140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

レ・ミゼラブル(三)

2013-11-30 00:05:05 | ユーゴー
「・・・社会主義者らが提起する問題のすべては、二つの主要なる題目に帰結することができる。
第一:富を作り出すこと。
第二:富を分配すること。
第一の題目には労働問題が含まれる。
第二の題目には賃金問題が含まれる。
第一の題目においては労力の使用が問題である。
第二の題目においては享有の分配が問題である。
労力の適宜なる使用から、公衆の勢力が生じてくる。
享有の適宜なる分配から、個人の幸福が生じてくる。
適宜なる分配とは、平等なる分配の謂ではなくて、公平なる分配の謂である。
最上の平等とはすなわち公平のことである。」

富を蓄積することを覚えてから人はその分配をめぐって争い続けている。
平等な分配は怠け者を生み出し活力を削ぐので個人が発揮する能力に応じて富が分配されると言う。
一方で利益に対する各人の貢献を測る物差しのようなものはなく評価は恣意的になる。
権力者を取り巻く追従者が次の権力者となり富の分配を決めることになる。
社会主義者ですら権力を握った瞬間に暴君となり社会主義が成立しないことを証明した。
労働者の賃金はグローバル化の進展により下がり続けるのだと言う。
所得が減った労働者は購買力をなくし商品が売れなくなる。
世界で勝つためには労働者を甘やかしてはいけないのだと言う。
しかし実際の勝利者は柳井さんひとりだけで賃金の下がった社員は含まれていない。
王(会長)を富ますためには人民(社員)の犠牲はやむを得ない。
そして3年で半数に近い新卒がやめていくのだと言う。
使い切れないほどの富を蓄積してどうするつもりなのかよくわからない。
富は富の増殖を目的にしてしまう。
そして人は富に仕える。

「あなたは花の世話をなさるから天使に違いない。」
「いいえ、」と彼女は答えた。
「あたし悪魔よ。でもそんなことどうでもかまわないわ。」
エポニーヌは天使になれたかもしれない。
親の素行が彼女の人生を狂わせたのだろうか?
親が不幸であったコゼットには幸福が待っているが
親が悪人であったエポニーヌは自分を悪魔と考えるしかなかった。
全編を貫く悲惨と不幸の一部がそこにある。
「そんなことどうでもかまわない」と彼女は言う。
その通りかもしれない。

ガヴローシュはただこう答えた。
「巡査(おまわり)さんなんて言うやつがあるか、いぬと言うんだ。」
なるほど、19世紀から、フランスでも、「いぬ」と呼ばれていたのだ。日本にもこんな歌がある。
「いぬのー、おまわりさん、こまってしまって、ワン・ワン・ワワーン、ワン・ワン・ワワーン」
童謡かと思っていたが、そういう意味だったのか・・・

「革命の恩恵によって社会の状況は変わった。封建的王政的な病はもはや我々の血液の中にはない。
我々の政体のうちにはもはや中世は存しない。恐るべき黴菌が内部に満ちあふれていた時代、
恐ろしい響きのかすかに鳴り渡るのが足下に聞こえていた時代、土竜が穴を掘るような高まりが
文明の表面に見えていた時代、地面が亀裂していた時代、洞穴の口が開いていた時代、
そして怪物の頭がたちまち地下から出て来るのが見られた時代、そういう時代には
もはやいないのである。」
大革命に酔いしれて、社会の進歩を、人類の進歩を疑わない者は幸せだろう。
20世紀を知らない19世紀は幸せだろう。
19世紀が知らないホロコーストや核兵器を20世紀は経験した。
人は懐疑に陥り無邪気な進歩を信用しなくなる。
彼に「神」を語ったところで
徒労に終わるだろう。

「コゼットとマリユスにとっては、もはやマリユスとコゼットとのほかは何物も存在しなかった。
周囲の万物はすべて穴の中に没してしまっていた。彼らは光り輝く黄金の瞬間に生きていた。
前には何物もなく。後ろにも何物もなかった。」
予告されていた通りコゼットとマリユスは「互いに欽慕」し合うようになる。
そのようにして時を過ごすのは幸せなことに違いない。
その夢から覚めたのはいつのことだったろう。
どうしてそこに留まることが出来ないのだろう。
愛し合うだけでは暮らしては行けない。

