遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『グッドバイ』  朝井まかて   朝日新聞出版

2021-01-18 18:56:39 | レビュー
 嘉永6年(1853)6月末日、阿蘭陀(オランダ)の商船が長崎に入港する場面から始まり、明治17年(1884)4月、お慶が中庭の彼方の空を見上げ、遠くで海の音が鳴るのを聴いている場面で終わる。お慶というのは、長崎の油屋町で菜種油を商う大浦屋を継いだ女主である。この小説は幕末から明治初期という時代の転換期に長崎商人として進取の気性を発揮してその時代を駆け続けた女商人の一代記。併せて大浦屋お慶の生き様がこの時代の転換期に活躍した人々と深く関わりを持つ場面を描いて行く。そのプロセスを通じて、幕末から明治初期の社会情勢を鮮やかに切り取っている。勤王・佐幕の両極の立場で時代の転換に関わった人々の視点から描かれたものとは違う側面・視点を介して、読者にはこの時代と人間群像の姿が見えてくる。
 明確な事実情報のない空隙は、著者の想像力で紡ぎ出された創作が入っていることだろうが、大浦屋お慶とあの時代をとらえるにはフィクションの方がヴィヴィッドなところがある。一気に読み通してしまった。

 お慶は最初「お希以」と称したようだ。慶応2年(1866)が明けた時点で、元号にちなんで名を「慶」と一字で記すことにしたという。慶応2年は徳川慶喜が将軍職を継いだ年である。

 お希以は大浦屋の惣領娘として祖父に育てられた。祖父がお希以に先祖のこと、商いについて伝えた。祖父は油商の年寄り連中から出来物と讃えられた人だった。お希以の父は入り婿。母はお希以が4歳のときに死亡した。姉のお多恵は嫁いでいた。天保10年、お希以12歳の時に祖父が亡くなる。その4年後、隣町からの出火で大火事になり、土蔵一つを残し大浦屋も焼尽した。お希以の父はこの時、後妻とその間に生まれた子を連れて、逃げ出してしまった。大浦屋の家屋敷を建て直し、町内の町役の肝煎りで縁談がまとまるが、7日も立たぬところで、お希以から離縁を決めたという。そして、離縁して2年後の弘化3年、お希以は大浦屋の跡目を継ぎ、女主となる。
 大浦屋の商いを支えていたのは、祖父の代から勤める番頭弥右衛門だった。ご公儀から専売の許可を得て菜種油を上方から仕入れて売る商いは、地回りの菜種油が出回り始めると、商いが伸びなくなる。お希以は油種を増やすなどの提案をするが、弥右衛門は拒絶する。古いしきたりや決まりを楯にとる。
 こんな状況からお希以の商人としての生き様が始まって行く。祖父に連れられ、阿蘭陀商船の長崎・出島への入港を見続けてきた。お希以の夢は阿蘭陀商船との交易を己の手でしてみたいという事だった。勿論、そこには番頭弥右衛門をはじめ、様々な商慣習や制度上の障壁、さらにはお希以が女であるという障壁があった。
 このお慶一代記は、この時代背景から始まっていく。お慶の進取の気性と彼女の商人道における信義が鮮やかに描き込まれていく。お希以が己の道を歩み始めるに伴って、長崎という土地柄・風土と彼女の気性が、様々な人々との交流を広げ深めて行く。そこがおもしろい。

 この小説の読みどころを列挙してみよう。
1. ご公儀認可の油商という仲間組織の商慣習、実態とその渦中に居るお希以の立場の描写。お希以の反発心と行動がおもしろい。阿蘭陀商館との交易の仕組みも油商たちの寄合での話材として描かれる。

