遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『新訳・北斎伝 世界に挑んだ絵師』  荒井 勉   信濃毎日新聞社

2022-03-05 15:46:04 | レビュー
 少し前に神山典士著『知られざる北斎』(幻冬舎)について読後印象を記した。この本の末尾の参考文献リストに本書が載っていた。併せて明治時代に出版された飯島虚心著『葛飾北斎伝』も載っていた。これは鈴木重三校注、岩波文庫で出版されている。これも参考文献リストで初めて知った。

 本書タイトル冒頭の「新訳」という語句に興味を持ったことがまずこれを読んでみる一因となった。新訳って一般的には「新たになされた翻訳[広義では、古典の現代語訳をも指す]」(新明解国語辞典・三省堂)という意味で使っている。ならば、原典となる「北斎伝」の新たな翻訳だろうか? 

 本書を通読し、「あとがき」を読んで初めて著者の意図する「新訳」の意味が理解できた。内表紙の次のページは、「北斎の一生を、語ろうと思う。すでに『葛飾北斎伝』という名著が、百年前から存在している」から始まる。上記の飯島本を指す。今までの北斎伝記は、『葛飾北斎伝』をあたかも聖書の如くに前提として語られて来たと著者は言う。『葛飾北斎伝』は北斎の姿を「草食恐竜」のごとくに描き残したと断定する。そして、<北斎は、「肉食恐竜」のごとく生きた人物である>と著者は反論する。「旧約聖書『葛飾北斎伝』は違う、と感じたのだ。新訳の北斎伝を、この本で示してみよう」の文で締めくくる。ページを捲れば、次は「目次」である。
 つまり、著者は『葛飾北斎伝』を旧約聖書的な存在として、その書の価値を認めながらも、北斎の姿の捉え方は間違いだとする。だが、「新約の北斎伝」とは言わない。「新訳の北斎伝」という言葉を使う。ここでは「新訳」の意味を説明していない。この後も説明が無いままにこの言葉が使われていく。本書を読み始めるとすぐに、何かの原典を新翻訳した書ではないとわかる。
 「あとがき」で「新解釈による北斎伝」「意訳で北斎の一生を追う本」と自著を語っている。つまり、本書は、『葛飾北斎伝』とそれに続く数々の北斎伝は資料として活用するが、北斎の姿は独自の新解釈を加え、逐語的な説明ではなく意訳的に北斎の生涯の根幹を捕らえ直していく。そういう意図で「新訳」という語が使われている。ちょっとヘンな語句の使い方という感じが拭えない。「新解釈・北斎伝」の方がわかりやすいと思うのだが・・・・・。

 本書の構成は目次に表れている。「A章 北斎の誕生から二十歳代」から始まり、各年代順に北斎の絵師としての姿を描いていく。八十歳代は、前半と後半に区分し、G・H章で論じている。最後に「I章 北斎の志を継いだ群像」を加えて、終わる。
 読者にとっては、北斎の人生を辿るのにわかりやすくて読みやすい構成になっている。さらに、八十歳代の北斎の姿にこそ、北斎の真骨頂が表れているという著者の見解が読み進めるとよくわかる。著者は八十歳代の北斎の姿にまさに肉食恐竜をイメージしているようである。

 A章の冒頭で著者はまず要約を記している。結論から本論へという流れ。
 *北斎は90歳まで生き、死の直前まで描き続けた。北斎の墓は浅草の誓教寺にある。
 *著者の視点で、まず北斎の一生を要約する。北斎=写楽の説をとる。
 *飯島虚心は伝記で、北斎の最晩年(八十歳代)を書きしるしていない。
  「偉大な業績を残した北斎は、奇人としてエピソードも多く残しているが、野心など持たず、貧しい生活の中で黙々と作品を描いていた絵師であった」という北斎像を記す。   
   ⇒肉食恐竜である北斎の姿は八十歳代の北斎の生き様に表れていると反論
    「しかし、七十歳までの北斎は、草食恐竜説のままなのである」(p11)と是認
 *最初に、著者は北斎が挑戦した分野を十年周期で区切り、要約している。
   二十歳代 勝川派で浮世絵を修行した時代 (勝川派の嫌われ者、浮いた存在)
   三十歳代 写楽の画号で役者絵を描いた時代 (蔦屋重三郎との関係の深さ)
   四十歳代 小説の挿し絵を多く描いた時代 (極大~極小、馬琴作品への挿し絵)
   五十歳代 『北斎漫画』を描き始めた時代 (海外の評価、柳亭種彦との出会い)
   六十歳代 春画の分野にも活動した時代 (シーボルトとの交流)
   七十歳代 風景版画の分野を開拓した時代 (富獄三十六景、富獄百景、百物語)
   八十歳代 肉筆の大板絵を描いた時代 (小布施に逗留。高井鴻山との出会い)
  なお、括弧内は各章の記述内容から、私が補足追記した。本論への誘いとして。