ゴーギャン

2013-11-27 22:04:58 | 
「われわれはどこから来たか。われわれとは何か。われわれはどこへ行くか。」
「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」は
遺言のつもりで描かれたのだという。

「われわれはどこから来たか」は心の起源への問いかけのように感じられる。
以前わたしも試みてみたが、その問いかけは失敗する。
「心」を持たない生き物がどのようにして「心」を持つ生き物に進化したか?
そういうことはうまく説明できない。この先もずっとそうだろう。
私たち自身も元々は言語を知らない赤ん坊だった。
私たち自身がどのようにして言語を取得したか私たちは覚えていない。
いや、覚えていないというのではなく、言語を持たない状態は意味として記憶できない。
言語を持たない状態から言語を取得した状態への遷移は言語で語れない。
そして私たちが「心」と呼んでいるものは言語がないと成立しないものなのだ。
そんなふうにして「われわれはどこから来たか」と問うても徒労に終わる。
私は私の起源を語れない、あなたはあなたの起源を語れない、
それは心の起源への問いかけが失敗することを示している。

「われわれとは何か」という問いは、
「心」が言語によって成立している範囲では先の問いと同じことに帰着する。
そこで犬猫のレベルまで問いのレベルを落としてみたとしたら
私たちは有限状態機械(オートマトン)であろうというのがひとつの答えになる。
欲望に駆り立てながら生存や生殖に有利な条件を選択し行動する。
動物とはそのようなものに違いない。餌を求め、異性を求め、敵から逃れる。
そうした根源的な衝動が生化学的な作用を起点として生じるという点で
遺伝子の命ずるままに動作するオートマトンということになるだろう。
しかし犬猫レベルを超える作用になるとよくわからない。
「心」を生み出したのが遺伝子であるにしても、
それは遺伝子の企みを超えたものになっているようだ。
しかし遺伝子には「心」はないので、ある種の人々はそこに超越的な神を導入しようとする。
もともと無秩序から秩序ができた(無生命から生命が生まれた)ということも説明できない。
そしてその秩序のもとで無意味から意味(非言語から言語)が生まれたことになる。
後者は生存競争の結果として説明される。心は生存に有利なものなのだ。
そして前者を推進するものはなんなのだろう?
物質どうしも存在をめぐって争っているのではないかと考えられる。
ショウペンハウアーがそんなふうなことを書いている。
無秩序というものは無限と同じくらいに私たちには想像の及ばないものだと思う。
それもまた言語の外にあるもので第一の問いと同じく言語の壁に突き当たる。

「われわれはどこへ行くか」は目的を問うている。
そこには私たちが存在することには目的があるべきだという考えが潜んでいる。
「輝かしい未来のため、自由を守る戦いに身を捧げる」ことは素晴らしいことだと
私たちは考えたいのだ。そうでないとすれば何で私たちは死ななければならないのか?
目的がなければならないという強迫観念も言語に操られた結果として生じていると思う。
私たちが生活して行く上で役に立つものに対しては有用であるとか意味があるとか言うべきだろうが
人生そのものに意味があるか意味がないかなんて実際に問う必要はない。
そして問うてしまうと「意味がある」ということにしなければ納得できなくなる。
「なんのために生まれて なにをして生きるのか こたえられないなんて そんなのはいやだ!」
(アンパンマンのマーチより引用)・・・「いやだ!」と言われてもねぇ・・・
私はいつか人類が滅亡することを否定しない。
そんなことを書くとニヒリストと言われてしまうのだが、ま、いいや。
太陽は数十億年後には火星軌道まで膨張するらしいので、その時に地球は飲み込まれてしまうし、
その前にはハビタブルゾーンから外れてしまっているだろう。
核兵器で自滅するというのも十分にあり得る。
私が問題にしたいことは、そのようなことを受け入れて、なお、生きることができるか?
強迫観念に強いられた目的を失っても、なお、生を肯定することができるかといったことだ。
強い肯定はニヒリズムの上に構築されるものだと思う。
それを避ける者は自己満足していれば良いと思う。
あんたらはあんたらの前向きでポジティブで熱い人生を歩んでくれ。
私はそんなものに関心はない。

「ゴーギャン(現代世界美術全集)」という本を借りてきて見ていたのだが
解説に「激しく深い観念性を示している」とか書いてあって
私が彼に惹かれるのも、その観念性の故なのだろうと考えている。
絵についての感想が書ければ良いのだが言葉にできない。
音楽についての感想は無理やりではあるが書けるようになったが絵は難しい。
実際に書いてみると上記のような観念の話になってしまった。
は、は、は・・・

