本書は、タイトルに「真田幸村」を冠しているが、読んでみると、幸村の祖父・幸隆から父・昌幸、そして幸村への真田三代にわたる真田一族について、読みやすく概説した書になっている。その視点は、真田一族の考え方と生き様にある。慶長20年(1615)の大坂・夏の陣で華と散った武将・真田幸村をその凝縮・結晶ととらえている。
本書のサブ・タイトルは「相手のこころを動かす『義』の思考方法」となっている。
時代がどう変わろうと、真田一族が生き残るということを大前提とした戦略が一族の中で貫き通され、その中核の信念が「義」という一語にあるとする。それは己の存在する拠り所との関わりの中での一貫した「義」の在り方といえる。変節することなく、一途に一貫して「義」を貫き通すという生き様が相手のこころを動かしたのだと著者は主張していると理解した。そこに、著者は「生き抜くための智恵と統率力と交渉力」を見つめている。
著者は真田三代の生きた時代を7区分したステージに分け、7章にして著者のメッセージを見出しとしている。ここでは、真田三代の区分ステージと、そこでの主体になる人物名を先ず記して、著者のメッセージに触れてみる。こんなステージ区分になっている。
1. 天文10年(1541)~天正10年(1582) 武田家時代 真田幸隆・昌幸
幸隆が、武田信虎と結託した宿敵村上義清に信濃の故郷を追放され、上野国箕輪城主長野業正に人物を見抜かれ庇護される。この不遇時代に、晃運和尚が幸隆に出会い、彼の才覚を見抜いたという。晃運は後に、松代の真田家菩提寺長国寺の開山となる和尚であると著者は言う。
そして、その後、幸隆は信虎を追放した信玄に臣従する。幸隆は信玄の生涯唯一の敗戦「砥石崩れ」の後に、砥石城を調略して実績を上げ、信玄の信頼を得ていく。
幸隆はその後も戦功を積み、本領だった真田郷を信玄により回復される。幸隆は三男の昌幸を信玄に人質として差し出す。
昌幸はこの信玄の許での人質時代に、「普通では会得できない多くのものを身につけた」のだと、著者は分析している。昌幸が、信玄を通して、人を見る眼、相手の本質を見抜く眼を磨くことを学んだとみている。
出典は明記されていないが、著者は昌幸が学んだ信玄の教えを8つ列挙している。参考になるのでそのまま著者の記述を引用する。
「一 古参や新参の区別なく、手柄話に虚と実の程度がどれほどか。
二 たとえ手柄があったとしても嘘を常についている人物かどうか。
三 同僚とのついあい方はどうか。
四 身分の高い家臣には慇懃であるが、その他には素っ気ない態度をとる人物ではないか。
五 酒に呑まれる人物か。
六 人を怒らせるようなことを平気でする人物か。
七 武具などの手入れや入れ替えにいつも注意を払っている人物か。
八 武具などに凝るが、鍛錬を怠ってはいないか。」
これって、いまでも少し読み替えればそっくり役立つ教えではないだろうか。真理は不変というところか。
著者は、「人は、よき師、よき友に出会うことで本物になる」ことを力説する。また、日ごろの行動の大事さと「芯があれば、不利な状況でも動じることはない」という昌幸の生き様を抽出している。
第1章の見出しは「混乱の中で、日本人の礎が築かれた」である。
2. 天正10年(1582)~天正13年(1585) 真田家苦難の時代 真田昌幸
武田氏滅亡後に、昌幸が「機を逃さず次の一手を打つ」様の要所を押さえていく。織田信長、北条氏直、徳川家康へと次々に切り替えて従属していく苦難の時代を分析する。ここは昌幸の生き様、思考、戦略として分析した著者のエッセンスのフレーズを引用しておこう。その具体的解説は本書をお読みいただきたい。
*従属しても、自分の位置は決して見失わない。 p64
*戦略眼なき者は大将にふさわしくない。 p66
*たとえ小さくとも存在感を出せば生き残れる。 p68
*戦略眼の確かさで小が大を破る法 つまり、いい勝負ができるということ。 p70
*いくつもの策を講じ状況に応じて打つ手を考える したたかに二面作戦 p72,76
*大勢に帰属しても、譲れないものがある。 家康による沼田領要請を拒絶 p78
*大と戦っても小が勝つ戦略はある。 p80
