遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『炎天夢 東京湾臨海署安積班』 今野 敏  角川春樹事務所

2019-10-17 10:45:57 | レビュー
 安積班シリーズはこの作家の作品シリーズの中でも好きなものの一つである。この小説を読んでから、見過ごしていた作品があることに気づいた。後追いをする楽しみができた。
 さてこの小説、殺人事件そのものは結果的にそれほど複雑な展開となるものではない。何がおもしろいかというと、東京湾臨海署に捜査本部が立ち、主に本部詰めで事件に取り組む立場になる安積自身の思考と心理を描くという側面にウェイトが置かれている。その上でストーリーが展開していくところにある。捜査プロセスで捜査情報が集積されていき、捜査会議が重なる中での安積の観察眼と状況分析思考、安積の心中が揺れ動く様をクローズアップしていく。私はそのところが読ませどころと思う。そこに、事件に対する須田巡査部長の見方・発想が殺人事件の解明に重要な役割を担っていくところが一つの核になっていく。須田のちょっとした剽軽さのあるところの描写を私は好む。

 江東区の海上に死体が浮かんだという知らせが発端となる。死体が発見されたのは江東マリーナ、夢の島である。村雨たちが臨場し、他殺だと判断する。鑑識の判断では絞殺だという。須田は死体を見るなり、被害者はグラビアアイドルの立原彩花だと断言した。本名は島谷彩子、公称28歳である。須田はネット情報にかなり詳しい。安積には縁遠い世界であるという対比がまたおもしろい。

 その結果、東京湾臨海署に捜査本部が立つ。
 警視庁捜査一課からは佐治係長とその一班がまず出張ってくる。安積は佐治係長の強引な捜査のやり方には批判的である。勿論、正面切って反論するようなことはしないが、捜査にバイアスがかかることを懸念する。
 初動捜査で、被害者のサンダルがマリーナーに停留中の船の甲板で発見された。純白に塗られたプレジャーボートで、アブサラドール号と名付けられていた。持ち主は芸能界の実力者で、プロダクションサミットの社長柳井武春と判明する。柳井に逆らえば芸能界では生きていけないと言われていて、隠然たる力を持っているという。須田はインターネットでそのあたりのかなりの情報を知っていた。また、被害者と柳井とは愛人関係にあるという噂もネット上では公然と流れているという。
 安積が部下の水野に柳井を知っているかと尋ねると、1年前にサミット系列のプロダクションに所属するベテラン歌手で俳優でもある石黒雅雄が覚醒剤で捕まったときに知ったと言う。安積は水野と一緒に、プロダクションサミットの事務所を訪れ、柳井に事情聴取を行う。安積は直接接して、柳井にある印象を抱いた。

 捜査本部での捜査会議に捜査本部長である白河刑事部長が出席した。それも会議の最初に顔を出すだけでなくずっと会議に出席したのである。それ自体が異例なことと言える。さらに、柳井武春の名前が出るとそれに反応したのだ。「柳井さんが被疑者ってことはないだろうな?」という発言までしたのである。安積は刑事部長の態度に違和感をおぼえる。
 この捜査本部には、捜査1課の佐治係長の班ともう1班が担当となった。佐治係長はこの捜査本部に、現在は東京臨海署に所属する相楽が加わることを望んだ。捜査本部の規模は50人、捜査1課からの参加人数と同数の署員を動員するために、安積班に加えて強行犯第2係である通称相楽班も加わることになる。佐治のもと部下だった相楽が加わると、佐治は使いやすいと思っているようだった。一方、捜査本部の舵取りを実質的に行うのは池谷管理官である。
 
 なぜか捜査会議には毎回刑事部長が出席するという異常な状況が続いていく。
 捜査が進展していくと、様々な情報が集まり始める。島谷彩子が殺されたのはアブサラドール号上である状況証拠が積み重なっていく。マリーナーに入場できるのは3種類のメンバーズカードのいずれかの所持者だけであること。マリーナーのメンバーには石黒雅雄も名を連ねていること。芸能界の裏側で柳井社長は隠然たる影響力を持っているということ。柳井社長が売ろうと思えば、人気者に仕立てるのはたやすいと陰ではいわれていること。島谷彩子と柳井とは愛人関係という噂があること。柳井社長は元ヤクザで、いまもその繋がりはあるらしいこと。等々である。続々と周辺情報や事件当夜の確認情報が累積されていく。
 
