遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『絶滅寸前季語辞典』 絶滅寸前季語保存委員会 夏井いつき・編  東京堂出版

2017-01-04 10:45:34 | レビュー
 著者の『超辛口先生の赤ペン俳句教室』(朝日出版社)を読んだときに、その奥書で本書が出版されていることを知った。まずそのタイトルに興味をいだき読んでみることにした。
 本書は、著者の本拠地である松山から発信されている俳句新聞『子規新報』(創風社出版)の連載記事をベースに出版された「読み物辞典」という位置づけである。ネット検索してみると、「創風社出版の定期刊行物」というページに、月刊俳句新聞『子規新報』のバックナンバー目次が載っていて、2017年1月3日時点でNo.60までの目次が参照できる。その目次には、「絶滅寸前季語保存委員会 No.25『硯洗』(夏井いつき)」という項目がある。この「硯洗」という季語は本書に収録されていた。
 本書の奥書を見ると、2001年8月に初版が発行されている。連載記事とこの出版時点との関連が今ひとつわからない。
 まあ、それはさておき、「まえがき」にこの『子規新報』の編集委員でもある著者が新連載を考えていてちょっとした思いつきでこの紙面活動が始まったという。「重箱の隅をつつくように歳時記をちまちま読んでいくような連載なら、何年続けても楽しいよな」と。それが、多くの人が聞いたことも見たこともないような、絶滅寸前と思える季語をまな板の上に乗せて、現代に生きる俳人の目でともかく詠んでみようというチャレンジ精神、まあ、ある意味での遊び心から始まったようだ。「ひょっとすると、古い革衣に新しい酒を注ぐような俳句が飛び出さないとも限らない」という思いが根底にあったと記している。。

 この本の面白いのは、「まえがき」にあるとおり、辞典スタイルでの読み物になっている点だろう。「辞典」がもつ客観中立的な事実の記述という枠を逸脱して、読ませるということに踏み込んでいる。なにせ、絶滅寸前の季語を、サバイバルさせるために、なんとか読ませようとする意欲と努力が例句を採り上げる説明本文の中に溢れている。そして説明文記述の文体に、いわば「いつき」節がどんどん挿入されている。それが一般読者には読み進めさせるプラス要因になっていると思う。

 たとえば、こんな表現スタイルが続々と登場するのだから、楽しい読み物である。

☆恋人のために死ぬのは美しいのだという主張を、百歩譲って認めたとしても、花摘んでて溺死しましたでは、いくら何でもカッコつかないだろうに。 p12
☆今、なんだか、とてつもなく恐ろしいことに取り組み始めたのではないかという不安に襲われているワタクシである。 p13
☆そんなのは大間違いのコンコンチキだ。季語のことをすべて勉強なんかしてたら、俳句を作り始める前に、寿命が尽きちゃってるに違いない。なにも知らなくても、俳人面してこんな辞典書いているヤツもいるんだから、さあ自信をもって、最初の一句、書いてみまょうよ。 p44
☆うわー、なんじゃこりゃ。  p45
☆ここらで一句といくか。 p49
☆そ、そんなふうに読んじゃあ、まるで明治時代の少年雑誌の人気ヒーローではないか。嗚呼、額田王・・・・を、を、を、涙。 p58
☆と興奮して、思わず悪態をついてしまった自分を、今、深く恥じた。前言は、サルの人権(?)をあまりにも軽んじたものであった。サルだって一生懸命生きている。サルにはサルの誇りがある。サルに、深く陳謝したい。 p71
☆作品としての善し悪しはともかく(失礼!ぺこり)、お気持ちだけは非常によく分かる。是非とも、我が委員会に参加していただきたい逸材である。 p81
☆したり顔のクイズを出してきたりするのじゃ。 p216
☆ならば、句またがり(略)にして、取り合わせ(略)に持っていけばよいじゃないかのおォ・・・と言ってみるのは簡単だが、やってみるのは大変じゃ。 p219

 探し出すとおもしろい。この辺でピックアップするのをやめておこう。こんな書きぶりの挿入が読ませやすくしているのは事実である。正調派で解説が書かれていれば、絶滅寸前ではなくて、真っ先に絶滅してしまうかもしれない。なんせ、絶滅寸前季語と称されるたぶんほとんどの一般読者が知らない季語を扱うのだから。

