goo blog サービス終了のお知らせ 

140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

芥川龍之介全集8

2016-03-26 00:05:25 | 芥川龍之介
ちくま文庫 芥川龍之介全集8を読んだ。
本書には紀行・日記・詩歌・文芸講座・講演が収められている。
1~7巻に比べるとあまりおもしろくはないのだが、
小説家のあまり知られていない側面に興味があれば読んでみては如何かと思う。
「文芸鑑賞」に書かれていることによると、
「鑑賞の上にもそれ相当の訓練を受けることが必要であります」ということだ。
天才も「驚くべき短い時間の驚くべき深い訓練」によって作られるのだという。
凡人はもっと訓練しなければならないとは頭が痛い。
その訓練が実用的には何ら役に立つものではないということがよくわかっているなら、
きっと訓練を受ける資格があるのだろう。
すでに足を突っ込んでいるかも・・・

【文芸鑑賞】
488ページ
文芸上の作品を鑑賞する為には文芸的素質がなければなりません。文芸的素質のない人は
如何なる傑作に親んでも、如何なる良師に従つても、やはり常に鑑賞上の盲人に了る外は
ないのであります。

489ページ
では文芸的素質さへあれば、文芸上の作品を鑑賞することも容易に出来るものかと言ふと、
これはさうは行きません。やはり創作と同じやうに、鑑賞の上にもそれ相当の訓練を受けることが
必要であります。尤もつともダンヌンツィオは十五の時に詩集を出したとか、池大雅は五つの時に
書を善くしたとか言ふやうに、古来の英霊漢は創作の上にさへ、天成の才能を発揮してゐます。
が、これは天才と称する怪物のことでありますから、我々凡人は気にかけずともよろしい。
のみならず彼等の早熟は訓練を受けなかつたと言ふよりも、
驚く可く短い時間の中に驚く可く深い訓練を受けたと言ふ方が妥当であります。
すると我々凡人はいやが上にも訓練を受ける覚悟をしなければなりません。

491ページ
成程鑑賞出来る美は必しも創作出来ないでありませう。けれども亦鑑賞出来ない美は到底創作も
出来ません。この故に古来の英霊漢は鑑賞上の訓練を受けた上にも更に又訓練を重ねようとしました。
それも文芸上の作品の鑑賞ばかりではない、屡美術とか音楽とかにも鑑賞上の訓練を加へた上、
その機敏に捉へ得た所を文芸上の創作に活用しました。殊にゲエテの一生は
かう言ふ芸術的多慾それ自身であります。

芥川龍之介全集7

2016-03-19 00:05:33 | 芥川龍之介
ちくま文庫 芥川龍之介全集7を読んだ。本書には評論が収められている。

【芸術その他】
33ページ
勿論人間は自然の与へた能力上の制限を越える事は出来ぬ。さうかと云つて怠けてゐれば、
その制限の所在さへ知らずにしまふ。だから皆ゲエテになる気で、精進する事が必要なのだ。
そんな事をきまり悪がつてゐては、何年たつてもゲエテの家の馭者にだつてなれはせぬ。
尤もこれからゲエテになりますと吹聴して歩く必要はないが。

怠けていれば、ゲーテの家の馭者にもなれぬという。
己の限界を見極められるくらい努力したことがあるのかと問われているようだ。
そしてどういう能力を試みたいのかも問われることになる。
ゲーテのように言語に隠された形式を見つけ出して表現したいのか、
それとも知りたいだけなのか・・・
知ることについては、己が己のことを知ろうとしているのか、
言語に操られた己が己を知ろうとしているのか、それとも言語が言語のことを知ろうとしているのか、
この知りたいと思う現象はいったい何だろうかということで、もはや思惟が循環してしまい、
個々の人間の能力を越えているのだか、そもそも人間の能力を越えているのかわからなくなる。
きっと詩人の場合も自己の限界か人間の限界かなんて気にしないのだろう。
越えようとすることが人間の性質だと誰かさんも書いていた。

【侏儒の言葉】
178ページ
人生は地獄よりも地獄的である。

186ページ
あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。もし寸毫の虚偽をも加えず、
我我の友人知己に対する我我の本心を吐露するとすれば、古の管鮑の交りと雖も破綻を生ぜずには
いなかったであろう。

虚偽を避けようとすると社交を避けねばならない。

198ページ
ユウゴオ
全フランスを蔽う一片のパン。しかもバタはどう考えても、余りたっぷりはついていない。

たしかにパンは配給されそうだ。
パンだけは。

205ページ
我々はしたいことの出来るものではない。只出来ることをするものである。
これは我我個人ばかりではない。我我の社会も同じことである。恐らくは神も希望通りに
この世界を造ることは出来なかったであろう。

そうは言っても出来ることというのは、したくないことに満ちている。
給料のもらえる仕事というのは、たいていそういうものらしい。
それが便宜的な結婚のような就職活動の結果なのか、荒野に住む悪魔との取引の結果なのかはわからない。
製品とサービスが手軽に入手できるようになった私たちの社会では、
自分たちがその担い手になっているので、自分の欲のために自分が奴隷になってしまう。
欲を捨てればよいのだろうか? 稀に雲水のような生活を望む人がいる。ごく稀には本当に雲水になる。
あるいはもっと精進すれば出来ることがしたいことに接近していくかもしれない。
考えてみれば3年くらい前は読む本も適当だったし、読んでも理解できていなかった。
それでいて漠然と世界を知っているのだと思い込んでいた。
それに比べると今はましだと思う。

210ページ
好人物は何よりも先に天上の神に似たものである。第一に歓喜を語るのに好い。第二に不平を
訴えるのに好い。第三に――いてもいないでも好い。

222ページ
理想的兵卒は苟くも上官の命令には絶対に服従しなければならぬ。絶対に服従することは
絶対に批判を加えぬことである。即ち理想的兵卒はまず理性を失わなければならぬ。

[応用1]
理想的サラリーマンは苟くも上司の命令には絶対に服従しなければならぬ。
即ち理想的サラリーマンはまず理性を失わなければならぬ。

[応用2]
理想的夫は苟くも妻の命令には絶対に服従しなければならぬ。
即ち理想的夫はまず理性を失わなければならぬ。

[応用3]
理想的牧羊犬は羊飼いの命令には絶対に服従しなければならぬ。
でもヨーゼフには無理か・・・

225ページ
わたしは度たびこう言われている。――「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」
しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の
名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。

「徒然草」は現代語訳を読んだことがあるが、あまり好きではない。
実は「枕草子」もあまり好きではない。

238ページ
文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人
持っていなければならぬ。
文を作らんとするものの彼自身を恥ずるのは罪悪である。彼自身を恥ずる心の上には
如何なる独創の芽も生えたことはない。

マッハの感性的諸要素の複合体で考えると文章を書くという行為は次のような現象と看做される。
文章を読むことで感性的諸要素の複合体(秩序/意識/記憶)は他の複合体(秩序/文章)を取り込む。
そして巨大な倉庫と化した複合体(秩序/意識/記憶)から抽出された言葉が組み合わされ、
新しい複合体(秩序/文章)が定着する。
言葉の抽出とその組み合わせについての規則が他の複合体に受け入れられれば傑作となる。
それは感性的諸要素の複合体(秩序/意識/記憶)を支配している規則と重なっているかもしれない。
野蛮人も独創も未だ見出されていないその規則にある。

242ページ
我我の自然を愛する所以は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のように
妬んだり欺いたりしないからである。

地震やそれに伴う津波により建物が破壊され人が死んでも私たちはこれを憎まない。
津波によって原子力発電所が損なわれたのならこれを憎む。
想定外の津波の高さとかそんなことは知らない。
原子力発電所は他の建物や人工物よりも極めて人為的な存在だ。
パソコンやスマホよりも人為的だ。
現在の享楽のために未来を汚染物質で汚していることを私たちが知っているそのことが
極めて人為的であることの原因ではないかと思う。

247ページ
阿呆はいつも彼以外の人人を悉く阿呆と考えている。

結局は自分に跳ね返ってくるらしい。

258ページ
天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていない筈である。

食欲も性欲もないということであれば生き物ではないのだろう。
世界は拡散塩基の配列を絶え間なく変化させている遺伝子レベル(分子レベル)の争いと
記号の配列を絶え間なく変化させている言語レベルの争いに満ちている。
前者は生き物すべてが対象であるが、後者は人間のみ対象となる。
だから天使には胃袋や生殖器だけでなく脳髄もないだろう。

【文芸雑談】
275ページ
しかし、小説の生命と云うものは、考えてみれば短いものである。あらゆる文芸の形式中、
小説ほど一時代の生活を表現出来るものはない。同時にまた、一面では生活様式の変化と共に
小説ほど力を失うものはない。

【文芸的な、余りに文芸的な】
322ページ
しかし一行の詩の生命は僕等の生命よりも長いのである。

「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」とは寿命が長いということだったのか?
そうすると芸術至上主義という意味は少し薄れそう。

326ページ
世界は不朽の傑作にうんざりするほど充満してゐる。が、或作家の死んだ後、三十年の月日を経ても、
なほ僕等の読むに足る十篇の短篇を残したものは大家と呼んでも差支ない。たとひ五篇を残したと
しても、名家の列には入るであらう。最後に三篇を残したとすれば、それでも兎に角一作家である。
この一作家になることさへ容易に出来るものではない。

現代では印税で生計を立てることが出来る人を「プロの作家」という。プロは余計かもしれない。
文章を書くだけで、生きていけるというのは、私から見ればものすごい才能だが、
そうした人々も三十年後には消えてしまう。
日本は芥川賞作家で充満している。
毎年増えて行く作家を養うための市場はない。
映画とかゲームに食われている。

330ページ
僕はもう十数年前、或山中の宿に鹿の声を聞き、何かしみじみと人恋しさを感じた。
あらゆる抒情詩はこの鹿の声に、――雌を呼ぶ雄の声に発したのであらう。
330ページ
僕は白柳秀湖氏のやうに焚き火に親しみを感じるものである。同時に又その親しみに
太古の民を思ふものである。

人恋しさと親しみが文芸の原点なのだろうか?

341ページ
ダンテは晩年に至つても、所謂「永遠の女性」を夢みてゐた。しかし所謂「永遠の女性」は
天国の外には住んでゐない。のみならずその天国は「しないことの後悔」に充ち満ちてゐる。
丁度地獄は炎の中に「したことの後悔」を広げてゐるやうに。

天国に住んでいるのだから「永遠の女性」には胃袋も生殖器もないのだろう。
そんな女性を夢見ながら、生殖器に振り回されて結婚相手が決まる生き物というのは憐れなのだろう。
その憐れな生き物が連綿と繰り返してきた生殖行為により私たちが今、
存在しているというのであれば、憐れを通り越して惨めになってしまいそうだ。
天国は「しないことの後悔」ではなく「しないこと」に充ちているのではないかと思う。
天国には後悔なんてないからだ。
地獄が「したことの後悔」に充ちているのなら早く死んでしまった方が後悔が少なくてよい。
長く生きていると過ちは増えていく一方だが、夭折すると罪は増えない。
きっとベアトリーチェそうだったに違いない。
そうするとやはり天国は「しないこと」に充ち「しないで死んでしまった者」に満ちている。

352ページ
お伽噺の王女は城の中に何年も静かに眠つてゐる。短歌や俳句を除いた日本の詩形もやはりお伽噺の
王女と変りはない。万葉集の長歌は暫らく問はず、催馬楽も、平家物語も、謡曲も、浄瑠璃も韻文である。
そこには必ず幾多の詩形が眠つてゐるのに違ひない。唯別行に書いただけでも、謡曲はおのづから
今日の詩に近い形を現はすのである。そこには必ず僕等の言葉に必然な韻律のあることであらう。
(今日の民謡と称するものは少くとも大部分は詩形上都々逸どどいつと変りはない。)
この眠つてゐる王女を見出すだけでも既に興味の多い仕事である。まして王女を目醒めざませることをや。

音楽家が音に埋もれた旋律や音色や拍子の組み合わせを見つけ出すように
詩人や小説家は言葉の中から形を見つけ出す。
きっといろんな王女が眠っている。

385ページ
人生は僕等に嫌応いなしに「生活者」たることを強ひるのである。嫌応なしに生存競争を
試みさせなければ措かないのである。或人びとは自ら進んで勝利を得ようとするであらう。
それから又或人びとは冷笑や機智や詠嘆の中に防禦的態度をとるであらう。最後に或人びとは
どちらも格別はつきりした意識を持たずに「世を渡る」であらう。しかしいづれも事実上は
やむにやまれない「生活者」である。遺伝や境遇の支配を受けた人間喜劇の登場人物である。

生存競争を逃れる生き物というのは定義に矛盾しているのかもしれない。
天国に住む者は生き物ではないので生存競争を免れている。
しかし生存競争を生き抜いてもいつかは死ぬ。
そのやりきれなさをどう処理すればよいのだろう?

【十本の針】
422ページ
小説家たらんとするものは常に哲学的、自然科学的、経済科学的思想に反応することを警戒すべし。
如何なる思想乃至理論も人間獣の依然たる限りは人間獣の一生を支配する能はず。

警戒するのはよいが思想を避けても仕方がないだろう。
どんな人間獣も何かしらの思想に支配されて生きていると看做す方が自然だと思う。
その人間がいつからそんなことを信じるようになったのか、
あるいは信じていることすら意識しないほどにその考え方に慣れてしまったのか、
そのことに気が付かないというのはどうなんだろう?

424ページ
わたしたちは必ずしもわたしたちではない。わたしたちの祖先はことごとくわたしたちのうちに
息づいている。わたしたちのうちにいるわたしたちの祖先に従わなければ、わたしたちは不幸に
陥らなければならぬ。「過去の業」という言葉はこういう不幸を比喩的に説明するために
用いられたのであろう。
「わたしたち自身を発見する」のはすなわちわたしたちのうちにいるわたしたちの祖先を
発見することである。同時にまたわたしたちを支配する天上の神々を発見することである。

この頃は遺伝という言葉はあっても、遺伝子はまだ発見されていなかった。
今では「遺伝子」はことごとくわたしたちのうちに息づいている。
わたしたちのうちにいる「遺伝子」に従わなければ、わたしたちは不幸に陥らなければならぬ。
同時にまたわたしたちを支配する「遺伝子」を発見することである。
そうすると遺伝子は祖先であり神である。
私たちにとって幸いなのは、そのメカニズムが解明されていないことである。
私たちを支配するメカニズムが解明されてしまったなら、
何かしようなんて気は起きないだろう。

【西方の人】
464ページ
我々は唯茫々とした人生の中に佇んでゐる。我々に平和を与へるものは眠りの外にある訣はない。

《解説》
559ページ
彼は龍之介の死に先立つ十日前にあい、熱心にキリスト教について語り合った。
その結果として室賀は「西方の人」が出るとすぐ多大の期待をもって読んだけれども、
失望を与えられたにとどまったと、このクリスチャンはのちにのべている。
芥川はついに神を信じることができなかった。

犬養道子さんの新約聖書物語は良い本だと思う。
私はクリスチャンではないが、この本を読んで初めてキリスト教を知ることが出来た。
阿刀田さんの入門者などはまるで役に立たなかった。
また、福音書も読んだが、それは二千年前の言葉であり、習慣であるから、
そう簡単に読みこなせるものではなかった。
「信じること」と「愛すること」について犬養さんはとても詳しく説明してくれていると思う。
信者になってもいいかな、くらいの気持ちにはなる。
「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャを理解したければ、まず読んでみるべきだと思う。
そういう意味では、キリスト教を理解していない芥川はドストエフスキーの半分も知らないだろう。
そしておそらくは仏教も知らないのだと思う。
彼には宗教と哲学に代表される思想に対する警戒感のようなものがある。
彼は意識的に思想を欠落させた芸術を目指したのかもしれない。
革命に溺れるマルクス主義者の如きものは哀れとしか言いようがないが、
畢竟私たちは思想に毒されないで生き続けることは出来ない。
思想を排除しようとする行為が、すでにある種の思想と言えなくもない。
日常交わす会話に思想が含まれていないなんてことはあり得ない。
私たちは常に思想にバイアスされて生きて行くしかない。
洗脳されるのが怖いと言って何も寄せ付けないのであれば何も得ることはできないだろうし、
何も得ることが出来なくてもなんとかなるという思想に支配されて生きて行くことになるだろう。
芥川が取った態度というのも、そういうものに近いのではないかと思う。
夏目漱石には宗教と哲学を取り込もうとする意図があったし、
宮沢賢治には仏教とキリスト教の影響をそのままに書いた作品がある。
芥川の切支丹物はキリスト教から殉教者精神のみ抽出しようと意図したものであるが、
それだと宗教全体を捉えることができないだろう。
アリョーシャもイワンも理解できないだろう。

芥川龍之介全集6

2016-03-12 00:05:30 | 芥川龍之介
ちくま文庫 芥川龍之介全集6を読んだ。

【温泉だより】
伊豆の修善寺温泉に滞在した時のことが書かれている。

【海のほとり】
上総の一の宮町海岸ですごした時のことが書かれている。

【尼提】
波羅門や刹帝利が用を足した便器の中の糞尿を始末する人々が除糞人であり、
その除糞人のひとりである尼提が釈迦如来の弟子になるという話

【死後】
僕はちょっとSの顔を眺めた。SはやはりS自身は死なずに僕の死んだことを喜んでいる、
――それをはっきり感じたのだった。

人は他人の不幸に対して優越感を感じるらしい。
特に自分が死なずにいることについて

【湖南の扇】
「何だ、それは?」
「これか? これは唯のビスケットだがね。………そら、さっき黄六一と云う土匪の頭目の話を
したろう? あの黄の首の血をしみこませてあるんだ。これこそ日本じゃ見ることは出来ない。」
「そんなものを又何にするんだ?」
「何にするもんか? 食うだけだよ。この辺じゃ未だにこれを食えば、無病息災になると
思っているんだ。」

血をしみこませたビスケットを私たちは食べることが出来ない。
相手を食えば相手の力が手に入ると信じられている呪術的な社会に生きているわけではない。
「無病息災になると思っている」というのはどうなのだろう?
呪術に近いのだろうか?

