140億年の孤独

日々感じたこと、考えたことを記録したものです。

背徳者

2014-03-29 00:03:01 | ジッド
「僕は、はじめ誇りとしていた学識を心のうちで軽蔑するようになった。最初僕の全生命であった
あの研究も、もはやまったく偶然の因襲的な関係しかないように思われて来た。
僕は、別の自分を発見した。そして、ああ、なんたる歓びだ!
僕はそんなものとは別個に存在していたのだ。
専門家としての僕は、実に愚劣に思われた。人間としての僕は、自分にわかっていたろうか?
僕はやっと生まれたばかりだ。どんな人間に生まれたかは、まだわからなかった。
それこそ、これから知らなければならぬことだった。」

「どんな人間に生まれたか」を知ることが出来るのだろうか?
「人間が何か」すら知ることも出来ないのだから
「どんな人間に生まれたか」を知ろうなんて愚問ではないか?
そして学識を軽蔑して感性に忠実であったところで
やがてはその忌まわしい思惟に戻ってきてしまうのではないだろうか?
感性なき知性には意味がないのだろうが一方で感性だけに留まることが出来るだろうか?
画家や作曲家のしていることが知性と無関係とは考えられない。
絵や音楽は新しい秩序であり、秩序をもたらすのは知性だろうから・・・
古い絵や古い音楽や古い学問や古い宗教から逃れられないのは不幸なことだろう。
そして自分の主義主張から自由になれないのも不幸なことだろう。
そんなことを考えている時点でわたしも「背徳者」のひとりなのだろうか?
社会は秩序を維持するために徳を必要とする。この秩序は先ほど書いた秩序とは異なる。
人間を従わせるための秩序と人間が生み出す秩序は性質が異なる。
「どんな人間に生まれたか」なんて知らない。
知らなくてもやることは決まっている。

「・・・というのは、まるで死者の世界から戻って来た男のように、他人の中に立ち交じると、
僕はいつも異邦人だったからだ。」

「異邦人」はしばらく読んでいないが、あれはカフカの「変身」的に「異邦人」だったような気がする。
だが広い意味では、自覚を持ったなら異邦人にならざるを得ないのではないかと思う。
そもそも「他人」などというものは理解することが出来ない。
他人の中に立ち交じれる自分なんて「他人」に過ぎないだろう。
自分が見つめ続ける自分なんていつだって「異邦人」だろう。
そしてわたしたちはそうした「異邦人」的なものに共感している時点で
すでに矛盾している。

「今日、なぜ、詩や哲学が死文字と化しているか、君は知っているかい?
それは、これらのものが、生活から遊離したからだ。ギリシャでは、生活を直接理想化した。
だから、芸術家の生活は、それ自体がすでに詩の実現であったし、
哲学者の生活は、自己の哲学の実践だった。
だからまた、詩も哲学も生活の中に混じり合い、お互いに無縁の存在ではなく、
哲学は詩を育み、詩は哲学を謡うと言った具合に、
見事な融和が行われていたのだ。」

それにしても、どうしていつも「ギリシャ」を持ち出してくるのだろう?
キリスト教で衰退した文化は、いつだって「ギリシャ」だ。
彼らにとってはいつもデュオニソスが先生でなければならないらしい。
「ギリシャ」なんてなくても生きていけるじゃないか?
わたしたちが古代ギリシャ人を見習って生きていかなければならないとしたら
生きていたって仕方がないじゃないか?

