遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『子規365日』 夏井いつき  朝日新書

2016-12-04 12:03:25 | レビュー
 著者は「プレバト!!」というテレビ番組で、出演者が兼題に対して詠んだ俳句を評価し、才能あり、凡人、才能なしと峻別する。作者の思いを聞いた上で講評し、添削も行う講師として、全国ネット放送で大活躍である。著者は、朝日新聞愛媛版で「子規おりおり」という日々の連載コラムを担当し、2007年1月1日から12月31日まで連載したという。そのコラム記事を1冊にまとめたのがこの新書である。

 少なくとも子規の名前は誰もが知っている。国語の教科書に確実に出てくる名前。そう正岡子規、松山生まれの俳人である。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という句が世に親炙している。この句を正岡子規と言われて思い出しても、次の句が思い浮かばない・・・・というのがほとんどの人ではないか。そういう私もその類いだった。『超辛口先生の赤ペン俳句教室』を手に取ったことがきっかけで、この本が出版(2008年8月第1刷発行)されていることを知り、読んでみることにした。

 興味は2つ。第1は、正岡子規及び彼の俳句への入門書的役割として読みやすいかと思ったこと。俳句に関心を持ち始めた頃に、子規の『俳諧大要』『仰臥漫録』を岩波文庫本で買った。しかし、本箱に冬眠状態で来てしまった。子規に一歩入ることで、これらを繙く契機になるかなということから。
 第2は、プレバトの講評者が、著者の故郷松山の大先輩である俳人・子規の句をどのような語り口で料理するのか読んでみたいと思ったことにある。

 まず最初の興味の観点に触れると、いろいろ知ることがあった。正岡子規をほんの少しだが、親しみを感じるようになれたと思う。
 知識として知った中からいくつかご紹介する。正岡子規の左側面の顔写真は有名であり、さすがに私でも知っているが、子規がわずか34年と短命だったことは恥ずかしながら意識していなかった!その短い人生において、何と約24,000もの俳句を残しているという。子規の句を全部味わった人って何人いるのだろう・・・と思ってしまう。
 そこで、必要なときに必要な項目を・・・という目的で、改めて購入していた高校生用学習参考書の『クリアカラー国語便覧』(数研出版)を見ると、例の横顔写真も掲載され1ページで解説されている。その隣ページの高浜虚子は半ページの説明。1/4ページでの説明が2人、1/8ページ単位で16人の解説である。子規さんはやはり、大御所というところか。だが、約24,000句も詠んだと言う実績には触れていない。
 ①子規は17歳で上京し、18歳で旧松山藩主の育英事業・常磐会給費生になったという(p30)。②学生時代には野球に興味を持ち、ユニホーム姿の写真も残っていて捕手だったとか。野球についての気持ちを詠んだ短歌の連作も残しているそうだ(p150)。③その子規が大学を中退し、陸羯南(くがかつなん)が社主である日本新聞社に入社。このころ陸羯南の反対も押し切って、新聞記者として短期間だが日清戦争に従軍。帰路の船上で喀血したそうである。それは明治28年。この年に子規が一時は危篤状態に陥ったことがあるという(p251)。改めて、手許の『便覧』を参照すると、子規が『俳諧大要』の連載を始めたのが、この明治28年だと記されている。さらに、『歌よみに与ふる書』が発表されたのはその後の明治31年である。もし、この明治28年に危篤状態から脱せずに子規が逝去していたら、俳句の世界はどのようになっていただろうかと、ふと思う。④病床にある子規は明治34年9月2日から書き始めた『仰臥滿録』という一書を残している(p188)。⑤明治29年には左腰の痛みは結核性脊椎カリエスであるとの診断結果を知ったという(p257)。そして『病状六尺』を発表した明治35年に死去した。
 ほかにも様々なことが記されているが、これらは子規の句に付された解説文に触れられている内容の一端である。それでは子規のどの句が取り上げられていたかを順に列挙してみよう。
  ① 寄宿舎の窓にきたなき蒲団(ふとん)哉
  ② 夏草やベースボールの人遠し
  ③ 死にかけしこともありしか年忘れ
  ④ 鶏頭(けいとう)のまだいとけなき野分かな
  ⑤ 行く年を母すこやかに我病めり

 この本は毎日のコラム記事に、その時季に相当する季語をキーにして、著者が子規の句から選び出した1句とその句から著者が読み取ったことを解説されている。取り上げた句の理解を深め、句意を味わうために子規がその句を詠んだ背景、状況が子規の人生の一局面として語られる。季語がキーになっているので、子規の人生は時系列においては分断されている。一種無作為に俳句に合わせて、子規の人生のある時点のある局面が句の理解を深める背景として説明されることになる。子規の人生を捉えようとすると、読者が頭の中で少し整理しないと時間軸がわかりづらい。そのためにということでだろう、「まえがき」の末尾の[凡例]の次のページに「正岡子規 年表」が収録されている。

