や麻や竹葦のようなものだ」という言葉には
そんな世界を一蹴してしまうような響きがある。
私はこの言葉についていこう。

現代文 正法眼蔵1

2015-01-24 00:05:26 | 道元
石井恭二訳「現代文 正法眼蔵1」を読んだ。

「仏性はどのような智をもっても観ることはできないのであって、ひたすら観ずるほかはないのである」
「また、仏性は生きているときだけに有って、死を迎えた時は無くなるだろうと思うのは、
浅薄な最も仏法を知らぬ了見である。生も仏性である。死も仏性である。風や火の活らきを散るとか
散らないとか論ずるのであれば、仏性[万象の本性]も散ったり散らなかったりすることとなろう。
しかし、風や火がたとえ散るとしても仏性であるほかはなく、たとえ未だ散らなくとも仏性であるほかはないのだ。
このようであるにもかかわらず、仏性[万象の本性]が、もろもろの現象が動いたり動かなかったりすることで
在ったり不在であったり、意識の活らきによって仏性は霊妙であったりちがったり、
知る知らぬことによって仏性であったり仏性でなかったりするような誤った考えに捉われるなら仏法から外れる」

仏性についていろいろ書かれている。
仏教が尊いと思っていたなら「仏性とは何ぞや?」という問いは大切なものなのだろう。
そのように考えていない者にはよくわからない。
訳者は「万象の本性」という言葉を補っているが「万象の本性」というのは益々なんのことだかわからない。
そのような答えのない問いに対しては「ひたすら観ずるほかはない」ということなのかもしれない。
論理的な、あるいは知的な、答えは初めから用意されていない。
仏教にとって知性は煩わしいものであり、その呪縛から解き放たれた状態を求めているのかもしれない。
観ずるほかないものに対して言葉を並べることには意味がないように感じられる。
「維摩は何と答えたでしょうか。黙然として答えなしでした。」
おそらく意味があるとかないとか言っている時点で知的であり仏法から外れているのだろう。
いったい著者がこの本を残した理由は何なのだろうか?
言葉を駆使して言葉では現わせないものを示そうというのだろうか?
およそ論理的とは言えない文章を目の当たりにして挫けてしまいそうになったりもする。
そのようなことを感じている時点で「観ずる」ことが出来ていないと白状したことになるのだろうか?
思慮が足りないと言われればそうなのだろう。私は覚っているわけでも悟っているわけでもない。
そうであることを恥ずかしいとも思わない。
何かこう人智の及ばぬものとの一体感を得意になって語ったりもしない。
そんなものは欲しくもない。

「人の認識には障りがあることは明白である、一つの現象もそのままに認識することはない」
ここのところで訳者は「純粋理性批判」の「物自体」を引用している。
「・・・すると空間および時間は、物自体の規定ではなくて、現象の規定であるということになる。
また物自体がなんであろうとも、私はそれを知らないし、また知る必要もない、私にとっては、
物は現象においてしか現れ得ないからである」
どんなにがんばっても私たちは「物自体」には到達し得ないという考え方は
ニヒリズムにつながっているとニーチェが指摘していたと思う。
「認識に障りがある」というのとはちょっと違うのではないかと思う。
障りがあるなら取り除けば良いと、そういう問題ではない。
それは最も根源的なところでは空間および時間の規定であるだろうし、
外界の刺激を受け取る検出器官に依存していることでもある。
生き物の検出器官とか物理学実験で使用する検出器とは「物自体」にフィルタを掛けて
特性の一部を取り出しているのであるから
フィルタが掛かっているという点でも一部を取り出しているという点でも「障り」はある。
そもそも何かを捉えようとすること自体、すでに何かを切り落としているではないか、
つまり総体を認識しようとするところに無理がある。
まったくカントが「私はそれを知らないし、また知る必要もない」と言う通りであって
「現象をそのままに認識できない」から何か「障り」があるのか、
この野郎、なのである。

「そうであるからすなわち、人の体は万有万象の体現であり、法心一如であって、
それは心によって知られるほかはない。生死を透脱する心の姿は、ただ行仏に一任するのだ。
こうしたことによって次の句は現れる。「万法唯心、三界唯心」である。
さらに向上して言葉とすれば、「万法」も不要となって、唯心の言葉が得られる、
これがいうところの「牆壁瓦礫」である「瓦礫多」である」
訳者はここでノヴァーリスの次の言葉を引用している。
「われわれは、いたるところに絶対的なものを求めているが、見いだすのは、いつもただの事物にすぎない」
「唯心」とは「すべての存在は心の現れであって、ただ心だけが存在するということ」であるらしい。
そうすると「絶対的なもの」を捉えようとしても、きっと無理なのだろう。
心が捉えるものは常に、ただの事物にすぎないが、それは私たちの能力の限界を述べているのではなく、
私たちが求めてやまない絶対的なものこそ落とし穴であって、その危険性について語っているように思える。
絶対的なものは妄想ということだろう。