2. 円山・月花楼での寄合の後お希以は懇意にしている女将・お政の部屋を訪れる。先客が居た。お政から、彼は品川藤十郎という通詞で、コンプラ商人の扱う脇荷に絡む仲介をしているということを聞く。そして、お希以はお政から阿蘭陀への土産物リストの品々の調達を任される。コンプラ商人が許可を得ておこなっている脇荷といういわば副業の存在をお政から知る。そして、土産物リストの品々を調達するという当面の頼まれ事への取り組みが、お希以の商人の勘を開眼させる。
 つまり、交易とは、阿蘭陀商人から外来品を購入し売るということだけでなく、日本の品々を阿蘭陀商人に売るという反面があること。脇荷という手段が交易の手がかりにならないかという発想である。
 このプロセスがお希以とってエポックメーキングとなっていく。

3. 土産物リストに「茶葉」という一項があった。茶葉といっても種類が色々ある。そこから、お希以は「茶葉」を交易できないかという商いに焦点を絞り込んでいく。その手だてを思案し、通詞品川を介して発注主のテキストルを知る。彼は船乗りだったが、茶葉の見本を預り、商人に仲介することをお希以に約束した。この約束が長い時間を経た後に芽吹いていく。3年後、通詞見習の西田圭介が、ヲルトと称する英吉利(イギリス)商人を伴い大浦屋を訪ねてくる。それがお希以にとって独自に「茶葉」交易の道を歩み始める契機になる。
 弥右衛門は頑として反対の立場を取る。菜種油の商いに専心して大浦屋を守る。一方、弥右衛門の指示を受けた友助、それにお希以の身の回りを世話してきたおよしがお希以の手足となって行く。
 お希以が茶葉商人として成功するまでの紆余曲折のプロセスが最大の読ませどころである。
 明治12年6月、亜米利加(アメリカ)の前大統領、グラント将軍が世界旅行の一環で長崎に寄港したとき、お慶は艦上での夕食会に招待された。日本人で初めて茶葉交易を開始した功績を認めての事だという。著者はその場面を描き込んでいる。

4. お希以の茶葉の商いの拡大は、一方で長崎と出島における時代の変化を背景とする。外国人商人たちの活動の広がりはもちろん江戸幕府が諸外国に迫られた通商条約などの政情の動きの反映である。著者はこの状況を、長崎に住むお希以という商人の視点から点描していく。出島が自由に出入りできるようになる。また外国人居住地が拡大する。その典型例はガラバア邸である。外国人の長崎での行動範囲がまず広がって行く。
 お希以がガラバア邸に招かれた交際の場面などが点描される。
 お希以は義兄から借りた『蛮語箋』を手がかりに阿蘭陀語の独学を始めていた。
 本書でガラバアやヲルトと表記されているのは、たぶんお希以の視点からオランダ語としての当時の発音表記を使っているのだろうと思う。ガラバア邸はグラバー邸のことである。
 お希以を介して外国人商人との交流風景が点描されているところは、当時の雰囲気や時代環境を感じる助けとなる。

5. お希以の茶葉交易の活動が軌道に乗り始める一方で、お希以は長崎に滞留する勤王派の人々との交流を深めていく。著者はその様子をストーリーの中で点描していく。
 大浦屋の敷地に、お希以は茶葉を加工するファクトリ(製茶場)を設け、季節雇いでなく年中奉公する女衆のために棟割長屋も普請したそうだ。製茶場の二階は茶葉置き場である。だが、その一画の部屋を亀山社中の連中などの寝泊まりに提供していた様子が点描されていておもしろい。才谷梅次郎(=坂本龍馬)、長次郎(=上杉宗次郞)、大隈八太郎(=大隈重信)などの名前が飛び出してくる。また、かなりの額の資金面での助力も行っているようだ。その事例が描き込まれている。読者としては興味深い。
 後に、お慶には女志士という評判ができていたと著者は書き込んでいる。女傑である。