【年末の一日】
年末に夏目先生のお墓参りをするという話

【カルメン】
「これもやっぱり時勢ですね。はるばる露西亜のグランド・オペラが日本の東京へやって来ると
言うのは。」
「それはボルシェヴィッキはカゲキ派ですから。」

天才芥川がダジャレを書いている。
貴重

【三つのなぜ】
「三つのなぜ」として以下が考察されている。
一 なぜファウストは悪魔に出会ったか?
二 なぜソロモンはシバの女王とたった一度しか会わなかったか?
三 なぜロビンソンは猿を飼ったか?

【春の夜】
「Nさんと云う看護婦に聞いた話」ということだ。

【点鬼簿】
この小説は「僕の母は狂人だった」という恐るべき文で始まっている。
「点鬼簿」とは「死者の姓名を書き記した帳面」ということだ。
作者の生まれる前に夭折した姉のことが書かれているのだという。
彼の母が発狂したというのは姉が亡くなったからなのだろうか?

【悠々荘】
そのうちに僕等は薄苔のついた御影石の門の前へ通りかかった。石に嵌めこんだ標札には
「悠々荘」と書いてあった。

その「悠々荘」の庭や硝子窓を見て、住んでいた人のことをあれこれ想像している。

【彼】
旧友についての話

【彼 第二】
愛蘭土(アイルランド)人の友人についての話
愛蘭土ってちょっと読めないが、聖闘士星矢に出てきそうだ。
(「聖闘士星矢」って一発で変換できる最近のIMEってどうなの?)

【玄鶴山房】
ゴム印の特許で資産を築いた堀越玄鶴とその家族が住む「玄鶴山房」では、
手切れになったはずの妾の再訪もあって、いっそう醜悪な人間関係が繰り広げられる。
病身の玄鶴に付き添う看護婦の高野の冷ややかな視線が印象的だ。
他人から見れば一級の娯楽なのだろう。
「家政婦は見た」と同じ。

【蜃気楼】
「奥さんの袂の中で鳴っているんだから、――ああ、Yちゃんのおもちゃだよ。
鈴のついたセルロイドのおもちゃだよ。」

ここで「Yちゃん」とは作曲家の芥川也寸志のことらしい。

【河童】
狂人が語っているという前置きは、もっともらしいものに見せようという工夫だという。
「これは嘘なんです」と言われれば、本当のことだと信じたくなる。
河童の世界は人間の世界を風刺したり批判したりするためのものだろうが相当に理解し難く、
人間の世界を突き詰めていけば河童の世界にたどり着くのだか、
それともただの狂気なのか、
あるいは無意識に狂気を排除しようとする私たちの不自然さを暴くことが本来の意図なのか、
いろいろなことを考えさせる。

けれどもお産をするとなると、父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前は
この世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。
バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた
消毒用の水薬で嗽ひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、
かう小声に返事をしました。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。
その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」

「生まれて来たくて生まれたんじゃない」と人間の子供は時々そういうことを言ったりする。
(「盗んだバイクで走り出す」というバリエーションもある。)
河童の子供は生まれて来る時に生まれることの是非を選択できるということだ。
選択というよりは来るべき人生をすべて否定していることになる。
大人が世界の現実を否定するよりも子供が世界の可能性を否定することの方が救いがない。
河童の子供はイワン・カラマーゾフよりも激しく世界を否定していることになるだろう。
だが子が母の胎内から出て来るという意味での誕生は実際のところは生体的動物的な現象であり、
実際に子供が人間になるのは言語を獲得することに依る。
そして言語を獲得してしまっては、もはや「この世界に生まれて来たくはない」とは言えない。
「この世界」というのは意識される世界、語られる世界であって、
言葉のない平穏な世界(もちろんそんなものは世界でもなんでもないのだが)には二度と戻れない。
そういう意味で河童の子の選択が出来ることは空想となる。
秩序をそのままに混沌に戻すことは出来ない。
秩序を混沌に戻すには死が必要となる。

「その職工をみんな殺してしまつて、肉を食料に使ふのです。ここにある新聞を御覧なさい。
今月は丁度六万四千七百六十九匹の職工が解雇されましたから、それだけ肉の値段も下つた訣ですよ。」
「職工は黙つて殺されるのですか?」
「それは騒いでも仕かたはありません。職工法があるのですから。」

河童の世界では、解雇された職工は肉にされてしまうということだ。
役に立たないものを食料にしてしまうという意味で物質的に合理的な措置であり、
社会に不平不満を持つであろう失業者の口を封じてしまうという意味で政治的にも合理的だ。
「餓死したり自殺したりする手数を国家的に省略してやる」と河童で資本家のゲエルは説明する。
そしてそんなことに憤慨するのは感傷主義だという。
河童にとっては職工の食肉化よりも売春の方が由々しき問題らしい。
社会に充ちている悲惨のうち、一部を容認して一部を批判するのは、笑いごとかもしれない。
「いちばん切実なのはどれか?」いうことについて、いつまでたっても私たちは一致できないのだろう。
あるいは生活するのに忙しいので積極的に悲惨を取り除こうとはしない。
そうしている間に「職工法」が成立してしまうのだ。

「それは基督教、仏教、モハメツト教、拝火教なども行はれてゐます。まづ一番勢力のあるものは
何と言つても近代教でせう。生活教とも言ひますがね。」(「生活教」と云ふ訳語は
当つてゐないかも知れません。この原語は Quemoocha です。cha は英吉利語の ism と云ふ意味に
当るでせう。quemoo の原形 quemal の訳は単に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、
酒を飲んだり、交合を行つたり」する意味です。)

河童の世界にも宗教はあるということだが、一番人気は「生活教」なのだという。
もちろん「飯を食つたり、酒を飲んだり、交合を行つたり」というのは宗教ではない。
(飲酒や姦淫はどちらかというと禁じられている。)
結局のところ、生活するのに必死なのだ。
そしてその生活から去らねばならない瞬間には不死を信じなければならない。
ここでの議論はそこまで行かない。

【誘惑】
月の光を受けた樟の木の幹。荒あらしい木の皮に鎧われた幹は何も始めは現していない。が、次第に
その上に世界に君臨した神々の顔が一つずつ鮮かに浮んで来る。最後には受難の基督キリストの顔。
最後には?――いや、「最後には」ではない。それも見る見る四つ折りにした東京××新聞に
変ってしまう。

前の死骸――ユダの横顔。誰かの手はこの顔を捉え、マッサァジをするように顔を撫でる。すると
頭は透明になり、丁度一枚の解剖図のようにありありと脳髄を露してしまう。脳髄は始めはぼんやりと
三十枚の銀を映している。が、その上にいつの間にかそれぞれ嘲りや憐みを帯びた使徒たちの顔も
映っている。のみならずそれ等の向うには家だの、湖だの、十字架だの、猥褻な形をした手だの、
橄欖の枝だの、老人だの、――いろいろのものも映っているらしい。………

私たちは神を讃え裏切り者を罵っているのだが、善悪を含めた価値は本来、移り行くものなのだろう。
私たちが「ユダ」という響きに固定しているものも、すでに過ぎ去ったものなのだ。
悪という名で固定しようとしている行為を生み出した脳髄の働きは「ユダ」に固有のものではなく、
他の使徒にもあるかもしれない。
たいてい一度あったことは、それまでにもあったことだ。そしてこれからもあるだろう。
仏教は寛容であり、提婆達多はユダほどひどい扱いは受けていない。
遺伝的要素と環境的要因が組み合わさった結果として形成された人格は一度切りのものであり、
二千年に渡って非難されるようなものではない。
そうした寛容でない宗教が支配する道徳や科学が世界に広がっている。息つく暇さえ与えられない。
彼らの神を信じない者は吊るされる。

【浅草公園】
「急げ。急げ。いつ何時死ぬかも知れない。」

死んでしまうのだから、急いでも仕方がないのではないかと思った。
あるいは死んでしまうので、今やらなければならない。
「今でしょ」

【たね子の憂鬱】
「洋食の食べかたを一度も教わったことはない」というのが憂鬱の理由だという。
人はどんなことにでも憂鬱になり得る。

【古千屋】
樫井の戦いで討ち死にした塙団右衛門直之の首を家康が実検する。

【冬】
刑務所に収監されている従兄に面会する。
何年か後になって、従兄は鉄道自殺したという。

【手紙】
「旅行案内の広告によれば、神経衰弱によい」という温泉宿から手紙を書いている。
そんな広告で集客するというのはどうなのだろう。

【三つの窓】
するとある曇った午後、△△は火薬庫に火のはいったために俄かに恐しい爆声を挙げ、半ば海中に
横になってしまった。××は勿論びっくりした。(もっとも大勢の職工たちはこの××の震えたのを
物理的に解釈したのに違いなかった。)海戦もしない△△の急に片輪になってしまう、――それは
実際××にはほとんど信じられないくらいだった。彼は努めて驚きを隠し、はるかに△△を
励したりした。が、△△は傾いたまま、炎や煙の立ち昇る中にただ唸り声を立てるだけだった。

海戦もしない(人生を生きてもいない)△△が海に沈んでしまったのを見て、
一等戦闘艦××は安堵したのかもしれない。「彼の生涯は少くとも喜びや苦しみを嘗め尽していた」のだ。
作者はあちこちに死ぬ理由を探しているかのようだ。

【歯車】
のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云ふのは絶えず
まはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に
数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には
消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだつた。

「これは、偏頭痛の予兆である閃輝暗点である可能性が高い」とwikipediaに書いてあった。
幻想とか幻聴といったものは精神の錯乱した結果として生じるものだというが、
身体がそこそこに損なわれてしまった結果なのかもしれない。

「罪と罰」――本は「罪と罰」に違ひなかつた。僕はこの製本屋の綴ぢ違へに、――その又綴ぢ違へた
頁を開いたことに運命の指の動いてゐるのを感じ、やむを得ずそこを読んで行つた。けれども一頁も
読まないうちに全身が震へるのを感じ出した。そこは悪魔に苦しめられるイヴアンを描いた一節だつた。
イヴアンを、ストリントベルグを、モオパスサンを、或はこの部屋にゐる僕自身を。……

「罪と罰」だと思って読んでみたら「カラマーゾフの兄弟」だった。
おまけに開いたページでは、イワンが悪魔に苦しめられていた。
そこに運命的なものを感じるのだという。
部屋の中でひとり、彼自身は存在を認めていないという悪魔とイワンは話している。
彼の中に育った悪魔は彼の理論を実践したスメルジャコフによって彼の手に負えぬものになっていた。
イワンのその姿に作者が共鳴することに異議はないが「カラマーゾフの兄弟」はそれだけを描いた作品ではない。
そこばかり重視すると作品を読み損ねるだろう。
一度もキリスト教を信じたことがない人間にアリョーシャの気持ちや行動は理解できないだろう。
「切支丹物」と呼ばれる作品の意図が私にはよくわからない。
ドストエフスキーに光の部分があるとすれば
それが欠けているように思う。

【闇中問答】
或声 お前は或は滅びるかも知れない。
僕 しかし僕を造つたものは第二の僕を造るだらう。
或声 では勝手に苦しむが善い。俺はもうお前に別れるばかりだ。
僕 待て。どうかその前に聞かせて呉れ。絶えず僕に問ひかけるお前は、――目に見えないお前は何ものだ?
或声 俺か? 俺は世界の夜明けにヤコブと力を争つた天使だ。

「僕を造ったものは第二の僕を造るだろう」ということだが、
「僕」というのはすでに「第二の僕」か「第三の僕」か「百万人目の僕」かもしれない。
なんといっても動物と超人の間で生き死にを繰り返して来たのが「僕」なのだ。
そうして小さな「僕」は大きな「僕」にまとめられるだろう。

僕 (一人になる。)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に
吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時変るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それは
お前自身の為だ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚ぼれるな。同に卑屈にもなるな。
これからお前はやり直すのだ。

「雨ニモマケズ」に比べるとなんて元気の出ない文章だろうと思う。
おそらくは芥川龍之介に味方なんていない。
現代の日本には少数だが宮沢賢治の弟子が生息している。
芥川龍之介の味方や弟子は絶滅したのではないかと思う。
「芥川賞」という名が残っているだけだ。

【夢】
絵を仕上げるために雇ったモデルの話

【或阿呆の一生】
そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んで
ゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、
ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……

作者は「世紀末それ自身」と格闘して死んで行ったのかもしれない。そんな相手に勝てるわけがない。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」
そんなふうに生活を厭うようになってしまうと居場所がなくなる。
(あるいはもともと人生には居場所も行き先もなく、私たちが自覚しないだけかもしれない。)
芸術至上主義を追及して行くと、ボードレールも地獄変の良秀も滅んでしまう。
そうすると地獄変というのは彼の将来を暗示していたことになる。
「芸術はなんのためにあるのか?」
月に一度の演奏会に出掛けて心の洗濯をするとか、そんなことでは済みそうにない。
それがなかったとしたら私たちの生活は空疎なものになってしまうと
「海辺のカフカ」の大島さんは答えるかもしれない。
夏目漱石を読んで、宮沢賢治を読んで、芥川龍之介を読んで・・・
読んだからといって給料が上がるわけではない。
しかし何かしら抗い難い心情がそうさせている。
「芸術には逆らえない」ということになる。
身を滅ぼさない程度に付き合って行きたいと思うのだが、
のめり込めない作品というのはたいていつまらない。
そうすると「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」というのは説得力がある。

しかし一方では、
単調な生活を何十年も繰り返した末に死んで行くしかない虫けらの如き私たち自身を肯定する
宗教と哲学が必要となる。

芥川龍之介全集5

2016-03-05 00:05:30 | 芥川龍之介
ちくま文庫 芥川龍之介全集5を読んだ。

【仙人】
「あなたの出る幕ではありませんよ。まあ、私に任せて御置きなさい。――さあ、左の手を放すのだよ。」
 権助はその言葉が終らない内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、
両手とも放してしまったのですから、落ちずにいる訣はありません。あっと云う間に権助の体は、
権助の着ていた紋附の羽織は、松の梢から離れました。が、離れたと思うと落ちもせずに、
不思議にも昼間の中空へ、まるで操り人形のように、ちゃんと立止ったではありませんか?
「どうも難有うございます。おかげ様で私も一人前の仙人になれました。」