 次に、「読み物」という意味で楽しいのは、絶滅寸前季語に対しての著者の感想がストレートに述べられている点にある。季語の意味を誤解していたものについては、その事実となぜかという部分を書き込んでいる。また季語には歴史や文化・風習などの背景、時代背景がある。著者の生まれ育った故郷と生活体験からの思いを季語の背景に投影し、季語の意味、イメージを広げて行く。つまり、著者が己の人生との接点を率直に語っている。夏井いつきという人物の人生エピソード語りの側面を持つ。己の体験、感情、感性を投影して季語や例句を語るとすれば、当然そうならざるを得ない。だから、逆に著者についてのプロファイリングの素材が沢山散りばめられていることにもなる。テレビで俳句の講評をする人物に親しみが湧くという次第だ。
 たとえば、己の人生を引き合いに出す例としてこんな記述があり、楽しい。伝馬船を漕いだり、鯛を釣ることを子供のころに馴染んでいた人なんだ(p16)・・・、『枕草子』が大好きで、大学では中世のゼミを選んだ(p78)・・・ナルホド、二歳年下の「千津」という妹さんがいるのか(p125)、「料理の才能というものがなく、あるのは愛情のみで台所仕事を乗り切ってきたワタシ」(p219)と自己評価しているんだ、といった具合に・・・である。
 また、季語の意味についての著者自身の誤解例には、たとえば、こんな記述がある。「なんとまたまた、私のコンコンチキな大間違いが発覚。」(p85)、「てっきりこの『菖蒲の枕』という季語は、枕を使った巨大押し花のようなものだと思い込んでいたアッパレな私であった」(p86)と言う具合に、人間味溢れた独白である。俳句のプロも知らないことは数多いんだとわかって、親しみが湧くではないか。

 さて、絶滅寸前季語の本題に入ろう。春の冒頭から、「藍微塵」「愛林日」「青き踏む」と立て続けに、???の季語。これらは今までに読んだ俳句で使われているのを見たことがない。この言葉を聞いたこと、これらの言葉に接したことがないワタシ。
 本書は、辞典として、読み方、季節、項目分類を記し、いわゆる辞書としての簡明な[解説]が数行以内で記されている。その後に、上記の語り口スタイルを混ぜた本文説明と例句が掲載されている。前半がまさに辞書であり、後半がいわゆる読み物として楽しめる中で絶滅寸前季語の理解に軟着陸できるということになる。
 時代環境・社会の背景や、「七十二侯」「二十四節季」などというかつての時代の人々が日常生活の拠り所としたような季節の目安になった語彙などになじめることにもなる。季語を手段として、日本人の日常生活史を垣間見ることになるのは興味深い。
 判じ物のような感覚で季語に触れ、本文を読み、いろいろなことを知り、日本人の生活史の全く知らなかった側面を学び、ときには、そう言えば子供の頃にこの季語に相当することが身近にあったな・・・と記憶を呼び戻すひとときにもなった。そういう意味でも楽しめる。

 判じ物ともいえる季語をいくつか挙げてみよう。季節に関連する事項と動植物に絞って抽出し例示する。私の知識には皆無の代物である。私と同様に、これらの季語にピンとくるものがないなら、まずは本書を開いてみて欲しい。目次には季語が季節分類でズラリと一覧になっている。また、末尾には「季語索引」として季語が五十音順に配列されている。さて、如何?
[季節に関連する事項]
  晴明、養花天、安達太郎、温風、薬降る、三伏、虎が雨、芒種、色無き風、虎落笛
[動植物]
 麝香連理草、七変化、死人花、貌鳥、妹背鳥、穀象、稲負鳥、一丁潜り

 さらに、五・七・五というわずか十七文字の俳句に対し、だれが考えたのか? これが季語! と言うものまでこの「辞典」には収録されている。こんな季語たちである。
   獺魚を祭る、田鼠化して?となる、龍天に登る、蒼朮を焼く、腐草蛍となる、
   雀大海に入り蛤となる 童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日  (ウズラ 如の下に鳥と書く)
なんとまあ・・・と、ビックリである。さらりとこれらの季語を読むことすらおぼつかない・・・・嗚呼!