最終的に、昌幸は、家康との決戦に備えるために上杉景勝に帰属している。そして昌幸は家康との戦においては常に優位に立っていたということを、この書で初めて知った。家康にとり、昌幸は苦手な人物だったとは、おもしろい。「強者を恐れない心の余裕」を昌幸はもち続けた人物だったと著者は言う。これがまた幸村にそのまま引き継がれたのだろう。真田一族のDNAなのかもしれない。
真田一族は不遇の時代に、己の資質の上に、人間力を身につけたようである。
第2章の見出しは「不遇の時代にこそ、縦横無尽に躍動せよ」である。
3. 天正14年(1586)~慶長3年(1598) 幸村の修行時代 真田幸村
昌幸が上杉景勝に帰属したとき、幸村は人質として越後に行く。そこで異例の家臣扱いを受けたそうだ。幸村がそれだけ評価された人物だったということだろう。その幸村が天正14年(1586)後半ごろに、今度は秀吉への人質として大坂に行く。
一方で、昌幸の長男信之は家康に出仕し、彼もまた家康に気に入られ、家康の養女の形で本多忠勝の娘と結婚することになる。それは真田家が乱世で生き残る盤石の保険をかけることになる。真田のしたたかさだろう。
著者は、秀吉が北条氏に宣戦布告した契機は小さな名胡桃城を沼田城城代猪俣邦憲が手に入れようと動いたことにあり、そこには「秀吉と昌幸の策略のにおいがしてならない」と分析する。幸村の初陣は真田軍と北条方の大道寺政繁軍の遭遇乱戦の場だったようだ。「幸村は手勢を率いて敵軍に突っ込み、これをしりぞけた」という。
著者は幸村が人質としてではあったが、秀吉の間近において、さまざまな帝王学や大人物の心の動きを学んだに違いないと分析する。「才覚は人から吸収する」(p116)を幸村は実践できたのだ。この書で認識をあらたにしたことがある。真田昌幸が石田三成とは妻の関係で姻戚関係にあったということと、幸村が秀吉の側近だった大谷吉継の娘を正室に迎えていたということだ。石田三成と大谷吉継が若いときから親友関係だったというのは知っていたが、幸村が吉継の娘を正室にしたことには知らなかった。こういう繋がりも影響があったのだろうか。著者はその点には言及していないが、そんな気がした。
第3章の見出しは「人を見、話を聞き、自らを成長させる」である。
4. 慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い 真田親子(昌幸・信之・幸村)
関ヶ原の戦いの直前に、真田親子の3人、つまり昌幸、信之、幸村が犬伏(いぬぶし)で「犬伏の別れ」として有名な話し合いをしたという。このとき、真田家の将来の存続に関わる策謀が密かに話し合われたのだろうと著者は具体的に分析している。ここでの密談が真田家の将来のシナリオを決めたようだ。当然のことながら、客観的証拠・資料が残されている訳ではないが、それ以前、その後の各人の行動の軌跡から大凡の類推ができるようだ。ここは本書でも興味深いところである。「家族が敵味方に分かれてでも、家を残す」(p126)。だが、これは大凡どの大名でも考えていたことであると思う。
関ヶ原の合戦のために、中山道を進んだ秀忠率いる徳川軍と昌幸・幸村との上田城での攻防は、簡潔に状況が説明されていておもしろい。
第4章の見出しは「大義を貫く決断が、自らを飛翔させる力になる」である。
5. 慶長5年(1600)~慶長19年(16147) 雌伏の時代 真田昌幸・幸村
関ヶ原の戦いの後、昌幸は家康に降伏する。昌幸54歳、幸村34歳のときに、紀州高野山麓の九度山に配流され蟄居することになる。当時の紀州和歌山の領主は浅野幸長。彼は関ヶ原の戦で東軍に味方したが、秀吉の親戚筋でもあったようだ。真田親子にはわずかな生活費しか与えないが、それなりの自由は与えていたと著者は分析している。真田親子は信之からの援助を頼みとしたようである。この時期に刀の鞘に巻く独特の組紐から商品化された、いわゆる真田紐が生活の糧として、家臣たちにより行商されたとう伝承がある。これは生活の資を得るという必然的な意味もあるが、この本を読んでいて、昌幸・幸村が蟄居しながらも世間の動きについて情報収集を積極的にするための手段、隠れ蓑ではないかとふと思った。
昌幸は慶長16年(1611)に没す。著者は「死ぬまでプラス思考 戦略眼を忘れない」人物だったと評している。
