遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『フィクションとしての絵画』 千野香織・西和夫  ぺりかん社

2016-03-04 23:35:19 | レビュー
 本の背表紙を見ていて、偶然に出会った本。タイトルに惹かれて手にとった。実に興味深く、絵画の楽しみ方を数歩深めてくれる本だ。論じ方の切り口が興味深くかつ面白い。それが一層楽しみながら読み進めさせることになる。
 タイトルの通り、絵画は現実を忠実に描いた物ではなくフィクションとして描きだされていることをさまざまな観点から論じている。勿論、ここで論じられている絵画は、近代・現代絵画に含まれる抽象画などのジャンルにつながるものではない。日本の絵巻物、障壁画などに描かれた人物像を含む社会文化景観、自然風景等を描く絵画のジャンルでの鑑賞に関する論点である。
 写真で撮られた映像に見慣れている私たちは、ついついこういうジャンルの絵画を目にすると、そこにはその当時の事実、風景などがそのまま描かれていると思い込んでしまう。だが、そこにはさまざまな絵師達の創意工夫と作為、意図的な取捨選択による虚構性が潜んでいると著者は論じる。だがそこに絵画という無限の世界が広がること、その楽しみに触れることへの導きの書となっている。著者はフィクションがどこに潜むか、またときによってそれを我々が自然に受け入れている事実にも気づかせてくれる。

 本書のサブ・タイトルは「美術史の眼 建築史の眼」となっている。美術史研究者(千野)と建築史研究者(西)の二人が、一つの絵画を題材にして、それぞれの視点からその絵画に含まれる絵師の工夫と作為、つまりフィクションがどこに潜むかを論じている。そのフィクションを踏まえて、なぜその絵画が楽しめるのかを解き明かしていく。勿論それは一つのアプローチであり、題材となった絵画の見方は他にもあるだろう。だが、ここに提示された論点は、障壁画や絵巻というジャンルの絵画を見ていく上で、鑑賞の仕方を深める手段となり、楽しみ方を意識的に広げる手段になる。漠然と絵画の前に立ち眺めるだけでは得られない楽しみかたの切り口がある。ひとつの同じ絵画が、美術史と建築史とでは目をつける視点がこれだけが相違するかということもわかる。そういう視点の異なる眼で提示された絵画を眺めることのおもしろさを味わうきっかけにもなる。

 もう一つ、興味深いのは著者達の造語「連論」というアプローチ方法である。
 本書ではまず「豊国祭礼図屏風」を取り上げている。はじめに美術史の見方・立場から、その絵が「フィクションとしての絵画」である論点を論じる。次にその論点を受け継いで、同じ絵に対し建築史の見方・立場で自分の論が展開される。そこで相互に提示された論点を前提とし、異なる見方を抱えて、次の絵に移り、再び美術史側からの新たな論点が提示され・・・・、という形で「それぞれの章は独立しながらも、全体としては途切れずに続いていくという形」(「はじめに」)となっていく。「連論」は連歌や連句というスタイルに近い進め方となったことからのネーミングという。こういうアプローチの本は、私にはめずらしくて、実に新鮮だった。この絵が次にどう論じられるのか、という楽しみの期待が生まれる。「フィクションとしての絵画」を見せる、楽しませるための作為の在り方として、何が次に取り上げられ、論じられ、展開されていくかという楽しみに満ちている。

 私にとって新鮮な感覚と楽しみで読めた本なのだが、出版はかなり古い。最初は、大日本茶道学会の機関誌『茶道の研究』(茶道之研究社発行)に「日本の空間表現1~24」として連載(1988.1~1989.12)されたという。その連載のとき、およその方針設定だけして、「論が自由に展開するように、内容を細部まで固めずにスタート」(p217)させたというものだったようだ。それを全面的に書き改め、改題して、共著の形で本書が1991年5月に出版された。つまり、この本には12の絵画作品が取り上げられ、美術史の見方・立場から連論が始まり、12番目の作品を建築史の見方・立場で論じることで締めくくられている。そこに提示されたことの中には、既知の視点-例えば、異時同図、吹き抜け屋台-もあったが、それの見方についても考え方を数歩深めて捕らえ直すことができた。

 まずどういう絵が、連論されて行ったかをご紹介しておこう。
 豊国祭礼図屏風 → 信貴山縁起絵巻 → 江戸城障壁画下絵 → 近江名所図屏風
 → 融通念仏縁起絵巻 → 扇面法華経 → 五街道分間延絵図 → 十界図屏風
 → 日高川草子絵巻 → 源氏物語絵巻 → 春日宮曼荼羅 → 伊勢物語図色紙