 さて、この後、北斎の生誕から年代順で新訳・北斎伝が語られていく。
 絵師北斎の生き方の根幹が資料データを踏まえて、概説されていく。データ・ベースなので具体的でわかりやすい。『葛飾北斎伝』も一資料として各所で引用されている。

 飯島虚心の北斎像に反論する著者の立場は、北斎の八十歳代の生き方、その作品群に立論の基盤を置いている。G・H章での北斎八十歳前半と後半の論述は具体的であり、資料データもきっちりと提示されている。八十歳代の北斎の生き方を知る資料として読み応えがあると思う。

 小布施に逗留した北斎はこの地で毎日獅子図を、日新除魔図として描いたという。それは北斎の心の日記帳のようなものだという。この獅子図80余枚が世界的に有名な美術商クリスティーズで競売にかけられるニュースが平成9年(1997)に流れた。この獅子図の重要性を信濃毎日新聞社と産経新聞社が記事にした。この二社の新聞報道がきっかけで、文化庁が動き、獅子図の国外流出がぎりぎりで阻止された。
 この衝撃的な事件が、著者に北斎伝を書かせる動機になったそうだ。「北斎の一生について、もっと多くの人が知っていれば、このような事は防げたはず。非力を承知の上で、新解釈による北斎伝をかいてみよう」(p211)

 特に、八十歳代の北斎の生き様を知るには有益な一冊である。神山典士著『知られざる北斎』と併読されるとおもしろいと思う。

 最後に、表紙のイラストにふれておきたい。広井ゆたか氏が描いている。飯島虚心著『葛飾北斎伝』(岩波文庫)を開くと、p23に「葛飾北斎翁大肖像」が載っている。この図がここの北斎のイラストの原図と推測した。対比的に両図を観察していくと、細部の描写は微妙に異なる。忠実な模写ではない。細部の描写に広井氏の新解釈が加えられているのだろうと思った。これもまたおもしろい。また原図には富士山は描かれていない。

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『知られざる北斎』  神山典士  幻冬舎

『孤軍 越境捜査』  笹本稜平  双葉文庫

2022-03-02 17:54:58 | レビュー
 越境捜査シリーズの第6弾。「小説推理」(2016年1月号~2017年2月号)に連載された後、2017年9月に双葉社より単行本が刊行された。2020年12月に文庫化されている。

 鷺沼友哉は警視庁捜査一課特命捜査対策室特命捜査第二係に所属する。強行犯捜査係が取りこぼした未解決事件の継続捜査を専門に扱っている。係長は三好章。鷺沼と三好の関係は円滑である。相棒の井上拓海巡査部長、そこに神奈川県警の落ちこぼれ刑事宮野と元ヤクザで今はレストラン経営者の福富が加わるイレギュラーな秘密のタスクフォースで厄介な難事件を解決してきている。

 鷺沼は井上と組み、継続捜査の一件大田区での強盗殺人事件に取り組み始めていた。その事件は6年前に起こった。川口誠二という一人暮らしの老人が殺されたのだ。
 ある日、鷺沼は自分が尾行されていることに気づく。このストーリーの冒頭は、鷺沼が自宅のマンション近くに戻った地点で、二人の尾行者にその行為を問い詰めようとする場面から始まる。これは正に鷺沼に何等かの危機が近づいている兆しである。読者には冒頭からおもしろくなりそうな気配を感じさせる。だが、鷺沼のマンションを訪れようとしていた宮野が鷺沼に気づき、何も考えずにその場に割り込んで来る。鷺沼は体良く尾行者に逃げられてしまう。鷺沼が尾行者と判断した2人組が正にそうなら、鷺沼は何等かの問題に関係していることになり、宮野に食い入るきっかけを与えたことになる。ここで、早くも読者はイレギュラーなタスクフォースが再始動する可能性を想起することになる。おもしろいストーリーの滑り出しである。
 尾行に気づき、逃げられた後、鷺沼は井上に尾行されている可能性を伝える。やはり井上にも尾行が付いていた。鷺沼は尾行者を問い詰めると、二人は神奈川県警鶴見警察署警備課の所属だった。なぜか? 公安の人間のようだが、本来の職務ではなく動いているようだった。だがそれ以上は追求できなかった。鷺沼は深い闇を感じ始める。