「『此の身が生ずる時は、ただ現象が起こるだけなのだ』。この現象が起こる場合、起というのは、
現象から離れたものではない。現象は『起』である。だから、この『起』は知覚されたり認識されたりしない、
起は言葉によって意味されないのだ。
・・・起時とは具体的な現象であって、日常の時間ではない。此の現象は起の時なのである」
訳者はここでハイデッガーを引用している。
「ハイデッガーも、『やはり日常性とは、正に誕生と死の《間》の存在であるのだから。』
また『現存在の実存性の根源的な存在論的根拠は《時間性》である。』
『いかに経験が現存在を把握しようとしても、そもそもそのように《存在》しえないものは、
経験の可能性からは原理的に逃れ去っているのである。』と述べている」
「誕生とか死」は「経験の可能性からは逃れ去って」いて「知覚されたり認識されたりしない」と
そういうことであるらしい。
私たちが言葉のない世界から此の世界へ移行して来た時のことも知覚されたりはしない。
「誕生」してから「秩序」へ参入するその事象を「言葉(秩序)」で捉えることは出来ない。
宇宙の誕生についても、生命の誕生についても同じことが言える。
そのことについてはずっと同じ所を
グルグル廻っている。

リグ・ヴェーダ讃歌

2015-01-17 00:05:57 | 
辻直四郎訳「リグ・ヴェーダ讃歌」という本を読んだ。
「インドで一番古い宗教文献をヴェーダといい、その中でリグ・ヴェーダは特に古く、
かつ最も重要な部分をなしている。古代インドの宗教や神話、文学や哲学、あるいは文化一般に興味を持ち、
インド思想の根源にさかのぼろうとする人は、多少なりリグ・ヴェーダについて知らなければならない。
・・・
彼らの宗教はその本質において明らかに多神教で、讃歌の対象となった神格の数は非常に多く、
その範囲も多岐にわたっている。大自然の構成要素を始めとし、神秘力があると認められたものは、
動植物でも器具でも神格化され、時には普遍抽象概念と呼ばれるものも崇拝の対象となった」
まえがきにそのようなことが書かれていた。

この本はそうした讃歌の抜粋を収録しているのだが、とにかくあらゆる神様を褒め殺しにしている。
あるいは彼らが文学的技巧を凝らす材料を増やすために神格の数が多いのではないかと思われる。
それら「主要な神格は、多かれ少なかれ擬人法の適用を受けて」いる。
ここで展開される世界は自然を支配しようとする一神教とは全く異なるように見える。
人間が支配すべき世界をモノとして捉えるか、それとも擬人法を駆使して世界を人の姿として捉えるか、
そのような違いがあるように感じられる。
そして現在の私たちの世界は一神教が支配しており、リグ・ヴェーダのような文献の存在感はない。
この本が絶版になっているのは当然のことなのかもしれない。

インドラ、アグニ、そのような神格についての讃歌が多い。
インドラは雷霆神で、アグニは火神だ。
雷と言えばゼウスもそうだ。
雷最強!

「誰か正しく知る者ぞ、誰かここに宣言しうる者ぞ。この創造はいずこより生じ、いずこより来たれる。
神々はこの世界の創造より後なり。しからば誰か創造のいずこより起こりしかを知る者ぞ。
この創造はいずこより起こりしや。そは誰によりて実行せられたりや、あるいはまたしからざりしや、
―――最高天にありてこの世界を監視する者のみ実にこれを知る。あるいは彼もまた知らず」

「宇宙開闢の歌」にそのようなことが書かれていた。
「神々は世界の創造より後」というのでは論理矛盾に陥ってしまうので
「最高天にありてこの世界を監視する者」に創造が委ねられることになる。
アリストテレスは「不動の第一動者」を神と呼んでいた。
ただそれはギリギリのところで論理矛盾を逃れているだけのことではないかと思う。
どこまでも原因を遡るか、不動の第一動者で止めてしまうか、二つの捉え方があると、
純粋理性批判にそのようなことが書かれていたと思う。
経験(感性)の範囲外で何が正しいかなんて決められないとそういうことであったと思う。
そうすると「あるいは彼もまた知らず」というのは傲慢な一神教よりは
優れた世界観であると言えるかもしれない。

