遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『幻にて候 古田織部』 黒部 享  講談社

2012-04-04 13:29:00 | レビュー
 古田織部についての小説をもう一冊みつけた。それがこれである。1990年8月発行だ。
 この作品が出ていることを当時は知らなかった。織部焼にはその当時から関心を持っていたが、それでとどまっていた。戦国武将に関する小説として、古田織部を手がける作家が数が少ないのだろうか。

 点的史実あるいは短い線的史実が資料として残されている。その点的あるいは線的史実を学者は論理的に分析し体系立てて推論することが限界である。しかし、伝記小説というジャンルになると、史実の隙間を作家の想像力を縦横に飛翔させ、論理的な構成力で面的に織りなしていくことがフィクションとしてできる。客観的な史実として残されている事項が、解釈の文脈でうまくおさまり自然に結合されていくならば、後は自由に筆を揮い、想像の翼を羽ばたかせることができる。
 読者はその織りなされた物語の世界にどれだけ引き込まれていけるか、それが読む愉しみなのだろう。

 若い頃、徳川家康についての山岡荘八と司馬遼太郎両氏の小説を読んだ。超長編、長編の違い、取りあげた人生の時期の違いはあっても、家康像のイメージが対照的なほど違う形で描かれていた。小説家の想像力がこれほど違うものかと一驚したことがある。その一方で、全くちがう家康像を愉しめた。
 先日読んだ土岐信吉著『古田織部』と本書を比較すると、両作家の視点の置き方と古田織部家内の人間関係の設定の違い、つまり両著者の構想にかなり違う点があるので、終始興味深く感じながら本書を読んだ。本書の方が土岐本よりも1年半ほど早く出版されている。ほぼ同じ時期に二人の作家が古田織部に着目していたというのも面白い。
 学者・研究者の書いた伝記を読んでいないので、あくまで歴史小説というフィクションの世界での対比という興味である。

 かなり設定の違う点がある。それによって作家の想像力の羽ばたき方の違いとしてストーリー展開されていき、読み比べるとおもしろいといえる。その違いのいくつかを列挙してみよう。最初に読んだ土岐の『古田織部』との対比としてまとめてみる。

 *土岐は永禄10年(1567)から話を始めた。織部の若い頃から話を進める。一方、黒部は利休の賜死事件(天正19年2月/1591年)の4年後である1595年頃、徳川家康に伏見の徳川家上屋敷での茶会に招かれた後の別れ際から話を始める。織部の五十代から書き始めている。
黒部は秀吉の晩年そして関ヶ原の時代における織部の処生を描いていくが、もっぱら織部と徳川家康そして秀忠との関係が表裏両面での軸になっていくように思う。その一方で、茶の湯に関する織田有楽とのめざす道の違い、茶法の相違から来る間接的な確執を絡ませていく。どちらかというと、千利休のなき後、茶湯宗匠として売り出している織部がめざしたい茶の湯専心のこころのありよう、およびそれを許さない周囲の政治的軋轢・相克との間における織部の判断と生き方という2つの点が著者のテーマにあるように思われる。

 *家族関係の設定がかなり相違する。土岐は織部の妻、おせんを織部と同じく陶器に関心を抱く艶麗な美女とした。そして織部とおせんが一緒に屋敷に窯を作り、陶器作りの世界を愉しむ姿で描く。側室の話には触れていなかったと思う。
一方、黒部は、大名中川清秀の妹、仙として、その出自に自負を抱き、武術の心得のあることを誇りとして、茶の湯専心の織部に武家の主としてさらに立身出世を期待する妻、茶の湯に関心を示さないお家大事の妻として設定している。正室の仙との間には、嫡男重広以下4人の男子1人の女子がいる。そして、木幡下屋敷にいる側室、紀乃を登場させている。紀乃は28歳という年齢よりも若く見え、濡羽色の髪、からだから匂い立つ芳香を発するなまめかしい女性である。織部が年をとってから、紀乃という側室腹の子として、未だ幼い末子九八郎を得る。つまり、正室、仙はことある毎に紀乃の存在をうとましく思い、敵愾心を織部にぶつけるという関係になる。

 *土岐は織部を武人としての能力も高く、剣術にも優れ胆力もある一方で、茶の湯を利休に学び深めて行く人物とし、利休からは己の茶の湯をめざせと言われる形で描きあげていく。
黒部は、外交の才に長け、口先働きで功を認められ大名に加えられた武士であり、茶の湯宗匠という立場とその影響力で徳川・豊臣、そして諸大名の間で一つの極の要として機能しており、その点で周囲から一目置かれている役割として描いている。