狭き門

2014-03-22 00:02:26 | ジッド
「この瞬間が、わたしの一生を決定したのだった。わたしは、今もなお苦しく思わずには
そのときのことを思い出せない。もちろんわたしには、はなはだ不完全にしかアリサの悲嘆の
原因がのみこめていなかった。だがわたしには、そうした悲嘆が、この波打っている
いじらしい魂にとって、またすすり泣きにふるえているこのかよわい肉体にとって、
いかに強すぎるものであるかがひしひし感じられたのだった」

たとえば、あなたの一生を決定した出来事には、どんなものがあっただろうか?
わたしの一生を決定した出来事には、どんなことがあっただろうか?
あるいは、ただひたすらに流されて、こんなところにいるのかもしれない。
望んだ方向ではなく、望まぬ方向へ流されていったのかもしれない。
あるいは望んでも仕方がなかったのかもしれない。
「望まなければ失わないのに 求めずにはいられないよ どんな未来がこの先にあっても」
・・・これは「夢みたあとで」の歌詞だな・・・
一生を決定した出来事は、確実に記憶の中にある。
もしかすると、それは自分に都合の良いように変形された記憶であるかもしれない。
だが、どれが真実であるか、何が客観的な真実であるか、そんなことを記憶に求めても仕方がない。
ビデオテープとかSDカードに記録した動画は記録であって記憶ではない。
一生を決定するほどにシナプスを結合させ脳に固着した出来事というのは、
あるいは語りたくない種類のものであったとしても忘れることはない。
自分で何度も否定したところで拭い去れるようなことではない。
確かに忘れるというのはひとつの才能であるように思う。
そうすると私はその才能にはめぐまれなかったらしい。
ジェロームのように美しい瞬間によって決定された人生は祝福されるべきだろう。
私を含めた多くの人々の人生を決定してきたけっして美しくはない出来事もまた祝福されるべきだろう。
・・・アリョーシャであれば、そんなふうに考えるかもしれない。

「そしてわたしは、努力してそこからはいらなければならないという狭き門を見た」

狭き門とは、いったいなんなのだろう?
To the happy fewと同じことなのだろうか?
どうして幸福は狭くて少数のものでなければならないのだろうか?
徳を説く者に対する疑念のような軽蔑のような感情がわたしを支配する。
この感情は確かにニーチェによって惹起されるものと似ている。
ジッドはニーチェの礼賛者だったのかと、そんなことが今頃わかったのだった。
なんて私は無知なのだろう。

「ジュリエットは、とても幸福らしく思われます。はじめ、ピアノと読書をやめているのを見て
ちょっと悲しくなりました。でも、それはエドゥワールさんが音楽を好きでなく、
読書にも興味をもっておいででないからのことなのでいた。そして、夫のついていけないような
楽しみを求めないジュリエットの態度は、おそらく賢いものと言えるでしょう。
反対に、ジュリエットのほうでは夫の仕事に興味をもち、夫はジュリエットに何から何まで
説明してやっているのでした」

まあ別に音楽と読書がなくても生きていけるし幸福にもなれる。
あるいは音楽や読書がない方が幸福に近いのだろう。
21世紀の読書子は思索が幸福に通じるなんて考えてはいない。
地上のものであれ天上のものであれ幸福を目的にすることの愚かさを感じている。
ジュリエットは地上の幸福を得たがアリサは求めても得られぬ天上の幸福に滅ぼされる。
いったい著者はニーチェの敵なのか味方なのか?
文学的には滅ぼされる者の方が美しい。
ここにはそういう矛盾がある。
21世紀のエンタメは消費者への快感と感動の提供を惜しまない。
なにかしら集中力が必要なものとか考えなくてはついていけないことは排除される。
高尚なものなど求めてはいないがブタの餌の如きものに「いいね!」を期待されるのは困る。
そうすると高尚でなくとも、やはり少数であるしかないのか・・・

「あなたのおっしゃることがわかりませんわ。これはみんなつつましい人たちで、
一所懸命にその思うところを言って、わたしと率直に話をしてくれるんですの。
わたしには、はじめからこうした人たちがけっして美しい言葉のわなに身をまかせたり
しないだろうこと、わたしはわたしで、こうした人たちのものを読みながら、
うわついた賞賛などしていい気持になったりはしないだろうことがわかっていますの」