 鷺沼と井上による川口家周辺での聞き込み捜査で、老人は億単位の箪笥預金をしていたという噂を得た。親族は一人だけ。調べたところ、事件当時には北村恭子という名前だった。その後離婚し、川口姓に戻っていることが確認出来た。さらに現在の恭子の状況まで捜査し確認することが定石の一つとなる。川口恭子は再婚し、戸籍筆頭者は北村正孝であることがわかる。その住所から、北村政孝は現在警視庁の主席監察官であることが判明した。
 川口老人の娘が主席監察官の妻になっていることが判明した以上、人間関係としてそこにどんな背景があるのか、彼等の生活状況を捜査する必要性が生まれる。宮野は村田政孝の現住所と建物などを実見し調べてみることから、金の匂いを嗅ぎつけてこの継続捜査事件に首を突っ込んでいく。

 そんな矢先に思わぬ問題が起こる。三好、鷺沼、井上が監察係から正式な呼び出しを受けた。思わぬ横槍が突き出てきたのだ。3人はその背後に村田主席監察官がいると推測する。
 鷺沼には福富との関係が捜査の俎上に上ってくる。一方、監察係は鷺沼が現在取り組んでいる継続捜査の件は知らなかった。
 3人は監察の捜査という圧力は、現在捜査中の事件をやめろという圧力だと受けとめた。三好は、正面からのガチンコ勝負をやろうと言う。
 監察から行動の制約を受け、この事件に関して警察の他部署に対し支援を公に依頼できない状況に陥る。あくまで3人は孤立する形に陥る。だが、監察の目をくらまし、村田主席監察官が大きく関わっている可能性のある6年前の事件を一から調べ直して、真実を明らかにしていこうとする。それが鷺沼が信念を完徹する行動なのだ。
 本書のタイトルは、多分「孤立」無援を捩って「孤軍」とネーミングされたのだろう。つまり、監察の介入により、それ以降3人は孤軍無援の行動を独自に展開していくことになる。ただし、全くの無援という訳ではない。三好の人脈から密かな協力者が出てくる。また、監察係のスタンスに疑惑を感じる田口が鷺沼に密かに協力する行動をとる。どの部署にも人は居るという点をうまくストーリーに組み込んでいるといえる。

 箪笥預金の噂が当時の捜査時点で取り上げられていたのかどうか。その噂の裏付け捜査が為されていたのかどうかまで溯る必要が出てくる。この事件の記録はその点に触れていなかった。
 鷺沼自身が箪笥預金の噂の実態を捜査し事実を確実に把握することが、この継続捜査の必須事項になっていく。鷺沼・井上は箪笥預金の事実捜査を開始する。その結果、8億円の箪笥預金があったはずだという事実が証拠立てられる。このプロセスが実務的な観点から興味深い。さらに、元々の事件が中途半端な形で終了されていた事実が当時の事件担当者に経緯を聞き込んだことから見えて来る。
 8億円の箪笥預金はどこに消えたのか。一人娘の恭子と現在主席監察官である北村政孝は6年前の強盗殺人事件に関係していたのか・・・・・捜査は思わぬ方向に向かっていく。

 このストーリーの読ませどころとなり、かつおもしろい観点が幾つもある。
1.箪笥預金の実態を解明するための地道な捜査プロセスの描写。足で稼ぐ代わりに、電話で稼ぐという地道な消し込み作業がどのような形で事実解明をもたらすか。資金移動にはどこかに記録(痕跡)が残るという事実、現実がある。そこから矛盾点を発見していく地道な捜査が描き込まれる。
2.人の存在は、記録の存在である。戸籍、住民票、各種免許証等、いつ、どこに居たかを簡単にはゼロクリアできない。何等かの痕跡が事実データとして残る。
3.組織人は常に異動歴を残す。それは人間関係の繋がりを意味している。それを辿れば人間関係の模式図が浮かび上がる。警察組織内の人事データが入手出来れば様々な分析の基礎的相関データが得られることになる。どのようにそのデータを得るかが、腕の見せ所ということになる。そこにも人間関係が関わっている。
 いつものことながら、人事情報がどれだけ重要かがここでも大きく反映している。
4.「温故知新」という言葉がある。継続捜査事案となった元の事件がどういう内容でどういう形で未解決の状態で終結し、継続事案となったのか。記録に残された事実内容の精査分析とともに、捜査担当者の捜査実感や記録には残されなかった思いや疑問、いわば本音を知ることがいかに重要か。このストーリーではその側面が、捜査の結論を導く上で重要な周辺情報となっていく。
5.警察組織内での孤軍無援は、逆に言えば警察組織に囚われた内部発想である。密かに事件を捜査し、警察組織の膿だしを断じてやるなら、発想の転換をするという手がある。
 鷺沼は発想の転換をする。普段から仲の良くない国税庁、マルサと独自の協力関係を結ぶ。お互いの狙い目は違う観点なのだから、ウィン・ウィンの関係で情報交換できないかを模索する。このストーリーでは、ここがおもしろい。おたのしみあれ。
6.もう一つ興味深いのは、未解決で継続事件となったこの案件について、イレギュラーなタスクフォースが取ろうとした作戦を相手方の作戦で潰されることから始まる。井上がITへの強みを活かした発想を提案する。最後の手段として、警察組織外の一般人にインターネットで情報提供し、ネットで関心が炎上する方向にもっていくという手段を使い、相手方を揺さぶってはどうかと言う。これがおもしろい。ある意味で、時代の変化をうまく取り入れたストーリーにしていくところが興味深い。
7.もう一つ、IT技術を利用する一手を鷺沼は思いつく。その準備を井上にさせる。これもおもしろい。この点については、これ以上はネタばれに繋がるのでふれないでおく。