音楽は周波数(空気の疎密波)と強弱の組合せとなる。
絵も周波数(光)と明暗(強弱)の組合せとなる。
強弱にしても周波数(空間周波数)に分解することができる。
その組合せの特定のパターンが芸術と呼ばれる。
聴覚とか視覚という外的刺激を信号に変換する仕組みが私たちに内在している。
その仕組みが受容する規則性を表現するものが芸術と呼ばれる。
新しい規則性を求める人々を前衛と呼ぶ。
古い規則性に固執するか新しい規則性を受け入れるかで
人のあり方は変わってくる。

「月と六ペンス」はゴーギャンをモデルにした小説だ。
サマセット・モームは実際にタヒチを訪れたのだという。
そこにはきっと恐ろしいままの自然があったのだろう。
私たちは四六時中、携帯機器を持ち歩き、自身を文明に縛り付けている。
何もすることがないといった状態に耐えることができずに常にあくせくしている。
生産性を向上させることに努め、自己啓発に努め、遊ぶことにもいちいち一流を追求する。
時々、自分も含めてそういう人間たちの一切が煩わしくなる。
そんな時には音楽を聴いたり絵を見るのが良いのだと思う。
ゴーギャンには原始的なものが持つ生々しさがあるのだと思う。
芸術とは結局のところ生々しいものだと思う。それは崇高なものとは程遠い。
現実を語る人々は芸術を崇高なものとしてバカにしているわけだが
それこそ見当違いというものだろう。
芸術も哲学も私たちの最も原始的なところを狙ってきている。
そんなことも知らずに過ごすのならそれこそ無意味だろう。
してみると私は第一の目的は達成しているらしい。

「われわれはどこから来たか。われわれとは何か。われわれはどこへ行くか。」を
5分間、眺めていると引き込まれそうになる。
観念としては先に書いた通りだが、絵を見つめ続けていると、何か違うのではないかと感じる。
何がどう違うかをうまく説明できない。
観念性が強いとは言っても絵は哲学とは違う。
それが哲学と同じものであれば絵にする必要なんてない。

なんていうのかな?
私はこうして、いろいろ考えてみるのが好きなんだろうね。
お金になるかと言えばならないし、有名になれるかと言えばそんなこともない。
時間の無駄と言われれば、ま、そうかもしれない。
子供の頃は「おとなになったら何になりたい?」と聞かれるのがとても嫌だった。
だって何かになりたいなんて思ったことないもの・・・
その時は言葉に出来なかったにしても「私は私って何なの?」と思っていたのだろう。
それに対するひとつの回答が「いろいろ考えてみるのが好きなやつ」ということになるのだろう。
「われわれはどこから来たか。われわれとは何か。われわれはどこへ行くか。」
私はその問いの前で立ち止まっているつもりなんて全然ない。
この絵の左隅の老女の足下で「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを
物語っている」とゴーギャン自身が書き残しているのだという。
言葉というのは論理に分解されるものであるから
感性という様々な周波数により合成されている刺激を受け取る能力に対しては無力だろうね。
一方で感性も論理に対しては無力だろうね。
そいつらはどこで交差しているのか?
それを考えてみるのもいいね。

レ・ミゼラブル(二)

2013-11-23 00:05:05 | ユーゴー
「私には一度もお母さんはなかったようなの。」
八つになったコゼットはジャン・ヴァルジャンの質問にそう答える。
彼女を愛し、彼女に会いたくて仕方がなかったファンティーヌは既に世を去ってしまった。
物語は全体として釣り合いが保たれていなければならないものだから
コゼットは母親の分まで幸福にならなければならないのだろう。

そしてジャン・ヴァルジャンがコゼットを助けたというだけではなかった。
「ジャン・ヴァルジャンはかつて何者をも愛したことがなかった。二十五年前から
彼は世に孤立していた。彼はかつて、父たり、愛人たり、夫たり、友たることがなかった。」
「しかるにコゼットを見た時、コゼットを取り上げ連れ出し救い出した時、彼は自分の臓腑が
動き出すのを感じた。彼のうちにあった情熱と愛情とはすべて目ざめて、その子供の方へ
飛びついていった・・・」
「それは彼が出会った第二の白光であった。あのミリエル司教は彼の心の地平線に
徳の曙をもたらし、コゼットはそこに愛の曙をもたらした。」

