遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『仏教と脳科学』 アルボムッレ・スマナサーラ、有田秀穂   サンガ

2013-01-25 21:48:21 | レビュー
 本書はスリランカ初期仏教長老で、日本テラワーダ仏教協会において、初期仏教の伝道と瞑想指導に従事するアルボムッレ・スマナサーラ師と、東邦大学医学部教授で、脳神経の基礎研究者である有田秀穂教授の対談集である。(以下、敬称を略す)
 仏教の活動実践、修行過程での「心の世界」の働きと働かせ方をお釈迦さまの観点から語るスマナサーラと、大脳皮質における脳神経の活動から「心の世界」を研究する有田がそれぞれの観点から話題について語っていく。対談者それぞれが相手の研究や著書を読んだ上で、様々なトピックについてお互いの考え方を述べた結果がまとめられている。「心の世界」に科学と宗教がどう切り込み、どう扱うかあるいは扱えるかについて、多岐に亘って意見交換されていて、興味深い。

 本書副題は「うつ病治療・セロトニンから呼吸法・坐禅、瞑想・解脱まで」と記す。
 本書は6章構成でまとめられている。副題のキーワードとのラフな関係を補足する。
第1章 お釈迦さまが気づいていた世界  坐禅、セロトニン神経の働き
第2章 お釈迦さまの日常生活      瞑想実践、セロトニンとメラトニン
第3章 コミュニケーションと共感脳   前頭前野腹外側部、慈悲の瞑想、歩く瞑想
第4章 現代人の問題          うつ病治療、キレるときの脳の状態
第5章 生きることへの科学の目、仏教の目 三毒(貪・瞋・痴)と三神経
第6章 瞑想と脳の機能         瞑想・解脱、セロトニンの活性化

 有田は心をつくる3つの神経(ドーパミン神経、ノルアドレナリン神経、セロトニン神経)があるという。この3つの要素を光の三原色の如く、基本的に重ね合わせることで、心の状態が説明できるという仮説をたて、この3要素のことを心の三原色と呼んでいる。そして、この3つの神経が、瞑想の実践活動でどう関わっているかを科学的検証に基づいて説明する。また、仏教でまず取りあげられる三毒(貪・瞋・痴)と3つの神経の関わりかた、未解明の分野を説明し、スマナサーラに、自らの考えを投げかけていく。
 対話を通じて有田は最もベースになることとして、「お釈迦さまの教えはサイエンスにのるのです」(p202)ということをスマナサーラと明確に共有していく。
 そして、有田は、お釈迦さまの6年間の苦行は自らの身体を使ったストレス実験ととらえた見方を提示する。お釈迦さまはストレスの神経のテストをして、徹底的に見極めた(p230)、そして、山を下りて、セロトニン神経を活性化する行を始めたのだととらえる。 一方、スマナサーラはお釈迦さまの考えは科学的であることには同意するが、現代の科学とは違う点を明確に指摘する。「仏教の定義では、すべての生命に適用できるものでないと、定義ではないのです。」(p216)というのが、一つの指摘である。科学の定義との違いがまず、重要である点を指摘している。

 仏教では人間の衝動を、貪・瞋・痴の三つに分けている。これについての両者の考え方がそれぞれの視点から説明されて、対話が進展するが、微妙に意見が噛み合わない局面が残る。このあたりが、科学者と仏教者の見方・捉え方の違いなのだろう。
       有田               スマナサーラ
貪  ドーパミン神経            好き=欲
瞋  ストレス ← ノルアドレナリン神経  嫌い、怒り
痴  セロトニン神経(?)           どうでもいい、おもしろくない =無知
 ある意味で、この意見が噛み合わない部分にこそ、仏教と脳科学の違いを考える材料があると思う。そこがこの対談集の面白みであるかもしれない。
 第5章の末尾に添えられた「科学者と仏教者の使用する方法の違い」というスマナサーラの一文が、この重なり合わない局面について、端的に語っている。こんな風に・・・・。
「誤知を正知に変えれば一度で問題は解決されると思います。それが仏教の瞑想です。肉体に、脳に何か変化が起きるかどうかなどについては、興味がないのです。科学の世界では研究対象にならない抽象的な概念といえる働きが、仏教には具体的に把握できる研究対象なのです。
 そこで問題は、体が心に依存して、心が体に依存して働いていることです。体に起こる変化は、科学的な対象になりますが、心はどの程度体に影響を与えるのか、また、心にどの程度のことができるのかは、研究対象になりません。ですから、ブツダが発見した解脱という心の成長は、脳の研究対象になれないと思います。」(p264)
 一方、有田は第6章で、自らの立場をこう述べている。「科学者は物事を<科学>という別の言葉で説明しようとしながら、同時に、科学では完全に説明しつくせないということもわかっている、というのが僕の立場です。」(p298)
 仏教では瞑想という手段により脳の働かせ方によって心の成長をめざすことに着目する。一方、現在の脳科学は脳が例えば瞑想という行動で刺激を受けたときの脳の働きを目に見える数値、形象で合理的に説明することから脳の動きを説明しようとしている段階なので、もともと観点に違いがあるのだと、私は理解した。スマナサーラは概ね、脳の働きについての科学的説明と検証結果はある範囲まで納得し、共有しているようだ。
 この辺りは、本書をお読みいただき、ご判断いただくと良いのではないだろうか。

