遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『沈黙法廷』 佐々木譲 新潮社

2020-01-03 23:52:17 | レビュー
 2015年春から2016年にかけて、全国の新聞数紙に連載小説として発表されたものに加筆修正されて、2016年11月に単行本となった。上掲画像は単行本の表紙である。2019年11月に新潮文庫の一冊になっている。調べてみると、2017年にWOWOWの連続ドラマWとしてドラマ化されていた。
 
 プロローグ(-という明記はないが-)には、二つの場面が描かれる。
 一つは、久里浜の東京湾フェリー・ターミナルの二階から始まる。平成25年6月1日、東京湾の対岸、千葉県金谷までの乗車券を手に、高見沢弘志が中川綾子を待つというシーンである。中川綾子は遂に姿を見せなかった。高見沢はほぼ5カ月前に、横浜・桜木町のネットカフェで、お互い客同士として知り合った。二人とも職探しでネットカフェを宿代わりに利用していたのだ。高見沢は待ちぼうけをくらった後、綾子が勤めていると言っていた横須賀の食品加工会社に電話をする。だが、そんな従業員はいないと言われて通話が切れた。
 もう一つは、警視庁赤羽警察署である。午後10時に刑事課の捜査員、伊室真治が、部下の西村敏と一緒に聞き込みから戻ってきた時、東京湾第二弁護士会の矢田部完が国選弁護人として、留置されているホームレスの男の身柄を引き取りに来たところに出くわすというシーンである。そのために必要な手続きを1日で行い、午後10時に身柄の引き取りに来た場面である。西村が「何かの事案でああいう弁護士に当たると、やりにくいでしょうね。」と感想を語ると、「伊室は、同意する、とうなずいた」という文が末文となっている。そのやりぬくいでしょうねということが、この小説の中で始まって行く。

 赤羽署管内、北区岩淵にある元金物屋をしていたという民家で殺人事件が起こる。63才でひとりぐらし、一昨年には浄水器を、最近業務用の40万円もするマッサージ・チェアを買っているという馬場幸太郎に、島田と相棒の市原が訪ねて行く。彼らはいわば悪徳リフォームの営業部隊である。表の引き戸が軽く開いたことから屋内に入る。いつもの手順で点検と称しつつ部屋に上がり込み、マッサージ・チェアで死体を発見した。自分たちに嫌疑がかからないように警察に通報し、第一発見者となる。通報を受けて、現場に向かったのが刑事課の伊室と西村である。この事件は彼らの担当となる。
 聞き込み捜査から、馬場幸太郎の日常生活が大凡明らかになっていく。親の代では金物店が開かれていた。被害者は大学卒業後、就職で家を離れ、離婚暦があり、実家に戻ってからは一人暮らし。親の遺産を継ぎ、かなりの不動産を所有していて、今は勤めてはいなかった。ごく最近、所有土地をコンビニにするという計画事案により、不動産管理委託会社から、現金300万円を受領していたことが判明。その現金はなくなっていた。離婚した妻と暮らす息子・昌樹が近年、父・幸太郎の許に訪ねてくるようになっていた。その昌樹が起業して、メイド喫茶を経営したいという計画に、父幸太郎は出資する約束をしていたという。日常、時折家事代行業・ハウスキーパーの派遣を頼み、世話になっていた。池袋の家事代行業者とは、以前にトラブルを起こしていた。一方で、時折、赤羽駅南口に所在する赤羽ベルサイユに電話してデリヘル派遣を依頼していた。ここ2年位は、3ヵ月に1度くらいの常連だという。直近の2回は、トモミと称する落合千春が出向いていたという。被害者の自宅近くまでは、赤羽ベルサイユの事務所から車でトモミを送迎していた。トモミは被害者宅の通りからは奥にある勝手口から毎回出入りするよう指示されていて、勝手口に鍵はかかっていなかったとトモミは言った。
 
 この事件は捜査本部設置が決まり、警視庁捜査一課の鳥飼達也が加わってくる。伊室は鳥飼と組み捜査に臨むことになる。西村はふたりのサポート役となり、本部詰めでデータベースやウェブサイトでの調べ物や電話連絡を担当する。
 事件の捜査が進む過程で、フリーで家事代行業を行う山本美紀という女性が事件発生の頃に、被害者宅に出入りしていた事実が浮かび上がってくる。
 西村が運転し、伊室と鳥飼が、山本美紀の自宅に赴き本人に任意同行を求めようとすると、埼玉県警大宮署の警察車両が先着していたという事態に遭遇する。大宮署刑事課の北島は伊室に警察手帳を示し、1年半ぐらい前に大宮で年寄りが殺された件で山本美紀に事情聴取するために来たのだと言う。事案が先に発生していると強調し、山本美紀を同行して行く。これで山本美紀による連続殺人の可能性という疑いが生まれてくる。そこから、鳥飼は数年前に世間を騒がせた首都圏連続不審死事件を連想し、状況証拠だけで警察が立件した事件を引き合いに出してきた。
 事件捜査の様相が一変していく。東京都と埼玉県との警察組織間において、事件解決への競合意識が生まれていく。互いの捜査に対するあらぬ推測が行き交う局面が現出する。つまり、捜査を歪めかねないノイズの要素が加わっていくことになる。鳥飼は事件の筋読みに己の強引な解釈を加えていくことになる。
 このあたりから、ストーリーの展開が読者にとっては興味深く、面白くなっていく。
その先は、あまり語らぬ方が良いだろう。状況証拠の積み上げで、結局捜査本部は山本美紀を被疑者として逮捕することに踏み切って行く。