 と、こんな具合で、絶滅寸前季語、興味津々、というところとなる。

 一方で、絶滅寸前季語保存委員会委員長である著者は、ちゃんとした問題意識を基盤にしている点も、きっちり書き込んでいる。著者の主張のいくつかを引用しておこう。
*「本書が季語辞典の性格を持つものである以上、例句は必ず載せるべきべきであるというのが私の信念。」 p13
  ⇒ そのため、一句も例句がないと、著者が土壇場で一句ヒネりだすのである。
*「時代の手触りを・・・詠み継ぎ、読み継いでゆくことの価値をしみじみと思う」 p47
*「俳句の世界の浄化作用とでもいうか、つまらない作品は心配しなくても自然に消えていく。絶滅寸前季語保存委員会のこの試みのなかから、ほんの一句でも生き残る作品が生まれたならば、この企画の存在意義は充分にあったと言えるに違いない。」 p119
*「一度でいいから俳句の国の扉を開けてごらんよ。私たちが、豊かな季語の森に住んでいることや、深い季語の海を泳いでいることが分かるはず。」 p216
*「季語の絶滅度は。それがこの世に存在しているかどうかで決まるわけではない。さまざまな想像を呼び起こしてくれる空想的季語は、いろいろな俳人の脳裏にさまざまなドラマを現出させる。・・・得体の知れないものを得体の知れないものとして認める心が、さまざまな詩を創出するのだ。」 p253-254

 最後に、本書で著者が本文の中で言及している作句術の要点もご紹介しておきたい。絶滅寸前季語に向かって、句を作ることで季語の存続を語るのだから、活かす術として触れるのは当然のことだろう。
*「五文字分のオリジナリティ、五文字分のリアリティ」 p35-36
*五七五のリズムを整えよ。 p42
*「季語の副題とは、同じ対象物を違ったニュアンスで表現するために編み出した俳人の知恵だ。・・・・これら語感の違いは大きな武器となる。」それを使いこなす研鑽。 p46
*「あり得ない季語から、リアルな作品はいくらでも生まれる。・・・作品そのものが、どんなノンフィクションの感動を手渡してくれるか、それが文学にかかわる者の唯一の関心事なのだ。」 p73
*「季語自身にリアリティがない分、読み手の想像力が動き出しやすいような、チョーあるある感を演出できる何かを配するのがコツ。」 p100
*「有りそう」という発想と「あるある感」と呼ぶ臨場感の違いに気づくこと。p113
*季語の心情を武器として詠む。 p251

 そして、「人日」という季語-こんな季語、初めてここで遭遇!-の項で、著者は書く。「なんで季語がいるんですか」「なんで十七文字なんですか」「なんで五七五なんですか」というなぜ?に対し、「ひとまずはこんな一発解答をする。『これは、ルールなんだよ』って」(p298)と。勿論、その後に少し噛み砕いた説明が明瞭に記されている。俳句について、著者の立ち位置を明確に記している。その説明内容は、本書を開いて読んでみていただきたい。

 通読しても覚えられない。辞典なので、必要なら引くと言う形で、本書に戻ってみたいと思っている。

 ご一読ありがとうございます。

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補遺
本書からの関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
月刊俳句新聞『子規新報』⇒ 創風社出版の定期刊行物 :「創風社出版」
 
季語 :ウィキペディア
季語 :「コトバンク」
第 40 回  季語と俳句について  高尾秀四郎氏 :「俳句同人誌 あした」
とりあえず季語  矢本大雪氏  :「俳誌 小熊座」
一語詩としての季語 俳諧私論  :「神室院武蔵坊瑞泉」
季語と季感について :「俳句の視点」
これって季語?  :「とねりジュニア句会」


増殖する俳句歳時記 トップページ 清水哲男氏  
 2016年8月8日で終了したサイトですが1996.7.1~2016.8.8までの掲載データ
 俳句7,306件の検索ができます。
 本書の絶滅寸前季語がどれだけサバイバルしているか、試してみることもできて、興味深いです。それはあくまで清水氏の掲載された俳句という世界でのお試しです。例句情報としては有益かつ楽しめます。
 いくつかサンプリングで試してみたところ、次の季語の句が採録されていました。あくまで、思いつきでのわずかの数のサンプリングによるお試しで・・・・。
  練炭、湯婆、山椒魚、蝿叩、菊枕、埋火、闇汁、女正月、人日
上記に取り上げた冒頭の3季語の中では、「青き踏む」だけが複数例句採録されていました。


本書自体と直接の関係はないが、序でに・・・・。
100年俳句計画 ホームページ(有限会社マルコボ.コム)
   殿様ケンちゃんの超初心者のための俳句入門
夏井いつきの100年俳句日記

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徒然に、次の本を読み、印象記を載せています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『子規365日』 朝日新書
『超辛口先生の赤ペン俳句教室』 朝日出版社


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