遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ヴォーリズの西洋館 日本近代住宅の先駆』  山形政昭  淡交社

2021-09-29 16:10:36 | レビュー
 かなり以前に滋賀県近江八幡市でのウォーキングに参加したとき、市内にヴォーリズゆかりの地があり、ヴォーりズの建築物があるということを知った。また、京都の定期観光バスツアーで、ヴォーリズの建築例である駒井家住宅を訪れたことがあった。それ以来、ヴオーリズからは遠ざかっていた。だが、最近、友人のブログに大阪市内のヴォーリズ建築の数例の写真が掲載されたのを読み、改めて関心を抱くことになった。
 市の図書館蔵書を検索してみて見つけたのが本書である。

 プロローグは、「京都北白川の疎水縁の道に沿って、小門を開く西洋館がある。京都大学理学部の創設期に活躍した駒井卓博士の遺邸で、桟瓦ぶき切妻屋根のおとなしい構えの二階建住宅である。」という文から始まる。冒頭に訪れたことのある建物の名前が出てきて、一層興味を惹かれる滑り出しとなった。奥書を読むと、著者は建築歴史、建築計画を専攻した研究者・大学教授で、近代建築の調査研究としてヴォーリズの建築についても研究され幾冊か出版されている。本書もその一冊。2002年7月に出版された。

 本書は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの人生と活動の全容を概略でコンパクトに伝えてくれる。本書では主に、生活に密着した近代住宅分野でのヴォーリズの活動がまとめられている。「日本近代住宅の先駆」として大きな足跡を残した経緯が実例により語られる。学生時代には知らなかったのだが、母校にもヴォーリズの建築があったことを本書で知り、遅ればせながら認識を新たにした。
 
 本書は二部構成になっている。まず、第Ⅰ部では「ヴォーリズの建築遺産」の実例が抽出され、建築の経緯やゆかり、建物内部の構成、エピソードなどが事例ごとに説明されていく。「一 原風景としての住宅」「二 洋和融合の住宅」「三 再生された住宅の現在」に分類して論述される。見出し数で言えば、8例、7例、9例をそれぞれ取り上げていく。実例は関西を中心にしながら、北海道の北見、長野県の軽井沢、東京都大田区・港区、静岡市内、因島、鹿児島市内に及んでいる。巻末には、「ヴォーリズの建築作品一覧」として、「主要住宅作品」には写真を付け、1911年~1940年の期間で86例が掲載されている。さらに、「その他の主要現存作品」として、1909~1939年の期間で53例が掲載されている。お読みいただいた方は、身近にヴォーリス建築があることに気づかれるかもしれない。

