遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『催眠 完全版』 松岡圭祐  角川文庫

2021-10-11 10:12:53 | レビュー
 『クラシックシリーズ2 千里眼 ミドリの猿 完全版』を読むと、臨床心理士嵯峨敏也が登場して来る。この嵯峨敏也が主人公になっているのが『催眠』だということを知り、完全版を読んでみることにした。
 読了後に本書末尾のT・S氏による「本作の背景と経緯」を読むと、1997年晩秋に『催眠』が出版され、これが著者の小説デビュー作でありかつミリオンセラーを達成したという。10年の時を経て、「オカルト的心理学占いや魔法じみた催眠術の類いは駆逐され、心の問題とのみされた幾多の症例も、認知心理学的見地から脳医学と結びつけた、より現実的な解釈が求められるようになった。」(p416)ということから、『催眠』の全面的改稿が行われ、この『催眠 完全版』が出版されたという。
 『千里眼』を読み始めて、本書に溯るということになったが、上記「本作の背景と経緯」には、もう一点指摘していることがある。『千里眼』に嵯峨敏也が登場する上でそのキャラクターの継続性は配慮されているが、「やはり実質は世界観の異なる作品」(p417)の流れとして位置づけられるとする。この『催眠』は現実性重視の心理ミステリーであり、「千里眼」シリーズは、荒唐無稽さを売りにしたヒロイン活劇物と識別している。
 私は本書しか読んでいないので、当初の作品と比較する情報は持ち合わせていない。本書に限定して読後印象記を記したい。「現実性重視の心理ミステリー」という説明はなるほどと思う。

 本書には、一般に「催眠術」と呼ばれる行為と臨床心理士が行う「催眠療法」との違いを峻別し、何がどう違うのかを明らかにするという側面がまずストーリーの根底にある。「催眠術」という言葉とそのパフォーマンスから我々一般人が描くイメージや「催眠」に対する誤解を正すという点が濃厚である。読者にとってそれが知的副産物になっていく。

 ストーリーは、実際はインチキなのだが催眠術師であることを売りとする実相寺則之がテレビ中継に登場し、そのパフオーマンスがNGになる場面の描写から始まる。そこには催眠術の舞台裏描写があり、パフォーマーでありたい実相寺の内心に触れていく。
 実相寺が普段仕事場としている店の前に入江由香が現れ、全身みどり色の猿にかけられた催眠を実相寺に解いてほしいと依頼する。催眠を解く真似事を実相寺が行うプロセスで、由香は突然宇宙人に変身する。予知能力があり地球人を救いたいと言い出す。由香が演技をしていると思う実相寺は、彼女をチャネラーとして売り出すというアイデアを思いつく。実相寺は社長の了解を得て、竹下通りにある<占いの城>の目玉にチャネリングの店を改装して設け、由香をチャネラーとして売り出す。それが若者たちの好奇心を惹きつけ大評判となっていく。それにメディアも殺到する状態になる。この成り行きがストーリーの「起」となる。
 
 報道を見た嵯峨敏也は一般客を装い数度この店に出かけて行く。それはチャネラーとして働く由香を観察するためである。その結果、嵯峨は由香が多重人格障害者であると判断するに至る。嵯峨は東京カウンセリング心理センターに勤務する臨床心理士で、催眠療法科の科長である。嵯峨はチャネラーとして働くことは害になるだけであり、その仕事を辞めて、治療を受けることが彼女にとり今必要なことであると判断する。
 嵯峨はその判断と信念から、まず関係者の了解を得るべく行動を始める。それは誰が関係者かも分からない状況からのスタートになる。直接の関係者が実相寺であり、彼とコンタクトを取れ、仕事を中断し治療に専念させるように協力してもらう同意を得ようとする。勿論、実相寺にとっては飯の種を取り上げられることに繋がるから、嵯峨の出現は疫病神以外の何者でもない。つまり、嵯峨と実相寺は対立関係を生むことになる。その経緯が「承」と言える。この由香の住処探し、人探しのプロセスがおもしろい。
 だが、この行動には一つ問題点があった。それは由香の意志による東京カウンセリング心理センターの相談者ではない点だった。カウンセラーは相談者の依頼を受けて忠告や示唆を行う立場であり、役割なのだ。嵯峨の上司、倉石室長がここに関与する立場になってくる。