「軽蔑してもらいたいと思うような卑俗な信仰に関するくだらない小冊子が
並べられている」のを見て問い詰めるジェロームに対してアリサは答える。
ジェロームの愛(いや、そんなものは幻に違いないだろうが)に応えようとして
天上の幸福を求めたアリサは高尚なものに疲れてしまったのかもしれない。
「高尚なものや至高なものに、このオレの呪いあれ!」なんて言ってみたくなる。
美しさを誰かと共有しようとすることに無理があるのかもしれない。
美しいものはただ美しいと思えばよいだけであって「いいね!」を期待してはならない。
「『いいね!』に、このオレの呪いあれ!」

「だって、このわたしにどうしてあげられるかしら」と、すぐに彼女が言った。
「あなたは、いま、影に恋をしておいでなのよ」
「影にではないんだ、アリサ」
「心に描いておいでの姿に」

結局のところ、わたしたちは影に恋することしかできないのではないかと思う。
誰も、そのひとのあるがままを知ることは出来ない。
他者に「心」があることすら、私たちにはわからないのだという。
そもそも「心」が何であるかも私たちにはわからない。
だが、その言葉は、アリサが影になろうとしたから発せられたのではないだろうか?

「主よ、ジェロームとわたくしと二人で、たがいに助けあいながら、二人ともあなたさまのほうへ
近づいていくことができますように。人生の路にそって、ちょうど二人の巡礼のように、
一人はおりおり他の一人に向かって、《くたびれたら、わたしにおもたれになってね》と言えば、
他の一人は《君がそばにいるという実感があれば、それでぼくには十分なのだ》と答えながら。
ところがだめなのです。主よ、あなたが示したもうその路は狭いのです―――
二人ならんでは通れないほど狭いのです」

ブルックナーの6番を聴きながら、この感想を書いている。
指揮はオイゲン・ヨッフム、いちおう他の曲と区別は出来る。
7番以降の方が傑作と言われるし、4番の方が知名度が高い。
そんなことはどうでもよくて、6番は6番で好きだ、というただそれだけのこと
この気持を誰かと共有できるものだろうか?
この音の強弱を速度を重なりをどう表現したら伝えられるだろうか?
そんなもの言葉にした瞬間に嘘になるに決まっている。
一人でいる孤独の方が二人でいる孤独よりはましだ。
二人ならんでは通れないのだ。

名古屋フィル#34マーラー大地の歌

2014-03-16 08:56:05 | 音楽
今回のテーマは<土-永遠の大地、生との告別>で曲目は以下の通りだった。
ワーグナー: ジークフリート牧歌
マーラー: 大地の歌

「大地の歌」はずっと楽しみにしていた。
ガイアシリーズの中では「火の鳥」と「大地の歌」が好きだ。
私は別に「感動したい」わけでも「高尚になりたい」わけでもない。
なにかしら圧倒的なリアリティを持つものに惹かれるだけ。
そういうものに触れると時の流れは止まり、
そこに集まった人々はしばしの間、自己を忘却し、
世界の中の私と私の中の世界が一致しているような気持ちになる。

マーラーはこの曲を作る直前に長女を亡くし、
自身は心臓疾患の診断を受けていたのだという。
そのような事情があるため厭世的な曲であると捉えればそうだろうけど
音楽を前向きとか後ろ向きとか言って評価しても仕方がないと思う。
初めてこの曲を聴いてからずっと、それは私の中に存在していた。
そしてこれからも同じだろう。

コンサートの帰りにオアシス21を通りかかると何か音がしていた。
「美/BEAUTY」をテーマにした、がんばる女性を応援するイベント
「中京テレビ春祭り NAGOYA BEAUTY LIVE」が開催され
名古屋のイケメンユニットが出演していたそうだ。

日はまた昇る

2014-03-15 00:05:36 | ヘミングウェイ
「ぼくは耐えられないんだよ、人生が飛ぶようにすぎていくのに、こっちはただ流されてるだけだと思うと」
「いま完全燃焼して生きているやつがいるとしたら、闘牛士くらいのもんさ」