 子規にとって柿は大好物だったという。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という句は、本当に子規が法隆寺の近くで好物の柿を楽しんで食しているときに鐘の音を聞いていたのだろうと、楽しくなってくる。手許の歳時記や本で「柿食へば」の句を季語「柿」の例句として挙げているかどうかをチェックしてみた。そしておもしろいことに気づいた。
 「柿食へば」の句を挙げているのは、『基本季語500選』(山本健吉・講談社学術文庫)、『合本現代俳句歳時記』(角川春樹編・角川春樹事務所)、『新改訂版俳諧歳時記 秋』(新潮社編、新潮文庫)、『吟行版季寄せ草木花 秋[下]』(朝日新聞社)であり、『俳枕 西日本』(平井照敏編、河出文庫)には法隆寺の項で例示されている。
 一方、『虚子編 季寄せ』(改訂版、三省堂)と『ホトトギス新歳時記』(稲畑汀子編、三省堂)では、「柿食へば」を挙げていない。この両書は「三千の俳句を閲し柿二つ」という句を例句に挙げる。『ホトトギス新歳時記』は前書の「在日 夜にかけて俳句函の底を叩きて」も載せている。ホトトギスの本流では例句に挙げてないところが興味深い。 では、本書はどうか? この書の中での説明文のどこかで「柿食へば」の句に言及していたと思うが、10月8日の季語「柿」のコラム記事では、「句を閲(けみ)すラムプの下や柿二つ」を句に取り上げている。上記のどちらでもない別句が取り上げられているのだから、一層楽しくなる。この日のコラム記事の本文の後半を引用しておこう。
 ”子規の「柿」好きは有名だが、胃痛で柿を留められた時の「胃痛八句」なる作品もある。「柿あまたくひけるよりの病(やまい)哉」と殊勝な詠みぶりもあれば、「側(かたわら)に柿くふ人を恨みけり」と逆恨みめいた句もあるから可笑(おか)しい。”(p203)翌日の10月9日には「熟柿」の季語で、「カブリツク熟柿ヤ髯を汚シケリ」が取り上げられている。そこに漱石談として子規の食べ方を記述しているから、おもしろい。
 手許の『国語便覧』を見ると、1ページの説明の中に、コラムの形で、「樽柿を十六個食べた男」として、子規の一面を紹介し、「柿食へば」と「三千の俳句を」の二句を併記しているのだから、これまたおもしろい。
 さらに、本著者が「句を閲す」を挙げていることから、下五の「柿二つ」から子規が一状況下で、複数の句を詠んでいることまで、資料の重ね合わせから分かってきた。子規さんもいろいろ作句を試みているんだということがわかって、おもしろい。

 こんな風に一方で、句の背景情報として、子規の生き方、人生の一局面が語られる故に、子規に親しみを感じられることになる。

 第2の関心という点では、本書を読んで興味深い、あるいはおもしろいと感じたことが結構ある。そのいくつかを列挙してみる。

1) 上記は子規の句意への理解を深めるための説明として、著者が子規についての背景情報を語っているということを述べた。しかし、子規の俳句を鑑賞するときに、子規の側に立つだけでなく、鑑賞者の側での句の受け止め方が関わってくる。そうなると、句意を読み込み味わうために、己の経験、体験を重ねていくことになる。つまり、鑑賞を深めるために、著者が己の人生経験、体験を語っている。その断片情報を集積していくと、これまた著者の人生の一端が、子規の句を介して見えてくるのだから、興味深い。
  余談だが、いまやそんなことをしなくても、名前をキーワードにネット検索するとプロフィールをかなり詳細に記載しているサイトがいくつもある。ちょっと調べてみて驚いた。有名人に加わるのも大変だなあ・・・・。プライバシイーなんてないも同然だよねという感じだ。しかし、著者自身が記述したことを拾っていき、つなげてみるのは興味深い。

