遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『1冊でつかむ 天皇と古代信仰』 武光 誠  平凡社新書

2014-08-08 08:32:24 | レビュー
 著者は「天皇家が続いたおかげで、日本神話も皇室の祭祀も現在までうけつがれたのである」(p12)という。日本の古代には異なる文化をもつ集団が複数あったが、それらの信仰が切り捨てられ、天皇家の信仰に切り替わったのではない。天皇家となる王家の確立過程において、異なる文化の集団がそれぞれに信仰していた神々が取りこまれて、統合・融合・変容する形で集大成されていく。そして日本の古代信仰の全体が形成されて行った。それが現代まで継承されてきたのは天皇家が存続してきたからだというのが著者の論法だと理解した。著者はそれが『古事記』『日本書紀』という歴史書に記されている日本神話に表されているという。八百万の神々があるのは、その体系化を天皇家、つまり大和朝廷が意図的に行った結果であると。日本神話は大和的な天神の世界と出雲的な国神との二極対立という考え方を基盤に、国譲り神話というプロセスを組み込むことでその集大成が図られた。そこには古代信仰のあり方や位置づけが読み取れることになる。
 本書では、縄文時代から平安時代の諸資料を援用しつつ、古代信仰の骨格部分がどのように天皇家の下で古代信仰の有り様として集約統合されていくか、その大きな流れの把握が読ませどころである。対比及・図式化の手法を取り入れてあり、比較的平易な説明なので、わかりやすく、かつ読みやすい。図式は概念のイメージを描くのに役に立つ。

 著者はこう要約している。「皇室の祖先にあたる大王家が指導する集団が持つ神話が、まずあった。そして、それに他の共同体の神話がとりこまれ、さらに大王家の神話群が渡来系の知識人の手で体系づけられていったのである」(p179)と。天皇家(大王家)の首長霊信仰の下に、それまで存在していた他の大王家の首長霊信仰の神々を関連づけ、配する形で取り込み体系化した。一方、その基盤に精霊信仰という形で存在した様々な神々を否定せず包摂していったのだする。八百万の神々が日本に変わらず存在し、人々が重層的に好み(?)の神々を選択して、信仰の対象にしている実態がうまく説明されている。
 根底に有るプリミティヴな精霊信仰や祖霊信仰が歴史的に否定されなかった。それぞれに位置づけられたからこそ、各地の文化・風土のなかで、かつての首長霊信仰がそのまま多少の変容や融合があったとしても、継承されていくことができ、連続性が維持された。逆に時代の流れに合わせて、主祭神の置き換え、あるいは読み替え、合祀・配祀が自由にできる緩やかさが幸いし、それぞれの信仰対象とする神々を維持・拡張できたのかもしれない。それが現在まで継続している。本書を読み、そんな受け止め方をしている。ちょっと大きな神社に立ち寄れば、どことも数々の神々を境内に祀っているのが頷ける。徹底的な排除の論理がなければ、その地に住む人々が信仰対象とした地域の精霊、産土神、首長霊などが一つの土地に重層的に存在することになるのだから。そこにさらに人々が特定の思いを特定の神への信仰として、合祀対象にすれば・・・・、それが現状なのだろう。
 
 本書の章立てを見ると、古代信仰の変遷について大きな流れが読み取れると思う。
 第1章 日本人の基層としての縄文的信仰
 第2章 出雲神政国家の遺産
 第3章 王家の支配を正当化する国譲り神話
 第4章 王家が伝えた農耕祭祀
 第5章 古代の祭祀と三種の神器
 第6章 異世界の物語と古代人の信仰
 第7章 王家の神話の成立