第5章の見出しは「たとえ苦境でも、自らを磨き、高められる」である。
6. 慶長19年(1614) 大坂冬の陣 真田幸村
幸村は豊臣方につく。40代後半になっていた幸村は、「いい仕事をして死んでいきたい。ここは一つ、自分というものを示したい、自分の義というものを見せてやろうと思ったにちがいない」と分析する。義のために立ち上がるという、己の生き方を貫くのである。
前章において、大坂の陣のとき、信州の武士たちの他、猟人たちが志願してつくった鉄砲隊が100人もいたというと記している。幸村が九度山を脱出したのは慶長19年(1614)10月9日だそうである。無事に大坂城に行けたのは、阻止しようとする動きがなかったのだろう。このあたり、興味深いところである。
著者の説明によれば、幸村は豊臣の姓をもらい官位も従五位下と、大名格になっていたという。
幸村の統率力を分析し、著者は2点指摘する。(p185)
1. 作戦の見事さ。この人を信じていけば必ず勝つと思えたこと。
2. 幸村の掲げる大義と、幸村の人格を見て、その通りと信じ、自分の戦いに誇りと意義を見出すことができたこと。
つまり、幸村に従えば、己の人生が意味ある人生だったと言える思いにさせたということを著者は指摘する。「義を貫く生き方」(p190)、「品格や道義といったものに価値を置く生き方」(p191)に著者は利よりも尊いものだと賛同している。
ここには、幸村の冬の陣での働きが要領よく総括されている。
第6章の見出しは「満を持して、大義を実現する」である。
7. 慶長20年(1615) 大坂夏の陣 真田幸村
大坂の冬の陣での真田丸の攻防戦が、幸村の名を知らしめ、英雄伝説を確立する。
戦いに勝つ基本の策は先手であるが、夏の陣においても、幸村の提案はことごとく軍議で受け入れられなかったという。大坂方には、戦略眼のある人物が居なかったのだろう。その中で幸村はできる範囲での最善の策を考え出し、寄せ集め部隊でも工夫により強くさせて行ったようだ。著者はその経緯を簡潔にまとめている。幸村の取った作戦は、一点に力を結集するという方法だったという。真田軍は徳川家康をあと一歩というところまで追い詰めるところまで行った。それが「真田日本一の兵(つわもの)」という評価を残したのである。
義を貫き、「大勢は決すとも、決死の覚悟で一矢報いる」(p216)という幸村の生き様である。家康による幸村の首実検の折のエピソードが記されているが、おもしろい。家康の幸村に対する評価が端的に表出していると感じる。
第7章の見出しは「義に生き、華と散る美しさ」である。
各章に見開き2ページのコラムが載っている。これが結構おもしろい。その見出しをご紹介しておく。
「山本勘助」、「真田三代記」、「真田十勇士」、「信之の役割」、「手紙に書かれなかった本音」、「酒好きの幸村」、「真田と忍者」 である。
巻末に、「真田家略系図」、「真田家年表」、「人物相関図」が資料としている。便利である。
ご一読ありがとうございます。
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
真田氏に関して、本書を踏まえて少し関心事項を検索してみた。一覧にしておきたい。
真田氏 :「武家家伝」
あの人の人生を知ろう~真田 幸村(信繁) :「文芸ジャンキー・パラダイス」
真田信繁 :ウィキペディア
幸村だけじゃない!チーとすぎる真田一族まとめ :「NAVERまとめ」
真田氏歴史館 :「上田市」
御屋敷公園 | 上田城以前の真田氏の館跡 :「はじめての上田城観光旅行レビュー」
上田城跡 :「上田市文化財マップ」
上田城 :「城下町絵図アーカイブ」
大河ドラマ「真田丸」の舞台(3)…真田昌幸が死守した因縁の沼田城
城郭ライター 萩原さちこ :「YOMIURI ONLINE」
沼田城戦史Ⅰ~沼田の変遷と真田昌幸~ :「戦国籠城伝」
真田三代記 :「コトバンク」
真田三代記 正伝 臼田亜浪 著 :「近代デジタルライブラリー」
絵本真田三代記 :「近代デジタルライブラリー」
九度山・真田ミュージアム :「九度山は真田のこころ生きる郷」
真田家の館 ホームページ
安居神社-真田幸村終焉の地- :「真田丸」