生物は子孫を残すことを遺伝子に命じられている。
子孫を残すためにパートナーを求める行動が一つの愛情の起源になっている。
さらに生まれて来る子供の数が少ない哺乳類は子供の世話をするように出来ている。
幼児を見てかわいいと思うのは遺伝子が命じている本能によるものだろう。
哺乳類の他の動物、犬とか猫の子供を見ても同様にかわいいと感じる。
そして鰐の赤ちゃんかわいー、とか亀の赤ちゃんかわいー、とは普通は思わない。
私たちは私たちの愛情を注ぐべき対象を持つべきなのだろう。
それは文学的に崇高な愛でなくともかまわない。

ジャヴェルの追跡を逃れたジャン・ヴァルジャンとコゼットは修道院に立ち入ることになった。
そしてしばらくの間、修道女たちのささやかな暮らしぶりが描かれる。
ワーテルローの話が続いたと思っていたら今度は修道院の話になった。
本編とはあまり関係がない話だが著者が描く多彩な世界のあり様をしばらく眺める。
それは戦争であったり信仰であったりする。そこで人々は生きて死んで行く。

「彼らは祈る。
だれを?
神を。
神を祈る、この語は何を意味するか?
われわれの外部にある無窮なるものがあるのではあるまいか?
その無窮なるものは、単一のものであり恒久不易ななるものではあるまいか。
無窮なるがゆえに、また、もし実体が欠くればその点で限られたものとなるがゆえに、
それは必然に実体的のものではあるまいか、
そして、無窮なるがゆえに、また、霊が欠くればその点で限られたものとなるがゆえに、
それは必然に霊的なものではあるまいか。
われわれは自身に存在の観念しか与え得ないが、その無窮なるものはわれわれのうちに
本質の観念を覚させるのではあるまいか。
言葉を換えて言えば、それはわれわれの対称たる絶対ではないだろうか。」
そのようにして著者は神と魂を語る。

「神がいなければ来世もなく不死もなく、したがって善行もなく、すべては許される」と
カラマーゾフの兄弟に書かれている。
善を為すのに神様は必要なのだろうか?
それほどまでに人は邪悪な存在なのだろうか?
精神を支えるために無窮なるものが是非とも必要なのだろうか?
それほどまでに人はか弱い存在なのだろうか?
著者が生きていたら聞いてみたい。

名古屋フィル#30チャイコフスキー交響曲第4番

2013-11-17 00:05:05 | 音楽
今回は<水-孤独な男と漁村>というテーマで以下の曲が演奏された。
ブリテン: 4つの海の間奏曲とパッサカリア 作品33a,b
エルガー: 序奏とアレグロ 作品47
チャイコフスキー: 交響曲第4番ヘ短調 作品36

ブリテンはチェロ交響曲くらいしか知らない。
今回演奏された曲はYouTubeからダウンロードして聴いていたがそれほど好きでもない。
チェロ交響曲は好きな方だと思う。

「威風堂々」で有名なエルガーはあまり好きではない。
エルガーで好きな曲なんてひとつもない。

チャイコフスキーはなんというか粘着質な感じがする。
その粘着性は郷愁に転じたり憧憬に転じたりして人を惹きつける。
時として華麗であり爆発的でもある。
そういうものをすっかり集めたのが「白鳥の湖」だと思う。
交響曲第5番は虚無であり、
交響曲第6番は傑作だがあっちの世界にいっちゃってしまっているので
最も聴きやすいのは4番かもしれない。
この曲もしばしば粘着的であり最終楽章は爆音がする。
シャーン・エドワーズはこれ以上は出ないだろうと思われる爆音を
愛知県芸術劇場コンサートホールに響かせていた。
その爆音につられて「ブラヴォー」と叫ぶ人が5人くらいいた。
何が嫌いかと言ってこの「bravo」ほど嫌いなものはない。
静かに余韻に浸ることは出来ないのだろうか。
今回は女性の指揮者なので「brava」の方が正しいかもしれない。
イタリア語ではそうらしい。

名古屋フィルの演奏に通うのも今回で30回になった。
今日は首を振りながらノリノリで演奏するチェロの首席奏者がいなかった。
具合でも悪いのだろうか?
ちょっと心配だ。

レ・ミゼラブル(一)