そんなふうに思ったことは何度かある。
時間が止まればいいのに・・・
何か打ち込める事があればいいのに・・・
ほんの少しでも才能があればよかったのに・・・
家畜のように生きることしか出来ない人間が精神を持っているのは不幸なことだろう。
幸福になるためには思考能力が欠如している方がよい。
少なくとも「流されているだけ」なんて考えずにすむ。
きっと生と死の狭間にいる闘牛士には時間の流れは関係ないのだろう。
だが彼が老いてもはや闘牛士でなくなった時には「失われた世代」の恨みや辛みは
自堕落な人生を過ごすしかなかった大多数の人々と同じように彼にも襲い掛かるかもしれない。
その時には「私はかつて尊敬に値する人間であった」という記憶が彼を助けるのかもしれない。
まるで何も訪れないよりは何かが訪れたことああった人生の方がマシなのだろう。
日々、完全燃焼しようとした時に邪魔をするのは、やはり知性なのだろう。
それは、からだという大きなものの中のこころという小さなもののことであると、
ツァラトゥストラは語っているのかもしれない。
活動的であること、からだと動かすこと、ダンスすること、
そういうことが大切なのだろう。

「そうしてひざまずいて、目の前の板に額を押しつけて祈っている自分のことを考えていると、
すこし恥ずかしくなってきて、こんなに情けないカトリック教徒である自分がいやになった。
といって、ここ当分――あるいはこの先ずっと――こんな自分を変えられるあてはないのだ」

自分を変えたいと思ったことも何度かある。
もっと快活な性格だったらよかったのに・・・
もっと運動神経がすぐれていればよかったのに・・・
あるいは女性であったなら、もっと美しければよかったのにと思ったかもしれない。
そういうことって変えられることではないのだろう。
努力して栄冠を勝ち取る人間がいるのだろうが、努力してやっと生き延びることができる人間の方がずっと多い。
努力をすすめたり、機会の均等を説くのは、前者の方だ。
もともと世界は残酷であり、個体の間には著しい能力差があり、とても不平等だ。
かつては弱者である労働者が連帯して不平等の是正を要求するという時代もあったが
今では自分の無能力を認めて他人と連携しようという間抜けはいない。
だが私は本当に自分を変えたいなんて思ったのだろうか?
結局のところ、ありとあらゆる無能力と共に自分を引き受けるしかないのではないか?
そうすることで未だ自分を知らない人よりはマシな人生を過ごしているのだろう。
実際のところ世界は承認の欲求を満たされない人々でいっぱいだ。
そして彼らのたいていは自分のことを知らないのだと思う。
男性は美しい女性を求め、メスは強いオスを求める。
そんなことに振り回されたくはない。

「おまえさんは祖国放棄者だ。で、もう祖国の土の感触もわからない。なのに、えばりくさっている。
まがいもののヨーロッパの価値観にすっかり毒されちまっている。酒を死ぬほどくらって、
セックスのことばかり考えている。じゃべってばかりいて、ろくに働きもしない。
あんたは祖国放棄者なんだ、わかるか?」

「祖国放棄者」とはなんだろう?
「愛国者」でない者が「祖国放棄者」なのだろうか?もう少しマシな訳があってもよさそうだ。
平和が長く続くと「愛国者」が増えてくる。
そして大半が「愛国者」になった時にまた戦争が起こる。
祈りとか不戦の誓いは捨てられる。
「単なる嫌韓感情、嫌中感情」なナショナリズムではないそうだ。
「明治以来の近代化のなかで国家観をどのように持って、どうやって尊王攘夷の思想を持って、
脱藩して国を意識してきたか」・・・そういう人が「本当の愛国者」らしい。
藩という小さな縛りを捨てて国家という大きな括りで考え行動してきた人たちが「本当の愛国者」らしい。
その象徴が坂本龍馬さんということになるのだろう。
その一番強い動機は「従属したくない」という気持ちかもしれない。
世界では常に強者が弱者を支配してきた。
だから「本当の愛国者」が目指したことは「富国強兵」という言葉に集約されるかもしれない。
彼らは他国に嫌悪感を感じる暇さえなかっただろう。
そして自ら西洋化することで強者となった。そこに民族としての誇りなどないだろう。
それを「国家観」と呼んでいる人々が「単なる嫌韓感情、嫌中感情」なナショナリズムを批判する。
英霊たちに「よく戦ってくださいました」などという。

この「英霊」という言葉はいったいなんなのだろう?
「戦死者」と呼んではいけないのか?

