140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

名古屋フィル#24ベートーヴェン交響曲第6番他

2013-04-30 09:11:24 | 音楽
2013.4-2014.3シーズン定期演奏会「ガイア」シリーズの1回目として
4/20に「空気・土―鳥と人の営み」というタイトルで
ヴィラ・ロボス交響詩「ウイラブルー」、ヴォーン・ウィリアムス「揚げひばり」、
ベートーヴェン交響曲第6番「田園」の演奏があった。
感想を書くのが遅くなってしまった。さすがに10日もたつと覚えていない。

「揚げひばり」はYouTubeにあったのでいちおう予習して臨んだ。
知らない曲をいきなり聴くのはあまりよろしくない。
ヴィラ・ロボスは見つからなかった。
演奏後の拍手のタイミングがわからないので困った。
「鳥」のさえずりを音楽が模倣しているとか再現しているというのではなく
それを聴く人の心情も含めてしまっているような感じがする。
「田園」は何回聴いても飽きないのが不思議だ。

「ガイア」シリーズは月1回くらいあるので
次回の予習をせねばならない。

死と愛

2013-04-28 00:05:05 | 
フランクル「死と愛」という本を読んだ。
「幻想の未来/文化への不満」といっしょに借りてきたものだ。
「実存分析入門」という副題がついている。

フロイトとアドラーに師事したことから冒頭でその名を取り上げており、
シュテーケルが彼とフロイトの関係について
「巨人の肩の上に立っている小人は巨人自身よりもっと遠くを見ることができる」と
語ったことを引用したりしているが、
彼とフロイトの相性が良くないであろうことは、
フランクルがこの本で三度まで引用している以下のゲーテの言葉から察知される。

「われわれが人間を彼らがあるがままに受取るならば、それはよい扱い方ではない。
われわれが彼らをそうあるべきであったかのように取り扱うならば、
われわれは彼らを行くべき方向へと導くのである。」

フランクルにとって「人間存在は、意識性存在と責任性存在である」そうだ。
彼にとっては「神経症的な人間は逃避し、逃避する人間は神経症的」らしいので
患者に人生の意味を理解させ、責任を引き受けさせるのが治療であるらしい。
その前提として道徳的であることが要請されるのだが
それこそが抑圧の原因になり得るというのがフロイトの考察であった。
それ故にフランクルのやっていることはどこまでも前フロイト的になってしまう。
それは20世紀の仕事としては陳腐だろう。

彼はきっと私のような人間を「倫理的ニヒリスト」と呼ぶことだろう。
言われっぱなしだと悔しいので私は彼を「道徳フェチ」と呼んでやろう。
しかし人生に意味があるといったことにこれほど執着するのは何故だろうか?
人生が無意味であることを主張するのは矛盾しているし、
人生に意味があると証明しようとするのは疲れる。
もともとはヒトがあらゆる事物や現象に意味を与えてきたのであって
その対象として自分の意味を問うのは変だよね。それは対象になりえないのだから・・・
だから人生の意味を問うなんてやめれば良いと思う。
そんなに励まされないと生きていけないなんて
おかしくない?

アウシュビッツの地獄を生き延びた強靭な精神力の持ち主であるからといって
その著書が優れている保証はない。
聴力を失っても不屈の闘志で作曲を続けたベートーヴェンが凄いのではなくて
ベートーヴェンの作品が優れているということが端的な事実だ。
私はベートーヴェンがどんなにだらしのない生涯を送ったとしても
彼の作品を愛し続けるだろう。

幻想の未来/文化への不満

2013-04-27 00:05:05 | フロイト
「ここでまず、人間の文化について定義してみよう。文化とは人間の生を動物的な条件から
抜けださせるすべてのものであり、動物の生との違いを作りだすもののことである。」

「隣人が憎いからといって、欲しいものをもっているかといって、殺してはならないと
文化が命じたのは、人間の共同生活を維持するためである。」

「なぜかというと、子供にはほんらい満たすことのできない多数の欲動の要求があるからである。
子供はこれを合理的な精神の営みによって抑制することができず、抑圧という行為によって
抑えるしかない。この抑圧の背後には原則として不安の動きがあり、これが神経症的な状態を
もたらすのである。・・・