2013-11-16 00:05:05 | ユーゴー
「地上に無知と悲惨とがある間は、本書のごとき性質の書物も、おそらく無益ではないだろう」と
序文に書かれている。
「貧困は後をたち、それとともに放逸や醜業や窃盗や殺害や、あらゆる不徳、
あらゆる罪悪は、みな消え失せる・・・」
主人公ジャン・ヴァルジャンがそのようなことを空想するシーンもある。
成熟した社会は普通教育によって無知や悲惨や貧困を撲滅しようと努めている。
あるいは収入と学歴が比例するかのような錯覚に陥っている場合もある。
誰もが大学に進学するようになった結果、その学歴に見合った職を用意することが出来なくなってしまった。
富める者と貧しき者の関係は相対的なものであり教育で取り除くことは出来ない。
「剰余価値は不払い労働から成る」という、かの法則は現代でも通用する。
そして醜業や殺害、あらゆる不徳、あらゆる罪悪が消失することもない。
それでは著者は何を書こうとしているのだろうか?
悲惨な現実を克明に描き、あるべき道を指し示そうとしているのだろうか?
ジャン・ヴァルジャンの辿る道はそうしたものなのだろうか?

永井均さんによると「マンガが表現している哲学的問題はドストエフスキーよりもはるかに深い」そうである。
きっとカントやウィトゲンシュタインのような超越論を指して「深い」と言うのだろう。
そういう意味では「レ・ミゼラブル」も深いとは言えないだろう。
その分類に従えば「道徳を説く」退屈な本であって、
悲愴な想いで「道徳に背いた」ニーチェに比べると深くもなんともない。
しかし私はその「深さ」に囚われた哲学からの脱出を試みようと思う。
ウィトゲンシュタインが「沈黙せねばならない」と書いてしまってから
哲学は「語りえぬものを指し示す」ことに満足を見出して微笑んでいるかのように見える。
その精神たるや屈折したものではないだろうか?
現代の哲学は窒息しているのではないだろうか?

ジャン・ヴァルジャンは牢獄で19年を過ごした後、「四十六か七、八くらい」で登場する。
事を成すに年齢は関係ないということだろうか?
それに事を成すと言っても偉業を成すというわけでもない。
おそらくは彼に与えられた務めを果たしているだけなのだ。

「彼が第一に出会ったものは、すべてを神に捧げつくしたミリエル司教であった。
そこに彼の第一の苦悶が生まれる。神と悪魔との戦いである。
苦悶のうちに少年ジェルヴェーについての試練がきた。彼は勇ましくも贖罪の生活にはいり、
マドレーヌなる名のもとに姿を隠して、モントルイュ・スュール・メールの小都市において
事業と徳行とに成功し、ついに市長の地位を得た。しかし彼の前名を負って重罪裁判に
付せられたシャンマティユーの事件が起こった。そこに彼の第二の苦悶が生まれる。
良心と誘惑との戦いである」と序文に書かれている。
「第一部 ファンティーヌ」には、この二つの苦悶が描かれている。
苦悶を乗り越えるジャン・ヴァルジャンの精神の尊さを描いているというよりは、
誰もが同じ苦悶を乗り越えることができるということを著者は示したいのではないかと思う。
多くの人に読んでもらいたいと著者が考えたのならば・・・

そして戦い続けるジャン・ヴァルジャンの傍らでファンティーヌは「社会的窒息」を遂げる。
きっと苦悶のうちにあることは幸福なことなのだろう。
そして悲惨のうちに死ぬことは少なくなったのだとしても
無知のうちに死んで行く不幸は減らない。

大鏡(新潮日本古典集成)

2013-11-09 00:05:05 | 古典
道長は権力の象徴であり、
帝位は序列を作り出し権力を遍く下々に伝播させる。
大陸では武力と権力は等しく王を殺した者が次の王となった。
日本で帝に取って代わろうと考えたのは平将門くらいと思われる。
島国では他国の脅威に晒される機会がほとんどないため
強い王を持たなくとも独立は維持される。
そういうことかもしれない。

三条天皇が道長の圧力に屈して譲位し、道長の娘の彰子が生んだ後一条天皇が即位する。
この時、院の強い要望により、敦明親王が東宮に立ったが、
三条院が崩御すると敦明親王は東宮を辞退した。