国家というのは実につまらないものだが民族はそうでもない。
私にだって尊敬する日本人はいる。
紫式部・宮沢賢治・武満徹・・・
それだけか?

結局のところ、民族というものもどうでもよいことかもしれない。
優れた人がいたことをちゃんと覚えていれば
人生に失望することなんてないのだ。

ツァラトゥストラ(下)光文社版

2014-03-08 00:02:27 | ニーチェ
「しかし、自分を発見した者なら、「これは、私が『よい』と言うものだ。これは私が『悪い』と
言うものだ」と言う。そう言うことによって、なかばモグラで、なかば小人のようなやつを黙らせた。
モグラ小人の口癖は、「それは、すべての人にとって『よい』。それは、すべての人にとって
『悪い』」なのだから。」

自分を発見するというのは、価値を認める自分を発見するとか、
意味を理解する自分を発見するといったことではないかと思う。
レナード・バーンスタイン指揮のマーラー交響曲全集を聴いて『よい』と思ったり、
「Rusty Rail」を聴いて『よい』と思ったり、
それがいったいどういう理由で『よい』のだかよくわからないのだが、
自分が『よい』と思ったものは『よい』という、ただそれだけのことだ。
すべての人にとって『よい』ものを『よい』と思うことには自分が含まれていない。
その基準はどれだけのセールスを上げたかということにかかっている。
そしてすべての人々は平均化しセールスの奴隷になってしまう。
いったい『私』はどこへ行ってしまったのか?

「俺だ、ツァラトゥストラだ、生の代理人だ、苦悩の代理人だ、円環の代理人だ。―――
その俺がお前を、俺の深い谷の思想を呼んでいるんだ!」

円環はニーチェにとっては永遠あるいは永遠回帰のことを意味しているのだろう。
そうすると、生・苦悩・永遠は、彼にとっては同じことになるのだろうか?
彼にとっては生を讃えるだけでは不足なのだろうか?
苦悩であるとか深さを書き記す彼は、彼の言葉でいうところのルサンチマンではないのか?
苦悩することが自慢になるわけではないのだし、深さそれ自体に意味はない。
カントやウィトゲンシュタインの超越論は深いのだろうし、
フロイトの精神分析とかフレイザーの人類学も認識を超えている意味で深いのだろう。
ニーチェが深さそのものを問題にしたところで実体がなければ意味はないように思える。
永遠回帰とか超人がそんなに深いものだろうか?
道徳や善や宗教を攻撃することがそんなに深いことなのだろうか?
ニーチェはキリスト教を攻撃し、ヘーゲルはキリスト教を説明したのだろうが、
フレイザーにとってはキリスト教は単に宗教の一流派に過ぎなかった。
戦うべき相手ですらなかった。生・苦悩・永遠・・・
いったいそれが何だと言うのだろう?

「そんなとき、おお、俺は永遠を激しく求めているはずだ。指輪のなかの指環である結婚指輪を
―――回帰の輪を激しく求めているはずだ!
これまで俺は、俺の子を産ませたいと思う女に会ったことがなかったが、俺の愛している
この女だけは特別だ。おお、永遠よ、俺はお前を愛しているのだから!
おお、永遠よ、俺はお前を愛しているのだから!」

「真理とは一時的な生命が手に入れようとする永遠のことなのだろう」と私は思う。
「永遠回帰とはすべてを肯定する素晴らしい思想」と「すべての人」が思うのであれば
そうすればよい。永遠なんてなくても肯定はできる。
それほどまでして肯定しなければならないほど人間は悲惨なのだろうか?
まあ、そうかもしれないな。時々、生きているのは自分だけじゃないのかと思うこともある。
狭い価値観に閉じこもって、でも価値観は相対的なものだから否定されるはずはないといって、
そんなことを認めて欲しいと言われても困る。私はそんなふうには考えていない。
そんなことは他人の判断を仰ぐことではなく自分でよいと思えばそれでよいことなのだから
どうして他人の目を気にする必要があるのだろう?