二十年ただ働きして、騙されたとも思わないような人間にこそ、
仙人になる資格があるのだろう。

【庭】
その年の梅雨は空梅雨だつた。彼等、――年とつた癈人と童子とは、烈しい日光や草いきれにも
めげず、池を掘つたり木を伐つたり、だんだん仕事を拡げて行つた。

荒れ果ててしまった庭を癈人の次男とその甥の廉一が元に戻そうとする。
「優美な昔の趣」には至らなかったが、骨を折るという行為によって「庭」は取り戻された。
そうして手間をかけて再現した庭だが、今度は家ごと破壊された。
そこに住んでいた人はもう誰も残ってはいないが、その時のことを廉一はいつまでも覚えている。
「庭」も「家」も人の中に存在するものなのだろう。

【一夕話】
僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、
打ち込むのが自然だと考えるんだ。小えんは諸芸を仕込ませるのも、若槻に愛のない証拠だといった。
僕はこの言葉の中にも、ヒステリイばかりを見ようとはしない。小えんはやはり若槻との間に、
ギャップのある事を知っていたんだ。

「上品で冷淡」な男よりも「下品で猛烈な浪花節語り」を選ぶのが自然ということだ。

彼等は芭蕉を理解している。レオ・トルストイを理解している。池大雅を理解している。
武者小路実篤を理解している。カアル・マルクスを理解している。しかしそれが何になるんだ? 
彼等は猛烈な恋愛を知らない。猛烈な創造の歓喜を知らない。猛烈な道徳的情熱を知らない。
猛烈な、――およそこの地球を荘厳にすべき、猛烈な何物も知らずにいるんだ。

芭蕉は知らない。武者小路実篤も知らない。池大雅も知らない。
トルストイとマルクスは知っている。それが何になるんだということだが、
何にもならないにしても知らないよりはましだと思う。
そうしてアンナ・カレーニナは「猛烈な恋愛」「猛烈な情熱」を喚起する作品ではないかと思う。
私たちの身辺に溢れている情動的で商業的な情熱や恋愛に溺れて過ごし続けるなら、
いつまで経っても他人の思惑通りの生き方を続けることになるだろう。
ヘーゲルの観念論を退けたマルクスにしても知的というよりは情熱的であると思う。
彼らはその情熱の激しさ故に名を残している。

【六の宮の姫君】
しかし姫君は昔の通り、琴や歌に気を晴らしながら、ぢつと男を待ち続けてゐた。

経済的に独立していない姫君は、親や夫の庇護が途絶えてしまえば死んでしまうしかない。
琴や歌は生きていく上では何の役にも立たない。
芸術はいずれ道化になるしかないのだという暗示だろうか?
小説も音楽も今では最も娯楽性の強いものとなりその優劣は発行部数で決定されている。
姫君も芸術も生き延びるために変わらなければならない。
だがそうやって変わってしまったものはすでに雅というものではなく
果たして価値が残っているのだかあやしい。

【魚河岸】
魚河岸(うおがし)とは魚を荷上げする河岸であり、大正十二年に築地に移ったということだ。

【お富の貞操】
「ああ、三毛も可愛いしね。お上さんも大事にや違ひないんだよ。けれどもただわたしはね。――」
 お富は小首を傾けながら、遠い所でも見るやうな目をした。
「何と云へば好いんだらう? 唯あの時はああしないと、何だかすまない気がしたのさ。」

彼女はあの日無分別にも、一匹の猫を救ふ為に、新公に体を任さうとした。その動機は何だつたか、
――彼女はそれを知らなかつた。新公は亦さう云ふ羽目にも、彼女が投げ出した体には、指さへ
触れる事を肯じなかつた。その動機は何だつたか、――それも彼女は知らなかつた。
が、知らないのにも関らず、それらは皆お富には、当然すぎる程当然だつた。

私たちの行動は、私たちが理性的に判断したことによって決定される、
あるいは情動に負けてしまった結果として生じる、と私たちは考えている。
心の中で理性と欲望であるとか、天使と悪魔が争っているということで、
できれば天使が勝って欲しいなどと考えている。
だが実際には私たちが知らないもの、意識することのないものが行動を司っているように思える。
理性とか欲望を理由にするというのは自我という虚構が行動を決定していると考えるための、
あるいは今までの行動を記憶して一元管理するために必要となる追認行為ではないかと思える。
おそらく脳や意識というものは行動において主体的なものではなく補助的なものなのだろう。
精神の支配を前提にしている社会では、そのことは忘れられている。

【おぎん】
「お父様! いんへるのへ参りましょう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、
――みんな悪魔にさらわれましょう。」
 孫七はとうとう堕落した。
 この話は我国に多かった奉教人の受難の中うちでも、最も恥ずべき躓きとして、後代に
伝えられた物語である。

そういうことで、みんなで、いんへるのに参りましょう!

【百合】
良平はある雑誌社に校正の朱筆を握っている。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さえあれば、
翻訳のマルクスを耽読している。あるいは太い指の先に一本のバットを楽しみながら、
薄暗いロシアを夢みている。百合の話もそう云う時にふと彼の心を掠めた、
切れ切れな思い出の一片に過ぎない。

「トロッコ」の主人公が出て来る。

【三つの宝】
王 (わざと叮嚀に)わたしは三つの宝を持っています。あなたはそれを知っていますか?
王子 剣と長靴とマントルですか? なるほどわたしの長靴は一町も飛ぶ事は出来ません。
 しかし王女と一しょならば、この長靴をはいていても、千里や二千里は驚きません。
 またこのマントルを御覧なさい。わたしが下男と思われたため、王女の前へも来られたのは、
 やはりマントルのおかげです。これでも王子の姿だけは、隠す事が出来たじゃありませんか?
王 (嘲笑う)生意気な! わたしのマントルの力を見るが好い。
 (マントルを着る。同時に消え失せる)
王女 (手を打ちながら)ああ、もう消えてしまいました。わたしはあの人が消えてしまうと、
 ほんとうに嬉しくてたまりませんわ。

「王子の姿だけは隠す事が出来る」偽物のマントと
「あの人が消えてしまうと嬉しくてたまらない」という本物のマント
千里を飛べる靴、姿を消せるマント、鉄でも切れる剣・・・
ハリーポッターだと、空を飛ぶ箒、姿を消せるマント、杖に相当するのだろう。
人間が欲しがる魔法の品というのは、たいてい決まっている。

【雛】
しかしわたしはあの夜更けに、独り雛を眺めてゐる、年とつた父を見かけました。これだけは
確かでございます。さうすればたとひ夢にしても、別段悔やしいとは思ひません。兎に角わたしは
眼のあたりに、わたしと少しも変らない父を見たのでございますから、女々しい、
……その癖おごそかな父を見たのでございますから。

もう手付金をもらってしまったということで、
手放すことにした雛人形を一目見たいという娘を父は叱るのだが
夜更けにその雛を眺めていたのは父だった・・・
そうして父と娘が愛した雛人形は裕福な亜米利加人や英吉利人の手に渡り、
首を抜かれて兵隊やゴム人形と共に玩具箱に投げこまれているのだろうと作者は推測している。
おもちゃを大切にしようと最近の映画にもそんな話があったと思うが、
おそらくは愛着の質が違うのだろう。

【猿蟹合戦】
ついでに蟹の死んだ後のち、蟹の家庭はどうしたか、それも少し書いて置きたい。蟹の妻は
売笑婦になった。なった動機は貧困のためか、彼女自身の性情のためか、どちらか未だに判然しない。
蟹の長男は父の没後、新聞雑誌の用語を使うと、「飜然と心を改めた。」今は何でもある株屋の
番頭か何かしていると云う。この蟹はある時自分の穴へ、同類の肉を食うために、怪我をした仲間を
引きずりこんだ。クロポトキンが相互扶助論の中に、蟹も同類を劬ると云う実例を引いたのは
この蟹である。次男の蟹は小説家になった。勿論小説家のことだから、女に惚れるほかは何もしない。
ただ父蟹の一生を例に、善は悪の異名であるなどと、好い加減な皮肉を並べている。三男の蟹は
愚物だったから、蟹よりほかのものになれなかった。それが横這いに歩いていると、握り飯が一つ
落ちていた。握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏の先にこの獲物を拾い上げた。すると高い柿の
木の梢に虱を取っていた猿が一匹、――その先は話す必要はあるまい。
 とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。語を天下の
読者に寄す。君たちもたいてい蟹なんですよ。

「君たちもたいてい蟹なんですよ」ということだ。
その蟹も河童もたいていは人なのだろう。

【二人小町】
数十年後、老いたる女乞食二人、枯芒の原に話している。一人は小野の小町、他の一人は玉造の小町。

若くて美しい女に訪れる死の使いは拒まれたが、
数十年経つとそれほど命も惜しくはない女乞食に変貌してしまっていた。
誰も彼女たちを訪れないし、誰も彼女たちを必要としない。

【おしの】
それを何ぞや天主ともあろうに、たとい磔木にかけられたにせよ、かごとがましい声を出すとは
見下げ果てたやつでございます。そう云う臆病ものを崇める宗旨に何の取柄がございましょう?

ここで、しのが泣き言とみなしているのは「エリ、エリ、ラマサバクタニ」だった。
そう聞こえるかもしれない。

【保吉の手帳から】
人間はどこまで口腹のために、自己の尊厳を犠牲にするか?――と云うことに関する実験である。
保吉自身の考えによると、これは何もいまさらのように実験などすべき問題ではない。エサウは焼肉の
ために長子権を抛ち、保吉はパンのために教師になった。こう云う事実を見れば足りることである。

私もパンのために働いている。
「わんと言え」と言われれば「わん」と言うのだろう。
「にゃあと言え」と言われれば「にゃあ」と言うのだろう。

【白】
お隣の飼い犬の黒を見殺しにしてしまった白は、体中まっ黒になってしまう。
その姿で飼い主に訴えかけても「白」とは認めてもらえず、野良犬になってしまう。
それから、子供にいじめられていたナポ公を助け、危うく轢死を遂げようとしていた幼児を助け、
大蛇の呑まれようとしたペルシャ猫を助け、日本アルプスで遭難していた高校生を助け、
火事の中に取り残された幼児を助け、動物園の檻を破ったシベリア産狼と戦い、
ようやく白い体を取り戻した。
一度失った信用を取り戻すのは大変ということなのだろうか?
一度失った矜持を取り戻すのは大変ということなのだろうか?
白い体というのはその象徴だろうか?

【子供の病気】
子供が病気になった時の話、子供というのは次男で、のちに戦死したということだ。

【お時儀】
彼は勿論「おや」と思った。お嬢さんも確かにその瞬間、保吉の顔を見たらしかった。
と同時に保吉は思わずお嬢さんへお時儀をしてしまった。

どうしてお辞儀をしたのか彼にもよくわからない。

【あばばばば】
「あばばばばばば、ばあ!」
 保吉は女を後ろにしながら、我知らずにやにや笑ひ出した。女はもう「あの女」ではない。
度胸の好い母の一人である。一たび子の為になつたが最後、古来如何なる悪事をも犯した、
恐ろしい「母」の一人である。

「女」という題で雌蜘蛛の一生が描かれていたが、アレと同じなのだろう。
「娘じみた細君」から「恐ろしい母」への変化は人間特有の精神的なものというよりは
あらゆる生き物に予定されている機能であって、子供が生まれると自動的にスイッチが入るのだろう。

【一塊の土】
お民は冷笑を浮べながら、「お前さん働くのが厭になつたら、死ぬより外はなえよ」と云つた。
するとお住は日頃に似合はず、気違ひのやうに吼り出した。丁度この時孫の広次は祖母の膝を
枕にしたまま、とうにすやすや寝入つてゐた。が、お住はその孫さへ、「広、かう、起きろ」と
揺すり起した上、いつまでもかう罵りつづけた。
「広、かう、起きろ。広、かう、起きて、お母さんの云ひ草を聞いてくよう。お母さんはおらに
死ねつて云つてゐるぞ。な、よく聞け。そりやお母さんの代になつて、銭は少しは殖えつらけんど、
一町三段の畠はな、ありやみんなおぢいさんとおばあさんとの開墾したもんだぞ。そりようどうだ?
 お母さんは楽がしたけりや死ねつて云つてるぞ。――お民、おらは死ぬべえよう。
何の死ぬことが怖いもんぢや。いいや、手前の指図なんか受けなえ。おらは死ぬだ。
どうあつても死ぬだ。死んで手前にとつ着いてやるだ。……」

丈夫なお民のペースで働くのは嫌だとお住は考えている。
私もお住的な人間なので、もっと楽がしたいという気持ちはよくわかる。
それに「働くのが嫌なら死ね」というのは言い過ぎである。パワハラである。
ブラック企業でもそこまであからさまには言わない。
そんな「丈夫自慢のお民」だがチブスに罹ってあっさり死んでしまう。
お民の残した貯金でお住は悠々と暮らしていけるのだが、
彼女の暮らしはお民と共にあったのであって
その死を受け入れることができない。

【不思議な島】
不思議な島で老人と話をする。
別れ際に老人が差し出した名刺には、Lemuel Gulliver と印刷されていた。

【糸女覚え書】
秀林院(細川越中守忠興の夫人、秀林院殿華屋宗玉大姉はその法諡なり)のお果てなされ候次第のこと。

明智光秀の三女で細川忠興の正室
明治になってから細川ガラシャと呼ばれるようになったという。
石田三成の人質になることを拒絶し死を選んだという。

【三右衛門の罪】
「わたくしは行司を勤めた時に、依怙の振舞ふるまいを致しました」というのが三右衛門の罪ということだ。

【伝吉の敵打ち】
父の敵討ちのために一生を費やす。

【金将軍】
英雄は古来センティメンタリズムを脚下に蹂躙する怪物である。金将軍はたちまち桂月香を殺し、
腹の中の子供を引ずり出した。残月の光りに照らされた子供はまだ模糊とした血塊だった。
が、その血塊は身震いをすると、突然人間のように大声を挙げた。
「おのれ、もう三月待てば、父の讐をとってやるものを!」
 声は水牛の吼えるように薄暗い野原中に響き渡った。同時にまた一痕の残月も見る見る丘のかげに
沈んでしまった。………
 これは朝鮮に伝えられる小西行長の最期である。

「父の讐をとってやるものを!」と吼えた血塊は小西行長のまだ生まれていない子供ということだ。
「怪物の子は毒蛇も同じ」であり将来の躓きになるというのが殺す理由だ。
将来、大罪を犯すということで、未来からやって来た警察に捕縛されるというSFと同じだ。
そんなことにまで責任は負えない。

【第四の夫から】
一妻多夫の生活を営んでいる第四の夫の話

【或恋愛小説】
「恋愛は至上なり」という堀川保吉の小説の話

【文章】
声の主は妹である。旧式の束髪を俯向けたかげに絹の手巾を顔に当てた器量好しの娘さんである。
そればかりではない、弟も――武骨そうに見えた大学生もやはり涙をすすり上げている。と思うと
老人もしっきりなしに鼻紙を出してはしめやかに鼻をかみつづけている。保吉はこう云う光景の前に
まず何よりも驚きを感じた。それからまんまと看客を泣かせた悲劇の作者の満足を感じた。
しかし最後に感じたものはそれらの感情よりも遥かに大きい、何とも云われぬ気の毒さである。
尊い人間の心の奥へ知らず識らず泥足を踏み入れた、あやまるにもあやまれない気の毒さである。

「半時間もかからずに書いた弔辞」に感銘している親族に対してすまなく思っている。
「道化の服を着たラスコルニコフ」が赦免を請いたいということだ。

【寒さ】
ある雪上りの午前だった。保吉は物理の教官室の椅子にストオヴの火を眺めていた。ストオヴの火は
息をするように、とろとろと黄色に燃え上ったり、どす黒い灰燼に沈んだりした。それは室内に
漂う寒さと戦いつづけている証拠だった。保吉はふと地球の外の宇宙的寒冷を想像しながら、
赤あかと熱した石炭に何か同情に近いものを感じた。

