遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『土に贖う』  河﨑秋子   集英社

2021-01-20 22:18:48 | レビュー
 この小説の読後第一印象をまず記そう。北海道の大地が自然を育む。その大地及び大地に向かう人々の営みの歴史をフィクションという形式を媒体にして記録に刻む。それを積み上げていく。そのことをテーマとした作品だなと私は受けとめた。明治以降の北海道の大地で生きた様々な人々の生き方。その生き様に関わる時代の変転。そこには人々を翻弄する時代の大きな動きがあった。大地と人々の営みがフィクションという形式で結晶化されている。それは事実の記録ではない。事実を踏まえて、フィクションを介することによる真実の記録といえるのではないか。大地に向かってささやかな生きるための営みを続けてきた人々の姿、公に語り残され、記録されることのない平凡な庶民が生きてきた営みの真実に迫ろうとしていると思う。
楽しい小説ではない。だが、人間の営みとその姿を感じる、北海道という大地を感じる上では有益な小説である。そこには庶民を翻弄した政治経済の動きに対する冷めた眼差しも内包されているように思う。

 本書は短編連作集である。7つの短編が収録されている。このタイトルは6番目に収録された短編のタイトルでもある。奥書を読むと、「小説すばる」の2016年11月号~2019年1月号に断続的に各短編が発表されている。収録されている最後の2つの短編は「温む者」と題して発表されたものが、「土に贖う」「温む骨」の2編に分けられたという。2019年9月に加筆・修正されて、単行本化された。2020年4月14日、第39回新田次郎文学賞受賞している。
 本書のカバーにも着目しておこう。目次の裏ページに「挿画 久野志乃『新種の森の博物誌』」と記されている。ネット検索で調べてみると、札幌市在住の画家の作品が装丁に使われている。北海道に生まれ、北海道を拠点に北海道と向き合いながら活動するという共通性があるようだ。

 さて、収録された短編の内容と読後印象を少しご紹介しておこう。

<蛹(さなぎ)の家>
 明治の開国以降、生糸は輸出品の主力製品として脚光を浴びた。ストーリーは明治30年を越した時点の物語。12歳の娘ヒトエが父・善之助の来歴を回顧する側面を織り込みつつ、自分たちの日常を語っていくことで、養蚕業の一面が浮彫にされていく。善之助は北海道開拓使のもとで札幌に績誠館という蚕種所を作り、新天地での養蚕技術研究に努め、養蚕を広めることに苦労しつつも一旦は成功していく。だが恐慌のあおりを受けるとともに、生糸が投機の対象になる局面の影響を受ける。さらに蚕を育てるための桑を確保する方策に失敗などで没落していく。ヒトエはその有り様を見つめる。
 北海道の大地と養蚕業、それに携わった人々の営みが描かれている。

<頸(くび)、冷える>
 冬、小さなボストンバッグだけを持ち見た目で影の暗い感じという男がタクシーの運転手に、野付半島入口に近い茨散(ばらさん)地域に行きたいと告げる。運転手は験の悪そうな客と胡散臭さを感じる。男はそこに随分昔に住んでいたと告げる。
 ストーリーは、昭和の時代にその地域でミンクを養殖しそれを兼田ミンク製作所に売ることを生業としていた男(孝文)の物語とともにミンク産業の盛衰状況を描いて行く。
 製作所の職人・辰老人が試しに作ったミンクのキーホルダーを孝文が貰う。それを近所の子供たち(姉・弟)にプレゼントする。だがそれを契機に思わぬ事態に展開していく。
 茨散沼近くで降りた男(修平)は、その地に謝罪に来たのだった。口に出せない、子供の頃に行った行為に対して・・・・。
 そこには子供にはわからない背景、修平の祖母の思いが関わっている。神国日本の兵士が北方の戦線で戦う為に毛皮が必要だったという背景に絡んだ思いが潜んでいたのだ。
 哀しいストーリー。

<翠(みどり)に蔓延(はび)る>
 北見地方でのハッカ草栽培とハッカ産業の盛衰を背景にした物語。ストーリーは昭和9年から始まり、ホクレンの精製工場閉鎖と共に事実上の大規模生産が終了するまでの期間を背景とする。
 リツ子はハッカ草の栽培にほぼ生涯関わった。リツ子の青春時代から結婚、出産、夫の戦死、子育て、息子夫妻との同居という一生が描かれる。農村の慣習。夫の不義への許せない思い。生活を支える柱となったハッカとの関わり。時代環境の変化が描き込まれていく。リツ子の世代と息子の嫁・早苗の世代との対比が興味深い。

<南北海鳥異聞>
 東北の山奥の寒村で育った弥平の物語。彼は子供の頃の怪我が原因で右脚が左より拳ひとつぶん短い。生来のきかん気で喧嘩を重ね村一番力の強い男子となる。寺近くの川で川海老を必要以上に獲りすぎるという行動を重ねる。見かねた住職に地獄絵図を見せられて説教されても怖がることもない。
 そんな弥平は東京に出た後、南の島”鳥島”でアホウドリの羽を採取する仕事に携わる。彼の仕事は鳥を撲殺することである。アホウドリを撲殺することに快感とやり甲斐すら感じる。その仕事でかなりの報酬を得るケースと騙され辛酸をなめるケースを経験する。
 この仕事の需要がなくなると、鳥を撲殺できる仕事を求めて北海道に渡ることに。北海道で鳥を獲るという話を聞く。鉄砲で白鳥を撃って羽を集めるという。それに加えてもらうが、鉄砲撃ちの邪魔をする結果になり、相手にされなくなる。弥平は単独で白鳥の撲殺をして金を稼ごうと行動する。それが彼の運命を決めることになる。
 著者は明治43年に羽毛貿易が禁止されたと最後に記す。羽毛獲得のために海鳥が殺され続けた時代の一側面を弥平の人生を通して描く。
 商品需給の経済活動の結果が保護鳥という制度に帰着した。