6. 大浦屋お慶の人生は順風満帆だった訳ではない。慶応期以降にマイナス面も現れてくる。この側面もまた、お慶という人物を知る上で重要なものとなっていく。
 一つは、軌道に乗っているお慶の茶葉交易の大浦屋に、齢70あたりになった父がさも当然の如く亥之二と称する息子を伴って舞い戻ってくるのだ。亥之二はお慶にとり初めて会う腹違いの弟になる。
 もう一つは、明治に入り、横浜経由で静岡茶の交易が拡大するにつれ、お慶の営む大浦屋の茶葉交易の出荷量が阿落ちて行くという状況が起こる。そんな状況の中で、かつてお希以が世話になった品川藤十郎と熊本藩士で長崎藩邸詰めだったという遠山一也が訪ねてくる。それは煙草葉交易の商談にからみ、契約の成立には長崎の商人の請判がいるという。いわゆる保証人を引き受けてほしいという類いである。これが実は詐欺行為だった。諸状況から引き受けたお慶は、その結果、お慶と大浦屋は辛苦をなめる逆境に立たされていく。この事態のプロセスでのお慶の商人としての対処が読ませどころといえる。商人道としての信義を尽くす姿が克明に描かれて行く。

7. お慶の人生の最終ステージで新たな事業への関与が生まれてくる。それらは苦労があるが成功あるいは成果につながる。この顛末もまたお慶という人物を知る上で興味深い。
 一つは、茶葉交易の最初の段階でお希以が関係を深めた井手茂作与四郎が、旧幕時代海軍伝習所で学んだという杉山徳三郎を同道し訪ねてくる。杉山は政府が払い下げる予定の横浜製造所の購入に応募し、船のボイラア製造を始めたいという。技術面は杉山が担い、経営面をお慶に担って欲しいという要望なのだ。お慶の名は岩崎弥太郎が出してきたという。この払い下げの件は、主管として大隈重信が関与していた。畑違いの事業にお慶がどのように対処していったかがおもしろい。
 この時期に、横浜に移住し貿易商となっていたテキストルとの交流が深まるというエピソードも出てくる。
 もう一つは、佐野商会の佐野弥平が「高雄丸」という鉄製蒸気船の払い下げ購入への共同出資の打診に大浦屋を訪れるという話である。これがお希以の幼き頃の夢を想起させることになる。

 波乱万丈の大浦屋お慶の人生が、幕末から明治初期という時代背景と大きく絡みながら大きなうねりとして描き出されていく。そこには忍耐と飛躍、順境と逆境、人の絆の絡み合いなどが織り交ぜられていく。激動の時代が大浦屋お慶を創り出したとも言えそうである。読者を引きこむ読ませどころが各所に盛り込まれている。
 このストーリー、映画化されたら、あの時代を感性で受けとめる局面を下敷きにして、一人の女商人の生き様が見どころとなる興味深い作品になるのではないだろうか。こんな女性があの時代に居たのか!と。

 ご一読ありがとうございます。
   
本書からの関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
直木賞作家が書く 幕末の日本経済を支えた女商人とは :「BOOKウォッチ」
 出版界の最重要人物にフォーカスする「ベストセラーズインタビュー」。
朝井まかてさん「グッドバイ」インタビュー 風月同天、いつもお慶の心に:「好書好日」

長崎の女傑 大浦慶  発見!長崎の歩き方 :「長崎Webマガジン ナガシン」
大浦慶の写真  :「幕末ガイド」
出島 公式サイト
  出島の歴史
出島の商館 江戸時代の日蘭交流 :「国立国会図書館」
オランダ語の学習 江戸時代の日蘭交流 :「国立国会図書館」   
    『蛮語箋』の写真と説明が載っています。
九州のお茶  :「茶幸庵」
日本の近代化に貢献したグラバー  :「あっ!と ながさき」
龍馬とグラバー交遊録       :「あっ!と ながさき」
グラバー園 ホームページ
  ウィリアム・オルトについても解説あり 
史跡 花月 長崎県の文化財  :「長崎県」
製鉄局関係大浦慶・杉山徳三郎間契約書 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)
杉山徳三郎出品の蒸気機関  :「博覧会 近代技術の展示場」
杉山徳三郎、平野富二の朋友 :「平野富二」
高雄丸(日本海軍) :ウィキペディア

大浦お慶プロジェクト ホームページ(男女参画・女性活躍推進室)

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『落花狼藉』  双葉社
『悪玉伝』  角川書店
『阿蘭陀西鶴』  講談社文庫
『恋歌 れんか』  講談社
『眩 くらら』  新潮社