 プロローグの冒頭で、高見沢が中川綾子に待ちぼうけを食わされたというシーンがあった。これがどういう関連をしていくのかといぶかりながら私は読み進めていた。山本美紀が被疑者として逮捕されたとのテレビ報道がなされたのを高見沢が見たことから、高見沢の回想が広がって行く。高見沢と中川綾子との一時期の関係の深まりが刻銘に思い出されていくのである。その回想がこのストーリーの底流となっていく。
 一方、逮捕された山本美紀には、矢田部完が国選弁護士を引き受けることになる。山本美紀は取り調べに対し、黙秘する行動を取る。さらにこの事件は裁判員裁判の対象となり、その裁判の場でも、検事によるある論及場面から被告が沈黙するという行動を取るに至る。「沈黙法廷」というタイトルは、山本美紀のこの行動が生み出した異常な雰囲気の発生から名付けられたと言える。

 この小説は単行本で555ページに及ぶ長編である。全体の章立ては、上記したプロローグに相当する場面描写、「第1章 捜査」、「第2章 逮捕」、「第3章 公判」となっていて、第3章の末尾に、エピローグに相当する部分が含まれている。
 しかし、内容的にはエピローグ、捜査から逮捕・取り調べまでの「前半」と弁護士による被疑者(依頼人)への接見・地裁での公判および判決とエピローグに相当する部分の「後半」という二部構成になっている。勿論、弁護士による接見の始まりは被疑者が逮捕された時点で弁護士依頼があった時点から始まり、警察による取り調べと並行過程がまずある。つまり明確には分けられない期間がある。そこは「第2章 逮捕」の最終ステージになっている。しかし、接見から裁判の準備が始まるのでここでは敢えて後半と捉えると、「前半」が272ページ、「後半」が283ページという配分で構成されている。
 弁護士の接見から始まり、公判・判決にいたる裁判闘争のプロセスに大きなウエイトが置かれた小説であることがこのページ数の配分からでもうかがえる。かなり克明に裁判プロセスを描写していくところが後半の読ませどころである。そして、公判中に被告が沈黙し黙秘するという行動に出るというハプニングまで起こる。強盗殺人で起訴されているので、無罪判決で無い限り、死刑か無期懲役の判決が出るという裁判においてである。被告のこの行動は裁判員や裁判官にネガティブな印象を与えかねない。
 
 この小説の視点はいくつかあると思う。
1.前半は馬場幸太郎が殺害され、300万円が消えた事件の捜査プロセスが具体的に描写されていく。そのプロセスで捜査一課の鳥飼による事件の筋読みとその問題事象が具体的になる。埼玉県警の事件が絡むことにより、警察組織内部に潜む問題事象も描き込まれる。捜査プロセスに潜む問題事象を抉り出す視点が一つの読みどころになる。その一方で、地道に事件に関わる事実情報、証拠がどのような捜査活動により集積されていくかのプロセスが具体的に描かれるので、大凡の捜査の実態が理解できるところが興味深い。
2. 国選弁護人がどういう手続きで選ばれ、接見という行為がどういう手続きで行われるかが理解できる。そして、接見という行為が裁判で被告となる被疑者にとり、如何に重要かということもイメージしやすい。
3. 裁判では、裁判長・検事・弁護士の間でまずどのような手続きを経て公判が始まるのかが具体的に描かれている。読者にとってはそのプロセスが理解しやすい。つまり、裁判報道で映像になるのは、公判プロセスで光が当たる氷山の一角に過ぎないことがよくわかる。
4.このストーリーを読み、冤罪がどのように起こるかというその一端を垣間見る思いがした点が印象深い。状況証拠の累積は、その解釈と判断のしかたによって過誤を生み出す恐ろしさを秘めている。この辺りが公判の読ませどころとなっていく。
5. プロローグに相当する箇所では、被害者馬場幸太郎の強盗殺人事件に対する赤羽署刑事課の伊室のスタンスと行動が少しだけ描かれる。それがこの事件の余韻となる。
 そして、中川綾子とは何者かについての一つの視点(解釈)も記されていて、事件に関するストーリー上の一応のエンディングがきまる。
 『沈黙法廷』のその後、つまり続編がいずれ生まれるかも知れないという期待を持たせる。そこがある意味でおもしろい終わり方である。

 ご一読ありがとうございます。