 スマナサーラは、仏教では「おもしろくない」「そこまでやらなくてもいい」という感情的に思っただけのことを無知だととらえる。それは物事をよく知ったうえで判断したわけではなく、おのずからそうなっただけのこと。「智慧というのは、客観的に見ることで、瞬時に答えに達すること」(p238)であり、明確な理解なのだと。その場で理解し、その都度答えを出す。つまり、すぐ客観的な別のものと捉え、「では、この状況をどうしようか」と、まったく人には想像できない別な方向、つまり悩んだり、舞い上がったりしないですませる方向へもっていくことなのだと言う。そして、「脳の問題で判断能力がないならば、本能的に、目の前の出来事を受け流す」けれども、「普通の人間が、受け流せるようになるには、そうとう智慧を開発しなけくていはいけません」(p241)と言う。
 また、「おもしろくない=どうでもいい」とおもうこと、大量のデータが<無知>としてたまると、無知のエネルギーとなり、客観性がなくなってしまう故に危険である。その危険を避けるにはある特定の訓練、修行が必要なのだと説く。

 「苦・快・不快」という感じる次元について、有田は脳科学研究の結果として、<苦>はストレス。<快>を感じるのはドーパミン神経で、これは暴走してしまう。そのために行き着く先は<苦>であり<不快>である。その暴走をコントロールするのがセロトニン神経である。という知見を語る。
 一方、スマナサーラは、仏教では、<苦・不苦>というふうに<苦>を先にする。なぜならば、四六時中感じているのは<苦>であるとする。<快>はたまたまのことだから。そして、<快>の行き着く先は<苦>ではなく、<不快>にしておくのがいいという。仏教は、<苦・不苦>としてとらえ、マイナス苦が<快>だとする、と説明する。
 この辺り、仏教の観点での概念を、脳科学がどのように取りあげていくのか、いつかその研究成果を知りたいものである。

 いずれにしても、他の世界宗教と比べて、仏教の実践は科学的分析による研究でかなりのところまで、その実践における脳の働きを説明できるということが具体的にわかって、興味深くかつおもしろいと感じた。

 スマナサーラが語った中で、二つ関心を抱く点がある。一つは、エネルギーを物質のエネルギーとこころのエネルギーという2つの概念で仏教はとらえるのだという発言だ。
 もうひとつは、釈尊の教えには終着点がある。それが一切の問題(苦)を最終的に解決できる(解脱)という境地であると言う。本書の対談では深く語られるところまでは行かなかった部分である。興味を喚起されて、本書を読み終えた。

 最後に、対談者の発言から、印象的な箇所、興味深い箇所を引用させてもらう。
[有田の発言からの引用」
*音楽を聞いた状態で、ほかのことは考えずに、ただ歩くと、セトロニン神経の活性化になって、うつに効くのです。  p134
・セロトニン神経の働きが弱り、切り替えができなくなると、キレる脳の状態になる。
・脳の中のセロトニン神経は、リズムの運動で活性化する。  p201
*人間は快・不快・ストレスがあれば、そこから先、必ずいろいろなことを考えだします。うれしいことがあれば舞い上がって、どんどん思考が動いていくわけです。それをなくすことができるるのは、すごいことだと思うのです。 p249
*セロトニンが活性化されると、この<前頭前野内側部>が動くのです。ここも動くし、セロトニンも動き出すのです。 p290  [付記 前頭前野内側部 → コミュニケーションを司る脳、共感脳]