 そして、最後に犯人に突きつける証拠は、鷺沼が証拠自体について発想転換した結果、生み出されたものだった。村田が落ちる決め手となる。それは何か。最後の最後でおたのしみになることだろう。勿論、村田に繋がっていた警察組織内の上級官僚たちの地位が崩壊するのは必然的な結末である。だが、それでも「トカゲの尻尾切り」という形で著者が記述しているのはシニカルである。

 このイレギュラー・タスクフォースの今回の活躍には、おもしろいオチがついている。おたのしみに。

 警察小説としては、エンターテインメント性も充分兼ね備えたフィクションに仕上がっていると思う。

 ご一読ありがとうございます。

本書から、関心事項を絞ってネット検索してみた。一覧にして追いたい。
よくある質問と回答 
戸籍全部事項証明書(戸籍謄本)にはどんなことが載っているのですか。戸籍個人事項証明書とはどう違うのですか。(FAQID-2246~2249・2289) :「広島市」
F&Q 戸籍謄本と戸籍抄本の違いは何ですか?  :「姫路市」
戸籍の付票とは  :「札幌市」
よくある質問
改製原戸籍とはどんなものでしょうか?「平成改製原戸籍」というものがあると聞いたのですが…   :「岡山市」
改製原戸籍、除籍謄本とは?  :「相続戸籍相談センター」
戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号) :「e-GOV 法令検索」
住民票・住民票記載事項証明 :「札幌市」
質問 住民票の除票とはなんですか。【除票】 :「相模原市」
住民基本台帳法(昭和四十二年法律第八十一号):「e-GOV 法令検索」
丸査 読みマルサ  :「コトバンク」
国税局の仕事 査察部 :「パブリネット 国税局・税務署」
脱税を見逃さない!国税査察官の仕事  YouTube
平成30年度 査察の概要  :「国税庁」

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この印象記を書き始めた以降に、この作家の以下の作品を順次読み継いできました。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『偽装 越境捜査』   双葉文庫
=== 笹本稜平 作品 読後印象記一覧 === Ver.1 2022.1.22 時点 20册

『鳥人計画』 東野圭吾  角川文庫

2022-03-01 17:01:09 | レビュー
 このタイトルを見た時、最初に思い浮かべたのは1977年から琵琶湖で毎夏連綿と行われている鳥人間コンテストだった。それでなんとなく鳥人間コンテストへの出場に絡んだ話なのかなと想像した。実際に読み初めて、この想像は全く外れていたことが即座にわかった。これはスキージャンプ大会に出場するジャンパーについてのストーリーだった。
 70m級ジャンプのノーマルヒルである宮の森シャンツェで行われた昭和62年(1987)3月の大会で、日星自動車所属の3人のジャンパーが揃って異常な墜落をするという場面描写から始まる。そして、この宮の森シャンツェで行われた1989年度の大会の翌日に場面が転じる。この大会で圧勝したのは和製ニッカネン、鳥人と称される楡井明だった。その楡井が一人でジャンプの練習中に死ぬ。楡井はビタミン剤のカプセルを常用していた。警察の調べでは一つずつパッキングされているカプセルの中から毒物が検出された。西警察署の佐久間刑事は他殺を想定してこの事件の捜査を始める。楡井の死に立ち合ったのは、楡井から呼び出されてシャンツェまで来た杉江夕子だった。楡井は原工業スキー部に所属し峰岸がコーチだった。峰岸も元ジャンパーである。この時、楡井たちは南一条にあるホテル円山の別館に、全日本のジャンプ・チームとして合宿していた。合宿所の関係者と合宿所にいたメンバー、コーチなども佐久間による事情聴取の対象となっていく。
 捜査が進む中、捜査本部に一通の速達郵便が届く。それが捜査本部を揺るがすことになる。「楡井明を殺したのは 原工業スキー部コーチの峰岸氏である 即刻逮捕されたし」という密告状だった。