 縄文人の信仰は精霊信仰の世界だった。あらゆるところに崇拝対象が存在した。つまり、八百万の神々の心的ベースはここにある。著者は精霊崇拝を自分なりに定義する。「文明が芽生えた時代に世界の広い範囲で、精霊崇拝がみられた。この精霊崇拝は『宗教の原初形態』と呼ぶべきものであり、あらゆる宗教はこの精霊崇拝をもとに発展したものである。」(p18)と。
 発掘調査の出土物から、縄文人が精霊崇拝にもとづいてさまざまな神をまつっていた事実が見えるという。勾玉や管玉など、我々からみれば単なるアクセサリーと見えるものも、あの時代には貴石の呪力を得て己の身を守る呪器だったそうだ。彫られた文様は呪符とみることができるとか。
 縄文人は狩猟生活を基盤にした。集団は広場を中心に円形になって、獲物は共有財であり、平等にシェアして生活を営む。そこには「和の思想」「円の発想」が培われた集団が形成される。集団の一人一人を重んじる人間中心の社会が形成され、恵みをもたらす地に存在する精霊を崇拝する。その崇拝の対象は、縄文人の集団の立地場所によりさまざまだったのだろう。

 それが弥生文化が北九州に起こり東漸していくにつれ、変化が加わる。水稲耕作に拠る社会である弥生時代は、水稲を作る土地に定着しその土地で営々と生活を継続していくことが生活基盤となる。稲作の始まりは、財の蓄積を可能にし、貧富の差や身分制度を発生して行く。水田の間に溝を作り、田を区分して稲を育てるように「区分の発想」が優位となってくる。自他の所有の区分が基礎になっていく。過去からの継承を重視することが必然化していくことは当然だろう。それは祖霊信仰という考え方になる。つまり、現在の己の存在、蓄積した己の財産の存在を正当化してくれるのは、過去の継承であり祖霊の存在が認められることなのだろう。祖霊信仰が弥生人集団を束ねる首長の祖霊を優位にしていくことは必然の動きだと理解できる。

 弥生文化の東進につれ、縄文人は弥生人と争いつつも次第に東北日本が生活拠点となっていく。その結果、東日本に縄文文化の遺跡が色濃く残り縄文王国の存在を示している。弥生人にまつろわぬ縄文人は『日本書紀』『古事記』の中で、土蜘蛛、国栖などと表記されている。その東進過程で弥生人が縄文人の信仰の一部を自分たちの宗教に取り込んで行った。第1章は上記に併せて、この経緯が簡潔に説かれている。そこには信仰対象の排除ではなく包摂の発想があったことがわかる。この一歩が八百万の神々の継承の始まりとなるのだろう。「縄文時代の遺跡分布と人口分布」(p27)の時系列変遷図が興味深い。

 第2章で、著者は邪馬台国北九州説を前提にしながら、弥生文化の中での出雲政権の存在と位置づけを具体的に論じている。紀元前後に中国の江南からの移住者が北九州沿岸に小国を形成し、紀元1世紀初めには江南の文化が出雲に達したという。2世紀半ばに、一国規模のまとまりができ出雲政権の基ができる。出雲氏及びその同族とされる神門氏とがこの小国を指導者となったという。出雲地方の首長たちが後に大国主命と呼ばれる神を祀るという祭祀を通じて一つにまとまっていく。首長連合体の形でのまとまりが、「新政国家」出雲政権の形成・確立という経緯を辿ると説く。著者は『出雲風土記』に記されている4ヵ所の神南備山と遺跡の発見事例から論じている。そして、当時は土地の守り神をあらわす「国魂」の名前で呼ばれていたのだろうと著者は考えている。大国主命とは、大和朝廷が神々を意図的に体系化しまとめて行った日本神話の記録に現れる名称である。
 著者は出雲の遺跡から発見された大量の銅剣、銅矛あるいは銅鐸の埋設の意味を考察している。出雲王国の成立は、邪馬台国より古いとする。
 出雲新政国家の流れをひく人々を著者は「出雲族」と呼ぶ。出雲族とは大国主命を核とする農耕神をまつる集団であるとする。全国に広がる素朴な土地の神を守る信仰をもつ農耕民はすべて出雲族だと著者は捉えている。それに対して、天照大神という太陽神を最高神と考える人々「天孫族」が対置される。大和朝廷が6世紀頃、継体天皇の時代頃から、天照大神を重視するようになる。つまり、出雲新政国家と大和朝廷の対立に至るという。
 第3章は、まさにこの対立が、日本神話では「国譲り」の物語構想となる。この対立を大和朝廷(王家)を正当化する基としていく経緯を論じている。つまり、6世紀に大和朝廷の支配力が強化されていく中で、意識の転換が必然化されたとする。「各地の首長が大国主命をまつって独自の政治を行う形」から「大王が全国を統治する形」への意識転換が必要だったのだ。「国譲りのいきさつ」(p79)を図式化して、説明されているのでわかりやすい。
 「古代の王家・皇室が最も重んじたものが、農耕儀礼であった。国譲りは、日本における農耕の指導者が、大国主命という神から王家へと交代したことを主張するものであると評価できる」(p104)と著者は記す。
 神話の話が現実の対立抗争と政権交代を象徴したものであり、なぜそれを記す必要があったのか、当時の社会のあり方及び全国統一の要にあった信仰との関係をスッキリと理解できて、おもしろい。

