マッハ著 須藤吾之助、廣松渉訳「感覚の分析」という本を読んだ。
「色、音、熱、圧、空間、時間等々は、多岐多様な仕方で結合しあっており、さまざまな気分や感情や意志がそれに結びついている。
この綾織物から、相対的に固定的・恒常的なものが立現われてきて、記憶に刻まれ、言語で表現される。
相対的に恒常的なものとして、先ずは、空間的・時間的(函数的)に結合した色、音、圧、等々の複合体が現われる。
これらの複合体は比較的恒常的なため特別な名称を得る。そして物体と呼ばれる。
が、このような複合体は決して絶対的に恒常的なのではない」
「相対的に恒常的なものとして、次いでは、特殊な物体(身体)と結びついた、記憶、気分、感情の複合体、つまり自我と
呼ばれるものが<意識に>立現われる。私[自我]は、この物に係わったりかの物に係わったり、平静であったり快活であったり、
激昂していたり不機嫌であったり、さまざまでありうる」
「自我が一見恒常的に思えるのは、就中その連続性、変化が緩慢なことに負うものである」
「第一次的なもの[根源的なもの]は、自我ではなく、諸要素(感覚)である。諸要素が自我をかたちづくる。
私[自我]が緑を感覚する、ということは要素緑が他の諸要素(感覚、記憶)の或る複合体のうちに現われるということの謂いである。
私が緑を感覚するのをやめたり、私が死んだりすると、諸要素はもはや従前通りの結合関係においては現われない。
それだけの話である」
そんなふうにして、物体も自我も「感性的諸要素の複合体」ということである。
物体・客観・即自・唯物論は退けられ、自我・主観・対自・観念論も退けられ、釈迦牟尼仏が残るということだろうか?
木田元「マッハとニーチェ」では以下のように要約されていた。
「こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素がたがいに
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」
ここで私たちは「立ち現われる」などと言っているのだが、そのことの意味はよくわからない。
「自我」が解消されるのであれば「意識」の指し示すものも、ひどく曖昧になると思われるのだが、
「私[自我]が緑を感覚する、ということは要素緑が他の諸要素(感覚、記憶)の或る複合体のうちに現われるということの謂いである」とは
いったい何を語っていることになるのだろうか?
論理演算や算術演算を行う場合に、メモリからレジスタにデータが転送される。
演算器が高速にアクセスできるレジスタの数は限られ、レジスタよりアクセスが遅いメモリは記憶領域が増える。
メモリよりもアクセスが遅いハードディスクになると大容量のデータを記憶しておくことができる。
私たちの記憶にもそのような階層があるのだろう。そして人間の場合はアクセスしないデータは忘れ去られる。
そうするとコンピューターとっては演算処理の対象となっているデータを保持している領域が「立ち現われ」ているのかもしれない。
だが演算処理を集中している複合体(コンピューター、ヒト)にとっては「立ち現われ」ということの意味はないようにも思える。
「立ち現われ」とは「演算処理を行っている複合体」すら演算の対象としてしまうような、通常、意識すら思考の対象としてしまうような、
そのような仕組みのことを指しているのではないだろうか、そんなふうに思う。
緑を知覚している時に緑は現われず、緑を知覚していると考えたときに緑は現われる。
その時、私たちは、ありもしない自我を眺めている。
もしかすると、私たちがものすごく大切にしている「自我」とは、そんな写し鏡のような現象にすぎないかもしれない。
それは生存を有利にするという観点で、個体の経験を時系列に一元管理するために必要とされている仕掛けであるかもしれないが、
動物に「自我」がないのであれば、経験の蓄積とは関係のない形而上学的な幻想ということになってしまうだろう。
精神こそが災いである。
キリスト教で肥大化した精神が二千年に渡る歴史の不毛の原因であり、
民主主義社会における自由や平等や夢や希望や意志に対する無条件の信任は資本主義経済に利用され尽くす。
意志は何もないところから神がかり的に発生するものではなく、
感性的諸要素の複合体が常時行う計算結果により導かれる傾向といったものであるかもしれない。
複合体は感覚や情報を取り込んで益々複雑になって行く。
どれが自分の考えで、どれが他人の考えで、といったものはない。
他人の考えもまた諸要素であり、それは複合体に取り込まれて自分の考えとなる。
ここで自分というのは便宜上、そう呼んでいるだけのものではある。
私たちが夢とか意志を過大に評価するのは、実際には自分の時間(命)を切り売りしていることを忘れたいからではないだろうか?
そのようにしか生存を続けることの出来ない自分を忘れるために、その選択は自分の意志により行ったと信じたいのではないだろうか?
そのように信じ切ることが、おそらくは幸せへの近道だろう。
そうしたければ、そうした方が良い。
「意志行為を、われわれ自身にみられる―――いささか意外な―――反射運動や動物の反射運動と対比してみよう。
われわれは、反射運動については、全過程が生体の一瞬間の状態によって物理的に規定されているとみなす傾向がある。
しかるに、謂う所の意志とは、――― 一部分自覚され、結果の予見と結びついている―――運動の諸条件の総体にほかならない。
意識にのぼっている限りでのこれらの諸条件を分析してみれば、以前の体験の記憶痕跡とその結合(聯合)以外には
なにもないことが判る。こうした痕跡を把持し、それらを結合すること、これは要素的生体の基本的機能であるように思える。
―――尤も、ここでは意識だとか記憶体系への秩序づけだとかはもはや云々できないのであるが」
「意志行為」が「以前の体験の記憶痕跡とその結合」ということであるならば、
私たちはやはりステートマシンだとかオートマトンのようなものだろう。
それがどういった理由で秩序化していくのかはよくわからない。
やがては混沌に戻ることになるのだが生きている間は秩序を作り出す。
その仕掛けとはいったい何だろうか?