[スマナサーラの発言からの引用]
*説法とは言葉ですから、話す人の言葉ではなくて、聞く人の言葉を使わなくてはなりません。でなければ、コミュニケーションが成立しないのです。・・・ですから、われわれのやり方は、相手に語らせるのです。その人に、自分の世界の言葉で話してもらいます。・・・それから、こちらもその言葉を使って語るのです。  p93-94
*日本の先生というのは、あまり芯が強くありません。私にはそれが信じられないのです。先生というのは、もっと堂々としているものでしょう。  p118
*自分が頼りにしていた先生たちから自分が頼られている-こんなところで、人生を学んでしまうのです。  p118
*理想と現実の差が、真実をよく教えてくれるのです。 p130
*私たちの国では、自立することが大前提で、甘えることは許されません。 p120
*人間の脳の恐ろしいことは、自分が発言したものは、自分のものだということです。いったん発言したら、もう終わりです。ですから、妄想の時点ですぐに、「ただ思っただけ」ということにしておかなくてはなりません。  p125
*私がかなり一方的に、慈悲の瞑想(慈しみの瞑想)を教えているのは、「それでコミュニケーションをするように」ということなのです。生命は平等で、ことことく慈しむ。そうすると、かなり広大なスケールで世界が感じられるからです。  p126
*スキンシップは、子どもが小さいときには、精神を成長させるために必要な栄養だと思っています。子どもと触れ合wなければだめなのです。  p151
*最終的な答えは、「われわれはやはり、人のために生きているのだ」ということです。・・・探しても、自分というものはどこにもないのです。  p159
*一つひとつの自分の行為は、有意義かどうかが問題であると。有意義だったら充実感があり、やる気も起きて、うそ一つつくことなく行えるのだと。  p166
*「意義がないとわかったら、思いきってやめるか、意義を見いだすか」なのです。 p180
*人間にとっては、死の準備は欠かせないと思います。子どもの頃でも若いときでも、人は必ず死ぬものだと自覚しておけば、時間を無駄にして生きることはできなくなります。  p186
*「痛い」ではなく、「痛み」を発見しなさい、と仏教では言うのです。「痛み」というのは生命共通のものです。  p198
*「生きているとうことの明確な機能というのは認識だ」 仏教では、肉体の意識機能の停止を死と定義します。仏教が語る意識とは、考えることではなく、情報に反応が起こることです。 p206  

*物事を知らないことにするのでなくて、知ったうえで知らないことにするのです。p243
*生きる衝動が貪・瞋・痴だからです。その逆の力を発揮することができれば、ストレスが消えます。p281  [付記 逆の力 → 不貪・不瞋・不痴という逆方向のエネルギー]
*悟りというのは、違う世界になるのではなく、何かを発見することです。「ああ、なるほど。そういうことか」とだけ、わかればいいのです。  p287
*お釈迦さまが説かれる瞑想の場合は、データが十分そろうまで修行を進めます。推測や思考で判断しません。・・・瞑想実践することは仏教の特色です。データがそろったらそこに結論があります。
 お釈迦さまは瞑想が成功すると、一切の嶷はなくなるのだと説かれています。 p297
*瞑想実践する場合も科学的立場に立って行うべきです。脳は幻覚工場なので、結論を急ぐと、瞑想体験は単純な幻覚で終わってしまうのです。 p298
*末永く仲良く生きる方法があります。それは、相手に対して「愛着」を捨てることです。・・・・愛着を捨てるということは、相手を独立した人間として、尊厳を持って接するということです。相手の人権を守ることです。 p303
*仏教が推奨する40種類の瞑想法を調べると、共通点を見いだすことができます。何かを念じる場合は、その言葉は念じやすい身近な言葉であるべきです。  p309
*真理とは、ものがあるか否か、私がいるか否かではなく、すべて絶えず無常として流れている現象であることです。ですから、瞑想すれば、無常がわかるのです。  
p323-324

ご一読ありがとうございます。

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本書と直接には関係しないものも含まれる点、ご理解願いたい。

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  セロトニンの生理作用
 
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