「寒さ」という記述があるのは冒頭のこの部分だけだ。

【少年】
堀川保吉の少年の頃の思い出話
もしかすると本当のことも含まれているかもしれない。

【文放古】
芥川龍之介と来た日には大莫迦だわ。あなたは『六の宮の姫君』って短篇を読んでは
いらっしゃらなくって? (作者曰く、京伝三馬の伝統に忠実ならんと欲するわたしはこの機会に
広告を加えなければならぬ。『六の宮の姫君』は短篇集『春服』に収められている。発行書肆は
東京春陽堂である)作者はその短篇の中に意気地のないお姫様を罵っているの。まあ熱烈に
意志しないものは罪人よりも卑しいと云うらしいのね。だって自活に縁のない教育を受けた
あたしたちはどのくらい熱烈に意志したにしろ、実行する手段はないんでしょう。
お姫様もきっとそうだったと思うわ。それを得意そうに罵しったりするのは作者の不見識を
示すものじゃないの? あたしはその短篇を読んだ時ほど、芥川龍之介を軽蔑したことはないわ。……

罵ってまではいないと思うが、この手紙を書いたというどこかの女の気持はわかる。
作者は「勿論彼女を軽蔑した。しかしまた何か同情に似た心もちを感じたのも事実である」と続けている。
不平しか言わないことを軽蔑し、不平の内容に同情し、
行動しようとしないことを軽蔑し、行動する能力がないことに同情しているのかもしれない。
男が、女が、という前に私たちの能力は作者のようには優れておらず、
「たいていは蟹」みたいなものであり、猿に手向かってはならないのだ。
しかし猿もまた暴虐だか行き過ぎた行為により自滅してしまうものだから
その時に思い切り笑ってやればよいのだと思う。
罵られたお姫様の名誉を守るために怒るのはよいのだろうが、
お姫様に同情するのはよくないだろう。
蟹に同情するのもだめだろう。

【桃太郎】
鬼が島で平和に暮らす鬼たちを桃太郎一行が強襲する話

【十円札】
勤めている海軍の学校の首席教官の粟野さんからは金を借りたくないという話

【大導寺信輔の半生】
自伝的作品

【早春】
爬虫類の標本室はひっそりしている。看守さえ今日は歩いていない。その中にただ薄ら寒い防虫剤の
臭いばかり漂っている。中村は室内を見渡した後、深呼吸をするように体を伸ばした。それから
大きい硝子戸棚の中に太い枯れ木をまいている南洋の大蛇の前に立った。この爬虫類の標本室は
ちょうど去年の夏以来、三重子と出合う場所に定さだめられている。これは何も彼等の好みの病的だった
ためではない。ただ人目を避けるためにやむを得ずここを選んだのである。

爬虫類の標本室で待ち合わせるというのは、
やっぱりふざけているのだろう。

【馬の脚】
間違いで人間の足を失ってしまった挙句、馬の脚に取り換えられてしまう。
ケンタウロスみたいならまだカッコいいかもしれないが、二本の足を二本の脚に交換しただけだ。
あるいは全身を毒虫に交換してもらった方が後腐れがなくてよかったかもしれない。

【春】
妹の婚約者と会う話
未完

芥川龍之介全集4

2016-02-27 00:05:09 | 芥川龍之介
ちくま文庫 芥川龍之介全集4を読んだ。

【杜子春】
「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。――お前は
もう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
 杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩つてゐました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇はないから。」
 鉄冠子はかう言ふ内に、もう歩き出してゐましたが、急に又足を止めて、杜子春の方を振り返ると、
「おお、幸、今思ひ出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持つてゐる。その家を畑ごとお前に
やるから、早速行つて住まふが好い。今頃は丁度家のまはりに、桃の花が一面に咲いてゐるだらう。」と、
さも愉快さうにつけ加へました。

「人間らしい正直な暮らし」を決意した杜子春に、お節介な仙人は家と畑をやるのだという。
学校の授業では、道徳的に推奨される行為が「人間らしい」のだが、実際に作者が「人間らしい」と
考えている行為とは、金持ちの杜子春にまとわつく俗物たちのそれではないかと思う。
そうすると「人間らしい」というのは「人間らしくない」という意味になるのだろう。
俗物にまみれることなく正直に生きようという杜子春はもはや人間の中では暮らしては行けない。
そう思った仙人が家と畑を与えようというのだ。
さすがに仙人の洞察であり慧眼というよりない。

【捨児】
「前よりも一層なつかしく思うようになったのです。その秘密を知って以来、母は捨児の私には、
母以上の人間になりましたから。」
 客はしんみりと返事をした。あたかも彼自身子以上の人間だった事も知らないように。

「生みの親より育ての親」というありがたいお話

【影】
妻の不貞を疑う男が不審者を捉えた現場では自分が妻を殺害していた。

【お律と子等と】
「お母さん。お母さん。」
 母は彼に抱かれたまま、二三度体を震わせた。それから青黒い液体を吐いた。
「お母さん。」
 誰もまだそこへ来ない何秒かの間、慎太郎は大声に名を呼びながら、もう息の絶えた母の顔に、
食い入るような眼を注いでいた。

「僕はお母さんが死んでも悲しくない」と言っていた慎太郎に抱かれて母は絶命する。

【秋山図】
「その後王氏も熱心に、いろいろ尋ねてみたそうですが、やはり癡翁の秋山図と言えば、あれ以外に
張氏も知らなかったそうです。ですから昔煙客先生が見られたという秋山図は、今でもどこかに
隠れているか、あるいはそれが先生の記憶の間違いに過ぎないのか、どちらとも私にはわかりません。
まさか先生が張氏の家へ、秋山図を見に行かれたことが、全体幻でもありますまいし、――」

経験の一元管理を命じられている私たちの記憶の信憑性を証明できるものは実際には何もない。
過ぎ去ってしまった感性的現象はその正確な姿を保っていられるのだろうか?
時間の経過と共に記憶は改変されてしまい、改変された記憶が留まっているのかもしれない。
たいていは実際よりも美しいもの、実際よりも素晴らしいもの、実際よりも力強いものが定着される。
過去が美しいというのは、記憶の改変によるものではないかと思う。
だがそもそもの始めは、現象と同じものが記憶されていたのかというと、それも期待できない。
主客を一にする現象は、情報として記憶される時に、決定的に損なわれてしまう。

【山鴨】
山鴨を仕留めたか仕留めていないかでトルストイとツルゲーネフが揉めている。

【奇怪な再会】
「それから一日か二日すると、お蓮――本名は孟蓮は、もうこのK脳病院の患者の一人に
なっていたんだ。何でも日清戦争中は、威海衛のある妓館とかに、客を取っていた女だそうだが、
――何、どんな女だった? 待ち給え。ここに写真があるから。」
 Kが見せた古写真には、寂しい支那服の女が一人、白犬と一しょに映っていた。
「この病院へ来た当座は、誰が何と云った所が、決して支那服を脱がなかったもんだ。おまけに
その犬が側にいないと、金さん金さんと喚き立てるじゃないか? 考えれば牧野も可哀そうな男さ。
蓮を妾にしたと云っても、帝国軍人の片破れたるものが、戦争後すぐに敵国人を内地へ
つれこもうと云うんだから、人知れない苦労が多かったろう。――え、金はどうした? 
そんな事は尋くだけ野暮だよ。僕は犬が死んだのさえ、病気かどうかと疑っているんだ。」

犬を昔の男だと思っている。
実現できない再会を女が望むのであれば、そういう結末しか用意できない。
不都合な現実を受け入れないというのであれば狂ってしまうしかないのかもしれない。
その方が耐えて生きるよりも幸せだろう。

【アグニの神】
この話は第3巻に収録されている「妖婆」と似ている。
こちらの方が完成度が高いのではないかと思う。

【妙な話】
――夫がマルセイユに上陸中、何人かの同僚と一しょに、あるカッフェへ行っていると、
突然日本人の赤帽が一人、卓子の側へ歩み寄って、馴々しく近状を尋ねかけた。勿論マルセイユの
往来に、日本人の赤帽なぞが、徘徊しているべき理窟はない。が、夫はどう云う訳か格別不思議とも
思わずに、右の腕を負傷した事や帰期の近い事なぞを話してやった。その内に酔っている同僚の
一人が、コニャックの杯をひっくり返した。それに驚いてあたりを見ると、いつのまにか日本人の
赤帽は、カッフェから姿を隠していた。一体あいつは何だったろう。――

「怪しい赤帽に遇った」という妙な話

【奇遇】
小説家 (机の抽斗を探しながら)論文ではいけないでしょうね。
編輯者 何と云う論文ですか?
小説家 「文芸に及ぼすジャアナリズムの害毒」と云うのです。
編輯者 そんな論文はいけません。

「ジャアナリズムの害毒」というのはちょっと露骨だ。

【往生絵巻】
老いたる法師 それには何か仔細でもござるかな?
五位の入道 いや、別段仔細なぞはござらぬ。唯一昨日狩の帰りに、或講師の説法を聴聞したと
 御思ひなされい。その講師の申されるのを聞けば、どのやうな破戒の罪人でも、阿弥陀仏に
 知遇し奉れば、浄土に往かれると申す事ぢや。身共はその時体中の血が、一度に燃え立つたかと
 思ふ程、急に阿弥陀仏が恋しうなつた。……………

浄土に往きたい。天国に行きたい。宗教は不死を願う人々により成立する。
坊主・僧侶・沙門・宣教師・神父の生活は不死によって成立している。
なんというあさましい連中だろう・・・

【母】
「私は、――私は悪いんでしょうか! あの赤さんのなくなったのが、――」
 敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。
「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。
嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」

子を亡くした母親が、隣の家の赤ん坊の死を喜んでいる。
あからさまに嬉しいというのは社会的には許されない。

【好色】
範実 「それもどうだかわからないね。一体我々人間は、如何なる因果か知らないが、
 互に傷つけ合はないでは、一刻も生きてはゐられないものだよ。唯平中は我々よりも、
 余計に世間を苦しませてゐる。この点は、ああ云ふ天才には、やむを得ない運命だね。」
義輔 「冗談ぢやないぜ。平中が天才と一しよになるなら、この池の鰌も竜になるだらう。」
範実 「平中は確かに天才だよ。あの男の顔に気をつけ給へ。あの男の声を聞き給へ。あの男の文を
 読んで見給へ。もし君が女だつたら、あの男と一晩逢つて見給へ。あの男は空海上人だとか
 小野道風だとかと同じやうに、母の胎内を離れた時から、非凡な能力を授かつて来たのだ。
 あれが天才でないと云へば、天下に天才は一人もゐない。その点では我々二人の如きも、
 到底平中の敵ぢやないよ。」

私たちは互いに傷つけ合い、束縛し合って生きている。
束縛し合い、互いの自由を奪ってしまうので憎しみ合っているのかもしれない。
そしていっしょにいることに疲れてしまい、いつか理解し合うことも放棄してしまう。
そんな可能性を信じていることは馬鹿々々しくて他人に知られるのが恥ずかしいことなのだ。

好色も、誰にも真似できない生得的なものであるなら、天才ということになる。
人々の暮らしを向上させるとか、人類の進歩に貢献するといった天才が望まれているのだろうが、
好ましいか好ましくないか、道徳的かそうでないかを本人も周りの人間も選べない。
才能を持つ、持たないということも、本人は選べない。
彼が幸福か不幸かも凡人にはわからない。

【薮の中】
「芥川龍之介の短編小説 『藪の中』と『羅生門』を原作に、橋本忍と黒澤が脚色し、
黒澤がメガホンを取った。ある殺人事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿を
それぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した」
日本映画初となるヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した「羅生門」について
そんなことが書かれていたが「エゴイズム」なのだろうか?

多襄丸も女も巫女の口を借りて語る死霊も「自分が殺した」と言っている。
エゴイズムであれば罪を逃れるために責任をなすりつけあうのではないかと思う。
現象は主観的にしか捉えることが出来ないが、主観は拠り所を持たないので、
結局のところ私たちは何も捉えることはできないということかもしれない。
そういうことを認めてしまうと私たちが相互に理解し合う可能性はなくなってしまうのだろう。
「わたしの太刀は二十三合目に、相手の胸を貫きました」という多襄丸と、
「夫の縹の水干の胸へ、ずぶりと小刀を刺し通しました」という女と、
「おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺した」という死霊の
いずれもが真実を語っているのかもしれない。
彼らは一様に殺人の罪は認めているが、自分が卑劣であるとは認めていない。
そういう意味ではエゴイストなのだろう。

【俊寛】
「女房も死ぬ。若も死ぬ。姫には一生会えぬかも知れぬ。屋形や山荘もおれの物ではない。
おれは独り離れ島に老の来るのを待っている。――これがおれの今のさまじゃ。が、この苦艱を
受けているのは、何もおれ一人に限った事ではない。おれ一人衆苦の大海に、没在していると
考えるのは、仏弟子にも似合わぬ増長慢じゃ。『増長驕慢、尚非世俗白衣所宜。』艱難の多いのに
誇る心も、やはり邪業には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散辺土の中にも、
おれほどの苦を受けているものは、恒河沙の数より多いかも知れぬ。いや、人界に生れ出たものは、
たといこの島に流されずとも、皆おれと同じように、孤独の歎を洩らしているのじゃ。
村上の御門第七の王子、二品中務親王、六代の後胤、仁和寺の法印寛雅が子、京極の源大納言雅俊卿の
孫に生れたのは、こう云う俊寛一人じゃが、天が下には千の俊寛、万の俊寛、十万の俊寛、
百億の俊寛が流されているぞ。――」

苦しんでいるのは自分一人ではないのだと、
考えてみればあたり前のことだが、普段それほど苦労もせず、
宣伝広告に刺激されて年々肥大化して行く自我を抱えている私たちは、
些細なことにも過敏に反応して不幸を嘆く。
命の取り合いをしていた時代に比べるとぬるいのだろう。
これじゃ時間がいくらあっても足りない。
たいした人間にはなれない。

【将軍】
死は×××××(1)にしても、所詮は呪うべき怪物だった。戦争は、――彼はほとんど戦争は、
罪悪と云う気さえしなかった。罪悪は戦争に比べると、個人の情熱に根ざしているだけ、
×××××××(2)出来る点があった。しかし×××××××××××××(3)ほかならなかった。
しかも彼は、――いや、彼ばかりでもない。各師団から選抜された、二千人余りの白襷隊は、
その大なる×××(4)にも、厭いやでも死ななければならないのだった。……

官憲により消されている部分が×××××となっている。注釈には以下の記載がある。
(1)「陛下の御為」か。
(2)「人間として納得」あたりか。
(3)「戦争は陛下の御為の御奉公に」のような語か。
(4)「御奉公」か。

白襷隊(しろだすきたい)は、日露戦争第三回旅順総攻撃における決死隊ということだ。
手榴弾に中って黒焦げになって死んだ者や頭部銃創により突撃の最中に発狂した者の姿が描かれている。

【神神の微笑】
「私がここに隠っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、
笑い興じていると見える。」
 その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほど
しとやかに返事をした。
「それはあなたにも立ち勝った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
 その新しい神と云うのは、泥烏須(デウス)を指しているのかも知れない。
――オルガンティノはちょいとの間、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、
やや興味のある目を注いだ。

イエズス会宣教師であり、信長の信任を受け日本最初のセミナリオをたてたオルガンティノは、
アマテラスを誘い出そうとして桶の上で破廉恥に踊るアメノウズメの姿を垣間見る。
彼が拒んでも、その風景は彼を訪れる。
孔子、孟子、荘子、仏陀・・・この国の土人は新しい神を受け入れない。
おそらくはキリスト教の神も中途半端なものとしてしか受け入れられない。
漢字とかなとアルファベットの混じった文章を平気で使いこなしている土人は手ごわい。
中国・ロシア・アメリカと戦争をしておきながら平然としていたりする。
仏教を葬式仏教と化し、キリスト教はその行事だけを取り入れて骨抜きにしてきた。
一方でアニミズムを基礎とした原始的な信仰を維持してきたが、
今ではその原始的な信仰は失われようとしている。(もののけ姫)
商業主義のせいなのか、驕りなのか。

【トロッコ】
ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」
 良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、
今日の途はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、
――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても
仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、
取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。