「色、音、熱、圧、空間、時間等々は、多岐多様な仕方で結合しあっており、さまざまな気分や感情や意志がそれに結びついている。
この綾織物から、相対的に固定的・恒常的なものが立現われてきて、記憶に刻まれ、言語で表現される。
相対的に恒常的なものとして、先ずは、空間的・時間的(函数的)に結合した色、音、圧、等々の複合体が現われる。
これらの複合体は比較的恒常的なため特別な名称を得る。そして物体と呼ばれる。
が、このような複合体は決して絶対的に恒常的なのではない」
「相対的に恒常的なものとして、次いでは、特殊な物体(身体)と結びついた、記憶、気分、感情の複合体、つまり自我と
呼ばれるものが<意識に>立現われる。私[自我]は、この物に係わったりかの物に係わったり、平静であったり快活であったり、
激昂していたり不機嫌であったり、さまざまでありうる」
「自我が一見恒常的に思えるのは、就中その連続性、変化が緩慢なことに負うものである」
「第一次的なもの[根源的なもの]は、自我ではなく、諸要素(感覚)である。諸要素が自我をかたちづくる。
私[自我]が緑を感覚する、ということは要素緑が他の諸要素(感覚、記憶)の或る複合体のうちに現われるということの謂いである。
私が緑を感覚するのをやめたり、私が死んだりすると、諸要素はもはや従前通りの結合関係においては現われない。
それだけの話である」
そんなふうにして、物体も自我も「感性的諸要素の複合体」ということである。
物体・客観・即自・唯物論は退けられ、自我・主観・対自・観念論も退けられ、釈迦牟尼仏が残るということだろうか?
木田元「マッハとニーチェ」では以下のように要約されていた。
「こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素がたがいに
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」
ここで私たちは「立ち現われる」などと言っているのだが、そのことの意味はよくわからない。
「自我」が解消されるのであれば「意識」の指し示すものも、ひどく曖昧になると思われるのだが、
「私[自我]が緑を感覚する、ということは要素緑が他の諸要素(感覚、記憶)の或る複合体のうちに現われるということの謂いである」とは
いったい何を語っていることになるのだろうか?
論理演算や算術演算を行う場合に、メモリからレジスタにデータが転送される。
演算器が高速にアクセスできるレジスタの数は限られ、レジスタよりアクセスが遅いメモリは記憶領域が増える。
メモリよりもアクセスが遅いハードディスクになると大容量のデータを記憶しておくことができる。
私たちの記憶にもそのような階層があるのだろう。そして人間の場合はアクセスしないデータは忘れ去られる。
そうするとコンピューターとっては演算処理の対象となっているデータを保持している領域が「立ち現われ」ているのかもしれない。
だが演算処理を集中している複合体(コンピューター、ヒト)にとっては「立ち現われ」ということの意味はないようにも思える。
「立ち現われ」とは「演算処理を行っている複合体」すら演算の対象としてしまうような、通常、意識すら思考の対象としてしまうような、
そのような仕組みのことを指しているのではないだろうか、そんなふうに思う。
緑を知覚している時に緑は現われず、緑を知覚していると考えたときに緑は現われる。
その時、私たちは、ありもしない自我を眺めている。
もしかすると、私たちがものすごく大切にしている「自我」とは、そんな写し鏡のような現象にすぎないかもしれない。
それは生存を有利にするという観点で、個体の経験を時系列に一元管理するために必要とされている仕掛けであるかもしれないが、
動物に「自我」がないのであれば、経験の蓄積とは関係のない形而上学的な幻想ということになってしまうだろう。
精神こそが災いである。
キリスト教で肥大化した精神が二千年に渡る歴史の不毛の原因であり、
民主主義社会における自由や平等や夢や希望や意志に対する無条件の信任は資本主義経済に利用され尽くす。
意志は何もないところから神がかり的に発生するものではなく、
感性的諸要素の複合体が常時行う計算結果により導かれる傾向といったものであるかもしれない。
複合体は感覚や情報を取り込んで益々複雑になって行く。
どれが自分の考えで、どれが他人の考えで、といったものはない。
他人の考えもまた諸要素であり、それは複合体に取り込まれて自分の考えとなる。
ここで自分というのは便宜上、そう呼んでいるだけのものではある。
私たちが夢とか意志を過大に評価するのは、実際には自分の時間(命)を切り売りしていることを忘れたいからではないだろうか?
そのようにしか生存を続けることの出来ない自分を忘れるために、その選択は自分の意志により行ったと信じたいのではないだろうか?
そのように信じ切ることが、おそらくは幸せへの近道だろう。
そうしたければ、そうした方が良い。
「意志行為を、われわれ自身にみられる―――いささか意外な―――反射運動や動物の反射運動と対比してみよう。
われわれは、反射運動については、全過程が生体の一瞬間の状態によって物理的に規定されているとみなす傾向がある。
しかるに、謂う所の意志とは、――― 一部分自覚され、結果の予見と結びついている―――運動の諸条件の総体にほかならない。
意識にのぼっている限りでのこれらの諸条件を分析してみれば、以前の体験の記憶痕跡とその結合(聯合)以外には
なにもないことが判る。こうした痕跡を把持し、それらを結合すること、これは要素的生体の基本的機能であるように思える。
―――尤も、ここでは意識だとか記憶体系への秩序づけだとかはもはや云々できないのであるが」
「意志行為」が「以前の体験の記憶痕跡とその結合」ということであるならば、
私たちはやはりステートマシンだとかオートマトンのようなものだろう。
それがどういった理由で秩序化していくのかはよくわからない。
やがては混沌に戻ることになるのだが生きている間は秩序を作り出す。
その仕掛けとはいったい何だろうか?