 このストーリーのおもしろいところはその構成にある。楡井の死が毒殺と判断され、佐久間を中心に事件捜査が進展していく経緯が一つのストーリーとなっている。サブ・ストーリーとして、峰岸がジャンパーからコーチになった己の過去を回想するとともに、事件に関わる当事者として状況分析を突き詰めていくストーリーがパラレルに進展していく。
 一方、楡井の毒殺死という事件後から、もう一つのストーリーが始まる。それは氷室興産スキー部の沢村亮太が日星自動車スキー部の杉江翔の最近の成長ぶりに目を見張るものを感じていることが起点となる。杉江翔は日星自動車スキー部監督である杉江泰介の息子なのだ。沢村と同じスキー部の仲間たちも、杉江翔のスキルが今年は段違いに伸びていると感じていた。沢村は、北東大学でバイオメカニクスを研究する助教授の有吉幸広に杉江翔のジャンプも記録してほしいと依頼する。そして杉江翔のスキルアップの秘密を探ろうとする行動を起こす。それが「鳥人計画」の実態を明らかにしていく。
 冒頭の本書表紙には、「鳥人計画」のタイトルの下に「CYBIRD-SYSTEM-ELM」と記されている。これが杉江泰介が実行している鳥人計画だった。

 殺人事件と鳥人計画の2つのストーリーは全くパラレルに独立して進行しているように読者には思われる。だがそこに接点が生まれていく。それが事件を解決に導く契機になる。峰岸が犯行に及んだ動機、その心理が明らかにされていく。存在感がそのキーワードになりそうだ。
 だが、そう簡単に結末とならないところが、いつもながらのおもしろさ。殺人事件にも鳥人計画にも、さらに一捻りが加わっている。この一捻りの意外さは本書を読んで楽しんでいただきたい。ストーリーが二転三転する。そこに著者の真骨頂が現れていると言える。

 この小説、一つ重要な問題提起をしていると思う。スポーツの世界において科学的なデータ分析とその結果をどのように応用・利用することが可能なのか。その応用には制約(限度)があるべきなのか。佐久間刑事が沢村に語りかける「人間らしいスポーツというのは、実行不可能なのかな。・・・・・出来れば君には人間として勝負してもらいたいんだ。サイボーグ同士の試合なんて、見たくもない」に、その問題提起が表れているように感じた。

 本書は1994年に新潮文庫から刊行された作品に加筆訂正がなされ、平成15年(2003)8月に角川文庫化された。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して少しネット検索した事項を一覧にしておきたい。
ノーマルヒル  :「コトバンク」
ラージヒル   :「コトバンク」
フライイングヒル  :「コトバンク」
スキージャンプ  BEIJING 2022 :「国際オリンピック委員会」
マッッチ・ニッカネン :ウィキペディア
マッティ・ニッカネンのカルガリー1988金ラッシュを回顧  動画
ヤン・ボークレブ  :ウィキペディア
【五輪コラム】V字ジャンプ30年に「元祖」を思う スウェーデンのヤン・ボークレブ          :「Web東奥」
バイオメカニクス  :「コトバンク」
体を知ることからスポーツは始まる ~運動神経って何だろう?~
         :「Science Portal」
プロスポーツ選手の動きを体得! 5Gが実現する『AIパーソナルトレーニング』の未来
:「TIME & SPACE」
「スポーツ× IT 」のイマ。テクノロジー活用により 15 兆円市場創出を目指す
         :「business leaders square wisdom」
スポーツ×ITが今熱い!?市場規模から具体的な事例まで徹底解説します!
:「Gooly Media」
スポーツとITの融合はどこへ行く? その狙いと活用例を紹介 :「HALF TIME」
鳥人間コンテスト選手権大会 :ウィキペディア
鳥人間コンテスト2022 :「読売テレビ」

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ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『マスカレード・ナイト』  集英社文庫
『仮面山荘殺人事件』  講談社文庫
『白馬山荘殺人事件』  光文社文庫
『放課後』   講談社文庫
『分身』   集英社文庫
『天空の蜂』   講談社文庫

東野圭吾 作品 読後印象記一覧 1版  2021.7.16 時点  26作品