葬られた王朝 古代出雲の謎を解く

2015-01-11 00:05:13 | 古事記
梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」という本を読んだ。

「・・・我々は古代の日本が現代の日本とは甚だ違う状況にあったことを認識しなければなるまい。
それは、かつてはこの日本列島の文化的中心は、太平洋沿岸ではなく日本海沿岸であったということである」
カムヤマトイワレビコのいた九州、オオクニヌシの出雲、
縄文時代から玉(ヒスイ)の原産地であり、その富により周辺を支配していたと言われる越の国、
私たちが古代と呼んでいる時代に大陸から日本に人々が移住してきたと推定されるので
文化的中心は自ずと日本海沿岸になるのだろうと、そんなことはあたり前だと思うのだが、
心の奥底では太平洋ベルト地帯に固着してしまっているようだ。
長い間、慣れ親しんだ考え方を変えるというのは、なかなか出来ることではない。
そして表題の出雲王朝だが、これはなんとなく出雲地方に王国があったのだと想像してしまうが、
実際には出雲を基点とした王国がヤマトと呼ばれる近畿地方までを支配していたということらしい。
「オオクニヌシは、兄弟神を征伐して、めでたく出雲という大国の王を継いだ」
「彼はそれだけでは満足せず、ヌナカワヒメという女王が支配する越の国を征服しに行くのである」
「オオクニヌシは、日本海沿岸だけでなく、近畿、四国、山陽の地までも支配下に置いていたと思われる」
彼は日本(葦原中つ国)を支配していた王なのだ。
オオクニヌシは「大国主」なんであたり前のことかもしれない。
その王国を「国譲り」によって天皇(スメラミコト)一族が支配するようになったと
古事記にはそういうことが書かれているということになる。
もともと王朝というよりは王国なのだろうが「王朝」と書いた方が読者の食い付きが良く本が売れるのだろう。
「葬られた」ということだが出雲王国にしたって越の国を征服したのだから
古代の日本でそのような争いが続いていたとそういうことでしかない。
誰かが意図的に葬ったわけでもないのだ。

「彼はアイヌ社会のタブーを知らなかったのである。写真に写っているのは人間の似姿であるが、
その似姿に呪文をかけると、その人間の生命も失われるという信仰がアイヌの社会にあった。
アイヌ文化は縄文文化を色濃く残す文化であり、縄文時代の日本の社会にもそのような信仰があったに違いないと私は思う。
縄文時代には、動物の像や土偶のように死者の像があるが、生きている人間の像がないのはそのような理由によるのであろう。
とすれば、鏡は人の似姿をそのまま映すものであり、それは縄文の信仰に生きる人間には
計り知れない恐怖を与える呪器であった」
三種の神器のひとつである鏡はもともとは呪器であったということらしい。
アイヌや縄文時代の日本に限らず、呪術の時代では髪の毛や爪に呪文を掛ければ相手を倒せると考えられていた。
その信仰の中では鏡は最強の呪器ということになる。
呪術の時代が過ぎて信仰が迷信と見做されるようになった頃には呪器の性格は失われてしまっているのだろう。
その頃には鏡は太陽(アマテラス)の象徴であるといった別の理由が考え出される。
時代に応じた信仰があり信仰に応じて説明は変化して行く。

「それゆえ魂はこの世とあの世との間を永遠に行き来するものであった。
勾玉はそのようにあの世とこの世を永遠に往来する魂を表すものであると考えられる。
そのような勾玉は、やはりどこか獣の形をしているのであろう。人間をはじめ全ての獣の死・復活を願う祈りがこめられている。
そして、その勾玉がヒスイでできているとすれば、それは永久の生を与える呪力ををももっていると思われる」
古代の人々にとっての魂は、私たちが心とか精神と呼んでいるものとは異なっているようだ。
魂が去ることで動物も人間も死んでしまうと彼らは考えていたようだ。
それも呪術的な信仰であり勾玉という神器もまた呪器であったということになる。
つまり縄文時代から断ち切られていない文明を
私たちは維持していることになる。

