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140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

感覚の分析

2015-06-20 00:05:18 | マッハ
マッハ著 須藤吾之助、廣松渉訳「感覚の分析」という本を読んだ。

「色、音、熱、圧、空間、時間等々は、多岐多様な仕方で結合しあっており、さまざまな気分や感情や意志がそれに結びついている。
この綾織物から、相対的に固定的・恒常的なものが立現われてきて、記憶に刻まれ、言語で表現される。
相対的に恒常的なものとして、先ずは、空間的・時間的(函数的)に結合した色、音、圧、等々の複合体が現われる。
これらの複合体は比較的恒常的なため特別な名称を得る。そして物体と呼ばれる。
が、このような複合体は決して絶対的に恒常的なのではない」
「相対的に恒常的なものとして、次いでは、特殊な物体(身体)と結びついた、記憶、気分、感情の複合体、つまり自我と
呼ばれるものが<意識に>立現われる。私[自我]は、この物に係わったりかの物に係わったり、平静であったり快活であったり、
激昂していたり不機嫌であったり、さまざまでありうる」
「自我が一見恒常的に思えるのは、就中その連続性、変化が緩慢なことに負うものである」
「第一次的なもの[根源的なもの]は、自我ではなく、諸要素(感覚)である。諸要素が自我をかたちづくる。
私[自我]が緑を感覚する、ということは要素緑が他の諸要素(感覚、記憶)の或る複合体のうちに現われるということの謂いである。
私が緑を感覚するのをやめたり、私が死んだりすると、諸要素はもはや従前通りの結合関係においては現われない。
それだけの話である」

そんなふうにして、物体も自我も「感性的諸要素の複合体」ということである。
物体・客観・即自・唯物論は退けられ、自我・主観・対自・観念論も退けられ、釈迦牟尼仏が残るということだろうか?
木田元「マッハとニーチェ」では以下のように要約されていた。
「こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素がたがいに
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」

ここで私たちは「立ち現われる」などと言っているのだが、そのことの意味はよくわからない。
「自我」が解消されるのであれば「意識」の指し示すものも、ひどく曖昧になると思われるのだが、
「私[自我]が緑を感覚する、ということは要素緑が他の諸要素(感覚、記憶)の或る複合体のうちに現われるということの謂いである」とは
いったい何を語っていることになるのだろうか?
論理演算や算術演算を行う場合に、メモリからレジスタにデータが転送される。
演算器が高速にアクセスできるレジスタの数は限られ、レジスタよりアクセスが遅いメモリは記憶領域が増える。
メモリよりもアクセスが遅いハードディスクになると大容量のデータを記憶しておくことができる。
私たちの記憶にもそのような階層があるのだろう。そして人間の場合はアクセスしないデータは忘れ去られる。
そうするとコンピューターとっては演算処理の対象となっているデータを保持している領域が「立ち現われ」ているのかもしれない。
だが演算処理を集中している複合体(コンピューター、ヒト)にとっては「立ち現われ」ということの意味はないようにも思える。
「立ち現われ」とは「演算処理を行っている複合体」すら演算の対象としてしまうような、通常、意識すら思考の対象としてしまうような、
そのような仕組みのことを指しているのではないだろうか、そんなふうに思う。
緑を知覚している時に緑は現われず、緑を知覚していると考えたときに緑は現われる。
その時、私たちは、ありもしない自我を眺めている。

もしかすると、私たちがものすごく大切にしている「自我」とは、そんな写し鏡のような現象にすぎないかもしれない。
それは生存を有利にするという観点で、個体の経験を時系列に一元管理するために必要とされている仕掛けであるかもしれないが、
動物に「自我」がないのであれば、経験の蓄積とは関係のない形而上学的な幻想ということになってしまうだろう。
精神こそが災いである。
キリスト教で肥大化した精神が二千年に渡る歴史の不毛の原因であり、
民主主義社会における自由や平等や夢や希望や意志に対する無条件の信任は資本主義経済に利用され尽くす。
意志は何もないところから神がかり的に発生するものではなく、
感性的諸要素の複合体が常時行う計算結果により導かれる傾向といったものであるかもしれない。
複合体は感覚や情報を取り込んで益々複雑になって行く。
どれが自分の考えで、どれが他人の考えで、といったものはない。
他人の考えもまた諸要素であり、それは複合体に取り込まれて自分の考えとなる。
ここで自分というのは便宜上、そう呼んでいるだけのものではある。
私たちが夢とか意志を過大に評価するのは、実際には自分の時間(命)を切り売りしていることを忘れたいからではないだろうか?
そのようにしか生存を続けることの出来ない自分を忘れるために、その選択は自分の意志により行ったと信じたいのではないだろうか?
そのように信じ切ることが、おそらくは幸せへの近道だろう。
そうしたければ、そうした方が良い。

