遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』  松岡圭祐   講談社文庫

2022-03-30 17:57:32 | レビュー
 このタイトルを見た時、コナン・ドイルが創作した架空の名探偵シャーロック・ホームズと実在の伊藤博文を「対」にするってどういうこと? というのが最初の疑問だった。その次は、なんだかおもしろいストーリー展開になりそう・・・・・と期待を抱く。話の筋がどう転ぼうと、フィクションならでは可能な組み合わせである。好奇心をくすぐられる。
 奥書を読むと、本書は講談社文庫のために書下ろされ、2017年6月に刊行されている。

 後付けで調べて見ると、アーサー・コナン・ドイルは、1859年5月22日生まれ、1930年7月7日死去。伊藤博文は1841年10月16日生まれで、1909年10月26日死去。同時代人だった。コナン・ドイルが創作したシャーロック・ホームズは、ウィキペディアによれば、生年の明確な記述は無く、「生年月日は1854年1月6日とする説が有力である」という。『緋色の研究』でホームズがワトソン博士と初めて出会うのが1881年だそうである。

 このストーリーは、落差656フィートもある滝傍の崖の細い道で、崖の頂上に拳銃を持ったセバスチャン・モランを潜ませているジェームズ・モリアーティ教授と37歳のシャーロック・ホームズが対峙する場面から始まる。1891年5月4日である。二人がもみ合った結果、モーリアーティ教授は滝壺に転落した。モーリアーティ教授はロンドンに暗躍する悪党一味の頭領である。シャーロック・ホームズはそのモーリアーティを追い詰めたのだが、転落現場に居合わせた以上、殺人罪に問われることを免れない立場に立つ。
 ホームズの活劇場面。これが原因で、ホームズは兄のマイクロフトの勧めで、日本に伊藤博文を頼って密航することになる。つまり、このストーリーのメインの舞台は、明治初期の日本となる。

 話が日本に飛ぶにはその前提が必要。そこで、伊藤とシャーロックとの出会いの場面が語られる。長州藩主の後押しを得て、伊藤博文ら仲間5人はイギリスに密入国していた。1864(元治元)年3月、22歳の伊藤はロンドンで、当時10歳のシャーロックと彼の兄マイクロフト17歳が悪漢に追われているのを助けるという形で偶然に出会う。伊藤のなじみのレストランに二人を伴い、そこで話をしていて、伊藤はシャーロックの観察眼と分析・推理力に驚嘆する。シャーロックの片鱗が鮮やかに描き込まれて、このサブ・ストーリー自体がおもしろい。この出会いが、伊藤とシャーロックのリンキングとなる。
 次に、伊藤がシャーロックに出会うのは渡欧中の1883年3月。伊藤41歳、シャーロック29歳。伊藤がベーカー街のホームズ宅を訪ねる。だが、シャーロックに英国公使館焼き討ちの件を持ち出されて、素気ない応対をされる結末となる。意外な気がしたのは、この時点で探偵になっているシャーロックがコカインを常用している描写が挿入されていることだった。

 追われる身のシャーロックは兄の援助を得て日本に向かって密航し、辛酸の末に横浜に密入国する。ここからこのストーリーの本編が始まるといえる。
 このストーリーが痛快で、シャーロックがその本領を発揮し、伊藤を手助けする役割を担うことになる。当時の日本の実状に大きな影響を与えた事件を原因にして国際関係への対応が大きな問題となる。当時の史実を織り込みながらこのフィクションが紡ぎ出されていくところが興味深い。
 その事件は、1891年5月11日、現在の滋賀県大津市で起こった。ロシア皇太子ニコライが、警備を担当していた巡査のひとりにサーベルで斬りかかられ、襲撃されたのだ。「大津事件」と称されている。
 「大津事件」という言葉から、あなたが当時の日本の歴史的状況を容易に連想して行くことができるなら、多分かなりの日本史通だろう。
 関西に住む私は、ある史跡探訪の折に、この事件現場とされる場所に立つ石標を見る機会があった。この事件名が出て来たとき、一層このストーリーに惹きつけられて行った。