 第4章は、現在の皇室がおこなっている「宮中祭祀」の内容について説明する。天皇が自ら行う「大祭」と掌典長が行い天皇が参列する「小祭」の区分があるという。今日の宮中祭祀は8世紀はじめの『大宝律令』で整備された朝廷の祭祀の大筋をうけつぐ形でいまも継承されているそうである。明治になって新嘗祭に付属する刈穂祭が岩倉具視の発案で整備されたというものも、現在継承されているという。この章を読むと、天皇家のまつりの基本型は、全国の神社にみられるものだということがわかる。
 「天皇の最もたいせつな仕事が神事とされ、それは農耕のためのたつりであると考えられた点は、古代以来かわらない」(p108-109)
 これらの儀礼やまつりの起源をたどれば、弥生人の祖霊信仰に行きつくという。そしてその上に、祭祀の場における首長の地位の高まりにつれ、首長の祖霊を信仰する形へと強まり、首長自体を神格化する発想が生み出されていく。首長霊信仰が重ねられていくという。首長霊信仰が神道思想の核となり、現在に至っていると著者は説く。つまり、天皇家が続いたおかげで、古代の信仰のあり方が現在まで伝わっているというのは、この宮中祭祀の実態が裏付けとなるのだろう。

 第5章は、王家の首長霊信仰の祭器とされた鏡・剣・勾玉といういわゆる「三種の神器」の起源や役割が論じられている。ここでも、三種の神器の出現と継承について図式化して説明されている。その経緯、特に裏話的な変遷経緯がわかっておもしろい。

 第6章では、第1節で、古代人の世界観を踏まえて、皇祖神と山の神、海の神との関係が説明されている。いわゆる「海彦・山彦」の物語、神の名としては海幸彦・山幸彦と皇祖神の関係が論じられている。そして、著者はこの物語の「最初の形は、兄が海神の宮に行って帰ってきた弟の勇気に感服して争いなしに弟に従うものではなかったろうか」(p157)と推測している。それは、「海人(あま)」と呼ばれた航海民を大王(天皇)が支配下に置いていった起こりを説くものだとする。これも興味深い象徴化である。
 第2節は道教的な異界を取り上げている。ここでは、羽衣伝説、浦島太郎、かぐや姫の物語が俎上に乗せられていて、興味深い。

 第7章は、日本神話の重層性と精霊信仰から神道への展開が簡潔に要約されている。


 ご一読ありがとうございます。


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本書に関連する事項、語句をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
銅剣  :ウィキペディア
絵画銅剣の意義 :「高知県文化財埋蔵文化財センター」
銅鐸  :ウィキペディア
銅矛  :ウィキペディア
銅鐸・銅剣・銅矛 :「NHK」
銅鏡  :ウィキペディア
銅鏡の歴史と変遷  :「神鏡と宇宙」

荒神谷博物館 ホームページ
銅鐸博物館 → 野洲市歴史民俗博物館 :「野洲市」


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