真田丸(真田出丸)概要 :「真田丸」
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本書のサブ・タイトルは「相手のこころを動かす『義』の思考方法」となっている。
時代がどう変わろうと、真田一族が生き残るということを大前提とした戦略が一族の中で貫き通され、その中核の信念が「義」という一語にあるとする。それは己の存在する拠り所との関わりの中での一貫した「義」の在り方といえる。変節することなく、一途に一貫して「義」を貫き通すという生き様が相手のこころを動かしたのだと著者は主張していると理解した。そこに、著者は「生き抜くための智恵と統率力と交渉力」を見つめている。
著者は真田三代の生きた時代を7区分したステージに分け、7章にして著者のメッセージを見出しとしている。ここでは、真田三代の区分ステージと、そこでの主体になる人物名を先ず記して、著者のメッセージに触れてみる。こんなステージ区分になっている。
1. 天文10年(1541)~天正10年(1582) 武田家時代 真田幸隆・昌幸
幸隆が、武田信虎と結託した宿敵村上義清に信濃の故郷を追放され、上野国箕輪城主長野業正に人物を見抜かれ庇護される。この不遇時代に、晃運和尚が幸隆に出会い、彼の才覚を見抜いたという。晃運は後に、松代の真田家菩提寺長国寺の開山となる和尚であると著者は言う。
そして、その後、幸隆は信虎を追放した信玄に臣従する。幸隆は信玄の生涯唯一の敗戦「砥石崩れ」の後に、砥石城を調略して実績を上げ、信玄の信頼を得ていく。
幸隆はその後も戦功を積み、本領だった真田郷を信玄により回復される。幸隆は三男の昌幸を信玄に人質として差し出す。
昌幸はこの信玄の許での人質時代に、「普通では会得できない多くのものを身につけた」のだと、著者は分析している。昌幸が、信玄を通して、人を見る眼、相手の本質を見抜く眼を磨くことを学んだとみている。
出典は明記されていないが、著者は昌幸が学んだ信玄の教えを8つ列挙している。参考になるのでそのまま著者の記述を引用する。
「一 古参や新参の区別なく、手柄話に虚と実の程度がどれほどか。
二 たとえ手柄があったとしても嘘を常についている人物かどうか。
三 同僚とのついあい方はどうか。
四 身分の高い家臣には慇懃であるが、その他には素っ気ない態度をとる人物ではないか。
五 酒に呑まれる人物か。
六 人を怒らせるようなことを平気でする人物か。
七 武具などの手入れや入れ替えにいつも注意を払っている人物か。
八 武具などに凝るが、鍛錬を怠ってはいないか。」
これって、いまでも少し読み替えればそっくり役立つ教えではないだろうか。真理は不変というところか。
著者は、「人は、よき師、よき友に出会うことで本物になる」ことを力説する。また、日ごろの行動の大事さと「芯があれば、不利な状況でも動じることはない」という昌幸の生き様を抽出している。
第1章の見出しは「混乱の中で、日本人の礎が築かれた」である。
2. 天正10年(1582)~天正13年(1585) 真田家苦難の時代 真田昌幸
武田氏滅亡後に、昌幸が「機を逃さず次の一手を打つ」様の要所を押さえていく。織田信長、北条氏直、徳川家康へと次々に切り替えて従属していく苦難の時代を分析する。ここは昌幸の生き様、思考、戦略として分析した著者のエッセンスのフレーズを引用しておこう。その具体的解説は本書をお読みいただきたい。
*従属しても、自分の位置は決して見失わない。 p64
*戦略眼なき者は大将にふさわしくない。 p66
*たとえ小さくとも存在感を出せば生き残れる。 p68
*戦略眼の確かさで小が大を破る法 つまり、いい勝負ができるということ。 p70
*いくつもの策を講じ状況に応じて打つ手を考える したたかに二面作戦 p72,76
*大勢に帰属しても、譲れないものがある。 家康による沼田領要請を拒絶 p78
*大と戦っても小が勝つ戦略はある。 p80
最終的に、昌幸は、家康との決戦に備えるために上杉景勝に帰属している。そして昌幸は家康との戦においては常に優位に立っていたということを、この書で初めて知った。家康にとり、昌幸は苦手な人物だったとは、おもしろい。「強者を恐れない心の余裕」を昌幸はもち続けた人物だったと著者は言う。これがまた幸村にそのまま引き継がれたのだろう。真田一族のDNAなのかもしれない。