これとまったく同じように人類も全体として、長い成長のプロセスにおいて、神経症に類似した
状態に陥っているのである。・・・

人類は無知で、知的な能力の弱い時期にも、共同で生活するためにはその欲動を放棄しなければ
ならなかったが、そのためには純粋に情緒的な力を利用するしかなかったのである。
こうして文化には、過去において実行された抑圧に類似したプロセスの名残が沈殿して
つきまとっているのである。

だから宗教とは、人類に一般にみられる強迫神経症のようなものだ。幼児の強迫神経症と
同じように、エディプス・コンプレックス、すなわち父親との関係から生まれたのだ。
・・・」

フロイトの「幻想の未来」にはそのようなことが書かれている。
文化や宗教や道徳とは「共同生活を維持する」ための知恵のようなものであり、
良心(あるいは超自我)は共同生活を営むために獲得しなればならないものということになる。
宗教を疑うこと自体も不謹慎として許されない。それは絶対的に正しいことであるべきだという。
私たちはそうした「社会契約」が為された後の世界に生きている。
そして文化にどっぷりと浸かってしまっており決して単独では生きていけない。
それ故に社会を成立させる前提を疑ってはならないとされる。

ただしそのような抑圧が人間の本性に合致しているわけではないだろう。
人間が「動物の生との違い」という名の文化を作り出したのは偶然だと思う。
神がそのように人間を創造したわけではないのだから・・・
宗教が強迫神経症のようなものという批判は自然な状態であるべきだという主張ではない。
自然な状態なんてない。歪みや抑圧があるのが一般的なことだ。
そして抑圧は神経症の原因となり、抑え付けられない生の衝動は犯罪の原因となる。
宗教が抑圧に成功しても失敗しても何らかの不幸は残る。

フロイトの思想的な価値は宗教や良心に対する疑念を表明した点にあるのだと思う。
自由意志に反して無意識ということを提唱したことにも価値がある。
コペルニクスやダーウィンと同じような勇気があると思う。
いずれの場合も宗教に敵対することになってしまう。
フロイトの全てを信じているわけではない。
死の欲動(タナトス)にはちょっとついていけないなと思っている。
しかし彼の最大の敵は宗教であり良心的な人間だろう。
彼らは今でも天動説を信じているかもしれないし
進化を否定して神が人を創造したと主張するかもしれない。

・・・

「ただしこの人は、わたしが宗教そのものの源泉を十分に評価していないのは残念だと述懐していた。
この宗教の源泉とは、ある特別な感情であり、その人はこの感情を片時も失ったことがないというのである。
この感情はほかの多くの人々の心のうちでも働いているのを確かめているし、
数百万人の人々の心のうちにもこうした感情があると想定できるというのである。
この人の説明によると、この感情は『永遠性』の感情とも呼べるものであり、
際限のなさ、制限のなさ、いわば『大洋性』の感情とも言うべきものだという。
これは純粋に主観的な事実であり、宗教的な心情のようなものではない。
・・・」

「文化への不満」の冒頭にそのようなことが書かれている。
このフロイトの友人というのはロマン・ロランだそうだ。
(「ジャン・クリストフ」というとても長い小説を書いた人だ。)
フロイトはこの感情の起源を乳児の原初的な状態から説明しようとしているが
本当にそうなのかはよくわからなかった。
『大洋性』の感情というものを私が持っていれば何かわかったかもしれない。
言語も思考もないところでの感情がどのようなものであるか
その感情があったとしたらどのように記憶されるのであるか
それが記憶されたものであれば取り戻すことができるのか
そうしたことがまったくわからない・・・

ユニクロ社長ブラック企業グローバル化宣言

2013-04-23 23:06:30 | Weblog
ユニクロ社長のブラック企業グローバル化宣言を批判される方が多数いらっしゃるようだが、
そんなのは無視すれば良いというだけのことではないだろうか?