「このように『古事記』では、外祖父であり、権謀術数にすぐれた卓越した藤原不比等を思わせる神々
及び藤原氏の祖先神、あるいは新たに祖先神とされる神々がもっぱら活躍するわけである」
「そして繰り返すようだが、『古事記』は『日本書紀』とは違って、神話の話に力点がある。
しかもその神話に出てくる神々は、当時活躍していた氏族の祖先神であり、その祖先神の評価によって
氏族の未来が左右されるのである。神代において天つ神の敵となった祖先神や何の功績もない祖先神を持つ
氏族は、律令社会において繁栄の見込みがないのである」
「古事記」の成立には当時の最高権力者であった藤原不比等の意図が絡んでいるのだと著者は主張する。
「古事記」については、いろんな人のいろんな解釈が勝手気ままに書かれていて、
どれもそれらしく聞こえるが、どれが信じるに足るものなのかよくわからない。
どの説が正しいか証明することも出来ないが、どの説が間違っているのか断定することも出来ない。
それにどれが正しいかを決定する必要もない。
たとえば藤原不比等が改竄した部分現代の心理学者が振り回されているかもしれない。
一族の千年の繁栄を願った不比等の作り話をを普遍的無意識の表れと解釈しているかもしれない。
そんな昔のことは本当だったか嘘だったかよくわからない。
今こうして生きていることも虚であるか実であるか、夢か覚醒しているのかわからない。
荘周が胡蝶となった夢を見たのか、胡蝶が荘周となった夢を見たのかわからない。
今という時代もやがては時の流れの中に埋没してしまう。
僕たちはそんなふうにして生きている。

ギルガメシュ叙事詩

2015-01-10 00:05:56 | シュメール
月本昭男訳「ギルガメシュ叙事詩」を読んだ。
アッカド語で書かれた標準版は前12世紀頃に成立したと考えられているそうだ。

「あれが彼だ、シャムハト。かいなを解き、
奥処を開け。彼にお前の秘処を捕らえさせよ。
ためらわず、彼の息を捕らえよ。
彼はお前を見て、近づいてこよう。
彼がお前の上に横たわるように着物を脱ぎ広げるがよい。
かの未開の男に女の業を行え。
彼のもとで育ったその動物たちは彼によそよそしくなるだろう。
彼の愛の行為がお前に降り注がれよう」
神アヌの命により創造女神アルルによって造られた野人エンキドゥは
聖娼シャムハトと交わることにより人間らしい生を知ることになったのだという。
ギルガメシュに対抗するために造られた彼はギルガメシュの大切な友となったのだ。
性行為によって獣が人間になるという記述は示唆に富んでいるように思える。
しばしば言及されているように人間は一年中発情している動物だ。
子孫を儲けるために利用されてきた発情期は異性への関心に転化され
異性への関心はやがて他人への関心へと発展する。
その経緯が獣同然のエンキドゥが友になるという話に要約されているように思う。
フロイトが性的エネルギーと言及しているのはそのようなことではないかと思う。
性を嫌悪するキリスト教ではフロイトは異常性欲者のように見做されてしまうし
キリスト教文化の影響を受けている私たちの目も曇りがちである。
しかし文字あるいは文明の始まりと共に人々はそのことに気付いていたのだろう。
私たちは積み重ねられた文明つまりは知識つまりは偏見によって
そこにある現象の本質が見えなくなってしまう。
知識は時折、邪魔になる。

「友よ、香柏の森の守り手なるフンババを捕らえよ。
彼を絞り上げよ。彼を撃ち殺せ。
彼を粉々にして、抹殺せよ」
ギルガメシュとエンキドゥは二人で協力してフンババを倒す。
ひとりの敵に二人掛かりでしかも太陽神シャマシュから十三の風の援護を受けて
現代人の感覚からすると卑怯ではないかと感じるのだが、
そのような感情は持ち方はその頃にはなかったのかもしれない。
ここではギルガメシュとエンキドゥの友情が賞賛される。
フンババは森の守り手ということなので
森の破壊による都市化を語っていると受け止めることも出来る。
都市化を進めるシュメル文明のまわりの森には未開人がたくさん棲んでいたのだろう。
それら未開人はエンキドゥのように文明人化されるか森と共に滅ぼされただろう。
そして自然を改変して暮らして行こうとする種族が生き残る。
「風の谷のナウシカ」のように科学文明批判をしても仕方がないのだ。
そして「もののけ姫」のように不可避な対決を語ることになる。
私たちは森の神も森の守り手も殺してしまった。
それを誰かのせいにしてはいけない。