真田一族は不遇の時代に、己の資質の上に、人間力を身につけたようである。
第2章の見出しは「不遇の時代にこそ、縦横無尽に躍動せよ」である。
3. 天正14年(1586)~慶長3年(1598) 幸村の修行時代 真田幸村
昌幸が上杉景勝に帰属したとき、幸村は人質として越後に行く。そこで異例の家臣扱いを受けたそうだ。幸村がそれだけ評価された人物だったということだろう。その幸村が天正14年(1586)後半ごろに、今度は秀吉への人質として大坂に行く。
一方で、昌幸の長男信之は家康に出仕し、彼もまた家康に気に入られ、家康の養女の形で本多忠勝の娘と結婚することになる。それは真田家が乱世で生き残る盤石の保険をかけることになる。真田のしたたかさだろう。
著者は、秀吉が北条氏に宣戦布告した契機は小さな名胡桃城を沼田城城代猪俣邦憲が手に入れようと動いたことにあり、そこには「秀吉と昌幸の策略のにおいがしてならない」と分析する。幸村の初陣は真田軍と北条方の大道寺政繁軍の遭遇乱戦の場だったようだ。「幸村は手勢を率いて敵軍に突っ込み、これをしりぞけた」という。
著者は幸村が人質としてではあったが、秀吉の間近において、さまざまな帝王学や大人物の心の動きを学んだに違いないと分析する。「才覚は人から吸収する」(p116)を幸村は実践できたのだ。この書で認識をあらたにしたことがある。真田昌幸が石田三成とは妻の関係で姻戚関係にあったということと、幸村が秀吉の側近だった大谷吉継の娘を正室に迎えていたということだ。石田三成と大谷吉継が若いときから親友関係だったというのは知っていたが、幸村が吉継の娘を正室にしたことには知らなかった。こういう繋がりも影響があったのだろうか。著者はその点には言及していないが、そんな気がした。
第3章の見出しは「人を見、話を聞き、自らを成長させる」である。
4. 慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い 真田親子(昌幸・信之・幸村)
関ヶ原の戦いの直前に、真田親子の3人、つまり昌幸、信之、幸村が犬伏(いぬぶし)で「犬伏の別れ」として有名な話し合いをしたという。このとき、真田家の将来の存続に関わる策謀が密かに話し合われたのだろうと著者は具体的に分析している。ここでの密談が真田家の将来のシナリオを決めたようだ。当然のことながら、客観的証拠・資料が残されている訳ではないが、それ以前、その後の各人の行動の軌跡から大凡の類推ができるようだ。ここは本書でも興味深いところである。「家族が敵味方に分かれてでも、家を残す」(p126)。だが、これは大凡どの大名でも考えていたことであると思う。
関ヶ原の合戦のために、中山道を進んだ秀忠率いる徳川軍と昌幸・幸村との上田城での攻防は、簡潔に状況が説明されていておもしろい。
第4章の見出しは「大義を貫く決断が、自らを飛翔させる力になる」である。
5. 慶長5年(1600)~慶長19年(16147) 雌伏の時代 真田昌幸・幸村
関ヶ原の戦いの後、昌幸は家康に降伏する。昌幸54歳、幸村34歳のときに、紀州高野山麓の九度山に配流され蟄居することになる。当時の紀州和歌山の領主は浅野幸長。彼は関ヶ原の戦で東軍に味方したが、秀吉の親戚筋でもあったようだ。真田親子にはわずかな生活費しか与えないが、それなりの自由は与えていたと著者は分析している。真田親子は信之からの援助を頼みとしたようである。この時期に刀の鞘に巻く独特の組紐から商品化された、いわゆる真田紐が生活の糧として、家臣たちにより行商されたとう伝承がある。これは生活の資を得るという必然的な意味もあるが、この本を読んでいて、昌幸・幸村が蟄居しながらも世間の動きについて情報収集を積極的にするための手段、隠れ蓑ではないかとふと思った。
昌幸は慶長16年(1611)に没す。著者は「死ぬまでプラス思考 戦略眼を忘れない」人物だったと評している。
第5章の見出しは「たとえ苦境でも、自らを磨き、高められる」である。
6. 慶長19年(1614) 大坂冬の陣 真田幸村