 *土岐は、織部の志向のなかに美濃焼や陶器職人の活躍の場づくりに熱心な大名、自らの陶器、茶器を創造するために自ら作陶しまた、美濃への登り窯の導入や織部の切型での指示も積極的にするという関わり方の中で描き出す。黒部は自らの作陶よりも茶器のデザインを工夫し切型と説明書を作り上げて、朝鮮の現地の窯で焼くことを依頼したり、美濃で焼かせる指示をだす織部を主軸に描く。
 黒部は、美濃への登窯の導入を、美濃国久尻の元屋敷窯の窯大将加藤景延が独自の行動として行ったものとして描く。美濃に立ち寄った肥前唐津の浪人森田善右衛門から登窯の伝授を受けた後、自ら唐津に技術習得に行き、その成果を持ち帰り美濃に十四連房登窯を築く形で描いている。
 
 *土岐は織部の行動と思念を中心に話を進める。
一方、黒部は古田家の家宰として18歳年若な木村宗喜という人物を配している。この家宰は、才槌頭で左目が健全であるが9歳のとき事故で失明し白く濁った右目を持った男である。京都東山の窯元の娘、紀乃を見出し、織部の側室として据える画策をさりげなく行える人物、常に紀乃を助け、正室の仙からは毛嫌いされ、うとまれても、紀乃を守ることに生きがいを感じている人物として描く。この家宰、宗喜が本書では重要な役割を果たし続けることになる。最後に織部を窮地に立たせるのも宗喜になる。だが、織部は逍遙としてそれを受け入れる。

 *土岐は織部の若い時代から描くという展開として信長の使い番から大名に成長していくプロセスにもかなり力点を置いて描いた。そのプロセスで、武士であることと、利休に言われた織部には織部の茶の湯がある、その道を歩めという諭しの上で、自らの茶の湯を極めていきたい願望との相克を描く。利休が茶の湯に求めたものめざす精神を、織部の発想、表現方法の中で進展させていくものとして私は受け止め、読み進めた。
 黒部は、織部が大名になった後で、千利休の賜死以後、利休の後の第一の茶匠という段階から描く。利休から開放され、利休の茶の湯を離れ、独自の茶の湯の道の確立を望み、そこに自らの生きがいと自負、矜持を抱き始めている織部の姿を追求する。
 秀吉から織部は、町人茶匠利休の草庵茶を改革し、武門の茶、貴人の茶を創設せよと命じられるのだ。それはまた、織部が利休の概念の桎梏から逃れ自らの茶を工夫するという欲望にも通じるものだ。黒部は、利休の「露地草庵茶」から「式正茶法の道」と表現している。また、織部の心底の思いを「・・・・あのころだ。師の茶法に背こうとする不適な虫が一匹、わしの中でうごめきはじめたのは」と記していく。
 そして、さらに家康の思惑に縛られず、家康との武家としての主従関係に縛られずに自らの茶の湯を武器に関係性を確立したいという望みを絡ませていくことにつながる。
 また、本書では、織部の茶の湯、茶人織部に対する当時の批判を書き込んでいる点が各所にあり、利休無き後の当時の状況が想像できて面白い。

 *土岐は織部の陶器への工夫にかなり比重を置いた描写をしている。
 黒部は茶室のつくりや座敷飾りなど茶の湯空間及び茶懐石への工夫に比重を置いた描写を行っている。

 *本書の著者、黒部は、織部と家康及び秀忠との間における、茶の湯と武士のあり方に絡む心理的葛藤を一つのテーマに据えているように思う。それの別バージョンが、織田有楽との心理的、政治的葛藤になる。また、その二つが豊臣・徳川の政権争いの中で微妙に関係し交錯していくのだ。

 こんな相違点が、両著者の織部像のイメージ作りに広がりと奥行きを与えている。
 古田織部という人物に迫っていくうえで、違う視点の歴史小説作品の解釈やイメージを重ねて行くことは、史実に基づく織部の実像理解に有益であると思う。

 この作品は、秀吉による朝鮮の役からその後の豊臣家の滅亡への過程、そして大阪夏の陣の最中における織部の切腹までを描く。そのプロセスでの織部の武士としての処生と茶人としての生き方の具象化である。
 私には、長谷川等伯や阿国の中に新しい時代の到来を織部が感じ取り、その斬新な美を茶の湯の世界に導入し確立していこうとする側面を描き込んでいく展開が興味深いものだった。

 本書で印象深い章句をいくつか抜き書きしておきたい。

*太閤殿下と利休居士とのことは、これは要するに、ご性分の相違ではありますまいか。人にはそれぞれ特質と合性がありましょう。合性も時とともに変化するもの。人は二十年ごとに志のかわるもの、とノ貫(へちかん)どのも申されておりますゆえ。 p17