 捜査会議の席上で刑事部長は柳井を被疑者ではないという立場を匂わせる。捜査1課の田端課長は状況証拠から柳井を被疑者と考える線が濃厚だとみる。
 池谷管理官を補佐する形で本部詰めとなる安積は白河部長の発言態度から、白河部長と柳井社長の何らかの関わりの有無を疑い始める。捜査方針を歪めかねない懸念をいだく。安積は相楽に相談を持ちかける。相楽がどう対応していくか。このストーリーの面白さの一端が相楽の行動にも出てくる。ちょっと楽しめるところでもある。

 そんな矢先に、安積は携帯電話に登録していない番号からの連絡を受ける。目黒署時代の5歳年上の先輩、海堀良一が会いたいという。安積がタレント殺人事件の捜査本部に居るということを知った上での電話だった。
 海堀は今、捜査1課の特命捜査対策室にいて、13年前の事件、ある芸能事務所の社長が変死した事件を継続捜査しているという。殺人及び死体遺棄事件の疑いが浮上してきたという。その事件に柳井社長が絡んでいるのではないかという。また、当時の所轄の署長は今の白河刑事部長だったとも付け加えた。海堀は、密かに機会を作って、柳井から話を聞きたいと言う。安積にその機会を作ってほしいということなのだ。
 捜査が進展し情報が集まり始める中で、客観的な分析をし捜査の筋を見極めようとする安積の思考と心理は揺れ動く。警察という組織の中での行動という制約をどのように捉え直し、どのように対処していくか。余計な忖度などを排し、客観的な捜査を推し進めるにはどうすべきか。足を引っ張られずに正統な行動をとるにはどうすべきか・・・・・。
 安積の抱く信念と自負。客観的で冷静な思考と判断を維持しようとする内心の葛藤。地道に捜査活動に邁進する部下への信頼。もたらされた情報への的確な対応とは何か。安積班の活躍が描かれて行く。相楽は今回、思わぬ脇役的サポーターとして要所要所で安積に協力する。

 この小説の面白さは次の点にあると思う。
1.捜査本部のトップの思いで捜査方針が歪められるのではないかという安積の懸念と心理の変転を描き出していく点。それは警察組織の上位下達体質の弱点を描くことでもある。かつての署で安積の同僚であり先輩の海堀の要望をストーリーに加えることで、一層警察組織内での安積の行動、処し方を複雑にしていくところがおもしろい。
2. 芸能界の内幕を牛耳るドン的存在の影響力を描いていること。いかにもありうそうな・・・・という感じ。それは一方で、噂という虚像がどのように一人歩きしていくかという側面を描き出すことになる。
3. 須田刑事の独特の発想と推理分析が遺憾無く発揮されるストーリーである点。そして、その須田に全幅の信頼をよせる安積との関係が描かれること。
4.今までの安積と相楽の二人の捜査プロセスでの対立とは一転し、相楽が安積に協力するという関係でストーリーが展開すること。相楽の協力発想の立ち位置が興味深い。

 殺人事件は昼間は炎天、夕方になっても全く涼しくならない時季に発生した。事件の起こった船はアブラサドール号でスペイン語の名称。焼け付くように熱いという意味があるという。事件は「炎天」を背景に進展した。その捜査の経緯は、警察組織内の一員、安積にとっては一種の「悪夢」的局面を終始はらんでいた。被害者の島谷彩子にとってもこれは殺人犯の「悪夢」に巻き込まれた結果とも言えるものだった。この小説のタイトルは、こんなところから「炎天夢」となったような気がする。このストーリーを読み通した記憶では、「炎天夢」というキーワードとしては出て来なかったと思う。

 ご一読ありがとうございます。

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『呪護』  角川書店
『キンモクセイ』  朝日新聞出版
『カットバック 警視庁FCⅡ』  毎日新聞出版社
『棲月 隠蔽捜査7』  新潮社
『回帰 警視庁強行犯係・樋口顕』 幻冬舎
『変幻』  講談社
『アンカー』  集英社
『継続捜査ゼミ』  講談社
『サーベル警視庁』  角川春樹事務所
『去就 隠蔽捜査6』  新潮社
『マル暴総監』 実業之日本社
『臥龍 横浜みなとみらい署暴対係』 徳間書店
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『防諜捜査』  文藝春秋
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『潮流 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
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『憑物 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
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