「グローバル経済というのは Grow or Die(成長か、さもなければ死か)。
非常にエキサイティングな時代だ。変わらなければ死ぬ、と社員にもいっている」
・・・成長するとか変わるということについて一致した見解が持てる気がしない。
そして彼は経済的な成功者として私たちを見下すことだろう。
アーメン・・・

精神分析入門

2013-04-20 00:05:05 | フロイト
フロイトの「精神分析入門」を読んだ。久しぶりです・・・
確か「ファインマン物理学」に「精神分析は、まじないの一種」と書いてあったと思うが、
随分とバカなことを書いたものだと思う。
おそらくは何が書かれているのかわからなかったのだろう。
私は科学が好きな方だと思うが、科学じゃなけりゃいけないというのでもない。
かといって科学で解明できない心霊現象に興味があるわけでもない。
思想の価値は勇気の量で決まるから「精神分析入門」はこれからも読まれ続けるだろう。
そして「ファインマン物理学」を読む人はいなくなるだろう。
彼は「物理学と他の学問との関係」といったことを書いているのだが
そういう物理学中心のものの考え方というのが自己チューでダメなんです。
大森荘蔵さんが理系をやめて哲学にいっちゃったのも仕方がない。
どう考えてもアインシュタインよりもウィトゲンシュタインの方が魅力的・・・
物理学なんて枠組みが成立しているから取り組める学問であって
その枠組みを問うような学問のレベルには達することができない。
うっ、全然フロイトの話にいけないな・・・

よく読んでみると「精神分析入門」はとても丁寧に書いてある。
読者の反論は想定済みであり、どうして読者が反論するかということもわかるようになっている。
自分がどれくらい偏っているかなんてわからないものだ。それに公平な立場なんてものもない。
右へ左へ偏ってみないと何が偏っているかなんてわかるわけがない。
あるいは「洗脳」が怖いという人々は何も学べはしない。
あるいは学ぶこと自体が偏りであるかもしれない・・・

錯誤行為と夢と神経症を同じレベルの現象として捉えることで新たな理論が構築される。
そのことを追求していくと「健常者」もある程度は「病人」ということになる。
しかしダーウィンとフロイトは悪用してはならないのだと思う。
自然淘汰と精神分析は原因と結果が対になってしまう。
取り扱い注意!

確かに読書というものは、その時々の自分のレベルによって得られることに差異がある。
一方でレベルを上げるために読書は欠かせない。
そうやって一歩ずつ進んでいくしかないが、ここまで進んだらOKという指標もない。
何かを理解したからといって誰かに褒められるわけでもない。
社会的な地位が向上するわけでもないし所得が良くなるわけでもない。一切の努力は全く報われない。
それでも知ろうとする欲求を止めることはできない。それは根源的なことなのかもしれない。
私たちの最大の関心事は結局のところ私たち自身に帰着する。
そのことをよく考えもせずに物理現象のみに固執するなら
それは倒錯行為かもしれないね。

フロイトが「性的」とみなしていることは普通の人々にとっては「性的と呼びたくない」ことですね。
そこのところを誤解しなければ受け入れられると思うし「まじない」なんて言う必要もない。
それにしても幼児期の体験が人格形成を損ね神経症の要因となり得るということは
どのように解釈すればよいのだろうか?
「すなわち子供は、数万年以上に及んでいる文化発展の成果である欲動支配と社会的適応というものを、
あるいはせめてこの二つの最初のものぐらいは短期間でわが物にしなければ
ならないという点なのです」
つまり私たちは「欲動支配と社会的適応」を子どもたちに強制しなければならない。
そのようにして身に付いてしまった抑圧が症状にでてしまう人々が
「病人」と呼ばれることになる・・・

ポラーノの広場

2013-04-13 00:05:05 | 宮沢賢治
角川文庫の宮沢賢治「ポラーノの広場」を読んだ。以下に示す短編が入っている。
ポラーノの広場・黄いろのトマト・氷と後光・革トランク・泉ある家・十六日・手紙一~四
毒蛾・紫紺染について・バキチの仕事・サガレンと八月・若い木霊
タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった

「ポラーノの広場」は2回読んだが、何が良いのかいまいちわからない。
解説によると「理想の共同体とはどうあるべきか、という問を私たちに投げかけています」ということらしい。

「そうだぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。
けれどもやっとのことでそれをさがすとそれは選挙につかう酒盛りだった。
けれどもむかしのほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」
「だからぼくらはぼくらの手でこれからそれを拵えようではないか。」
「そうだあんな卑怯な、みっともないわざとじぶんでごまかすようなそんなポラーノの広場でなく、
そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えばもう元気ついてあしたの仕事中
からだいっぱい勢がよくて面白いようなそういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」
「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」

