遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』 池澤夏樹 写真・鷲尾和彦 中央公論新社

2012-04-21 10:24:33 | レビュー
 私は、まずタイトルに惹かれて本書を手に取り、海辺に佇む親子・抱かれた子供がこちらに向かって泣き叫ぶ姿のモノクロ写真表紙、左サイドに記された副題を見て、読んでみようと思った。
 岩波書店のネット掲載の3.11エッセーシリーズで、著者の文を初めて読んだだけだ。今までに著者の作品を読んだことがなかった。

 鷲尾和彦氏の写真が16枚掲載されているので、著者の本文は実質100ページ、9章構成という薄い本である。副題にある通り、著者が「震災をめぐって考えたこと」の広がりが、様々な観点から読み手に問いかけてくる、その内容は厚く、深く、重い。

 巻末の「書き終えて」に著者はその意図をこう記す。
「ぼくは震災の全体像を描きたかった。自然の脅威から、社会の非力を経て、一人一人の被災者の悲嘆、支援に奔走する人たちの努力などの全部を書きたかった」と。そこで考えたことは、過去様々な小説などの形で著者が発刊してきたこと、つまり「考えてきたことをもう一度改めて考えた」結果なのだと。
 本書は発刊以前の「ここ五か月の間に新聞や雑誌に送ったエッセーやコラムの内容」を再編集することがベースになったようだ。だが、著者の中での思考は刻々と変化していることを踏まえ、「ジャーナリズム向けではない文章にしなければならない」という意識で書き下ろされたものだという。つまり、震災をめぐる著者の思考のエッセンスなのだ。

 本書のタイトルは第2章の題ともなっている。震災以来ずっと著者の頭の中に響いている詩の一行なのだという。ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めと別れ」であり、沼野充義訳が引用されている。その詩の最初の部分である。

 またやって来たからといって
 春を恨んだりはしない
 例年のように自分の義務を
 果たしているからといって
 春を責めたりはしない

 わかっている わたしがいくら悲しくても
 そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
 ・・・・・・・

 人間に対して無関心な自然がその営為として起こす津波や地震はくり返し起こっている。その自然の中で、人間が社会を形成して生活を営んでいる。自然を利用する形で人間が存在し、自ら意図的に自然を利用している。自然を理解するための科学を発展させ、工学という形で人間は意図的に自分たちの都合で利用してきている。著者は、悲しみは悲しみとして受け止めながら、この図式で自然と人間をまず対置し、様々な観点から何が問題だったのかを論じている。私はそのように受け止めた。
 著者は親類の救援に仙台に行く。ボランティアの活動で現地に行く。あるときは取材で現地に行く。そして、現地で様々な人々と関わり、その体験したことを核にして、考えを深めている。その結晶が本書なのだ。私たちは、著者の思索を媒介として、様々な切り口で、2011.3.11以降の問題、課題を見つめ直すことができると思う。震災の現実、事実から、著者が本書に述べた根源的な思考の内容は、震災及び原発震災を風化させないためにも、今こそ新ためて見つめ直す材料として、私たちに有益である。
 この薄い本の中に、キラリと光る問題認識、ぐさりと突き刺さる問題認識がちりばめられている。シンボルスカの詩の一節は、まさに人間の過去の営為を振り返るシンボルなのだ。

 本書を手にとって、自らの思いを重ねるトリガーになるような、かつ、私にとって印象深い章句を引用させていただこう。

*日本のメディアは遺体=死体を映さなかった。・・・・津波が市街地に押し寄せる場面は多く見たけれども、本当に人が死んでゆく場面は巧みに外されていた。カメラはさりげなく目を背けた。しかし、遺体はそこにあったのだ。 p6-7

*あの時に感じたことが本物である。風化した後の今の印象でものを考えてはならない。 ・・・・
 しかし、背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。・・・・その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景となって、将来のこの国の雰囲気を決めることにはならないか。
 死は祓えない。祓おうとすべきではない。
 更に、我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。・・・・我々はヒロシマ・ナガサキを生き延びた人たちと同じ資格を得た。
 これらすべてを忘れないこと。
 今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。      p9-10

*ぼくは自然というものについて長らく考えてきて、自然は人間に対して無関心だ、ということが自然論のセントラル・ドグマだと思うようになった。自然にはいかなる意思もない。・・・・感情の絶対零度。    p16

