「僕は、はじめ誇りとしていた学識を心のうちで軽蔑するようになった。最初僕の全生命であった
あの研究も、もはやまったく偶然の因襲的な関係しかないように思われて来た。
僕は、別の自分を発見した。そして、ああ、なんたる歓びだ!
僕はそんなものとは別個に存在していたのだ。
専門家としての僕は、実に愚劣に思われた。人間としての僕は、自分にわかっていたろうか?
僕はやっと生まれたばかりだ。どんな人間に生まれたかは、まだわからなかった。
それこそ、これから知らなければならぬことだった。」
「どんな人間に生まれたか」を知ることが出来るのだろうか?
「人間が何か」すら知ることも出来ないのだから
「どんな人間に生まれたか」を知ろうなんて愚問ではないか?
そして学識を軽蔑して感性に忠実であったところで
やがてはその忌まわしい思惟に戻ってきてしまうのではないだろうか?
感性なき知性には意味がないのだろうが一方で感性だけに留まることが出来るだろうか?
画家や作曲家のしていることが知性と無関係とは考えられない。
絵や音楽は新しい秩序であり、秩序をもたらすのは知性だろうから・・・
古い絵や古い音楽や古い学問や古い宗教から逃れられないのは不幸なことだろう。
そして自分の主義主張から自由になれないのも不幸なことだろう。
そんなことを考えている時点でわたしも「背徳者」のひとりなのだろうか?
社会は秩序を維持するために徳を必要とする。この秩序は先ほど書いた秩序とは異なる。
人間を従わせるための秩序と人間が生み出す秩序は性質が異なる。
「どんな人間に生まれたか」なんて知らない。
知らなくてもやることは決まっている。
「・・・というのは、まるで死者の世界から戻って来た男のように、他人の中に立ち交じると、
僕はいつも異邦人だったからだ。」
「異邦人」はしばらく読んでいないが、あれはカフカの「変身」的に「異邦人」だったような気がする。
だが広い意味では、自覚を持ったなら異邦人にならざるを得ないのではないかと思う。
そもそも「他人」などというものは理解することが出来ない。
他人の中に立ち交じれる自分なんて「他人」に過ぎないだろう。
自分が見つめ続ける自分なんていつだって「異邦人」だろう。
そしてわたしたちはそうした「異邦人」的なものに共感している時点で
すでに矛盾している。
「今日、なぜ、詩や哲学が死文字と化しているか、君は知っているかい?
それは、これらのものが、生活から遊離したからだ。ギリシャでは、生活を直接理想化した。
だから、芸術家の生活は、それ自体がすでに詩の実現であったし、
哲学者の生活は、自己の哲学の実践だった。
だからまた、詩も哲学も生活の中に混じり合い、お互いに無縁の存在ではなく、
哲学は詩を育み、詩は哲学を謡うと言った具合に、
見事な融和が行われていたのだ。」
それにしても、どうしていつも「ギリシャ」を持ち出してくるのだろう?
キリスト教で衰退した文化は、いつだって「ギリシャ」だ。
彼らにとってはいつもデュオニソスが先生でなければならないらしい。
「ギリシャ」なんてなくても生きていけるじゃないか?
わたしたちが古代ギリシャ人を見習って生きていかなければならないとしたら
生きていたって仕方がないじゃないか?
あの研究も、もはやまったく偶然の因襲的な関係しかないように思われて来た。
僕は、別の自分を発見した。そして、ああ、なんたる歓びだ!
僕はそんなものとは別個に存在していたのだ。
専門家としての僕は、実に愚劣に思われた。人間としての僕は、自分にわかっていたろうか?
僕はやっと生まれたばかりだ。どんな人間に生まれたかは、まだわからなかった。
それこそ、これから知らなければならぬことだった。」
「どんな人間に生まれたか」を知ることが出来るのだろうか?
「人間が何か」すら知ることも出来ないのだから
「どんな人間に生まれたか」を知ろうなんて愚問ではないか?
そして学識を軽蔑して感性に忠実であったところで
やがてはその忌まわしい思惟に戻ってきてしまうのではないだろうか?
感性なき知性には意味がないのだろうが一方で感性だけに留まることが出来るだろうか?
画家や作曲家のしていることが知性と無関係とは考えられない。
絵や音楽は新しい秩序であり、秩序をもたらすのは知性だろうから・・・
古い絵や古い音楽や古い学問や古い宗教から逃れられないのは不幸なことだろう。
そして自分の主義主張から自由になれないのも不幸なことだろう。
そんなことを考えている時点でわたしも「背徳者」のひとりなのだろうか?
社会は秩序を維持するために徳を必要とする。この秩序は先ほど書いた秩序とは異なる。
人間を従わせるための秩序と人間が生み出す秩序は性質が異なる。
「どんな人間に生まれたか」なんて知らない。
知らなくてもやることは決まっている。
「・・・というのは、まるで死者の世界から戻って来た男のように、他人の中に立ち交じると、
僕はいつも異邦人だったからだ。」
「異邦人」はしばらく読んでいないが、あれはカフカの「変身」的に「異邦人」だったような気がする。
だが広い意味では、自覚を持ったなら異邦人にならざるを得ないのではないかと思う。
そもそも「他人」などというものは理解することが出来ない。
他人の中に立ち交じれる自分なんて「他人」に過ぎないだろう。
自分が見つめ続ける自分なんていつだって「異邦人」だろう。
そしてわたしたちはそうした「異邦人」的なものに共感している時点で
すでに矛盾している。
「今日、なぜ、詩や哲学が死文字と化しているか、君は知っているかい?
それは、これらのものが、生活から遊離したからだ。ギリシャでは、生活を直接理想化した。
だから、芸術家の生活は、それ自体がすでに詩の実現であったし、
哲学者の生活は、自己の哲学の実践だった。
だからまた、詩も哲学も生活の中に混じり合い、お互いに無縁の存在ではなく、
哲学は詩を育み、詩は哲学を謡うと言った具合に、
見事な融和が行われていたのだ。」
それにしても、どうしていつも「ギリシャ」を持ち出してくるのだろう?
キリスト教で衰退した文化は、いつだって「ギリシャ」だ。
彼らにとってはいつもデュオニソスが先生でなければならないらしい。
「ギリシャ」なんてなくても生きていけるじゃないか?
わたしたちが古代ギリシャ人を見習って生きていかなければならないとしたら
生きていたって仕方がないじゃないか?