本書も作者が多分テーマとしている「しのぶ恋」の系統に連なる作品だと受け止めた。 九州肥前の蓮乗寺藩を致仕し江戸に出た二人の男が、密使として国を出た夫の後を追い、江戸にやって来た元上司・勘定奉行猪口民部の娘・萩乃の苦境を助ける立場に置かれる。蓮乗寺藩江戸屋敷詰めである北上軍兵衛から、致仕したとはいえ藩への奉公だと、萩乃の隠れ家の提供と護衛を依頼される。二人は昔、それぞれがこの萩乃に思いを秘めていた。その女性の身を守るということを引き受けた二人は、再び蓮乗寺藩内のお家騒動に巻き込まれていくことになる。なぜ萩乃が九州から遠く江戸まで出てこなければならなかったのか? 萩乃を誰から守るのか? 密使となり江戸に向かったという萩乃の夫、奥祐筆の椎原亨はどこで何をしているのか? 萩乃に接して、二人の若き頃の思い、心の奥底に秘めていたものが、それぞれに湧出してくる。その二人が互いの気持ちを忖度しながら、萩乃を守るという目的に全力を尽くしていく。
本書の一つの読ませ所は、二人の男のしのぶ恋の有り様の違いが萩乃を守るというプロセスで語られていく点だろう。それぞれがかつて互いの思いを大凡察しつつ、今の思いを忖度しながら、ある意味で出し抜かれたくないという気持ちがはたらく、そのこころの動きが描かれている。一方で、夫及び椎原家に複雑な思いを抱きながら、実父の密命を帯び、夫を追いかけて江戸に出て来た萩乃の心の内が少しずつ明かされていく。そのプロセスが興味深いところだ。萩乃の心の奥に重層した恋の思い、有り様が明らかになっていく。男女両極から描かれる「しのぶ恋」の姿である。
もう一つの読ませ所は、九州肥前の蓮乗寺藩で繰り返されるお家騒動の謎解き、主人公の二人との関わりという因縁話の展開である。ある意味で、藩を致仕した二人の力量を頼みにして、藩の根本問題を解決しようとする猪口民部の狡猾さ。そこには二人のしのぶ恋が二人を巻き込む要因になっていたということになる。
しのぶ恋の終局は、互いに思いを一旦吐露する機会を得た後に、おもかげ橋で再び、その思いを心の奥底に戻し、心の扉を閉じることになる。三者三様の思いの姿が残る。おもしろい作品に仕上がっている。
二人の男とは、草波弥市と小池喜平次である。二人は藩校で机を並べ、剣術道場でも常に席次を争った間柄。弥市の仇名はその顔立ちから糸瓜と呼ばれていた。剣術一筋で家中並ぶ者なしと剣名を高める。喜平次は牛蒡という仇名がついていたが、藩内では秀才として知られる。和歌の素養も身につけている。二人は勘定奉行猪口民部の配下だった。
蓮乗寺家の庶流に生まれたがその才気により中老にまで昇った左京亮は倹約令を出し厳しい改革政策を断行する一方で、不正の道に入っていく。藩主が江戸で病死したことを契機に、左京亮は自分の息子を末期養子にしようと図る。老中安藤壱岐守信利へ訴え出る目的で江戸に立とうとする。その左京亮を猿掛峠で阻止したのが、弥市と貴平次である。猪口民部の内意を受けての行動だったが、それが原因で二人は藩を追われる。
江戸に出た二人の生き方は分かれる。弥市は浪人のまま、微塵流剣術道場を開くが、閑古鳥が鳴くままの状態。三千石の旗本屋敷に月二度ほどの出稽古の仕事だけで糊口を凌ぐわびしい独身のままで中年となっている。喜平次は江戸の学塾に入るが、書物を買いに出た折、小料理屋の軒先での雨宿りがきっかけでやくざ者にからまれた若い娘の危難を助ける。この娘は飛脚問屋丹波屋五郎兵衛の跡取り娘だった。武家の身分をうとましく思っていた喜平次は、五郎兵衛の熱心な申し出を承諾して、丹波屋に婿入りし、その五年後には家督を継ぐ。一方で、気立てのいいお長との間に、娘と息子を授かる。問屋仲間ではしだいに重んじられる存在の商人になっている。
丹波屋の店先に、北上軍兵衛が喜平次を訪ねて行き、江戸に出て来た勘定奉行猪口民部の娘、今は椎原亨の妻女になっている萩乃を一時匿い、守って欲しいという難題を投げかけるのだ。軍兵衛は喜平次に言う。「萩乃殿はな、子を生んでおらぬからであろうか、三十路とも思えぬほど昔と変わらず、なかなかに見目麗しゅうてな。そのうえ、つき添っておるのは、女中と下僕のふたりだけゆえ匿えば、それなりによいこともあろう」と(p18)。