2) 俳句を鑑賞するということは、どういうことなのか?
 このことを考える材料にもなる。俳句はその作者とは独立した客体として鑑賞できるのか、できないのか。作者の人生や思考などを介してそれを汲み取った上で、己の感性を重ねていくべきものなのか・・・そんなことが気になってきた。
 1月14日の「いくたびも雪の深さを尋ねけり」の句がその一例である。著者はコラム本文の末尾にこう記す。「俳句の読みは読者の翼に乗って自由に広がるからこそ、作者の真実を知った時の驚きと感動もより深くなる」(p19)と。
 10月30日の「無花果(いちじく)ニ手足生エタトゴ覧ゼヨ」の句がおもしろい。コラム本文の末尾に、著者が「いやはやとんだ深読みであった」(p217)と記しているのである。句を客体化して鑑賞すれば、著者の句意とは違う鑑賞域に突き進む場合もある。もともと句に付された前書なしに、句だけを読む事からの解釈の違いの例が8月10日の「腹中にのこる暑さや二万巻」の句についても語られている。俳人にしてそうなのだというのか。俳人だからこそなのか。おもしろい。

3) 『芭蕉俳句集』(岩波文庫)を読むと、芭蕉が一句の中の言葉を推敲して変更しているプロセスを追った句が時折出ている。それと同じ事の事例が子規の句でも取り上げられている。10月29日の「団栗もかきよせらるる落葉哉」(p216-217)がその一例である。コラム記事の解説で、動詞一つの選択で句の雰囲気が変わることを論じている。作句の勉強になる視点が例示されていて参考になる。順序が逆になったが、同じ事が1月29日の「外套を着かねつ客のかかへ走る」で論じられている。作句心得として参考になる解説である。

4) 短い人生の中で、約24,000句も作れば、当然類句も数多くあるだろうと思う。そんな例を選択された365句の中に見出して、ちょっと楽しくなった。子規さんもやはりなあ・・・。類句発想はあるんだなと。
 2月2日「納豆売新聞売と話しけり」。9月8日「虫売りと鬼灯(ほおずき)売りと話しけり」。の二句。形式は全く同じ。それに加えて、面白いのは著者が本文を書いている視点やスタンスが全く違うのだ。こういう集約本ができなければ、このコラムの内容も日々消えて行き、よほどの好事家でなきゃ、思い出して対比分析的に読む事もないだろう。

5) 通読して行くと、子規の句の解説を通して、その中に作句の視点の持ち方、基本的な及び高度なテクニックという局面での説明を子規の句で行ってくれている点である。俳句を読み鑑賞するという観点からみても、大いに役立つ解説である。
上記を除き、私が役立つと感じた句の取り上げられ日付だけ列挙してみよう。モレがあるかも知れないが、直接的に解説があるので便利な例句といえる。○月△日を○/△という風に略記する。1/18,1/22,2/10,2/12,2/21,3/2,3/30,4/29,4/30,5/19,5/21,5/27,6/6,6/18などの本文での解説が有益である。

 著者の選句眼によることなのかもしれないが、正岡子規を大御所として高みにおいて語るのではなく、人間子規という目線で語っているところが、親しみをもてる。やっぱり、子規さんも俳句の神様という雲の上の人ではなく、いろいろ悩み、苦しみ、共感し、チャレンジした人間だったんだなあ・・・。365日の日々に取り上げられたその日の一句から、やっぱりなあと、ストレートに素顔の子規さんを感じる句をいくつか抽出しておきたい。正岡子規という短命で逝った俳人をちょっと覗いてみようとおもうのではないだろうか。

  1/1  うれしさにはつ夢いふてしまひけり
  1/3  今年はと思ふことなきにしもあらず
  1/11  寒かろう痒かろう人に逢ひたからう
  8/1  ぐるりからいとしがらるる熱さかな
  8/12  風呂を出て西瓜を切れと命じたり
  8/22  書に倦(う)むや蜩(ひぐらし)鳴いて飯遅し
  12/1  来年はよき句つくらんとぞ思ふ

 最後に、正岡子規は別号に「獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)」というのを使っている。著者はこの号の意味するところを、絵解きしてくれている。ここにも素顔の子規、人間子規が現れていて、なるほどそんなところに由来するのかとおもしろく感じ、かつ納得した。
正岡子規に一歩近づけ、気易く読める新書である。俳句鑑賞、作句の基本も学べる新書になっている。

 ご一読ありがとうございます。

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正岡子規について、ネット情報を少し検索してみた。一覧にしておきたい。
長年の疑問…なんで「正岡子規」の写真は横顔ばかりなの?  :「NAVERまとめ」
正岡子規  :「コトバンク」
正岡子規  :ウィキペディア
正岡子規年表  :「AREA SOSEKI」(漱石とその時代)
松山市立子規記念博物館  ホームページ
  正岡子規の俳句検索
正岡子規 作品一覧 :「えあ草紙・青空文庫」 


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『超辛口先生の赤ペン俳句教室』 朝日出版社


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