*魚は水を意識しない。それと同じで・・・・意識して暮らしていない。何かあった時に改めて自分たちがどんなところで生きているかを考える。  p33

*被災地の静寂は何年かの後にまた賑わいを取り戻すだろう。
(ただし、ここでも福島第一原発だけは例外。放出された放射性物質は始末しようがない。最悪の事態はまだ先の方で待っているかもしれない。)   p53

*2010年に日本の気象庁が震源を確定した地震は12万個を上回った。しかし、隣の韓国ではせいぜい年間40個程度であるという。この違いはそのままプレート境界からの距離によるものだ。我々は4枚のプレートの境界の真上に住んでいる。こんな国土を持った国は世界でも珍しい。     p57-58

*災害と復興がこの国の歴史の主軸ではなかったか。・・・・・災害が我々の国民性を作ったと思う。この国土にあって自然の力はあまりに強いから、我々はそれと対決するのではなく、流して再び築くという姿勢を身に着けた。そうでなくてはやっていけなかった。・・・・我々は諦めることの達人になった。 p59-60

*我々は社会というものもどこか自然発生的なものだと思っている節がある。社会ではなく世間であり、論理ではなく空気ないし雰囲気がことを決める。こういう社会では論理に沿った責任の追及などはやりにくい。その時の空気はそうだったのだ、で議論は終わってしまう。  p61

*ぼくは日本人のこの諦めのよさ、無常観、社会を人間の思想の産物と見なさない姿勢、をあまり好きでないと思ってきた。議論を経て意図的に社会を構築する西欧の姿勢に少し学んだ方がいいと考えてきた。
 しかし、今回の震災を前にして、忘れる能力もまた大事だと思うようになった。なぜならば、地震と津波には責任の問いようがないから。  p62

*ボランティアの基本原理は自発性である。・・・・
 現地での活動はいつだって人対人である。・・・・
 固い組織ではなく、自由度の高い、ゆるい結びつき。・・・・・SNS(ソーシアル・ネットワーキング・サービス)に似ていると思った。   p64-66

*助ける、ということの不条理を意識しなければならない。
 人と人の仲は基本は対等。同じ高さにある。そこに何かの理由で差が生じると、それを元の対等ないし平等に戻そうとする力が働く。・・・・我々はどうも彼我の立つ位置を意識しすぎる。・・・・そこにまだ社会的な感情がまつわる。・・・
 それに、与えるのではなく、補うのだ。   p75
 
*人間は仲間に手を差し伸べる存在である、というところに確信が持てればいいのだ。
 p76

*地震と津波は天災だったが原発は人災だ、という認識は定着したようだ。・・・・
 結論を先に言えば、原子力は人間の手に負えないのだ。フクシマはそれを最悪の形で証明した。 
 エネルギー源として原子力を使うのを止めなければならない。   p78

*大学で物理を勉強した後でも原子力に対するぼくの疑念は変わらなかった。科学では真理を探究するが、工学には最初から目的がある。  p81

*原発について、危険であると言う学者・研究者が当初からいたのだ。その主張には根拠があったから、だから推進派は必死になって安全をPRした。その一方で異論を唱える人々を現場から放逐した。  p83

*安全を結果ではなく前提としてしまうとシステムは硬直する。   p83

*科学とは自然界で起こる現象とそれを説明する理論の間の無限の会話である。現象を観察することで理論は真理に近づく。安全を宣言してしまってはもう現象を見ることはできない。
 更に、そこにはより根源的な問題がある。原子力は原理的に安全でないのだ。 p84

*再生可能エネルギーに反対する論はいろいろある。・・・・
 これに対する方策は二つ考えられる--
 第一は電力網をずっと広範囲のものにすること。・・・・第二は蓄電の技術。・・・ p91-92

*社会がどう変わるか、は予測ないし予想である。どう変えるか、は意思だ。・・・・あるテクノロジーを選び、その普及を政策として推進する。するとそれは実現するのだ。文明とはそういうことである。  p96

*アメリカの詩人ゲイリー・スナイダーは、「限りなく成長する経済は健康にはほど遠い。それは癌と同じことだから」と言う。
 それならば、進む方向を変えた方がいい。「昔、原発というものがあった」と笑って言える時代の方へ舵を向ける。   p97