共産主義という幻想は賢人を盲目にするのだろうか?
民主主義という共同体は機会は平等に与えられており
幸福や支配や勝利や報酬や社会的地位は自らの努力の賜物であると主張する。
封建社会は貴族という生得的な地位を正当化していたが
民主主義社会もまた個人の能力という生得的なものによる支配を正当化している。
それは自然な姿であり人為的な共産主義とは異なる。
封建社会であっても民主主義社会であっても強者が支配するという論理に変わりはない。
そのような不平等は決して是正されない。
裁判所が一票の格差を違憲としたところで強者による支配は揺るがない。
昔も今も共産主義の指導者が圧倒的な権力を保有してしまうということも
強者が支配するという論理を支持している。

だから「ぼくらの手でこれからそれを拵えようではないか」と言われてもねぇ。
そうやって拵えた共同体の指導者が独裁者になってしまうのだから
私にはよくわからない・・・

「サガレンと八月」がいちばんおもしろかった。
・・・するとすぐ私の足もとから引いて行った潮水はまた巻き返して波になって
さっとしぶきをあげながらまた叫びました。
「何にするんだ、何にするんだ、貝殻なんぞ何にするんだ。」
私はむっとしてしまいました。
「あんまり訳がわからないな、ものと云うものはそんなに何でもかでも何かにしなけぁ
いけないもんじゃないんだよ。そんなことおれよりおまえたちが
もっとよくわかってそうなもんじゃないか。」
すると波はすこしたじろいだようにからっぽな音をたててからぶつぶつ呟くように答えました。
「おれはまた、おまえたちならきっと何かにしかけぁ済まないものと思ってたんだ。」
・・・これはまるでカントだな。

iPod classicのケース

2013-04-08 21:53:32 | Apple
iPod classicのケースを買った。
本体2万円以下なのでケースは千円以下が妥当かと・・・
3千円のものを買うくらいならケースなしで良いのではないかと・・・
ヤフオクのキズ有りとキズ無しの差額はそんなにはない。
今までシリコンケースを使っていたが悲しくなるくらいカッコ悪かった。
それでこの927円のケースがなぜかカッコいい。
表示部には保護フィルムがついている。
操作部にはなかったが100均で4インチ用スマホのフィルムを買ってきて
カットして使っている。

ビジテリアン大祭

2013-04-07 00:05:05 | 宮沢賢治
角川文庫の宮沢賢治「ビジテリアン大祭」を読んだ。以下に示す短編が入っている。
ビジテリアン大祭・二十六夜・よく利く薬とえらい薬・馬の頭巾・税務署長の冒険
マリヴロンと少女・フランドン農学校の豚・葡萄水・車・虔十公園林
毒もみのすきな署長さん

背表紙に「迫力の大虚構劇「ビジテリアン大祭」をはじめ、「二十六夜」
「フランドン農学校の豚」など、生きるために他の命を奪わねばならぬ宿業に挑み、
生きとし生けるものすべてに対する慈しみと祈りに満ちた作品」と書いてある。
この三つの作品は肉食という同一のテーマを扱っているが、
それは菜食主義における誤解、あるいは生存のための殺生と宗教の関係、
畜産の生業の結果として殺される豚の心理描写というふうに
それぞれに異なる風景として現れる。

賢治もビジテリアン(ベジタリアン)なのだろうが作品中での指摘がおもしろい。
「ビジテリアンの主張は全然誤謬である。今この陰気な非学術的思想を動物心理学的に
批判してみよう。ビジテリアンたちは動物が可哀そうだから食べないという。
動物が可哀そうだということがどうしてわかるか。ただこっちが可哀そうだと
思うだけである。全体豚などが死というような高等な観念を持っているものではない。
あれはただ腹が空った、かぶらの茎、噛みつく、うまい、厭きた、ねむり、起きる、
鼻がつまる、ぐうと鳴らす、腹がへった、麦糠、たべる、うまい、つかれた、
ねむる、という工合に一つずつの小さな現在が続いているだけである」
そういうことが書かれている。

まるで哲学でいうところの他我問題を扱っているようだ。
「一つずつの小さな現在が続いている」とは私たちのことを指しているようだ。
そして私たちには「他人がそう思っている」ことがわからない。
ただ「こっちが可哀そうだと思う」から「わかっている」と思うだけだ。

「フランドン農学校の豚」で殺される側に立つ豚の叫びは悲痛なものだ。
「死亡をするということは私が一人で死ぬのですか」と書いてある。
他人の死など関係がない。死とは「私が一人で死ぬ」ことであるからだ。
それ以外の死など死ではない。一人称で語る死以外は死ではない。
「ビジテリアン大祭」における死はどこまでも三人称で「私」には無関係なものであり、
「フランドン農学校の豚」における死は一人称で切実なものとなる。