幸村は豊臣方につく。40代後半になっていた幸村は、「いい仕事をして死んでいきたい。ここは一つ、自分というものを示したい、自分の義というものを見せてやろうと思ったにちがいない」と分析する。義のために立ち上がるという、己の生き方を貫くのである。
前章において、大坂の陣のとき、信州の武士たちの他、猟人たちが志願してつくった鉄砲隊が100人もいたというと記している。幸村が九度山を脱出したのは慶長19年(1614)10月9日だそうである。無事に大坂城に行けたのは、阻止しようとする動きがなかったのだろう。このあたり、興味深いところである。
著者の説明によれば、幸村は豊臣の姓をもらい官位も従五位下と、大名格になっていたという。
幸村の統率力を分析し、著者は2点指摘する。(p185)
1. 作戦の見事さ。この人を信じていけば必ず勝つと思えたこと。
2. 幸村の掲げる大義と、幸村の人格を見て、その通りと信じ、自分の戦いに誇りと意義を見出すことができたこと。
つまり、幸村に従えば、己の人生が意味ある人生だったと言える思いにさせたということを著者は指摘する。「義を貫く生き方」(p190)、「品格や道義といったものに価値を置く生き方」(p191)に著者は利よりも尊いものだと賛同している。
ここには、幸村の冬の陣での働きが要領よく総括されている。
第6章の見出しは「満を持して、大義を実現する」である。
7. 慶長20年(1615) 大坂夏の陣 真田幸村
大坂の冬の陣での真田丸の攻防戦が、幸村の名を知らしめ、英雄伝説を確立する。
戦いに勝つ基本の策は先手であるが、夏の陣においても、幸村の提案はことごとく軍議で受け入れられなかったという。大坂方には、戦略眼のある人物が居なかったのだろう。その中で幸村はできる範囲での最善の策を考え出し、寄せ集め部隊でも工夫により強くさせて行ったようだ。著者はその経緯を簡潔にまとめている。幸村の取った作戦は、一点に力を結集するという方法だったという。真田軍は徳川家康をあと一歩というところまで追い詰めるところまで行った。それが「真田日本一の兵(つわもの)」という評価を残したのである。
義を貫き、「大勢は決すとも、決死の覚悟で一矢報いる」(p216)という幸村の生き様である。家康による幸村の首実検の折のエピソードが記されているが、おもしろい。家康の幸村に対する評価が端的に表出していると感じる。
第7章の見出しは「義に生き、華と散る美しさ」である。
各章に見開き2ページのコラムが載っている。これが結構おもしろい。その見出しをご紹介しておく。
「山本勘助」、「真田三代記」、「真田十勇士」、「信之の役割」、「手紙に書かれなかった本音」、「酒好きの幸村」、「真田と忍者」 である。
巻末に、「真田家略系図」、「真田家年表」、「人物相関図」が資料としている。便利である。
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真田氏に関して、本書を踏まえて少し関心事項を検索してみた。一覧にしておきたい。
真田氏 :「武家家伝」
あの人の人生を知ろう~真田 幸村(信繁) :「文芸ジャンキー・パラダイス」
真田信繁 :ウィキペディア
幸村だけじゃない!チーとすぎる真田一族まとめ :「NAVERまとめ」
真田氏歴史館 :「上田市」
御屋敷公園 | 上田城以前の真田氏の館跡 :「はじめての上田城観光旅行レビュー」
上田城跡 :「上田市文化財マップ」
上田城 :「城下町絵図アーカイブ」
大河ドラマ「真田丸」の舞台(3)…真田昌幸が死守した因縁の沼田城
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沼田城戦史Ⅰ~沼田の変遷と真田昌幸~ :「戦国籠城伝」
真田三代記 :「コトバンク」
真田三代記 正伝 臼田亜浪 著 :「近代デジタルライブラリー」
絵本真田三代記 :「近代デジタルライブラリー」
九度山・真田ミュージアム :「九度山は真田のこころ生きる郷」
真田家の館 ホームページ
安居神社-真田幸村終焉の地- :「真田丸」
真田丸(真田出丸)概要 :「真田丸」
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