探求心に身を委ねると高くつく。その代償を支払わねばならない。
行動を起こしてしまったら、泣いている場合ではないし、一人で責任を取らねばならない。
これに懲りて危ないことには手を出さないようにすればよいのだが、
その行為に彼を向かわせるものというのは、たいていの場合、彼が気付くことのないアレである。
そんなものは無い方が幸せかもしれないが、無いと寂しかったりする。

【報恩記】
「昔の恩を返す時が来た」――そう思う事が嬉しかったのです。わたしにも、御尋ね者の
阿媽港甚内にも、立派に恩返しが出来る愉快さは、――いや、この愉快さを知るものは、
わたしのほかにはありますまい。(皮肉に)世間の善人は可哀そうです。
何一つ悪事を働かない代りに、どのくらい善行を施した時には、嬉しい心もちになるものか、
――そんな事も碌には知らないのですから。

善人には善行の価値がわからないということだ。
阿媽港甚内の身代わりになって首を刎ねられた男の喜びも
悪事を働くなんて想像したこともない善人には理解できないのだろうう。
うん、私にはわからない。

芥川龍之介全集3

2016-02-21 00:05:32 | 芥川龍之介
ちくま文庫 芥川龍之介全集3を読んだ。

【きりしとほろ上人伝】
「はてさて、おぬしと云ふわらんべの重さは、海山量り知れまじいぞ。」とあつたに、わらんべは
につこと微笑んで、頭上の金光を嵐の中に一きは燦然ときらめかいながら、山男の顔を仰ぎ見て、
さも懐しげに答へたは、
「さもあらうず。おぬしは今宵と云ふ今宵こそ、世界の苦しみを身に荷うた『えす・きりしと』を
負ひないたのぢや。」と、鈴を振るやうな声で申した。……

「れぷろぼす」は帝に仕え、悪魔に仕え、その後、洗礼を受けて「きりしとほろ」と改める。
流砂河の渡し守を三年勤めたある夜のこと、白衣の童を肩にのせいつもの役目を果たそうとするが、
その重さは尋常ではない。その童こそ「世界の苦しみを身に荷なったキリスト」であった。

【蜜柑】
が、その間も勿論あの小娘が、恰も卑俗な現実を人間にしたやうな面持ちで、私の前に坐つてゐる
事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、
さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、
下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を
抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。

するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、
勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、
汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。
さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、
その懐に蔵してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に
報いたのである。

私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を
僅に忘れる事が出来たのである。

「不可解な、下等な、退屈な人生」がいつも私たちを取り巻いている。
目にする出来事は一切がその退屈な人生の象徴であるように思われる。
そうした「卑俗な現実を人間にしたような小娘」が鮮やかな蜜柑をばらまき状況を一変させる。
文章に焼き付けられたその一瞬が読者の時間を止めてしまう。
きっと同じような輝かしい瞬間が人生には満ちているのだろう。
私たちはそんなことも忘れてしまっているのだ。

【沼地】
気が違っていた無名の画描きの作品に感心する。
狂人と天才の区別というのはいつも曖昧だが、私たちは狂人を蔑み、天才を讃えている。
もしかすると狂人を理解できないということは天才を理解できないということかもしれないが、
私たちは自らを分別を備え、芸術にも造詣が深いのだと看做していたりする。
そしてその化けの皮が剥がされても気が付かないほどに鈍感なのだ。

【竜】
そこで側の柱の下に死んだようになって坐っていた叔母の尼を抱き起しますと、妙にてれた容子も
隠しきれないで、『竜を御覧じられたかな。』と臆病らしく尋ねました。すると叔母は大息をついて、
しばらくは口もきけないのか、ただ何度となく恐ろしそうに頷くばかりでございましたが、やがてまた
震え声で、『見たともの、見たともの、金色の爪ばかり閃かいた、一面にまっ黒な竜神じゃろが。』と
答えるのでございます。して見ますと竜を見たのは、何も鼻蔵人の得業恵印の眼のせいばかりでは
なかったのでございましょう。いや、後で世間の評判を聞きますと、その日そこに居合せた老若男女は、
大抵皆雲の中に黒竜の天へ昇る姿を見たと申す事でございました。

「『三月三日この池より竜昇らんずるなり』と筆太に書いた建札を、高々と一本打ちました」
ということで、竜が昇るとか、竜が棲んでいるというのは恵印の悪戯だったのだが、
その噂は近隣諸国の竜を見たいと願う人々の間に広まり、とうとう本当の話になってしまった。
信じている人にとっては、事が起こる以前からすでに竜は存在していたのだろう。

いずれ河童とか天狗とかツチノコを「見たともの」という輩が出て来るかもしれない。
吸血鬼や尻尾の生えた悪魔や偏頭痛を抱えた金星人や低血圧のネッシーや人見知りするチュパカブラを
見たと信じている人にとっては、すでに実在しているのだ。

【疑惑】
しかしたとい狂人でございましても、私を狂人に致したものは、やはり我々人間の心の底に潜んでいる
怪物のせいではございますまいか。その怪物が居ります限り、今日私を狂人と嘲笑っている連中でさえ、
明日あすはまた私と同様な狂人にならないものでもございません。

地震で倒壊した家屋の下敷きになった妻が生きたまま焼かれないようにと思って、
そこにあった瓦で打ち殺してしまった男が、本当は妻を殺したかったのではないかと思い悩んでいる。
彼が本当はどう思っていたかなんて私たちにはわからない。おそらくは彼自身にもわからないだろう。
人間の心の奥底に潜んでいるのは怪物ということだ。
それは邪悪ですらなくひたすらに不可解としか言いようのないものなのだろう。
社会的動物と呼ばれている人間は教育とか躾といったものにより常識やら道徳やら倫理を学ぶ。
そうした後天的に形成された超自我は、時折出現する不可解な情動によりひっくり返される。
そうした場合に訓練が行き届いていないのだと警察官や裁判官は語るのだろう。
犯罪者とか社会的不適合者というのは子供のように自分勝手なのだと・・・
怪物を宿しながら生きる宿命にある人間は未来永劫理解されることはない。
狂人だと言って蔑まれ嘲笑われる一生を送ることになる。
それが不幸というのであれば人生そのものがつまらないのだ。

【路上】
「いや、実際厳密な意味では、普通正気で通っている人間と精神病患者との境界線が、
存外はっきりしていないのです。況んやかの天才と称する連中になると、まず精神病者との間に、
全然差別がないと云っても差支えありません。その差別のない点を指摘したのが、御承知の通り
ロムブロゾオの功績です。」

「沼地」で書いたことをなぞっている感じがする。

「君、この連中が死んだ後で、脳髄を出して見るとね、うす赤い皺の重なり合った上に、
まるで卵の白味のような物が、ほんの指先ほど、かかっているんだよ。」
「そうかね。」
 俊助は依然として微笑をやめなかった。
「つまり磐梯山の爆発も、クレマンソオへ出した辞職届も、女たらしの大学生も、皆その白味の
ような物から出て来るんだ、我々の思想や感情だって――まあ、他は推して知るべしだね。」

私が今、書いている文章も、その「白味のような物」の働きなのだろう。脳髄は、考える肉なのだ。
私たちは主客を分離することの誤りに気が付いてはいるが、主客を一にしたものを理解できないている。
もちろん「理解する」というのは「客観的に理解する」ということだから、理解できなくて当然なのだ。
そうした客観的に理解しようとする習慣が、
「灰色の脳細胞」であるとか「白味のような物」といった即自的なものと
意識という対自的なものが等価であるということに
驚いているのではないかと思う。

【じゅりあの・吉助】
磔刑に処せられた日本人の殉教者の話

【妖婆】
「この大都会の一隅でポオやホフマンの小説にでもありそうな、気味の悪い事件が起ったと云う」話

【魔術】
私が指の間に挟んだ葉巻の灰さえ、やはり落ちずにたまっている所を見ても、私が一月ばかりたったと
思ったのは、ほんの二三分の間に見た、夢だったのに違いありません。けれどもその二三分の短い間に、
私がハッサン・カンの魔術の秘法を習う資格のない人間だということは、私自身にもミスラ君にも、
明かになってしまったのです。私は恥しそうに頭を下げたまま、しばらくは口もきけませんでした。

ほんの数分の間に、魔術を習う資格のない人間だということが明らかになったということだが、
一か月と思われた期間が束の間の出来事であったということも魔術のような体験ではないかと思う。
時折、私は過ぎ去った日々の膨大なことに驚き、狐か貉に化かされたような気分になる。
おそらく私は何も出来ずに過ごして来た時間を取り返すことが出来ないという現実を
受け入れることが出来ないのだろう。

【葱】
その八百屋の前を通った時、お君さんの視線は何かの拍子に、葱の山の中に立っている、竹に燭奴を
挟んだ札の上へ落ちた。札には墨黒々と下手な字で、「一束四銭」と書いてある。あらゆる物価が
暴騰した今日、一束四銭と云う葱は滅多にない。この至廉な札を眺めると共に、今まで恋愛と芸術とに
酔っていた、お君さんの幸福な心の中には、そこに潜んでいた実生活が、突如としてその惰眠から
覚めた。間髪を入れずとは正にこの謂いいである。薔薇ばらと指環と夜鶯と三越の旗とは、刹那に
眼底を払って消えてしまった。その代り間代、米代、電燈代、炭代、肴代、醤油代、新聞代、化粧代、
電車賃――そのほかありとあらゆる生活費が、過去の苦しい経験と一しょに、恰あたかも火取虫の火に
集るごとく、お君さんの小さな胸の中に、四方八方から群って来る。お君さんは思わずその八百屋の
前へ足を止めた。それから呆気にとられている田中君を一人後に残して、鮮な瓦斯の光を浴びた
青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を
指さすと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、
「あれを二束下さいな。」と云った。

「地獄変」は芸術至上主義を批判したのだが賛美したのだか不明なところがあるが、
おそらくは美に囚われた人間の一途な心情であるとか生活を顧みない愚かさのようなものを
小説という形式の芸術に定着させたかったのではないかと思う。
一方で「葱」や「蜜柑」では生活を離れた芸術というのではなく
生活の中に一瞬きらめく美しさや力強さといったものを描きたかったのではないかと思う。
時折「10%値引き」とか「見切り品」の札(シール)が貼り付けられた食材を買い求めることがある。
食欲旺盛な子供たちがいつの間にか父に生活力を与えていたのだろう。

【鼠小僧次郎吉】
「おらもさうだらうと思つてゐた。三年前の大夕立に雷獣様を手捕りにした、横山宿の勘太と
云つちや、泣く児も黙るおらだんべい。それをおらの前へ出て、びくともする容子が見え無えだ。」

「雷獣様を手捕りにした」というのは、どう考えても嘘だろう。
嘘も悪事も大きければ大きいほど尊敬される。
そうしているうちに大法螺を吹く習慣が身についてしまう。

【舞踏会】
「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴイvie)のやうな花火の事を。」

ヴェネツィア国際映画祭にて金獅子賞を受賞したHANA-BIという映画があった。
私たちの生命やら生活というものは花火のようなものかもしれない。

【尾生の信】
それから幾千年かを隔てた後、この魂は無数の流転を閲して、また生を人間に託さなければ
ならなくなった。それがこう云う私に宿っている魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、
何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、ただ、
何か来るべき不可思議なものばかりを待っている。ちょうどあの尾生が薄暮の橋の下で、
永久に来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。

「何か来るべき不可思議なもの」が作者を捉えるのだろう。
それは「永久に来ない恋人」のように待っている時間と手間が惜しくないものなのだろう。
意味のある仕事、役に立つ仕事からすでに弾かれてしまっている。
経済的な独立まで危うくなってしまう。
そういうことはわかっているのだが「不可思議なもの」の魅力に逆らえない。
そのことと無縁の人生であるならば、その方が無意味なのだ。

【秋】
暫く沈黙が続いた後、俊吉は静に眼を返して、「鶏小屋へ行つて見ようか。」と云つた。
信子は黙つて頷いた。鶏小屋は丁度檜とは反対の庭の隅にあつた。二人は肩を並べながら、ゆつくり
其処まで歩いて行つた。しかし蓆囲むひの内には、唯鶏の匂のする、朧げな光と影ばかりがあつた。
俊吉はその小屋を覗いて見て、殆独り言かと思ふやうに、「寝てゐる。」と彼女に囁いた。
「玉子を人に取られた鶏が。」――信子は草の中に佇んだ儘、さう考へずにはゐられなかつた。……
 二人が庭から返つて来ると、照子は夫の机の前に、ぼんやり電燈を眺めてゐた。
青い横ばひがたつた一つ、笠に這つてゐる電燈を。

従兄を妹に譲った姉がその夫婦の元を訪れる。
夫と姉がいまだに心を通わせていることを思い知らされて妹は嫉妬する。
「玉子を人に取られた鶏」というのは
「良人を姉に取られた妹」のことかもしれない。
何故、姉は妹に譲ったのかわからない。おそらくは本人にもわからない。
もはや姉と妹は一生わかりあうことはないだろう。

【黒衣聖母】
麻利耶観音と称するのは、切支丹宗門禁制時代の天主教徒が、屡しばしば聖母麻利耶の代りに
礼拝した、多くは白磁の観音像である。

聖母マリアと観音、母性が生得的に持っている慈愛という点で共通しているのではないかと思う。
ただこの話に出て来る聖母には悪意と嘲笑があるのだという。

【或敵打の話】
敵打(かたき討ち)を遂げようとして諸国を旅する。
返り討ちにあったり、病に倒れたりして、結局のところ敵討ちは果たされない。
そういうことに命を賭した人々の無意味な人生が強調されているかのようだ。
人はもっと何かしら人生を賭けるに値することに一生を費やすべきだと言っているのかもしれない。
敵討ちをしようとする側が無意味な死を重ねていく一方で、
敵討ちの対象の武士は仏門に入り彼らの報われない死を弔う。
自身がその発端であったことを彼は忘れてはいない。

【女】
女というのは雌蜘蛛のことだ。
彼女は餌となる虫にとっては悪であり残酷であるが仔蜘蛛にとっては無償の愛を振りまく母親なのだ。
そうした残酷な母というのが、あるいは自然の姿なのだろう。

【素戔嗚尊】
「素戔嗚よ。お前は何を探しているのだ。お前の探しているものは、この山の上にもなければ、
あのの中にもないではないか。おれと一しょに来い。おれと一しょに来い。
お前は何をためらっているのだ。素戔嗚よ。……」

素戔嗚(スサノオ)に語り掛ける声は、やがて彼を櫛名田姫の元へと、大蛇の元へと誘う。
彼が探しているものとか、彼の本性が求めているものとは、そういうものなのだ。

「人間が鉤を恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしまう。
私は魚が羨しいような気がしますよ。」

思兼尊(オモイカネ)はそう語る。
知恵のある者は、知恵の働きにうんざりしているのかもしれない。
多すぎる知性は碌な結果をもたらさない。
「地下室の手記」

【老いたる素戔嗚尊】
素戔嗚尊(スサノオノミコト)とその娘の須世理姫(スセリヒメ)と
その夫となる葦原醜男(アシハラシコヲ、大国主命(オオクニヌシノミコト)の別称)の話
こちらの方は古事記とだいたい同じになっている。

【南京の基督】
いや、金花はこの瞬間、彼女の体に起つた奇蹟が、一夜の中に跡方もなく、悪性を極めた楊梅瘡を
癒いやした事に気づいたのであつた。
「ではあの人が基督様だつたのだ。」

その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を独り考へてゐた。――
「おれはその外国人を知つてゐる。あいつは日本人と亜米利加人との混血児だ。名前は確か
George Murry とか云つたつけ。あいつはおれの知り合ひの路透電報局の通信員に、基督教を
信じてゐる、南京の私窩子を一晩買つて、その女がすやすや眠つてゐる間に、そつと逃げて来たと
云ふ話を得意らしく話したさうだ。おれがこの前に来た時には、丁度あいつもおれと同じ上海の
ホテルに泊つてゐたから、顔だけは今でも覚えてゐる。何でもやはり英字新聞の通信員だと
称してゐたが、男振りに似合はない、人の悪るさうな人間だつた。あいつがその後悪性な梅毒から、
とうとう発狂してしまつたのは、事によるとこの女の病気が伝染したのかも知れない。
しかしこの女は今になつても、ああ云ふ無頼な混血児を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一体
この女の為に、蒙を啓いてやるべきであらうか。それとも黙つて永久に、昔の西洋の伝説のやうな
夢を見させて置くべきだらうか……」