<うまねむる>
 土砂運搬のダンプカー運転手として札幌市内を走る鈴木雄一は渋滞の中に居る。対向車線に同型のダンプが見える。その前の馬一頭が引く廃品回収業者の荷車に気づく。それが契機となり、雄一は昭和35年江別市の木造の家『鈴木装蹄所』に居る自分と父の仕事を回想する。その回想は小学校時代の哀しい思い出に繋がっていく。学校が校庭の片隅に所有する畑を耕す時期になり、近くの大きな農家から馬を借りてプラウを扱い耕す作業を教師がすることになる。だがその作業の途中で馬に悲劇が起こる。
 北海道では、馬が運搬手段、農業の生産手段として、日常生活の中で人と馬の関係が深かった時代があったのだ。父が馬に蹄鉄を装着させる仕事の状景を回顧していく。さらに馬の死に向き合いその葬儀を行った人々の思いの濃淡が描き込まれていく。
 かつて日常生活として人馬共生の時代があったという記憶の一ページ。

<土に贖う>
 現在は江別市だが、昭和26年には江別町だったそうだ。レンガ工場があり、人々はレンガ場と呼んだという。野幌地区にある太田煉瓦工場が舞台となる。レンガを使う建築物の需要に沸き、多くの人々が雇われて目一杯働く状況が佐川吉正の視点を介して描かれて行く。佐川は下方の作業員としてレンガ製造工程を一通り経験した上で、頭目という名の現場責任者に任命された。10名いる頭目のうちで最年少。40人の下方を束ね佐川組としてレンガ干しと白地背負い工程を担当する。生産計画通りに作業が進行するよう監視するのが日常の仕事である。
 佐川の監視作業を中心にしながら、レンガ製造の原料採取から製品積み出しまで、当時のレンガ場の状況が日常生活も含めて克明に描き込まれていく。人間の手工業労働を主体にした重労働を伴う作業環境である。需要の増加は下方として働く人々の負荷として跳ね返る。
 ある日、佐川組の下方の一人が、残業時間が終わった後で突然死する。工場の医務室の医者は心不全と診断結果だけ語る。葬儀に臨む佐川とその顛末が描き込まれていく。
 「贖(あがな)う」について、辞書を引くと「①金品で罪をつぐなう。②うめあわせをする」(日本語大辞典・講談社)と説明されている。この短編としてのタイトルは、その2通りの意味で使われているように感じた。
 
<温(ぬく)む骨>
 佐川吉正には2人の息子がいた。吉正は己の子供に夢を託した。勉強をさせてやり、レンガ場の手を汚す仕事ではない綺麗な仕事に就くことを。父の期待通り息子たちは大学を出た。長男は運輸省に入り、次男の光義は道内で最大手の銀行に就職した。だが銀行は光義が45歳の時に倒産し、その後陶芸家の道に進んだ。光義は今や依頼されたものならば易々と喜ばれる品を作り上げられるようになっている。
 その光義は父がレンガ場でレンガ製造に使っていた野幌粘土に挑んでいく。野幌粘土9割、信樂土1割の土から始めて自分の思い通りのものを形成しようとする。だが、土を使いこなせないという状況に陥いる。その状況の中で光義は過去を振り返る。一方、妻の芳美との日々の会話が織り込まれていく。
 光義が「俺には芯がない」という自分の裡からの声に陶芸家としてのジレンマを抱く姿が描き込まれて行く。光義は試行錯誤の果てに、粗い土に誘われるようにオブジェを造形していく。初めて作ったオブジェに対し光義がどう感じ、どう扱うか。そこに光義の思いが込められている。また、そこには著者自身の思いが重ねられているように思う。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
企画展「NITTAN ART FILE インスピレーション」2015/12/12-2016/1/31 :「苫小牧市美術博物館」
  本書挿画の作家のプロフィール並びに絵が載っています。
第2回アドベントカレンダー(19日目)「養蚕事業の夢」
           :「道南ブロック博物館施設等連絡協議会ブログ」
ミンク :「HOKKAIDO BLUE LIST 2010 北海道外来種データベース」
北見ハッカ記念館・薄荷蒸留館  ホームページ
きたみの薄荷  北見ハッカ通商公式サイト
アホウドリ  :「日本の鳥百科」(SUNTORY)
アホウドリ 復活への展望  :「公益財団法人 山階鳥類研究所」
オオハクチョウ  :ウィキペディア
オオハクチョウ :「日本の鳥百科」(SUNTORY)
オオハクチョウの親子 Cygnus cygnus  YouTube
管内の国指定鳥獣保護区 :「北海道地方環境事務所」
ばん馬とどさんこ(北海道和種)のちがい :「Pacalla(パカラ)」
北海道の馬文化  :「北海道遺産」
牧場で馬が雪上走る恒例の「追い運動」北海道 音更町  :「NHK」
野幌  :ウィキペディア
赤れんが庁舎(北海道庁旧本庁舎)の紹介ページ  :「北海道」
北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎) :「ようこそSAPP?RO」

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