しかし天上の神を否定し地上を肯定したニーチェがどうして永遠なんて欲するのだろう?
有限な存在が永遠を手に入れることはできないし理解することもできない。
∞という記号を書いたからといって何が理解できるだろう?
それは近年の哲学者が説明しているように操作の反復でしかないだろう。
そのことを理解したなら永遠から逃れなければならない。
神を否定したのと同じように・・・

ロートレック

2014-03-02 00:05:46 | 
「・・・しかし、ロートレックの描いた娼婦たちにはこれはあてはまらない。
彼女らは自堕落女でもなければ、救済さるべき女でもない。
彼女らはただひたすらに『娼婦』であって、それ以上の、あるいはそれ以下の
何ものでもないし、またあろうとしない。
何事につけ論争したり、説教したり、批判したりはロートレックの柄ではなかった。
彼は道学者(モラリスト)でもなければ裁判官でもなく、
ただひたすらに『画家』であった」

そんなことが解説に書かれていた。
ここでは「夫に頼りきった主婦より、売春婦のほうがわたしは好きだ」といった
カッコいいことを言う必要はない。
ただひらすらに『娼婦』である彼女らを
ただひたすらに『画家』であるロートレックが描いたというだけの話で
それは偉大な芸術でも、高尚な芸術でもなく、ただ日記のように書き留められたものだろう。
ただそこに妥協はなく、彼が納得する形になるまで、描かれ続けたものだろう。

ロートレックが絵について語ることは、ほとんどなく、
彼は芸術を論じることが嫌いだったのだという。
今でも多くの人々が芸術を道徳と結び付けたがっている。
そして「芸術は人生を豊かにする」などと言ったりしている。
そんな安全な芸術があるとしたら、やはり解釈が間違っていると思う。
それに人生を豊かにしようなんて考え方もどうかしている。
あるいは「人生に目的がある」と信じているのもどうかしている。
あらゆる宗教よりも強力な妄想が「人生には目的があらねばならない」と考えさせる。
その妄想の名を「理性」という。
そんな落とし穴に引っ掛かってはいけないと言ったら
ニヒリストにされてしまうこともある。

もしかすると知らない間にファシストにされてしまうかもしれない。
中世のように悪魔か魔女にされてしまうかもしれない。
きっと「娼婦を描くこと」にも理由がなければならないと彼らは考えるのだろう。
描いてよいのは美しいものだけで醜いものは描いてはいけないと誰が決めたのか?
娼婦やレズビアンを描いたらダメなのか?
娼婦やレズビアンを描いたらそれは美しいものに昇格してしまうのか?
そういうインチキにはついていけない。

貴族の家に生まれたことと肉体的欠陥が重なった結果
食うための努力も必要もなく愛されるために行動することは許されず
生存本能や遺伝子とも無縁の生活を彼はすごしていたのかもしれない。
ただひたすら対象を見ることと、その個性に形を与えること、
そのことがすべてであったのかもしれない。

ツァラトゥストラ(上)光文社版

2014-03-01 00:05:00 | ニーチェ
「からだは、大きな理性だ。ひとつの意味を持った多様体だ。戦争であり、平和である。
羊の群れであり、羊飼いである。
兄弟よ、君が『精神』と呼んでいる、君の小さな理性も、君のからだの道具なのだ。
君の大きな理性の、小さな道具であり、おもちゃなのだ。
『私は』と、君は言って、その言葉を自慢に思う。『私は』より大きなものを、
君は信じようとしないが―――『私は』より大きなものが、君のからだであり、
その大きな理性なのだ。大きな理性は『私は』と言わず、『私は』を実行する。」