*利休居士はつねづね、数寄とは人とちがってするが肝要なり、と申されたではないか。茶の道は時の移るにつれてあらたまるもの。また、美は平易をきらうものじゃ。いつまでも人まねから脱却できぬのは愚の骨頂というものよ。世の中は刻々と変化しておる。利休師とてごじぶんの茶を創設なされたときは、時代の流行に逆行する改革をなしとげられたではないか。  p32

*使いにくい土を使いながら土の個性に逆らわず、うまく生かしている。才能でねじ伏せたというところがない。土の要求するがままに作っていたらこうなった、といいたげな出来はえだった。   p35

*土にかぎらず、万物にはそのものだけの性が自然にそなわっていて、放っておけばごく自然の衝動として、いちばん好きな形をとろうとするだろう。  p59

*破形、異形の中にこそ、ぬるさの侵入を拒み、強さに転ずるものがあるようにてまえにはおもわれてないませぬ。強さ激しさの欠けたるものには美はやどらないのではあいますまいか。美もまた闘いのうちにあるもの。  p75

*数寄とは、ひたすら心を寄せること、ただそれのみと心得ております。自然に随順して無一物の境涯に遊ぶ心を深めれば、おのずと高く悟るものがあるはず。高く悟って俗に帰る-この綜合統一こそ数寄と申すものではありますまいか。
 完全と不完全をわけてかんがえるのは、いかがなものでしょうか。双方を超越したところの無造作の美、つまり、小に拘泥する精神を拒否した境に、まことの雅味があるもの。美も雅味も、ねらって出るものとはおもえませぬ。ねらえばたちまち不自由でわざとらしいものになりましょう。 (利休の会話発言としての記述) p75-76


 最後に、本書と土岐本が共に、織部の自刃(切腹)の原因が家康暗殺計画にあったとしている点は共通である。だが、その計画内容の推測は両者によって大きく異なる。この点も大変おもしろい解釈だと思う。どう違うかは両書を読み比べていただくとよい。
 こういう想像、推測が自由にできることが作家の醍醐味なのかもしれない。
 最終的に、織部が逍遙として最後の茶を点てた後、生涯を閉じる。
 だが、どこでどのように、という点の解釈も両者によって大きな違いがあっておもしろい。
 黒部は木幡にある織部の下屋敷を最後の幽閉場所とした。土岐は「摂津木幡の処刑場・・・・」とした。さて、自刃の場所はどこだったのだろうか。文書の記録が残っていないものなのか。やはり、この点興味がある。なにせ、京都・宇治という地域、私自身が生まれ育ち、住まいする郷土であり、そこでの終焉地が具体的にどこかの話でもあるのだから・・・・・


ご一読、ありがとうございます。

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本書に出てくる語句の多くは、土岐信吉著『古田織部』の読後印象記のネット検索項目と重なるので、そちらを併読いただくと参考になるでしょう。重複しない関連項目などをここではリストにする。


勢高肩衝 :「茶の湯の楽しみ」の「名物茶入」サイト
 名物茶入の「せ」の一項目として写真と説明が載っている
竹茶杓 銘 泪 :徳川美術館
竹茶杓 銘 ゆがみ :BIG BIRD 企画展案内

登り窯 :ウィキペディア
連房式登窯 :ウィキペディア
日本の窯の歴史 :輪廻転生 「愛知県の博物館」
美濃焼の歴史 :岐阜県陶磁資料館資料
引き出し黒について教えてください。:土岐市HP
引出黒の画像検索結果
黒織部沓形茶碗 :文化遺産オンライン

近衛信尹 :ウィキペディア
近衛信尋 :ウィキペディア
猪熊事件(いのくまじけん):ウィキペディア
落首   :ウィキペディア
狂歌・落首編 その1(元亀年間以前) :「歌に見る戦国期」
狂歌・落首編 その2(天正年間以降) :「歌に見る戦国期」
山崎闇齊学派と水戸学 :宗教社会学 橋爪大三郎氏
 「湯武放伐論のおさらい」という項目が記載されています。
御宿 政友 :ウィキペディア
甲斐庄三平 ←『佐久間軍記』を読む40 :「やすのブログ」
鳥居 成次 :ウィキペディア
内藤正重 :ウィキペディア

荼枳尼天(だきにてん) :ウィキペディア
稲荷神とダキニ天 :「やまいぬ」
 このページの下のところで、「荼枳尼天法」に言及しています。
如意輪法 → 最後に我がご本尊、如意輪観世音菩薩をば:「天禄永昌」
 真言宗「七星如意輪法」、天台宗「如意輪加星供」という秘法に言及しています。

戦国時代の終焉 第五章 :「戦国時代の実像」
十訓抄 :「古典文学ガイド」

彩雲 :ウィキペディア
彩雲の画像検索結果


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