 論点の展開プロセスは本書を手にとって、読みながら納得度を高めていただければよい。ここでは、どういう論点が挙げられ、どういう問題点が指摘されたのか、私が受け止め理解した結論部分を要約、あるいは引用してみる。取り上げるのは主要な幹部分である。連論の展開プロセスと詳細説明はぜひご一読いただきたい。絵の見方に広がりが生まれることだろう。引用箇所は鍵括弧を付している。

 *豊国臨時祭礼を同工異曲といえるほどの構成で描いても、そこに描かれた人々の熱狂は絵師の創造である。そこにあるのは「絵師独特の表現が生み出したフィクション」(p22)である。「人間の潜在意識に働きかける絵画の力」(p23)がある。「ヴィジュアルな映像の与える影響力は、恐ろしいほど大きい」(p23)。
 *絵師の描く景観には、写真で撮ればその角度からは「軒下の組物や垂木など見えないはずのものを描く表現方法」(p29)をとり入れた無理な構図がある。それにより「華麗な感じを出す点では成功している」(p29)。絵師は抵抗なく積極的にその手法を取る。
 *一つの画面に同一人物が何回も違った姿で描かれる「異時同図法」の表現法が使われる。「一つの画面の中に複数の時間が描かれているという意味である」(p33)
 *「私たちは絵を見る時、無意識のうちに、視点もただ一つなのだという前提にたってしまいがちである」(p38)が、その前提をまず疑えと著者は問題提起している。
 *「空間の広がりを体験しようとすれば、時間の経過と無関係ではない」(p39)「信貴山縁起絵巻」では倉を飛ばす工夫が盛り込まれている。描く対象物の大小関係で遠近感を出す。樹木、川などを描き地面に接触していないイメージを生み出す。本来あるはずのもの(土台、束など)を省略して描かない。「右後方に、飛行を象徴するゆらめく線が描かれている」(p47)。そこに時間の経過が表現されている。
 *美術館、博物館で鑑賞する絵巻は、本来の絵巻の鑑賞法ではない。「絵巻は、動かしながら見る。右手で巻き込み、左手で広げながら見る。画面は目の前を左から右へ流れていく。左手の中にあった未来が目の前へ流れてきて現在となり、右手へ流れさって過去となる。絵巻はもともと、そうした構造を持つ絵画形式なのである」(p48-49)。なるほど! つまり、自分で動かしながら鑑賞してこそ、本来の楽しみ方なのだ。逆にいえば、そのシュミレーションをしながら、楽しまないと面白さがわからないといえる。
 *建築の内部に描かれた障壁画は、立体を内側から見る視点であり、立体の内部を循環していくことを前提に描かれている。「障壁画とは、始点の終点もなく横へ展開し、一巡してはまた続いていく、永遠に循環する絵画なのである」(p54)。障壁画は動きながら見ると、より実感が得られる。ぐるりと見回しながら鑑賞する必要がある。
 *名所絵は見る人がそれにちなむ「和歌と結び付いた特定のイメージ」を思い出し、想像の旅の世界に誘われて、絵を楽しんだもの。「絵師はそのイメージに従って描いた」(p61)という。「名所絵の持つ意味は単なる画題以上のものがあったはずである」(p61) その視点を考慮して鑑賞すると楽しめる。
 *名所絵の題材は、歴史の変遷の中でその意味を変化させ、視覚に訴えるイメージを変化させている場合がある。その時代の共感は何かを知ることが鑑賞を深める。
 *「絵師は、描きたいものだけを、描きたい方法で描く。名所絵はその好例なのである」(p77)
 *絵に描かれる人物の指さすポーズは、鑑賞者の眼を導こうとする絵師の作為である。それは「絵巻構成上のひとつの常套的なテクニックなのである。」(p83)
 *「屋根や天井を取り払って描く吹抜屋台という描法」(p85)や壁や建具の一部を取り払い描くのは、「室内の様子を見せたい時に使う画面構成上の重要なテクニック」(p86)である。絵師は見せたいものを描くのだ。何をみせたいのか、を考える視点も必要。
吹抜屋台の描法は、日本建築の特質を反映し、大胆な、すぐれた表現方法であることを考えれば、もっと高く評価してもよいのではないだろうか」(p176)と建築史の視点から著者は提言している。
 *「垣間見」というのは一つの文化である。絵の背後には文化の総体がある。「私たちの眼は、生まれ育った土地の歴史や伝統、幼い頃から受け続けてきた教育などによって、もしこう言っていいならば、すっかり汚染されている・・・だが、汚染とは、言い換えれば文化である。」(p92)
 *「扇面に閉じ込められる空間は曲がるものだという約束事」が我々には無意識のうちにある。扇という「折り畳んだり広げたりする動きを、扇を見た時に無意識のうちに感じ取っている」(p108)からではないか。
 *街道を描いた絵図(「五街道分間延絵図」)には、絵の中の道を歩くという視点から、様々な約束事を前提にして、その点では合理的に描いている。空間を曲げる、引き延ばす、見えるものの存在を省略したり、重複させるなど絵師の創意・工夫がある。道幅を異様に広くしているのも道路の様子を描く工夫である。
 *「時間とともに展開する物語を絵画に表すため、一続きの画面の中に複数の情景を合成しているということ」(p164)がなされている。合成の仕方は多種多様である。絵画が物語を表そうとする時に何が起こっているか。「大きな枠組みの中に位置づけてこそ、その作品の輝きも増す」(p164)
 *「長い時間をかけて歩いた現実の三次元空間を小さな二次元空間に表現しようとする」(p182)ところから、絵画独自の創意や工夫が盛り込まれる。それが建物などを斜め上から俯瞰するという描法である。だが、「一般に日本の絵画では建物は俯瞰しても人物は真横から見て描くのが普通で、樹木山なども横から見ることが多い」という指摘になるほどと思う。「一つの画面の中で自在に視点を変えること」に絵師のフィクションが加わっている。
 *「現実を一目で」という点、視点は固定された一つだけで、と考えるのは現代人の偏見だろうと両著者は言う。
 *「美しく飾ることは、今日では、むしろマイナスの評価を与えられることが多い。だがかつては、仏像や仏堂を美しく飾ることを『荘厳』と言い、それは仏教徒の善行として奨励されていた。」(p183)という。装飾する心=大切にすること、という視点は絵画の見方を転換させ、豊に広げる。