もちろん夢を見させて置くべきだろう・・・

芥川龍之介全集2

2016-02-14 00:05:50 | 芥川龍之介
ちくま文庫 芥川龍之介全集2を読んだ。

【或日の大石内蔵助】
「すでに仇討を終って法の裁きを待っている大石内蔵助を描いた作品」ということだ。
裁きが下っていない江戸ではその忠義を讃え町人の間でも仇討の真似事が流行っているのだという。
そして仇討に加わらなかった輩を蔑むことで忠臣の誉は益々盛んになるのだが
内蔵助の心境は複雑だという。彼はその不忠の侍を憎んでいたわけではないのだ。
そしてまた仇を欺くために過ごしたと看做されている放埓な生活の中にも復讐を忘却した日々が
あったのだと正直な彼は認めていて、なんでもかんでも忠義と結び付けられたくないのだ。
作者は忠義と不忠の者を識別して批評を下して得意になっている部外者を戒めたいのだろう。
愚かな主君に仕えてしまったために果たさざるを得なかった仇討には
現代のサラリーマンの悲哀に共通するものがある。
部下とか家来には信じてもいないことを実行しなければならない瞬間があり、
そのためにたったひとつしかない命を投げ出し、
人生のすべてを犠牲にしてしまうのだ。

【片恋】
お徳という女中が、活動写真に映っている毛唐の役者に片恋(片思い)するという話

【女体】
虱になって始めて、細君の肉体の美しさを観ずる事が出来たという話

【黄粱夢】
「では、寵辱の道も窮達の運も、一通りは味わって来た訳ですね。それは結構な事でした。
生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません。
これであなたの人生の執着も、熱がさめたでしょう。得喪の理も死生の情も知って見れば、
つまらないものなのです。そうではありませんか。」
 盧生は、じれったそうに呂翁の語を聞いていたが、相手が念を押すと共に、
青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。
「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。
その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」
 呂翁は顔をしかめたまま、然りとも否とも答えなかった。

「寵辱の道」というのは「栄えたり疎んぜられたりする道理」、
「窮達の運」というのは「困窮と栄達とのめぐりあわせ」、
「得喪の理」というのは「貧富の道理」、
「死生の情」というのは「死んだり生きたりする気持」のことだという。
そういう実感のない言葉にまとめるなら、生きることは、つまらないことかもしれない。
きっと、つまらない。言って聞かせるまでもない。
これから生きようとする青年は「生きたと云えるほど生きたい」ことが望みであり、
何をどうしたとか内容は問わずに、ひたすらに生きることを欲するのだろう。
年長者にとっては生きることは苦しく馬鹿々々しく、時折すべてを放り出したいと思ったりもする。
「果たして私は生きたと言えるほど生きたのか?」
そういう時に訪れる言葉は決まっているのであって
やはり青年と同じように生きるしかない。

【英雄の器】
「項羽は英雄の器ではない」と漢の将軍の呂馬通が語っている。
その話を傍で聞いている鼻の高い、眼光の鋭い男は実は劉邦であり、
「だから、英雄の器だったのさ」と独り言を言う。

【戯作三昧】
「南総里見八犬伝」で著名な滝沢馬琴を描いた作品

「己を不快にするのは、第一にあの眇が己に悪意を持っているという事実だ。
人に悪意を持たれるということは、その理由のいかんにかかわらず、
それだけで己には不快なのだから、しかたがない。」

馬琴はつまらない人間のつまらない批評を気にしている。
いちばん不快なことは、そういうつまらない人間と自分が対等の立場に置かれることなのだという。
後世になると人間の価値が定めらてしまい凡人のくせに生意気ということになるが、
生きている間はつまらない人間であってもしゃべりたいのだ。

「観音様がそう言ったか。勉強しろ。癇癪を起すな。そうしてもっとよく辛抱しろ。」

孫の口から聞いた言葉に馬琴は頷く。
母親か誰かの入れ知恵かもしれないが、孫の口から聞いたのが不思議なのだという。
まったくその通りで、いつもそんなふうにすごせればいいなと思う。
誰が誰より偉いとかそんなことはどうでもよくて
やるべきことを、やればよいのだろう。

【西郷隆盛】
西郷隆盛は城山で死んだのではなく、その後も生き続けているという話

「僕はピルロンの弟子で沢山だ。我々は何も知らない、いやそう云う我々自身の事さえも知らない。
まして西郷隆盛の生死をやです。だから、僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを
書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。
僕は若い時に、小説家になろうと思った事があった。なったらやっぱり、そう云う小説を
書いていたでしょう。あるいはその方が今よりよかったかも知れない。
とにかく僕はスケプティックで沢山だ。君はそう思わないですか。」

「スケプティック」というのは「懐疑的」という意味だ。
「我々は何も知らない」というのはその通りであって、少し哲学をやってみればわかる。
「観念論」も「唯物論」も信じられないところに放り出される。
そしてまた「懐疑的」であること自体にも限界があるということを思い知らされる。
「懐疑的」であるためには少なくとも懐疑的でない何かを拠り所にしなければならないとか、
少なくとも「論理」は信じていなければ疑うことすらできないとか、そういうことになる。
私たちの認識というのは、その程度のものなのだということになる。
いちばんやっかいなのは「我々自身」のことだろう。
今のところは有意味な遺伝子の配列と同じような働きともいうべき、
意味そのものを取り込んでどんどん拡張して行く複合体というより他ない。
意識というのはその道具なのだろう。

西郷隆盛とか、坂本龍馬とか、彼らの生き様がどうであったかとか、あまり興味がない。
信念に殉じて生きたというところに憧れる人が多いのだと思うが、
その信念というのは私にはあまり価値のないものだ。

【首が落ちた話】
「私ほどの不幸な人間はない。この若さにこんな所まで戦に来て、しかも犬のように訳もなく
殺されてしまう。それには第一に、私を斬った日本人が憎い。その次には私たちを偵察に出した、
私の隊の上官が憎い。最後にこんな戦争を始めた、日本国と清国とが憎い。
いや憎いものはまだほかにもある。私を兵卒にした事情に幾分でも関係のある人間が、
皆私には敵と変りがない。私はそう云ういろいろの人間のおかげで、したい事の沢山ある
この世の中と、今の今別れてしまう。ああ、そう云う人間や事情のするなりにさせて置いた私は、
何と云う莫迦だろう。」

死に際に、人はそういうことを考えるものなのかもしれない。
余命のある人間が命を奪われるという場合には何かしら憎むべき対象があるものだが、
天寿を全うした人間はどうなのだろう?
がんや心臓病や脳溢血で死ぬ場合は病気を憎めばよいかもしれないが
老衰で死ぬ場合はどうなのだろう?
命が奪われることについて天を憎めばよいのだろうか?
憎んでどうなるものでもないが・・・
天であるとか自然というものは残酷なものであって
人間魚雷回天を設計した阿呆な人間と似たところがある。
数十年は航行できる燃料を持ってはいるが
それが尽きた時は死ぬしかない。

【袈裟と盛遠】
しかし私自身を頼みにする事の出来なくなった私は、何と云うみじめな人間だろう。
三年前の私は、私自身を、この私の美しさを、何よりもまた頼みにしていた。三年前と云うよりも、
あるいはあの日までと云った方が、もっとほんとうに近いかも知れない。
あの日、伯母様の家の一間で、あの人と会った時に、私はたった一目見たばかりで、
あの人の心に映っている私の醜さを知ってしまった。

容色が衰えるというのは、もともと美しかった女性にとって屈辱的なことなのだろう。
若い頃に、あんなに夢中になってすり寄ってきた男たちは、もういない。
一世を風靡した一発屋のヒットソングと同様に、かつての美しさを回顧しても空しいだけだ。
彼女の心に宿る美しさを讃える高潔な男子はもういないのだろうか?
いや、高潔な男子なんて、もともとどこにもいなかったのだ。

【蜘蛛の糸】
犍陀多は嵌められたのではないだろうか?

御釈迦様は地獄の容子を御覧になりながら、この犍陀多には蜘蛛を助けた事があるのを
御思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報には、出来るなら、
この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました。

「出来るなら」などと言わずに、とっとと救い出せば良いと思う。
実際のところ、犍陀多は試されているだけなのだ。
神や仏はその超越的な視座で罪人を試すことが許されている。
そんなことが許されていて良いのだろうか?

「蜘蛛の糸」はグルーシェニカの語る「一本の葱」と同じではないかと言われている。
ゾシマ長老の腐臭で自棄になったアリョーシャを救う感動的なシーンだ。
ここのところはソーニャがラスコーリニコフを救うところと似ている。
堕落したと思われている女性が主人公を救う。

【地獄変】
「よう見い。それは予が日頃乗る車ぢや。その方も覚えがあらう。
――予はその車にこれから火をかけて、目のあたりに炎熱地獄を現ぜさせる心算つもりぢやが。」
 大殿様は又言を御止めになつて、御側の者たちに眴をなさいました。それから急に苦々しい御調子で、
「その内には罪人の女房が一人、縛めた儘、乗せてある。されば車に火をかけたら、
必定その女めは肉を焼き骨を焦して、四苦八苦の最期を遂げるであらう。その方が屏風を仕上げるには、
又とないよい手本ぢや。雪のやうな肌が燃え爛れるのを見のがすな。黒髪が火の粉になつて、
舞ひ上るさまもよう見て置け。」

その火の柱を前にして、凝り固まつたやうに立つてゐる良秀は、――何と云ふ不思議な事で
ございませう。あのさつきまで地獄の責苦に悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、
さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、
両腕をしつかり胸に組んで、佇んでゐるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、
娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやうなのでございます。
唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる
――さう云ふ景色に見えました。

火をかけたのは大殿様であって絵師(良秀)ではないが、
彼は生きたまま焼かれて悶え死のうとしている娘を助けようとはせず、その有り様を眺めていたのだ。
屏風を完成させたいという一念が娘を見殺しにしてしまった。
そのことで彼は自害してしまうのだが、
大殿様は二人の命を奪った屏風と共に生きている。
ぜひ天罰が下って欲しい。(「邪宗門」へ続く)

【開化の殺人】
子爵閣下、並に夫人、こは予が日記の大略なり。大略なりと雖も、予が連日連夜の苦悶は、
卿等必ずや善く了解せん。予は本多子爵を殺さざらんが為には、予自身を殺さざる可らず。
されど予にして若し予自身を救はんが為に、本多子爵を殺さんか、
予は予が満村恭平を屠りし理由を如何の地にか求む可けん。

愛する女性を「禽獣」の手から救うために殺人を犯すが、その後、女性は相思相愛の男と夫婦になる。
女の幸せを願ってそのことは了解していたはずだが、結局は男に殺意を抱いてしまう。
だがその男を殺してしまえばすでに犯した殺人の大義がなくなってしまう。
それを阻止するために自分を殺す。

【奉教人の死】
二重三重に群つた奉教人衆の間から、「まるちり」(殉教)ぢや、「まるちり」ぢやと云ふ声が、
波のやうに起つたのは、丁度この時の事でござる。殊勝にも「ろおれんぞ」は、罪人を憐む心から、
御主「ぜす・きりしと」の御行跡を踏んで、乞食にまで身を落いた。して父と仰ぐ伴天連も、
兄とたのむ「しめおん」も、皆その心を知らなんだ。これが「まるちり」でなうて、何でござらう。

「まるちり」は「殉教」
「こひさん」は「懺悔」
「じゃぼ」は「悪魔」
「末期(まつご)の御裁判(おんさばき)の喇叭(らつぱ)の音」は「最後の審判のラッパの音」ということだ。
Tuba mirum spargens sonum・・・

「ろおれんぞ」を乞食に追い落としたのは、あなた方ではないかと聞いてみたくなる。
「忠義」や「殉教」はやっかいであり、褒めたたえる側に何らかの欠陥があるのではないかと思う。

【るしへる】
「わが常に「いんへるの」に堕さんと思う魂は、同じくまた、わが常に「いんへるの」に堕すまじと
思う魂なり。汝、われら悪魔がこの悲しき運命を知るや否や。わがかの夫人を邪淫の穽に
捕えんとして、しかもついに捕え得ざりしを見よ。われ夫人の気高く清らかなるを愛ずれば、
愈夫人を汚さまく思い、反ってまた、夫人を汚さまく思えば、愈気高く清らかなるを愛でんとす。
これ、汝らが屡七つの恐しき罪を犯さんとするが如く、われらまた、常に七つの恐しき徳を
行わんとすればなり。ああ、われら悪魔を誘うて、絶えず善に赴かしめんとするものは、
そもそもまた汝らが DS か。あるいは DS 以上の霊か」と。

「悪魔はもとより、人間と異るものにあらず」ということだ。
全能の神が悪魔を創った訳というのもよくわからない。それは世界に欠陥を埋め込んだに等しい。
突き詰めると「神の世界を認めない」か「人間こそが悪魔」ということになってしまうだろう。

【枯野抄】
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。」――事によるとこの時、このとりとめのない視線の中には、
三四日前に彼自身が、その辞世の句に詠じた通り、茫々とした枯野の暮色が、一痕の月の光もなく、
夢のやうに漂つてでもゐたのかも知れない。

芭蕉の最期を看取る弟子たちの様子が描かれている。

【邪宗門】
「地獄変」の続きということだ。

中でも殊に空恐ろしく思われたのは、ある女房の夢枕に、良秀の娘の乗ったような、炎々と
火の燃えしきる車が一輛、人面の獣に曳かれながら、天から下りて来たと思いますと、その車の
中からやさしい声がして、「大殿様をこれへ御迎え申せ。」と、呼よばわったそうでございます。

「あおう、身のうちに火がついたわ。この煙は如何致した。」と、狂おしく御吼りになったまま、
僅三時ばかりの間に、何とも申し上げる語もない、無残な御最期ごさいごでございます。

「この煙は如何致した」と言っても、それは娘の乗った車に放った火が燃え移ったのではないかと、
読んでいる人は皆、そう思うのではないかと思う。
この大殿様だが「道長を念頭においたか」と注釈に書かれている。

「邪宗門」は「摩利の教」を示していて八世紀に渡来したキリスト教の一派ということだ。
その布教を進める摩利信乃法師が強力な法力で横川の僧都を打ち破り勝ち誇っているところに
堀川の若殿様が登場するところで途切れ、未完に終っている。

【毛利先生】
「諸君にはまだ人生はわからない。ね。わかりたいったって、わかりはしません。それだけ諸君は
幸福なんでしょう。我々になると、ちゃんと人生がわかる。わかるが苦しい事が多いです。
ね。苦しい事が多い。これで私にしても、子供が二人ある。そら、そこで学校へ上げなければならない。
上げれば――ええと――上げれば――学資? そうだ。その学資が入いるでしょう。
ね。だから中々苦しい事が多い……」

人生というのは子供を育てるために苦しむだけということなのだろうか?
その子供が大人になって、子供を儲け、子供を育てるために苦しんで、
それが過去から現在までずっと繰り返されて来たのだろうか?

「何、頼んだ訳じゃありません。ただ、毎晩やって来ちゃ、ああやって、教えているんです。
何でももう老朽の英語の先生だそうで、どこでも傭ってくれないんだって云いますから、
大方暇つぶしに来るんでしょう。珈琲一杯で一晩中、坐りこまれるんですから、
こっちじゃあんまり難有くもありません。」

教えるのが上手というわけではないが、この人はきっと教えるのが好きなのだろう。
21世紀の受験生のように講師を選り好み出来ればよいが、
それが出来ない人々は夜更けのカフェで冴えない先生を相手に勉強するのだろう。

【犬と笛】
生駒山の駒姫と笠置山の笠姫というのは、
髪長彦の力になりたいという姉と妹の願望なのだろうか?