「意志行為を、われわれ自身にみられる―――いささか意外な―――反射運動や動物の反射運動と対比してみよう。
われわれは、反射運動については、全過程が生体の一瞬間の状態によって物理的に規定されているとみなす傾向がある。
しかるに、謂う所の意志とは、――― 一部分自覚され、結果の予見と結びついている―――運動の諸条件の総体にほかならない。
意識にのぼっている限りでのこれらの諸条件を分析してみれば、以前の体験の記憶痕跡とその結合(聯合)以外には
なにもないことが判る。こうした痕跡を把持し、それらを結合すること、これは要素的生体の基本的機能であるように思える。
―――尤も、ここでは意識だとか記憶体系への秩序づけだとかはもはや云々できないのであるが」

「意志行為」が「以前の体験の記憶痕跡とその結合」ということであるならば、
私たちはやはりステートマシンだとかオートマトンのようなものだろう。
それがどういった理由で秩序化していくのかはよくわからない。
やがては混沌に戻ることになるのだが生きている間は秩序を作り出す。
その仕掛けとはいったい何だろうか?

マッハとニーチェ

2015-04-04 00:05:41 | マッハ
木田元「マッハとニーチェ 世紀転換期思想史」という本を読んだ。
マッハとは音速の単位にもなっている物理学者のことである。

「こうして、実体的な意味での物体も自我もすべて解消され、残るのは感性的諸要素がたがいに
函数的に依属しあい連関しあいながら現れ、絶えず離合集散を繰り返している一元的世界、
つまり<現象>の世界だけである。それは<物体>と呼ばれうるような複合体も現れるし、
<自我>と呼ばれうるような複合体も現れうるような両義的な世界である。
これらの複合体も比較的安定して持続するというだけで、絶対的な恒常性をもつものではない。
この世界には、そうした絶対的な恒常性をもつようなものはなに一つないのであって、
マッハに言わせれば、論理学的真理や数学的真理でさえも、そうした感性的諸要素の離合集散、
つまり経験に起源をもち、そこから生成してきたものなのである。
彼は、幾何学的空間でさえも、絶対のアプリオリではありえないと言う。」
そんなことが書かれていた。仏教の『無自性―空―縁起』に似ている。

「まず、『無自性』とは、文字通り『自性』がないということである。
『自性』とは、変化するものの根底にあってつねに同一であり、固有のものであり続ける
永遠不変の本質であり、他の何者にもよらずそれ自身によって存在する本体のことである。
・・・
『空』もまた、無自性と同じく、永遠不滅の固体的実体のないことを意味する。
このように、あらゆるものが空性であるということは、決して何者も存在しないとか、
すべてのものは虚妄であるとかいうことを意味しはしない。
・・・
『縁起』とは『因縁生起』を略した言葉で、事物事象が、互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、
複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っていることをいう。
・・・
道元をはじめとする仏教者たちは、このような『無自性―空―縁起』の立場、すなわち、
すべての事物事象を関係性において把握する非実体的思考の立場から、本来、
『無自性―空―縁起』であるはずの事実事象を実体化し、そこに執着しがちな人間の傾向を批判する。
そして、仏教者たちは、常識的日常的な認識方法がこのような傾向におちいりやすいのは、
言語の分節機能をめぐって生じがちな誤解によると考えた。
言語による分節化とは、言葉によって世界を区切ることである。
『一水四見』のたとえに関して言及したように、人はみずからの生の必要に応じて世界を区切り、
区切ったそれぞれを言葉によって名付け文節化するのである。」

「空」は永遠不滅の固体的実体のないことを意味しているということだから、
感性的諸要素が離合集散を繰り返しているというのと同じことになる。
「縁起」は事物事象が、複雑な関係を結びながら、相互相依しあって成り立っているということだから、
感性的諸要素がたがいに函数的に依属しあい連関しあいながら現れるというのと同じことになる。
マッハがフッサールに先行しているというのはそれほどの時間差ではない。
釈迦牟尼仏がずっと先行していたということになる。
自我とか自己というものはなく感性的要素の複合体なのだから
マッハの業績であるとか釈迦牟尼仏の悟りであるとか言う必要もないかもしれない。
自我が解体されてしまうのであれば意志とか独創性とか創造性とか発見とか
そういうことを主張することに意味はなくなってしまう。
先端企業が特許で争っている光景というのも、或る感性的要素の複合体が他の感性的要素の複合体に対して
私(複合体)の方があなた(複合体)よりも先に出願したのだとそんなことを言い合っている感じがする。
遅かれ速かれいずれかの感性的要素がそうしたに違いないというだけのことなのだが、
「おのれ」というものが競い合ってしまう。

『仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふというは、自己をわするるなり』
『自己を忘れる』ということは、固定的な自我があるというとらわれから脱するということである。
つまり、自己を追求して、自己とは実は固定的なものとしては存在しないということが分かる。
自分だと思っていたものは、自分ではないのである。」
仏教ではそういうことになっている。

そういうことを認めた瞬間に救われるものもある。
無駄に生まれて無駄に死んでいった夥しいほどの無名の存在よ!
お前たちはそもそも存在しなかったのだ。

だが近代化(西洋化)した社会では「自己を忘れる」というわけにはいかない。
誰が誰より偉いと言ってニホンザルの群れのように序列を確かめたがるのだ。
そのようなプライドが感性的諸要素の複合体にまとわりついて離れない。
別にどうでもいいやという気もしないではない。
私がやらなくても別の複合体がやるに違いないなどと言ってしまうと
それは極めて「無責任」ということになるだろう。
「自己を忘れる」と執着がなくなり私有財産をめぐって誰も争わなくなってしまう。
シュメール文明が発展・成立したのも私有財産を認めたからだと言われている。
執着が競争を生み出し、そのような形態が「文明」というものであるかもしれない。
競争がなくなると成長が止まってしまう。
成長が止まると他の複合体の勢力に蹂躙されてしまう。
それは群れのボスにとって好ましいことではない。
経済を活性化すると言うのは簡単に言うとボスのために働けということだ。
個体に「自己を忘れる」ことがないよう強制するために「住宅ローン」などの制度もある。
住居を得るために人並みな生活を得るために数十年の奉仕が必要となる。
そのように発達した社会制度に救済は用意されていないだろう。
自己を維持したまま「自己を忘れる」というのは難しい。
自己を忘れてしまいたい人は自己を維持しようとしないだろう。
(つまり自殺ということになる)
そうすると生きながら「自己を忘れる」というのが修行に違いない。
感性的諸要素の複合体とか現象学とか言いながら
その学を成立させた功績は「自分」のものであるとフッサールは考えたかもしれない。
そんな人間よりは雲水の方に好感が持てるというものだ。

『あらゆる力の中心は残余のもの全体に対しておのれの遠近法を、つまりおのれのまったく特定の価値評価、
おのれの作用の仕方、その抵抗の仕方をもっている。それゆえ<仮象の世界>なるものは、一つの中心から発して
世界へ働きかけるある特殊な作用の仕方に還元されることになる。
いまや、それ以外の作用の仕方はまったくないのであって、<世界>とはこうした諸作用の相対的働きを指す
呼び名にすぎない。』
『<認識する>のではなく、図式化するのである―――われわれの実践的欲求を満たすに足るだけの
規則性や諸形式を混沌(カオス)に課すのである。』
「ここで『混沌』と言われているのは、たえず生成し変化しつつあるもののことである。
そうしたなかにいては生は安定することができない。
そこで、その混沌に、到達した現段階を確保しようとする生の要求を満たすに足る程度の規則性と形式を
押しつけ、いわばそれを『図式化』して、あたかもそれが静止した不変のものであるかのように
思いこもうとするのが、認識の働きなのであり、それはけっしていわゆる<認識>、
つまり<真に存在するもの>を把握する働きなどではない、とこの断章は言いたいのである。」
ニーチェについて、そのようなことが書かれていた。
マッハと重なるということで、この本のタイトルは「マッハとニーチェ」ということになっている。
「空」あるいは「混沌(カオス)」というのは把握できない世界を象徴している。
「感覚的諸要素の離合集散により生成(あるいは現生)」したものは「図式化」により捉えられる。
私たちは混沌など理解できないのだから認識できるものには秩序がある。意味がある。
私たちは私たちの形式を「世界」に押し付けている。
それは主観が世界をゆがめているというようなことではなく
そういうあり方でしか「世界」は「認識」できないと
そういうことになる。

「感覚的諸要素の複合体」が複合体にとって有益な情報を活用しようとする形式が「思考」かもしれない。
そして情報を一元的に管理するための形式が「自我」であるかもしれない。
「自我」という形式が「思考」という形式を用いて
「自我」とは何か?「思考」とは何か?と問うところに
無理があるかもしれない。