あとがきには、「神経学者アントニオ・R・ダマシオは、からだが反応して最適の意思決定を
する場合があることを発見した。推論と意志決定はからだに支えられている、という
ソマティック・マーカー仮説だ」といったことが書かれている。

「からだが最適の意志決定をする」というのは、あまり良くない表現だと思う。
「意志決定」そのものが「道具」なのだと解釈した方が良いと思う。
食欲は意志から生じるのではないし、消化は意志により指示されるのではない。
私たちが生きて行くための仕掛けは大部分が意志とは無関係だ。
私たちが生き延びるための仕掛けの一部として「精神」が生じた。
その「精神」は自分自身を万物の霊長であるとたり、
自らを何者にも屈服しない自由な存在であるとした。
だがちょっと考えてみたらわかることだが自由な存在は死んだりはしない。
そして死は、有限な存在であることの理由は、「からだ」にあるとされ、
「精神」は無限であり、徳の高い者には「永遠」の命が約束されるようになった。
そのような倒錯をニーチェは批判しているのだと思う。

「『意志は創造する者である』と教えたとき、俺は君たちをこの夢物語から連れ出してやった。
どんな『そうだった』も、断片であり、謎であり、ぞっとするような偶然なのだ。
―――だが、創造する意志が、『いや、俺がそう望んだのだ!』と言うと、事態が変わる。」

ここで問題にされている「意志」あるいは「力への意志」は「からだの道具」ではないのか?
「意志する者は後ろ向きに望むことができない」・・・
「意志」に課せられた制限を取り除こうとすると、すべて過去にあったどんなことも、
「俺が望んだ」ことに置き換えなければならない。
しかし時間を過去に進むのだか未来に進むのだか知らないが、
そんな制限を取り除けると考えること自体、制限があることを認めている。
3次元空間に生きる者に課せられる制限、4次元空間に生きる者に課せられる制限・・・
そんなことを考えるときりがない。

「ひとつの意味を持った多様体」とは何だろうか?
意味を与えることは思惟の属性なのだから、そんなことを言っても「意味」がない。
そこに「存在し続ける」ために多様なものが争っている。
その様相を「力への意志」と言っているのだろうか?
力でも知恵でも偶然でもなんでもいいんだけど・・・
生きるために必要なものは様々だ。

「神というものを考えることができるかい?―――できないとしても、
君たちには真理への意志というものがある。つまり、あらゆるものを、人間に考えられるものへ、
人間に見えるものへ、人間に感じられるものへと変えようとすることだ。
君たち自身の感覚でつかんだものを、最後まで考えるべきなのだ!
君たちが世界と名づけたものは、君たちによってまず創造されるべきなのだ。
君たちの理性、君たちのイメージ、君たちの意志、君たちの愛が、世界そのものとなるべきなのだ!
そしてそれが、認識する君たちにとって至福となるべきなのだ!」

そのようにして哲学や文学や絵や科学や音楽が創造されてきた。
真理への意思、好奇心、探究心・・・呼び名はどうでも良いけど、それが何なのかよくわからない。
「どうしてだって?そんなの決まってんだろ。俺がこの世に生まれたからだ!」
いやまったく、それが何なのかよくわからない。
「からだの道具」としての「精神」は「からだ」の予期せぬことを為している。
そもそも「精神」がなければ「からだ」があることだって「認識」されない。
そして「認識」する者にとっては「認識」することが「至福」となる。
ここにも何らかの倒錯があるのだろう。
「からだの道具」「力への意志」「真理への意志」
そういったものは体系的には説明されない。体系的なものはもともと否定されている。
世界は各々の特異点の集積であり体系的なものではない。
そして世界は新たに生み出され続けている。