 「連論」の形で「フィクションとしての絵画」を読み解くこのような視点が、順次提示され、絵の魅力の裏側にあるものが読み解かれていく。専門家の枠内での論議ではなく、一般の美術愛好家に絵画の良さをできるだけ平易に言葉で語る試みなのだ。
 結局のところ、「すぐれた絵師は、意識するしないにかかわらず、すぐれた演出家なのである」(p212)という点を、なるほどそんな演出が加えられているのかと知ることで、漠然と絵を見ることではなく、深く入り込んでいく切り口が見えて来る。絵師による演出の妙味を歴史的背景、文化的背景を考慮しながら、読み取りその成果を楽しむというトリガーになる「連論」だと言える。

 「普通の人に通じる言葉で作品の『良さ』を語ること、そこから、美術史の新しい世界が開けてくるような気がする」(p205)と著者(千野)が語っている。「連論」の第二弾が出てくることを楽しみに待ちたい。既に出版されていることに気づいていないだけなのだろうか。この本の出版を知らなかったように。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる作品がネットで見られるか? 調べて見た結果を一覧にしておきたい。

豊国祭礼図屏風 伝岩佐又兵衛 :「文化遺産オンライン」
豊国祭礼図屏風 豊国神社宝物館 :「京都であそぼうART」
信貴山縁起絵巻  :「千手院」
信貴山縁起  :ウィキペディア
信貴山縁起(山崎長者の巻)   :YouTube
信貴山縁起(尼公の巻き)    :YouTube
信貴山縁起(延喜加持の巻)    :YouTube
江戸城障壁画下絵  :「東京国立博物館 画像検索」
江戸城障壁画下絵  :「東京国立博物館 画像検索」
近江名所図 :「滋賀県」
融通念仏縁起絵巻 京都清涼寺 :「大航海時代とルネサンス 15・16世紀の世界」
融通念仏縁起絵巻 下巻  :「文化遺産オンライン」
紙本著色融通念仏縁起絵  :「Weblio 辞書」
扇面法華経冊子   :「e國寶」
扇面法華経冊子     :「文化遺産オンライン」
五街道分間延絵図    :「郵政博物館」
五街道分間延絵図 :「ゆうちょ財団」
連歌を楽しむ人々~十界図屏風より~  :「文化デジタルライブラリー」
地獄をのぞいてみませんか? 「熊野観心十界曼荼羅」の世界 :「東京国立博物館」
日高川草紙  :「文化遺産オンライン」
重要美術品 日高川草紙  :「つれづれ日記~紫の上~」
国宝 源氏物語絵巻 :「五島美術館」
国宝 源氏物語絵巻 特別公開 :「徳川美術館」
春日宮曼荼羅図   :「文化遺産オンライン」
春日の風景  :「根津美術館」
伊勢物語色紙 伝俵屋宗達筆 第六十段 花橘  :「文化遺産オンライン」
伊勢物語図色紙(俵屋宗達)  :「MIHO MUSEUM」
国宝「風神雷神図屏風」と益田孝旧蔵「伊勢物語色紙」(全36図)の成立
  林 進氏  連続講座「宗達を検証する」第10回資料 

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