 ストーリー展開のポイントと私が思うところを押さえておこう。
1. 日本語を理解できないシャーロックが観察力と分析・推理力で的確に状況を把握して判断する様が鮮やかに描かれて行く。なぜそう判断できるかを、シャーロックが伊藤に説明するのだから、読者もまた聞き役であり、おもしろい。

2. シャーロックは密入国したのだから、法的には犯罪者扱いになるはずだ。しかし、伊藤博文を頼ったことで、伊藤は平然とシャーロックをいわば賓客扱いで保護する。伊藤は外国人を見れば敬遠する日本の議員たちを前提にして、シャーロックを外国人の顧問と位置づけ、逆に主要な場所に堂々と引き出す行動をとる。いわば、明治期のお雇い外国人的な位置づけと言えようか。つまり、伊藤が傍にいれば、シャーロックには行動の自由さがあった。状況がわからない部分は、伊藤がサポートした。
 当時の外交関係の実状と、通信手段の能力水準が幸いした。シャーロックが官憲から追われる立場にいる情報は日本にはすぐには届かない。情報の伝達遅延はプラスに作用する。1ヵ月余はシャーロックにとって安全圏となる。伊藤任せで過ごすことができる。こういう状況下での活躍となりおもしろい。

3. 「大津事件」自体は、伊藤がその経緯と謎をシャーロックに説明する形でストーリーに織り込まれていく。これは、読者にとり、明治期の日本史と国際情勢を理解するという副産物にもなる。私自身、学び直す機会になった。
 
4. 著者は「大津事件」の読み解き方として、一つの仮説を打ち出し深読みへと進展させていく。虚実皮膜の迫真力が加味され興味深い。想像の世界、フィクションのおもしろみが発揮されている。

5. 皇帝アレクサンドル三世が統治するロシア帝国の状況がイメージしやすくなる。また日露戦争に至る前の国際状況、当時のロシア帝国と日本の関係が理解できて参考になる。

6. 「大津事件」で被害者となったニコライがお忍びで日本近海に7隻の中型鑑で来航した。ロシア公使館を介して、日本政府にブラフをかけてくる。伊藤は密かな外交交渉のプロセスに関与していく立場になる。シャーロックは持ち前の観察力、分析・推理力を発揮して、伊藤をサポートすることに。このプロセスでの二人の行動がおもしろく、読ませどころとなっていく。
 実は「大津事件」には一つの裏があったという設定がおもしろい。本書を読むお楽しみに・・・・・。

7. ロシアとの外交交渉に、別の要素が加わってくる。農商務大臣の陸奥宗光が『ロシア自然科学大全』を獲得するという目標を持っていたという。当時の日本の自然科学のレベルを高めるには、この書が必須と判断されたのだ。
 勿論、この交渉のプロセスにも、伊藤とシャーロックが関与していくことになる。
 さらに、この『ロシア自然科学大全』が別の問題を引き起こすことに。シャーロックがその問題点に気づくのだから、これまたおもしろい。
 この隠されていた問題点が契機となり、意外なロシア側の動きと全貌が明らかになっていく。
 なお、『ロシア自然科学大全』はフィクションとしてストーリーに織り込まれたようである。

8. 追われる立場のシャーロックはどうなるのか。伊藤がやはり密かに一つの方策をたて、動いていた。この先は、本書でお楽しみいただきたい。

 歴史エンターテインメントとして、一気読みできるおもしろい作品になっている。
 このストーリーをシャーロッキアンはどのように受けとめるのだろうか。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
シャーロック・ホームズ  :ウィキペディア
アーサー・コナン・ドイル :ウィキペディア
伊藤博文  :ウィキペディア
大津事件  :ウィキペディア
大津事件 ~ロシア皇太子遭難をめぐって~  近代日本のこんな歴史
      :「アジア歴史資料センター」
津田三蔵  :ウィキペディア
大津事件・津田三蔵の新資料発見 :「大津市歴史博物館」
ニコライ2世 (ロシア皇帝)  :ウィキペディア
ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ :ウィキペディア
日本シャーロック・ホームズ・クラブ  ホームページ

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