「わたしも死ぬのか。
エンキドゥのようではない、とでもいうのか。
悲嘆がわが胸に押し寄せた。
わたしは死を怖れ、荒野をさまよう」
エンキドゥの死により、ギルガメシュは死を怖れるようになる。
他人に向けられた関心は、自分と同じように「主観」を持つであろうと想定した他人の死により、
自己の消失への怖れへと変化する。
そして自己の消失を容認しない知性は「あの世」を創出する。
例外なくどの文明もどの民族も「あの世」を創出する。
知性は生き残るための機能のひとつであるから死を受け入れるようには出来ていない。
ここから宗教が生まれるまでもう少しだ。
それは永遠の命を約束するが人間の致死率は100%であり約束が果たされたことは一度もない。
約束した方も約束された方も死んでしまうので
嘘であっても誰も文句を言わない。
死人に口無しか?

解説によると「ギルガメシュは前2600年頃のシュメルの都市国家ウルクの王であった」という。
その彼が神格化されて叙事詩に残された。
楔形文字で粘土板に刻まれたその叙事詩の一部が発見されたのは1872年であったという。
4000年前の人々はどんなことを考えていたのかと興味がそそられる。
私たちは私たちの価値観でしか理解できないので
きっと彼らは私たちに似ているという偏見から
逃れられないだろう。

沈黙の教え[維摩経]

2015-01-04 00:05:52 | 仏教
鎌田茂雄「沈黙の教え[維摩経]」という本を読んだ。
「文殊は一切の真理には、言葉もなく、説明しようもなく、示しようもなく、識りようもなく、
すべての問答から離れているところがあります、といいました。そのところを『不二法門に入る』と説いたのです。
他の菩薩たちは一生懸命に二つに対立するものの不二なる点を説き明かしたのに対して、
文殊は一切の真理は、言葉で説明しようもなく、言葉によって知りようがなく、あらゆる問答から離れたところが
『不二法門』であると説きました。あらゆる分別を離れたところ、知性によっては把握できないもの、
概念によってはどうしても入ることができないもんのが『不二法門』であることを喝破したのでした。
このように、ぎりぎりの答えを出した文殊が最後に維摩に質問しました。
『わたしたちはみな、自分の考えを話しました。今度はあなたの番です。不二法門に入るには
どうすればよいですか」と。
維摩は何と答えたでしょうか。黙然として答えなしでした。
・・・
維摩は説明できないものは絶対に説明しなかった。ただひたすらに黙して一語も発しなかった。
この一黙の深さと重みは計り知れないものがあります」
ここが、維摩経で一番有名なところらしい。

「人間の思惟のはたらきの長所はものごとをどこまでも区別することにありますが、区別することは
必然的にものごとを対立的に考えるようになります」
そのようなことが書いてあった。そこで沈黙を良しとしているらしい。

思惟とはしかし区別することだけではない。
「似ているように見えるものはどのくらい異なるのか」
「異なるように見えるものはどのくらい似ているのか」
そのような二つの側面の揺り戻しがある。
弁証法では、正―反―合のプロセスで概念が発展する。
思惟は区別だから考えないことが真理というのはどうかと思う。
認識による主客分離によって人間が不幸になってしまうので無為自然のままに生きようというのならまだわかる。
「説明できないこと」を態度で示したからといって感嘆すべきものは何もない。
おそらく人々はその「手法」に感嘆しただけではないかと思う。

「性欲も食欲も人間の中に流れている原生動物以来の業の発動です」
そのようなことが書かれていた。
性欲も食欲もない動物なんて生き物ではないだろう。
時々、仏教が相手にしているのは争いのない世界、生き物のいない世界のような感じがする。
それはつまり沈黙が支配する死の世界かもしれない。

私訳歎異抄

2015-01-03 00:05:02 | 仏教
五木寛之「私訳歎異抄」という本を読んだ。「歎異抄」の主観的な現代語訳であるそうだ。

「あるとき、親鸞さまは、こう言われた。
善人ですら救われるのだ。まして悪人が救われぬわけはない。
しかし、世間の人びとは、そんなことは夢にも考えないし、言わないはずだ。
『あのような悪人でさえも救われて浄土に往生できるというのなら、
善人が極楽往生するのはきまりきっていることではないか』
こういうところが、普通一般の考えかただろう。
・・・
わたしたち人間は、ただ生きるというそのことだけのためにも、他のいのちあるものたちの
いのちをうばい、それを食することなしには生きえないという、根源的な悪をかかえた存在である。
山に獣を追い、海河に魚をとることを業が深いという者がいるが、草木国土のいのちをうばう
農も業であり、商いもまた業である。敵を倒すことを職とする者は言うまでもない。
すなわちこの世の生きる者はことごとく深い業をせおっている。
わたしたちは、すべて悪人なのだ。そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から
帰依する人びとこそ、仏にまっ先に救われなければならない対象であることがわかっていくるだろう。
おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも往生できるのだから、
まして悪人は、といえて言うのは、そのような意味である」