*思想と利害が人々の姿勢をばらばらにする。   p100

*政治のフィールドには理想論と現実論という二つの極があって、この隔たりがとても大きい。    p100

*政治とは政策であり、その実現の過程である。
 よき政策を掲げてそれを実行するのがよい政府である。・・・・
 今の段階で言えば大事なのは被災地の復興を具体的に進めることであり、日本の電力事業を再編して安全で安定した供給システムを構築することだ。   p105

*天災に際してまず大事なのは、「天罰だ、反省しろ」というお説教ではなく、連帯である。  p107

*震災と津波はただただ無差別の受難でしかない。その負担をいかに広く薄く公平に分配するか、それを実行するのが生き残った者の責務である。亡くなった人たちを中心に据えて考えれば、我々がたまたま生き残った者でしかないことは明らかだ。 p108

*自分に都合のいい神を勝手に奉ってはいけない。  p109

*ぼくは大量生産・大量消費・大量廃棄の今のような資本主義とその根底にある成長神話が変わることを期待している。集中と高密度と効率追求ばかりを求めない分散型の文明への一つの促しとなることを期待している。
 人々の心の中では変化が起こっている。自分が求めているのはモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしも安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。 p112

 最後に、鷲尾氏の写真である。前半の8枚の写真は、津波が襲い、過ぎ去って行った土地、元人間の営為が集積していた現地の実態が切り取られている。後半の8枚の写真は、震災と津波の後の人々の営為が切りだされている。
 そのモノクロ写真のインパクトがなぜか強い。
 写真家の選択したシーンが想像力を喚起させるからだろうか。
 人間の悲劇に無関心な自然にはモノクロが合うからだろうか。


ご一読ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

本書で関心を喚起された語句を検索し、その波紋を広げてみた。リストにまとめる。

山浦玄嗣 :ウィキペディア
NHK教育 こころの時代~宗教・人生~ ・山浦玄嗣「ようがす 引ぎ受げだ」 (1)
:「思考の部屋」 ← 山浦氏の言を引用紹介されています。
山浦玄嗣講演会 上智大学100周年記念 :YouTube

ローレンス・ヴァン・デル・ポスト :ウィキペディア

シンボルスカ → ヴィスワヴァ・シンボルスカ:ウィキペディア
ヴィスワヴァ・シンボルスカ:「Nemo・blog」 Nemo氏
 このタイトルで、「Parting with a View」という詩が引用されています。
 それが、本書のタイトルの一行が記された詩のようです。
景色との別れ(詩)/シンボルスカ(つかだみちこ訳):「We See」 

ゲイリー・スナイダー :ウィキペディア
ゲイリー・スナイダー インタビュー:佐野元春氏

風力発電 :ウィキペディア
風力発電 :新エネルギー財団
「風力発電導入ポテンシャルと中・長期導入目標(V3.2)」2012.2.22 日本風力発電協会
一方、こんな意見のサイトもありました。「巨大風車が日本を傷つけている」

海洋温度差発電  :ウィキペディア
佐賀大学 附属海洋温度差エネルギー実験施設
海洋温度差発電 の画像検索結果

カーボン・ナノチューブ :ウィキペディア
カーボンナノチューブ :富士通研究所
カーボン・ナノチューブ の画像検索結果

地熱発電 :「LOHASマーケットINDEX」
 このサイトから、メニュー項目のクリックで、バイオ燃料、風力発電、太陽光発電、
 太陽熱利用、バイオマスのサイトにもアクセスできます。

スマートグリッド :ウィキペディア
「スマートグリッドとは」 :「環境ビジネス」
Smart Grid News HP

平成22年度 再生可能エネルギー導入ポテンシャル調査報告書

「生贄とスケープゴートの違いは何か」永井俊哉氏 :「システム論アーカイブ」
六月晦大祓祝詞 :ウィキソース
六月晦日大祓(みなづきのつごもりのおほはらへ) :YouTube

ヴォルテール :ウィキペディア
ヴォルテール :Wikiquote
カンディード :ウィキペディア
ヴォルテール『歴史哲学』:松岡正剛の千夜千冊
トーマスマン『魔の山』 :松岡正剛の千夜千冊
秋吉輝雄 :「Read & Researchmap」
アルフォンソ・リンギス :ウィキペディア


人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。