【あの頃の自分の事】
その上その頃は思想の上でも、一致する点が少くなかつた。
殊に二人とも、偶然同時に「ジャン・クリストフ」を読み出して、同時にそれに感服してゐた。

作者にも「ジャン・クリストフ」を読んで感動していた頃があったということだ。
振り返ってみると「ジャン・クリストフ」が到達した境地というのは、
私たちにとっては、苦しみの始まりでしかないのだろう。

【開化の良人】
彼はやはり真面目な調子で、『たとい子供じみた夢にしても、信ずる所に殉ずるのだから、
僕はそれで本望だ。』と、思い切ったように答えました。

『それは勿論妻と妻の従弟との現在の関係を肯定した訳じゃない。当時の僕が想像に描いていた
彼等の関係を肯定してやったのだ。君は僕が「愛のある結婚」を主張していたのを覚えているだろう。
あれは僕が僕の利己心を満足させたいための主張じゃない。僕は愛をすべての上に置いた
結果だったのだ。だから僕は結婚後、僕等の間の愛情が純粋なものでない事を覚った時、
一方僕の軽挙を後悔すると同時に、そう云う僕と同棲しなければならない妻も気の毒に感じたのだ。
僕は君も知っている通り、元来体も壮健じゃない。その上僕は妻を愛そうと思っていても、
妻の方ではどうしても僕を愛す事が出来ないのだ、いやこれも事によると、抑僕の愛なるものが、
相手にそれだけの熱を起させ得ないほど、貧弱なものだったかも知れない。
だからもし妻と妻の従弟との間に、僕と妻との間よりもっと純粋な愛情があったら、僕は潔く
幼馴染の彼等のために犠牲になってやる考だった。そうしなければ愛をすべての上に置く僕の主張が、
事実において廃ってしまう。実際あの妻の肖像画も万一そうなった暁に、妻の身代りとして
僕の書斎に残して置く心算だったのだ。』

「信じるところに殉ずる」のが本望であるという。
そういう生き方は不幸に見えて実は幸福なのかもしれない。
やっかいなのは「信じるところ」が変わってしまうということではないかと思う。
「開化の殺人」や「開化の良人」の主人公は単純すぎるところがある。

芥川龍之介全集1

2016-02-07 00:05:13 | 芥川龍之介
ちくま文庫 芥川龍之介全集1を読んだ。

【老年】
隠居は房ふささんと云って、一昨年、本卦返りをした老人である。

「本卦返り」とは「生まれた年の干支と同じ干支の年がくること」であり
数え年で61歳、還暦を迎えたということになる。
そうした老人のことが書かれている。

【青年と死】
青年が二人蝋燭の灯の下に坐っている。
B あすこへ行くようになってからもう一年になるぜ。
A 早いものさ。一年前までは唯一実在だの最高善だのと云う語に食傷していたのだから。
B 今じゃあアートマンと云う語さえ忘れかけているぜ。
A 僕もとうに「ウパニシャッドの哲学よ、さようなら」さ。
B あの時分はよく生だの死だのと云う事を真面目になって考えたものだっけな。
A なあにあの時分は唯考えるような事を云っていただけさ。考える事ならこの頃の方が
  どのくらい考えているかわからない。
B そうかな。僕はあれ以来一度も死なんぞと云う事を考えた事はないぜ。
A そうしていられるならそれでもいいさ。
B だがいくら考えても分らない事を考えるのは愚じゃあないか。
A しかし御互に死ぬ時があるのだからな。
B まだ一年や二年じゃあ死なないね。
A どうだか。
B それは明日にも死ぬかもわからないさ。けれどもそんな事を心配していたら、
  何一つ面白い事は出来なくなってしまうぜ。
A それは間違っているだろう。死を予想しない快楽ぐらい、無意味なものはないじゃあないか。
B 僕は無意味でも何でも死なんぞを予想する必要はないと思うが。
A しかしそれでは好んで欺罔に生きているようなものじゃないか。
B それはそうかもしれない。
A それなら何も今のような生活をしなくたってすむぜ。君だって欺罔を破るためにこう云う
  生活をしているのだろう。
B とにかく今の僕にはまるで思索する気がなくなってしまったのだからね、
  君が何と云ってもこうしているより外に仕方がないよ。
A (気の毒そうに)それならそれでいいさ。
B くだらない議論をしている中に夜がふけたようだ。そろそろ出かけようか。
A うん。
B じゃあその着ると姿の見えなくなるマントルを取ってくれ給え。(Aとって渡す。
  Bマントルを着ると姿が消えてしまう。声ばかりがのこる。)さあ、行こう。
A (マントルを着る。同じく消える。声ばかり。)
  夜霧が下りているぜ。

明日も生きているという前提がなければ私たちは気が狂ってしまうので
「死について考えても仕方がない」と言うしかない。
私たちの遠い祖先は進化を生き延びるために呼吸という莫大なエネルギーを得る手段を獲得したが
遺伝子を含む細胞が活性酸素により損なわれてしまうことになり
個体の活動期間が制限されてしまうことになった。
個体としての死の必然性と個体を自動操縦する仕掛けとしての意識がミスマッチであり
そのような事情により青年は死について深く考えたりする。
そして死があるからこそ、限りある一度しかない人生をしっかり生きようと考えるのではないかと、
そんなふうに解釈してその後の人生を過すことになる。

【ひょっとこ】
橋の上の見物が、ひょっとこの頓死した噂を聞いたのはそれから十分の後である。
もう少し詳しい事は、翌日の新聞の十把一束と云う欄にのせてある。それによると、
ひょっとこの名は山村平吉、病名は脳溢血と云う事であった。

しかし面の下にあった平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなっていた。小鼻が落ちて、
唇の色が変って、白くなった額には、油汗が流れている。一眼見たのでは、誰でもこれが、
あの愛嬌のある、ひょうきんな、話のうまい、平吉だと思うものはない。ただ変らないのは、
つんと口をとがらしながら、とぼけた顔を胴の間の赤毛布の上に仰向けて、
静に平吉の顔を見上げている、さっきのひょっとこの面ばかりである。

「ひょっとこ」というのが頓死した男の名前ではない。
しかし誰も名前になんて興味はないし、彼が絵具屋をやっていたことなんて知らないし、
知ろうともしないだろう。

【仙人】
何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。
勿論、李は一度もそう云う問題を考えて見た事がない。
が、その苦しみを、不当だとは、思っている。そうして、その苦しみを与えるものを
――それが何だか、李にはわからないが――無意識ながら憎んでいる。
事によると、李が何にでも持っている、漠然とした反抗的な心もちは、
この無意識の憎しみが、原因になっているのかも知れない。

「苦しみを乗り越えて歓喜へ」とか
「苦しみがなければ楽しみもない」といった回答が求められているのではないだろう。
苦しみの元凶となる意識とか精神を与えるものに対しての憎しみがあるということだろう。
作者にはその憎しみがずっと巣食っていたのではないかと思う。
一方で「人生が与えられたことに感謝します」と言って死んで行くという人々がいるのだが
彼らは土壇場になると宗教に拠り所を求める。
キリスト教では放埓な一生を過ごしたとしても悔い改めれば煉獄くらいには行かせてもらえる。
仏教では虫や獣に生まれ変わることで消滅を免れることができる。
結局のところ、不死を信じることで現世を肯定するというのが実態ということになる。
きっと「苦しくとも生きて行かなければならない」理由なんてどこにもないのだろう。
そういうことであれば早く死んでしまえということになるかもしれない。
「無意識ながら憎んでいる」ものに対して一矢報いるために生き延びているということもある。
それはまた最上の復讐ということにもなる。

「人生苦あり、以て楽むべし。人間死するあり、以て生くるを知る。死苦共に脱し得て甚だ、
無聊なり。仙人は若かず、凡人の死苦あるに。」
 恐らく、仙人は、人間の生活がなつかしくなって、わざわざ、苦しい事を、
探してあるいていたのであろう。

永遠の命が与えられたなら、苦しみが懐かしくなるということだ。
まさに苦しみというのは生活のほとんどすべてを占めているのだろう。

【羅生門】
その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。
そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。
――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に
対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、
さっき門の下でこの男が考えていた、饑死にをするか盗人になるかと云う問題を、
改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。
それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、
勢いよく燃え上り出していたのである。

しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、
この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、
この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。
下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから
云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」
 老婆の話が完おわると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、
不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

「悪を憎む心」は生理的な欲求に簡単にひっくり返されてしまう。
食べものがないところでは、道徳や倫理が発達することはないのだろう。
ここでは倫理観に準じて餓死すべきと主張しているわけではない。
「あなたならどうしますか?」と問い掛けられている感じがする。
「あなたの悪を憎む心というのはどんなものですか?」と問い掛けられている感じがする。
作者は相当に意地が悪い。

【鼻】
内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。
そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、
どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

鼻が長くても笑われ、鼻が短くても笑われる。
笑われていると思うから笑われているということになる。
他人の目を気にする自尊心は決して満たされることがない

【孤独地獄】
仏説によると、地獄にもさまざまあるが、およそ先づ、根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の
三つに分つ事が出来るらしい。
・・・
一切の事が少しも永続した興味を与へない。だから何時でも一つの境界から一つの境界を
追つて生きてゐる。

しかも自分の中にある或心もちは、動ややもすれば孤独地獄と云ふ語を介して、自分の同情を
彼等の生活に注がうとする。が、自分はそれを否まうとは思はない。何故と云へば、或意味で
自分も亦、孤独地獄に苦しめられてゐる一人だからである。

「一切の事が少しも永続した興味を与へない」というのが孤独地獄ということだ。
ひとりぼっちで寂しいということではないらしい。

【父】
「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ。」

自分の父のことを「ロンドン乞食」と呼んだ作者の同窓生は、
中学を卒業して間もなく肺結核で物故したという。

【虱】
「自体、虱を飼ふと云ふのが、たはけぢやての。」と、空嘯いて、まるで取合ふけしきがない。
「食ふ方がたはけぢや。」

虱を飼うという派閥と、虱を食うという派閥で争っている。
私たちが仕事をしたり、生活したりしている中での争いごとというものも、
「虱は飼うものだ」ということや、「虱は食うものだ」ということにすぎないのかもしれない。

【酒虫】
蛮僧の治療の効は、覿面に現れた。劉大成は、その日から、ぱつたり酒が飲めなくなつたのである。
今は、匂を嗅ぐのも、嫌だと云ふ。所が、不思議な事に、劉の健康が、それから、少しづつ、
衰へて来た。今年で、酒虫を吐いてから、三年になるが、往年の丸丸と肥つてゐた俤は、
何処にもない。色光沢の悪い皮膚が、脂じみたまま、険しい顔の骨を包んで、
霜に侵された双髩が、纔わづかに、顳顬の上に、残つてゐるばかり、一年の中に、何度、
床につくか、わからない位ださうである。

「酒虫」を吐いてから酒が飲めなくなったばかりか、健康も衰え、家産も傾いていったのだという。
これに対して三つの答えが用意されている。

第一の答。酒虫は、劉の福であつて、劉の病ではない。
第二の答。酒虫は、劉の病であつて、劉の福ではない。
第三の答。酒虫は、劉の病でもなければ、劉の福でもない。劉は、昔から酒ばかり飲んでゐた。
劉の一生から酒を除けば、後には、何も残らない。して見ると、劉は即酒虫、酒虫は即劉である。
だから、劉が酒虫を去つたのは自ら己を殺したのも同前である。
つまり、酒が飲めなくなつた日から、劉は劉にして、劉ではない。
劉自身が既になくなつてゐたとしたら、昔日の劉の健康なり家産なりが、失はれたのも、
至極、当然な話であらう。

「劉は即酒虫、酒虫は即劉である」ということで、酒虫とは人格とか個性のことかもしれない。
それを失くしてしまったのなら、その人の人生そのものが失われる。
インターネットやスマホにより情報入手が容易で広告が至るところにある世界が構築されたが、
その中で個性は行き先を失くしてしまった感じがする。
広告やら報道やら情報操作により、みんなが同じ映画を見て、みんなが同じ本を読む。
いまどき「芥川龍之介」を読んでいる私やあなたは相当に個性的ということになるだろう。
きっと酒虫が潜んでいるに違いない。

【野呂松人形】
アナトオル・フランスの書いたものに、こう云う一節がある、――時代と場所との制限を離れた美は、
どこにもない。自分が、ある芸術の作品を悦ぶのは、その作品の生活に対する関係を、
自分が発見した時に限るのである。
・・・
僕たちの書いている小説も、いつかこの野呂松人形のようになる時が来はしないだろうか。僕たちは、
時代と場所との制限をうけない美があると信じたがっている。僕たちのためにも、
僕たちの尊敬する芸術家のためにも、そう信じて疑いたくないと思っている。しかし、それが、果して、
そうありたいばかりでなく、そうある事であろうか。……

私たちは「時代と場所との制限をうけない美があると信じたがっている」のだが、
私たちが理解できるものは、この時代(21世紀)とこの場所(日本あるいは日本語)に制限されたものであって、
過去にあったもの、遠くの国で作られたものというのは翻訳されて初めて解釈できるというのが実態だ。
たとえば福音書は二千年前のエルサレムの出来事を書いているので注釈なしでは何もわからない。
私たちは制限を受けない無上の価値に憧れている。そういう美に触れていたいと願っている。
そう思うこと自体は時代の制約を受けているのだろうか?、どの時代にも共通したことなのだろうか?
なんだかよくわからない。

【芋粥】
では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて来た人間で、別に何の希望も
持つてゐないかと云ふと、さうでもない。五位は五六年前から芋粥と云ふ物に、異常な執着を
持つてゐる。芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥の事を云ふのである。
当時はこれが、無上の佳味として、上は万乗の君の食膳にさへ、上せられた。従つて、
吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらない。その時でさへ、
飲めるのは僅に喉を沾すに足る程の少量である。そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと云ふ事が、
久しい前から、彼の唯一の欲望になつてゐた。勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。
いや彼自身さへそれが、彼の一生を貫いてゐる欲望だとは、明白に意識しなかつた事であらう。
が事実は彼がその為に、生きてゐると云つても、差支ない程であつた。――人間は、時として、
充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまふ。その愚を哂ふ者は、
畢竟ひつきやう、人生に対する路傍の人に過ぎない。
 しかし、五位が夢想してゐた、「芋粥に飽かむ」事は、存外容易に事実となつて現れた。
その始終を書かうと云ふのが、芋粥の話の目的なのである。

それから、一時間の後、五位は利仁や舅の有仁と共に、朝飯の膳に向つた。前にあるのは、
銀の提の一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたへた、恐るべき芋粥である。
五位はさつき、あの軒まで積上げた山の芋を、何十人かの若い男が、薄刃を器用に動かしながら、
片端から削るやうに、勢よく切るのを見た。それからそれを、あの下司女たちが、右往左往に
馳せちがつて、一つのこらず、五斛納釜へすくつては入れ、すくつては入れするのを見た。
最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなつた時に、芋のにほひと、甘葛のにほひとを
含んだ、幾道かの湯気の柱が、蓬々然として、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上つて行くのを見た。
これを、目のあたりに見た彼が、今、提に入れた芋粥に対した時、まだ、口をつけない中から、
既に、満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であらう。――五位は、提を前にして、
間の悪さうに、額の汗を拭いた。

五位は、芋粥を飲んでゐる狐を眺めながら、此処へ来ない前の彼自身を、なつかしく、心の中で
ふり返つた。それは、多くの侍たちに愚弄されてゐる彼である。京童にさへ「何ぢや。この鼻赤めが」と、
罵られてゐる彼である。色のさめた水干に、指貫をつけて、飼主のない尨犬のやうに、朱雀大路を
うろついて歩く、憐む可き、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと云ふ慾望を、
唯一人大事に守つてゐた、幸福な彼である。

欲望がなければ「人生に対する路傍の人」ということであり、
「芋粥に飽きたい」という欲望であっても、無いよりは良いということなのだろう。
「飢えを充たしたい」という一次的なものから、「海賊王に俺はなる」まで、
世界は様々な欲望に満ち溢れている。
「恐るべき芋粥」を目にしてしまったり、海賊王になってしまったりすると、
幸福は彼から去って行くことになる。