「悪人正機」というのは、そういうことであるらしい。
「善人ですら救われる」と言った時の「善人」とは「おのれの悪に気づかぬ傲慢な人」ということだ。
おそらくは「おのれの悪に気づかぬ」というのは一種の才能だろう。
「自分はすぐれている」と勘違いすることで行動力もコミュニケーション能力もアップする。
その能力を用いて古来より人生の目的である経済的な成功を掴み取ることが出来る。
他人、あるいは他の集団、あるいは他社に勝つこと、敵を倒すことを職とすること、
そのことから逃れられない「商いもまた業」ということになる。
そして私たちは「争いから逃れることができない」ということになる。
生存競争というのは、空間的に時間的に存在を続けようとする個体の争いであり、
存在を続けた者が勝者であり、負けて食われてしまって存在しなくなると敗者となる。
もう少し正確に存在を続けるのは誰かというと遺伝子ということになりそうだ。
その遺伝子がなかった時代は、物質どうしが時間的空間的に存在を争っていた。
争っているというのは擬人的な言い方だが、そこで存在を続けたのがやはり勝者となる。
その無機物の勝者を材料として有機物の生存競争が始まった。
無機物の場合も有機物の場合も自己増殖のみが目的であり、増殖した者が存在を続けることになる。
そのような何の意味もない「自己増殖」という目的は私たちの時代の「資本」にも引き継がれている。
資本論に書いてあることは「剰余価値は不払い労働から成る」ということと
「資本は自己増殖を目的としている」ということの二つであると思う。
そして「剰余価値は不払い労働から成る」ことと
捕食者が被食者を食って生命を維持することは似ている。
そうすると強欲資本主義を悪と呼ぶことと命を奪って食することを悪と呼ぶことは似ている。
生きることが悪であると考えるのであれば救いが必要になる。
しかし自分が悪人だなんて誰も考えたりはしない。
食べることが悪いだなんて考えたりはしない。
飽食の時代にあっては生き物の死と食事の結びつきはどんどん弱められている。
そして悪は主義主張の違う人びとの呼称に使用される。
キリスト教文化圏にとってイスラム教徒はずっと悪魔であり続ける。
彼らは過激派であり民間人を処刑しており議論の余地などないということになる。
「そんなことをするのは悪魔に違いない」
一神教では敵を悪魔と呼ぶので「生きることが悪」とはならない。
人びとは「生きることは素晴らしい」といった感動的な物語を求めている。
それもまた茶番ではないかと思う。私はどちらも苦手だ。
食うことが悪であったり、「他人を蹴落とし弱者を押しのけて生きのびること」しか出来なかったり、
そのことを苦にしたところで、いずれはおしまいを迎えてしまうのが生き物だ。
食物連鎖の最高位に位置する頂点捕食者であったとしても
他人の生命を脅かすほどの権力を持った王であったとしても、いずれは死ぬ。
死んだ生命は他の生き物に食べられたり分解されたりする。
実は食う食われるの関係は生命を構成元素に分解してしまう微生物がいなければ継続できない。
そうすると捕食と被食、支配と被支配の関係に着目していても世界は認識できない。
それに救われたいなんて思わない。私はどちらも苦手だ。

「とにかく、往生のためにはこざかしい考えは止めて、
ただほれぼれと仏の慈悲の恩の深く重いということをいつも忘れずにいるべきである。
そうすれば、おのずと念仏は口をついて出てくるにちがいない。
それを『自然(じねん)』という。みずからの意思を超える大いなる仏のちからにまかせることを
いうのである。すなわちそれこそがまさに『他力』である」

「大いなるものに身を委ねる」ということが「他力」であるということだ。
自力で何もしないということではないらしい。
キリスト教の「信」も似たような意味であったと思う。
イエスは「信」を示し身を委ねた相手であれば必ず救った。
自力でなんとかしようと思ったところで寿命が延ばせるわけでもないし
髪の毛一本の色さえ変えることが出来ない。
だが今のところは「大いなるものに身を委ねる」ことは無しにしようと思う。
そんな楽をしてしまっては何も考えなくなってしまいそうだ。
そうなるには、まだはやい。