「二十六夜」は宗教色が濃いが、それを強要しているわけではない。
「それも鳥に生まれてただやすやすと生きるというても、まことはただの一日とても、
ただごとではないのぞよ、こちらが一日生きるには、雀やつぐみや、たにしやみみずが、
十や二十も殺されねばならぬ、ただ今のご文にあらしゃるとおりじゃ。
ここの道理をよく聴きわけて、必らずうかうか短い一生をあだにすごすではないぞよ」
なんてことが書いてある。
「私」一人が一日生きていくためには、小さな生き物が「十や二十も殺されねばならぬ」という。
それは殺される側の論理からは容認できない。

「爾の時に疾翔大力、爾迦夷に告げて曰く、諦に聴け、諦に聴け、善く之を思念せよ、
我今汝に、梟鵄諸の悪禽、離苦解脱の道を述べん、と。
 爾迦夷、則ち、両翼を開張し、虔しく頸を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、
疾翔大力を讃嘆すること三匝にして、徐に座に復し、拝跪して唯願ふらく、
疾翔大力、疾翔大力、たゞ我等が為に、これを説きたまへ。たゞ我等が為に、之を説き給へと」
一見するとどう読んでよいかわからない難しい文章だが、本にはふりがながうってある。
そして何度も読んでいると不思議なリズム感があることに気付く。

「うん。尤もじゃ。なれども他人は恨むものではないぞよ。みな自らがもとなのじゃ。
恨みの心は修羅となる。かけても他人は恨むでない」
坊さんの梟はそう語っている。

だが原因の原因のそのまた原因へと遡って行く私たちの知性は、
カンブリア紀に生じた「食う食われる」の関係が進化のスピードを加速させたと考えている。
「可哀そうだ」なんて感じる生き物に進化させた原因が「食う食われる」なのだとしたら?
その結果として私たちが存在するのだとしたら?
?????

4.6 宗教あるいは幽霊について

2013-04-06 00:05:05 | 140憶年の孤独
記録によると以下の文章は、2011/11/26と2012/5/19に書かれたものらしい・・・

死を受け入れることができない人々は死後の世界とか最後の審判だとか前世について語る。
死んで無に還り自分に関する一切のものが失われてしまうことを彼らは受け入れない。
幽霊についても無を退けるための発明ではないかと思う。
科学では理解できない現象があって幽霊もその一つだと固く信じている人もいる。
何も私は科学的に幽霊を否定したいというわけではない。
唯物論に偏るわけでもなく唯心論に偏るわけでもない。
肉体と精神は同じものであると脳と心は同じものであると言いたいだけだ。

報われるべき一切の努力は神に考慮されることなく踏みにじられ死に至る。
そうしたことに耐えられない人々は魂の不滅を信じる。
「不死がなければ善もない」とイワン・カラマーゾフが語ったのは的を得ている。
人々が神を讃えるのは自分が善良になるために必要なことだろう。

祈りを捧げること、あるいは何か偉大な存在に身を委ねることは精神の安定につながる。
安定した精神は安定した活動の源になる。
人々が祈るのは自分が活動するために必要なことだろう。
一切の理屈を捨てて活動に専念するために人々は祈る。
その活動から何が生まれるのかを本人が自覚する必要すらない。
動物が活動するのは本能だろう。
そして思考を携えた動物である人間は高い次元での活動を欲する。
成功のために成長のために人々は主体的に活動する。
彼らはいつか気がつくことがあるだろうか?
祈りとは盲目的であることについて
疑念のない人生における成功の価値について

きっと100年後に生きている人々から見れば私たちは何も知らないに違いない。
そして100年前に生きていた人々について私たちは何も知らない。
かつてそんな人々が存在したことについて全く何も知らない。
彼らの祈りや彼らの成功について何も知らない。
時間という悪魔は全てを洗い流してしまう。

きっと100年後の宗教の姿は今と変わらないものだろう。
安定した活動の基盤として
人々が善行をおこなうための拠り所として
それは必要とされる。
そして100年後には幽霊の問題が解決していることを望む。
私たちには心身二元論の相手をしている時間は
必要ではない。