【猿】
いつか、拝借したドストエフスキイの「死人の家」の中にも、
「甲のバケツから、乙のバケツへ水をあけて、その水を又、甲のバケツへあけると云ふやうに、
無用な仕事を何度となく反覆させると、その囚人は必自殺する。」
――こんな事が、書いてあつたかと思ひます。

「死人の家」というのは「死の家の記録」のことらしい。
無用のこと、意味のないこと、目的のないことに人は耐えられない。
「文化的雪かき」とか「砂漠に水を撒くような仕事」に我慢できるのは
生き延びるとか子供を育てるという別の目的があるからかもしれない。
バケツに水を入れるような単純な仕事にはすぐに習熟してしまうのだが
少々複雑な仕事であっても時間が経つと習熟して飽きてしまう。
そして突き詰めて考えてみれば役に立つ仕事なんてものにもそれほどの価値はない。
そう考えた時にはニヒリズムに呑み込まれてしまうのだが、
そうでもしなければ意味とか論理にしがみついて生きているという現状を
きちんと理解する機会はないかもしれない。

【手巾】
その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持つた手が、のつてゐる。
勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、
ふるへてゐるのに気がついた。ふるへながら、それが感情の激動を強ひて抑へようとするせゐか、
膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりに緊く、握つてゐるのに気がついた。さうして、最後に、
皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれてゐるやうに、
繍のある縁を動かしてゐるのに気がついた。――婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、
全身で泣いてゐたのである。

――私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里から出たものらしい、手巾のことを話した。
それは、顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、
それを我等は今、臭味(メツツヘン)と名づける。……

「日本の女の武士道だと賞讃した」のと同じような行為をパリの夫人もしていたということだ。

【煙草と悪魔】
が、自分は、昔からこの伝説に、より深い意味がありはしないかと思つてゐる。何故と云へば、
悪魔は、牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにする事は出来なかつたが、その代に、煙草は、
洽く日本全国に、普及させる事が出来た。して見ると牛商人の救抜が、一面堕落を伴つてゐるやうに、
悪魔の失敗も、一面成功を伴つてゐはしないだらうか。悪魔は、ころんでも、ただは起きない。
誘惑に勝つたと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。

「煙草は悪魔がどこからか持ってきたものだ」ということだ。
「牛商人の肉体と霊魂とを、自分のものにする事は」出来なかったが、
人体に有害な習慣を遍く普及させることができたのだからきっと成功したのだろう。
せっかく悪魔が普及させた煙草だが、最近では禁煙が進み、喫煙者の立場は弱くなる一方だ。
アニメの規制が厳しいアメリカではサンジはキャンディーを甞めているということだ。
まあコックが喫煙者というのは鋭敏な味覚が損なわれるという意味であまり良いことではないだろう。
だがそうするとスモーカー大佐なんてどうなっているのだろう?
あの煙はキャンディーでは解決しがたい。

【煙管】
斉広はこれを聞くと、不快そうに、顔をくもらせた。長崎煙草の味も今では、口にあわない。
急に今まで感じていた、百万石の勢力が、この金無垢の煙管の先から出る煙の如く、多愛なく
消えてゆくような気がしたからである。……

「一時、真鍮の煙管を金と偽つわって」いたことで、斉広の金無垢の煙管は真鍮だと思われてしまい、
「坊主共にねだられる」こともなくなってしまう。
そうすると煙草もうまくなくなってしまったということだ。
価値は人の欲望で支えられている。新しいスマホは高額でも売れる。
あまり機能に差異がないと思われる型落ち品は、2年もすればタダ同然になる。
自動車は昔からそういうことをやっている。
物欲を刺激する宣伝があちこちに溢れている。あるいはそれが経済を支えているのだという。
ゴールドとシルバーとスペースグレイのスマホは売れる。
青・赤・黄のカラバリのスマホは失敗した。
真鍮のスマホはどうだろうか?
あなたが落としてしまったのは金のスマホですか?銀のスマホですか?
それとも真鍮のスマホですか?
えーっと、そもそも何を落としたんだっけ?
鉄の斧だっけ?

【MENSURA ZOILI】
「価値測定器と云うのは何です。」
「文字通り、価値を測定する器械です。もっとも主として、小説とか絵とかの価値を、
測定するのに、使用されるようですが。」
「どんな価値を。」
「主として、芸術的な価値をです。無論まだその他の価値も、測定出来ますがね。
ゾイリアでは、それを祖先の名誉のために MENSURA ZOILI と名をつけたそうです。」

この測定器に「モオパッサンの『女の一生』を載せると針が最高値を指す」ということだ。
価値は測れないという意図の話だが、そもそも価値とは何だろうか?
審査員が毎年2回芥川賞を選考するということだがその基準というのはよくわからない。
過去に賞を取った審査員が選んでいるのだから間違いはないということで
賞の権威は維持されているということかもしれない。
だがその受賞者が小説家として生計を立てることは難しいのだろう。
映像や音源が容易にばら撒かれる世界は毎年2名の芥川賞作家を必要としていない。
誰も字なんて読まない。
音符の並びが曲になるように、文字の並びが小説になる。
それは最小単位である音符や文字要素の組合せであって
その新しい組合せが好きとか嫌いと言っているだけのことかもしれない。
しかしベートーヴェンの交響曲のような単純な音の並びが多くの人を魅了するなら
そこには何かしらの規則性があるのかもしれない。
その規則性を把握していれば「価値測定器」といったものも可能かもしれないが、
規則は次々に発見されていくので測定器は常に旧式ということに
なってしまうのだろう。

【運】
「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」
「御冗談で。」
「まったくさ。お爺さんも、そう思うだろう。」
「手前でございますか。手前なら、そう云う運はまっぴらでございますな。」
「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、授けて頂くがね。」
「じゃ観音様を、御信心なさいまし。」
「そうそう、明日から私も、お籠でもしようよ。」

観音様のお告げで物盗りと夫婦になってしまった女の運について
話している。

【尾形了斎覚え書】
「お調べに当って書いた参考人の供述書」ということだ。

【道祖問答】
「翁とは何の翁じゃ。」
「おう、翁とばかりでは御合点まいるまい。ありようは、五条の道祖神でござる。」

阿闍梨と道祖神の問答
「五条の道祖神」というのは猿田彦のことだという。

【忠義】
「世の嘲りはうける。家督は人の手に渡す。天道の光さえ、修理にはささぬかと思うような
身の上じゃ。その修理が、今生の望にただ一度、出仕したいと云う、それをこばむような
宇左衛門ではあるまい。宇左衛門なら、この修理を、あわれとこそ思え、憎いとは思わぬ筈じゃ。
修理は、宇左衛門を親とも思う。兄弟とも思う。親兄弟よりも、猶更なつかしいものと思う。
広い世界に、修理がたのみに思うのは、ただその方一人きりじゃ。さればこそ、無理な頼みもする。
が、これも決して、一生に二度とは云わぬ。ただ、今度一度だけじゃ。宇左衛門、どうかこの心を
察してくれい。どうかこの無理を許してくれい。これ、この通りじゃ。」

「佐渡は、修理に刃傷されるような覚えは、毛頭ない。まして、あの乱心者のした事じゃ。
大方、何と云う事もなく、肥後侯を斬ったのであろう。人違などとは、迷惑至極な臆測じゃ。
その証拠には、大目付の前へ出ても、修理は、時鳥がどうやら云うていたそうではないか。
されば、時鳥じゃと思って、斬ったのかも知れぬ。」

修理は切腹、宇左衛門は縛り首に処せられた。修理が刃傷に及んだ理由はわからない。
理由のないことの方が多いかもしれないが人々は惑星の描く軌道にもいちいち理由を求める。
そして忠義の結末は切腹と縛り首ということになった。
なんの説明にもなっていないというか説明することを放棄しているかのようだ。

【貉】
化かすようになったのではない。化かすと信ぜられるようになったのである――こう諸君は、
云うかも知れない。しかし、化かすと云う事と、化かすと信ぜられると云う事との間には、
果してどれほどの相違があるのであろう。
 独り貉ばかりではない。我々にとって、すべてあると云う事は、畢竟するにただあると
信ずる事にすぎないではないか。
 イェエツは、「ケルトの薄明り」の中で、ジル湖上の子供たちが、青と白との衣を着た
プロテスタント派の少女を、昔ながらの聖母マリアだと信じて、疑わなかった話を書いている。
ひとしく人の心の中に生きていると云う事から云えば、湖上の聖母は、山沢の貉と何の異る所もない。
 我々は、我々の祖先が、貉の人を化かす事を信じた如く、我々の内部に生きるものを
信じようではないか。そうして、その信ずるものの命ずるままに我々の生き方を生きようではないか。
 貉を軽蔑すべからざる所以である。

貉が人を化かすということと湖上の聖母を信じることの間に相違はないということだ。
イエスが湖上を歩いたりするのも信じる方の勝手なのだろう。
客観的な事実とか、科学的な根拠とか、私たちは信じるに足る理由を探すのだが、
それは後付けであることが多いし、主客が分裂した出来事しか説明できないのだ。

【世之助の話】
世之助 まづざつと、こんなものだつた。そこで、それ以来、その女のやうなものを関係した中へ
    勘定したから、合せて男女四干四百六十七人に戯れた事になると云ふ次第さ。
友だち 成程、さう聞けば尤もらしい。だが……
世之助 だが、何だい。
友だち だが、物騒な話ぢやないか。さうなると、女房や娘はうつかり外へも出されない訳だからね。

「好色一代男」の主人公が登場する。
彼は最後に好色丸に乗って女護ヶ島(にょごがしま)に出帆するということだ。
海賊女帝ハンコックが住んでいるのは女ヶ島だったと思う。
そういう願望はなくならない。

【偸盗】
おれと弟とは、気だてが変わっているようで、実は見かけほど、変わっていない。もっとも
顔かたちは、七八年前の痘瘡が、おれには重く、弟には軽かったので、次郎は、生まれついた
眉目をそのままに、うつくしい男になったが、おれはそのために片目つぶれた、生まれもつかない
不具になった。その醜い、片目のおれが、今まで沙金の心を捕えていたとすれば、(これも、
おれのうぬぼれだろうか。)それはおれの魂の力に相違ない。そうして、その魂は、同じ親から
生まれた弟も、おれに変わりなく持っている。しかも、弟は、たれの目にもおれよりはうつくしい。
そういう次郎に、沙金が心をひかれるのは、もとより理の当然である。その上また、次郎のほうでも、
おれにひきくらべて考えれば、到底あの女の誘惑に、勝てようとは思われない。いや、おれは、
始終おれの醜い顔を恥じている。そうして、たいていの情事には、おのずからひかえ目になっている。
それでさえ、沙金には、気違いのように、恋をした。まして、自分の美しさを知っている次郎が、
どうして、あの女の見せる媚びを、返さずにいられよう。

この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣の
ような心を、憎んではいないらしい。たとえば、沙金とほかの男との関係を見るにしても、
兄と自分とは全く目がちがう。兄は、あの女がたれといっしょにいるのを見ても、黙っている。
あの女の一時の気まぐれは、気まぐれとして、許しているらしい。が、自分は、そういかない。
自分にとっては、沙金が肌身を汚す事は、同時に沙金が心を汚す事だ。あるいは心を汚すより、
以上の事のように思われる。もちろん自分には、あの女の心が、ほかの男に移るのも許されない。
が、肌身をほかの男に任せるのは、それよりもなお、苦痛である。それだからこそ、自分は兄に
対しても、嫉妬をする。すまないとは思いながら、嫉妬をする。してみると、兄と自分との恋は、
まるでちがう考えが、元になっているのではあるまいか。そうしてそのちがいが、よけい二人の仲を、
悪くするのではあるまいか。………

「あなたのためにしたの。」
「どうして?」
 こう言いながら、次郎の心には、恐ろしいあるものが感じられた。まさか――
「まだわからない? そう言っておいて、太郎さんに、馬を盗む事を頼めば――
ね。いくらなんだって、一人じゃかなわないでしょう。いえさ、ほかのものが加勢をしたって、
知れたものだわ。そうすれば、あなたもわたしも、いいじゃないの。」
 次郎は、全身に水を浴びせられたような心もちがした。
「兄きを殺す!」
 沙金は、扇をもてあそびながら、素直にうなずいた。
「殺しちゃ悪い?」

するとたちまちまた、彼のくちびるをついて、なつかしいことばが、あふれて来た。「弟」である。
肉身の、忘れる事のできない「弟」である。太郎は、かたく手綱を握ったまま、血相を変えて
歯がみをした。このことばの前には、いっさいの分別が眼底を払って、消えてしまう。弟か沙金かの、
選択をしいられたわけではない。直下じきげにこのことばが電光のごとく彼の心を打ったのである。

女をめぐって兄と弟が争う。
弟か女かの選択を兄は強いられ、兄か女かの選択を弟は強いられる。
そうした打算的な二者択一の選択は、弟をなつかしいと直感する兄によって退けられる。

【さまよえる猶太人】
さまよえるユダヤ人の伝説というのは
「十字架を負い刑場へ向かうキリストをはずかしめたユダヤ人の靴職人が,
キリストの再臨まで死ぬことを許されず永久に世界をさまよい歩くという内容で,
反ユダヤ人意識が反映されている」というものだ。

「さまよえる猶太人」は、イエス・クリストに非礼を行ったために、永久に地上を
さまよわなければならない運命を背負わせられた。が、クリストが十字架にかけられた時に、
彼を窘めたものは、独りこの猶太人ばかりではない。あるものは、彼に荊棘の冠を頂かせた。
あるものは、彼に紫の衣を纏わせた。またあるものはその十字架の上に、I・N・R・Iの札を
うちつけた。石を投げ、唾を吐きかけたものに至っては、恐らく数えきれないほど多かったのに
違いない。それが何故、彼ひとりクリストの呪を負ったのであろう。あるいはこの「何故」には、
どう云う解釈が与えられているのであろう。――これが、自分の第二の疑問であった。

「されば恐らく、えるされむは広しと云え、御主を辱めた罪を知っているものは、それがし
ひとりでござろう。罪を知ればこそ、呪もかかったのでござる。罪を罪とも思わぬものに、
天の罰が下ろうようはござらぬ。云わば、御主を磔柱にかけた罪は、それがしひとりが
負うたようなものでござる。但し罰をうければこそ、贖いもあると云う次第ゆえ、やがて御主の
救抜を蒙るのも、それがしひとりにきわまりました。罪を罪と知るものには、総じて罰と贖いとが、
ひとつに天から下るものでござる。」――「さまよえる猶太人」は、記録の最後で、こう自分の
第二の疑問に答えている。

さまよえるユダヤ人唯一人だけが、それが罪であることを知っていたということだ。

【二つの手紙】
閣下、こう云う事情の下にある私にとっては、閣下の御保護に依頼するのが、最後の、
そうしてまた唯一の活路でございます。どうか私の申上げた事を御信じ下さい。そうして、
残酷な世間の迫害に苦しんでいる、私たち夫妻に御同情下さい。私の同僚の一人は故に大きな声を
出して、新聞に出ている姦通事件を、私の前で喋々して聞かせました。私の先輩の一人は、
私に手紙をよこして、妻の不品行を諷すると同時に、それとなく離婚を勧めてくれました。
それからまた、私の教えている学生は、私の講義を真面目に聴かなくなったばかりでなく、
私の教室の黒板に、私と妻とのカリカテュアを描いて、その下に「めでたしめでたし」と書いて
置きました。しかし、それらは皆、多少なりとも私と交渉のある人々でございますが、この頃では、
赤の他人の癖に、思いもよらない侮辱を加えるものも、決して少くはございません。ある者は、
無名のはがきをよこして、妻を禽獣に比しました。ある者は、宅の黒塀へ学生以上の手腕を揮って、
如何わしい画と文句とを書きました。そうして更に大胆なるある者は、私の庭内へ忍びこんで、
妻と私とが夕飯を認したためている所を、窺いに参りました。閣下、これが人間らしい行いで
ございましょうか。

妻の不品行を信じない男は、二つの幻影(自分と妻のドッペルゲンガー)を見たと言って
警察署長に第一の手紙を書く。
そして妻が失踪しまったのは閣下の怠慢のせいだと言って第二の手紙を書く。
彼が妻を疑わない理由はよくわからない。
浮気をされたことを認めるのが嫌なのかもしれない。