大鏡には「斯かる事の出で来ぬる御喜び、なお尽きせず。
まづ、『いみじかりける大宮の御宿世かな』とおぼしめす」と書かれている。
「まことに好都合に東宮の方から辞退を申し出てこられる事態になった御喜びはつきない。
『すばらしい皇太后宮(彰子)さまの前世からの御幸運よ』と道長は語ったという」
もちろん藤原氏の圧力によって東宮が退位したなどとは書けないのだが
持って生まれた娘の幸運などと語るところが卑しい。

敦明親王は王位継承権を放棄することで生き延びた。
東宮を退位した後に院号を受けたし道長の娘である寛子の婿にしてもらった。
そうすると確かに彰子は幸運で寛子は不運ということになるのだろう。
道長の子供であれば皆、幸運というわけではない。

大鏡は道長の子供としては不遇であった能信の周辺の者たちにより成立したらしい。
どの時代の藤原氏であっても兄弟同士の仲は悪いものだが
能信にとっては頼道・教道の栄華はおもしろくない。父の存命中は自分の処遇も良かった。
その頃を懐かしんで道長賛美の本書が成立したということらしい。

「天の帝の作りたまへる東大寺も、仏ばかりこそは大きにおはすめれど、
猶この無量寿院には並びたまはず。」と
道長が造成した法成寺の阿弥陀堂である無量寿院が賛美されているが、
法成寺が焼失し跡形もなくなってしまったことは徒然草にも記載されている。
有形のものを失った私たちは何を賛美すれば良いだろうか?
圧力を掛けて東宮を廃した政治的手腕を
賛美すれば良いだろうか?

大鏡(武田友宏編)

2013-11-02 00:05:05 | 古典
大鏡には二人の翁が登場する。
解説には以下のような記載がある。
「二人の翁の姓名には、『大鏡』作者の歴史に対する見方(歴史観)が反映している。
○大宅世継(おおやけのよつぎ)
「大宅」は公の意で、天皇を中心とする朝廷。「世継」は世代を継承する意で、系譜。
○夏山繁樹(なつやましげき)
五月生まれから夏とし、歌語「夏山の繁き」を援用して命名した。
大宅世継は歴史の時間軸(縦)を、夏山繁樹は空間軸(横)をそれぞれ象徴している。
したがって、世継が縦軸にあたる皇室系(皇太后)に仕え、繁樹が横軸にあたる藤原系(忠平)に
仕えるのは、ごく自然なことである。」

ざっくり言ってしまえば外戚政治の成立とその絶頂期(道長)のことを伝えているのだと思う。
嫁や母の立場で自分の兄弟に便宜を図るしたたかな藤原氏の女や
帝を謀って出家させるような藤原氏の男が登場する。
道長の栄華も妻と娘たちに支えられているとのことだ。
妻は二人とも源氏であり娘は三人が立后した。
その娘たちが帝を生み国母となる。
藤原氏の腹から生まれた天皇が藤原氏の娘に世継ぎを生ませる。
一方で道長は臣籍に降下した源氏を妻としているので
藤原氏もまた皇室の腹から生まれている。
そういう意味では時間軸と空間軸という区別は適当ではなく公か私的かが問題となると思う。
後見がなければ帝位につけないような皇族は公とは思えない。
公とは帝位そのものであり、帝位は序列を作るためのものであり、
そうすると公とはつまり序列のことになる。
そして私的なものは権力だと思う。
近代になってコモンウェルスといった用語を使った説明も登場したが
どこまでいっても権力は私的なものだと思う。
醒めた民主主義の時代にあって国民主権などと信じているのはどうかしている。
帝位や関白や総理大臣といったイスをめぐって権力者は欲望を満たそうとする。
その手段は外戚政治であったりナショナリズムの鼓舞であったりポピュリズムであったりする。
いつの世も彼らのような人種は自分が一番であると示したいのだろう。
それはサルの社会の序列と同じようなものだろう。
一番強いということの価値は長続きしない。老いたボスザルは若いオスに取って代わられる。
それだけのことなのに人々は権力者を賛美したがる。
視野が広いとか徳があるとか・・・

大鏡は「庶民の目線で書かれたもの」とまえがきに書いてあるが
やはり道長を賛美している部分が多いと思う。彼は豪胆な人物であったそうだ。
伊周のような小物と違って胆力を備えているので権力者であることが正当化される。
実は庶民にそう思わせることが権力者の狙いではないかと思う。
何が庶民の目線なんだか・・・