 第Ⅱ部は<住宅建築の先駆者、ヴォーリズの軌跡>と題し、ヴォーリスの人生とその活動の全容を概説している。
 <はじめに>では、ヴォーリズの自叙伝をはじめ、彼の活動に関連した様々な著作物がまとめて紹介される。その後3つのセクションに分けて概説される。
 <一 ヴォーリズの来日と近江ミッション>
 巻末に、「ウィリアム・メレル・ヴォーリズの年譜」が付いている。この最初のセクションでは、ヴォーリズの生誕から来日前までを略記したあと、来日(1905年/明治38年)後のヴォーリスの活動を太平洋戦争中の1943(昭和18)年まで概説していく。
 以下、要点をご紹介しておこう。
*ヴォーリズは建築家志望だったがそれを断念し、コロラド大学では哲学士の学位を取得し卒業した。建築への関心は持ち続け、個人的に研究をつづけたという。在学中は、海外伝道学生奉仕団に属し活動した。
*卒業後、YMCAに勤務。日本へは滋賀県立商業学校英語科教師として来日。結果的に近江八幡市がヴオーリズの活動拠点になる。
*「課業以外の時間には、もし生徒が希望するならば、自由に聖書を教えてよい」(p189)という条件があった。だが、ヴォーリズの「バイブル・クラス」は奇跡的な成果をあげ、広がって行った。それが結果的に1907(明治40)年3月での教職解雇につながる。
*1910(明治43)年12月、ヴォーリスはコーネル大学建築科の卒業生のチェービンを迎えて、ヴォーリス合名会社を設立。建築設計事務所が組織づけられ活動を始める。
*ヴォーリズは自立して、1911(明治44)年に近江ミッション(近江基督教伝道団)を設立。この近江ミッションの中に、建築部(ヴォーリズ建築事務所)の活動を位置づけた。さらに、建築資材・雑貨など商品輸入販売部門を業務とする近江セールズ株式会社も設立する。昭和に入り、メンソレータムを扱うことで業容が発展する。建築部と近江セールズの収益は、近江ミッションの自立とその活動の礎になっていく。近江ミッションに近江療養院の活動が加わる。1934(昭和9)年2月、近江ミッションは近江兄弟社と改称される。
*1919(大正8)年、ヴォーリズは、一柳末松子爵の三女、満喜子と結婚する。満喜子はアメリカの大学に留学、留学を含め8年間の滞米経験があった。満喜子との結婚がヴォーリズの活動をさらに広げることにもなる。1941(昭和16)年に、帰国か帰化かの選択を迫られ、ヴォーリズは帰化する。一柳米来留(めれる)と改名した。

 <二 建築部の構成と設計活動>
 「建築部の構成」「建築部員」「本社と支所」「建築の記録」「建築作品の分布」「周辺地域での建築活動」という見出しで、ヴォーリズ建築事務所の活動が詳述されていく。 本書を読みすすめての私の印象は、「ヴォーリズの建築」という言葉は、いわば、江戸時代の俵屋宗達の宗達工房、狩野永徳を中心とした狩野派に類似するのではないか。俵屋宗達の屏風絵、狩野永徳の屏風絵というけれど、そこには工房や一派に属する補助者がいて、宗達・永徳の名のもとに仕事をしている。ヴォーリズの場合、彼自身は建築の資格を持つ建築専門家ではない。だが建築に造詣が深く、住宅建築がどういうものであるべきかの理念・考えを持ち、意匠を具現化し図面を描く力もあった。「会議のときにも、車中にあっても、わずかな紙片を見つけては鉛筆で建築のスケッチを始め、プランニングがまとまると『バンザイ!デキマシタ』と大声を発し」(p17)というヴォーリズのエピソードを著者は記している。
 組織的にはプロデューザー的な立場だったのではないだろうか。そんな印象を持った。ヴオーリズの理念・考えをヴォーリズ建築事務所が日本近代住宅の先駆として具現化してきたということなのだろう。
 
 <三 住宅建築について>
 「近江ミッション住宅」「主要作品の分布と特色」「米国コロニアル・スタイルの住宅」「スパニッシュ・スタイルの住宅」「再び『吾家の設計』と『吾家の設備』」という見出しが並ぶ。ここでは、ヴォーリズ建築事務所が建てた住宅のスタイルが時代の変化とともに変化して行く側面を概説していく。

 <あとがき>で著者はヴォーリズ建築の特色を次のようにまとめている。
「独創的にして新奇な建築を試みようとしたものではなく、歴史に培われ世間の嗜好に添う伝統的建築様式を基にして、近代的生活機能を備える改善を加える建築手法によって、施主の要望に叶う建築を提供し、建築によって広く社会の需(もと)めに応える奉仕者となることを目的としていたといえる。」(p283)と。また、
「キリスト教主義に基づく『使命』としての建築こそが氏の建築の特色」(p283)とも記す。「プロローグ」で「ただそ(=ヴォーリズ)の常識は、日常のなかに高い理想を目指したものであり」(p17)とも説明している。

 ヴォーリズその人とその作品を知るガイダンスとして役立つ書である。

 ご一読ありがとうございます。


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