 このストーリーには、パラレルにサブ・ストーリーが展開していく。一つは、竹下みきという小学2年生の子が母親に伴われて、東京カウンセリング心理センターでカウンセリングを受けに来ていた。医師はストレスがきっかけとなった心因性のものだと診断した。緘黙症のようであり、リラクゼーションを促すだけでは、症状はなかなか改善しない状況だった。背景にいじめ問題があるようで、その原因は体育の一輪車に関係するようなのだ。みきは一輪車に乗れないようだという。嵯峨はその内容をみきと話し合っていた小宮愛子から聞いた。小宮は自分が嵯峨が科長である心理療法科に配属されていると理解していた。一方、嵯峨からは催眠の勉強をするように言われている。このサブ・ストーリーは、小宮が竹下みきの苦しみを何とかしたいと思い、自分なりに対応していくプロセスを描いていく。
 東京カウンセリング心理センターにみきの父親が現れて、母親が始めた娘の受診をやめさせるという通知をする。そこからその後の対処が大きくゆれ動いていく。小宮はみきちゃんを何とか立ち直らせたいと賢明な努力をし始める。読者は、このサブストーリーが、メインストーリーとどう関わって行くのだろうかと思いつつも、パラレルに進行するストーリー自身がどうなることかと読み進めることになる。このパラレルなストーリーの展開がおもしろい。

 さらにもう一つ。こちらは倉石室長に関係していく。倉石のところに、東京文教会医科大学赤戸病院の脳神経外科医長、根岸知可子が就任の挨拶にきたことから始まって行く。実は、この女性はかつて倉石と結婚していた。二人が離婚した後医学の研鑽を積むために渡米していたのだった。この二人の関係が今後どうなるのか・・・・そんなストーリーが進展する。そこに、二人のことを知る剣道の師範宗方克次郎が助言者として登場する。一方、根岸千可子が依頼を受けて高見沢病院で行った脳損傷患者の緊急手術の術後、患者の回復傾向が見えるなかで、顔面神経麻痺症状の現象が現れる。手術にミスがあっったのか・・・・。助手を務めた高見沢病院の高瀬医師は執刀ミスの可能性を暗に指摘する。本来は高瀬医師が執刀するはずだったが、院長が根岸知可子に依頼したという経緯があった。根岸は手術にミスはないと確信しているのだが・・・・・。この状況に倉石は関わりを持っていくことになる。

 由香は正常だと主張する実相寺を説得して、嵯峨の手助けを認めさせようとしている矢先に、別の問題が発生する。捜査二課が入江由香を参考人として連行しようとする。横領疑惑があるという。新たな問題事象の発生。一時的には、嵯峨自身がその疑惑の関係者とみなされる羽目にもなる。ストーリーは思わぬ展開に。つまり「転」が生まれる。
 だが、その横領疑惑の捜査事実から、嵯峨は入江由香の両親の居住地を知る機会を得ることとなる

 これら3つのストーリーは、バラバラに進展しつつも、関連性を生み出す接点を持っていて、事態がメイン・ストーリーに収斂していく方向へ展開していく。どのような形で「結」のフェーズに入って行くのか。そこが読ませどころと言える。
 どんでん返しのエンディングが読者を一瞬戸惑わせることにもなる。読者は、部分的に本書を読み返したくなるに違いない。それはストーリーの巧みな描写に、読者を迷わせる工夫があることによる。

 このストーリーにおける嵯峨と倉石のスタンスは明確である。「心に悩みを持つ人々の助けとなることが、カウンセラーの務めなのだ」(p402)ということにある。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書と関連する事項をいくつかネット検索した。一覧にしておきたい。
臨床心理士について  :「日本臨床心理士会」
催眠について  :「東京メンタルケア」 
催眠療法についてのQ&A :「千葉駅前心療内科」
認知心理学  :「コトバアンク」
解離性同一性障害 :ウィキペディア 
解離性同一症(多重人格障害) :「MSDマニュアル 家庭版」
軽度認知障害  :「e-ヘルスネット」
催眠術師・漆原正貴が語る”催眠の正体” 「肝心なのは“掛かる側”に集中力や想像力があること」  :「Real Sound」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
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