喜平次は、丹波屋が所有する高田村の寮に匿うことを承知するが、飛脚問屋の日頃の仕事があり、弥市に寮に住み込み萩乃の用心棒として警護することを依頼する。弥市の唯一の収入源になっている出稽古の時には、喜平次が用心棒を交代するということになる。それが逆に、二人が萩乃に対するしのぶ思いを互いに忖度しあう形に進展していく。
蓮乗寺藩のお家騒動の当事者である左京亮は老中安藤壱岐守信利との繋がりがある。喜平次は飛脚問屋の株仲間に加わっている。その株仲間の会合に出た折、十組問屋の大行司、山崎屋庄兵衛から飛脚問屋の株仲間に課される冥加金を上げるという問題が伝えられる。喜平次がそのことに反対すると、庄兵衛が絡んでくる。そして、その問題がさらに波紋をひろげていく。庄兵衛の行動の背景に、老中安藤信利の影が見えてくる。喜平次への搦め手が迫っていく。
一方で、萩乃の用心棒を引き受けることになった弥市は、そのこととは全く無関係な出稽古先の旗本、笠井守昌から見合いの話を持ちかけられる。笠井の知人である御家人井戸甚右衛門の娘弥生との見合いである。弥生は嫁ぎ先で夫に短期間で先立たれ、二回の結婚がうまく行かなかったのだという。その弥生の婿養子となれば、生活も安定するだろうという笠井の働きかけである。断れば唯一の出稽古先を失うことになる。弥市に思わぬ難題が持ち上がってくるのだ。萩乃が江戸に現れる前ならば・・・・というところ。
若い頃思いを寄せた萩乃を守るという課題が、致仕した蓮乗寺藩のお家騒動に再び巻き込ませていく。萩乃と椎原亨の夫婦関係の問題もそこに絡みついてくる。また底流で、弥市、喜平次、萩乃に関わる過去のエピソードの思いが重ねられている。弥市と喜平次は、それぞれの立場で事情を抱えながら、これらの問題に巻き込まれていくことになる。そしてついに、弥市と喜平次は、高田の馬場で左京亮の一党との対決の場に臨むことになる。いくつもの糸が絡まり合っていく因縁のおもしろさがそこにある。
若い頃、弥市が萩乃に付け文を渡す。その返事は萩乃から来なかったという。
同じ頃、萩乃は喜平次から和歌の添削指導を受けている。その萩乃には椎原家への縁談が決まる。和歌の指導が今日限りという日に、喜平次は万葉集からの歌を詠じる。
振る雪の空に消えぬべく恋ふれども逢ふよしなしに月ぞ経にける
萩乃は古今和歌集からの歌を己の想いとして口にする。
紅のはつ花ぞめの色深く思ひし心われ忘れめや
初花染の歌が萩乃の複雑な女心を象徴するキーになっている。
著者は和歌を謎かけとして作品の背景に投げかけておく。他の作品でも使われた手法がここにも生かされている。これは著者の好みなのだろうか。和歌の原作者を離れ、本書の著者により、和歌に新たな意味や文脈が息づいていく面白さがまた味わえた。この構成が著者の作品に惹かれる一端にもなっている。私好みというところ。
本書はある意味で切ない結末となるが、そこにしのぶ恋の余韻が残る。
印象に残る文を最後にご紹介しておこう。
*強いだけでなく、弱いところをお見せになる殿方を慕う女子もいるのでございます。そして、そのような想いは深いものだとわたくしは思っております。 p244
*草波様も相手の強さではなく弱さをいとおしまれる方だと存じますから。 p245
*女子は心の奥深くに想いを秘めて、自分にも気づかせないようにすることがございます。草波様はそのことを見抜かれたのだと存じます。 p266
ご一読ありがとうございます。
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。
本書に関連する語句をいくつかネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。
飛脚問屋 → 飛脚 :ウィキペディア
株仲間 :ウィキペディア
三橋会所 :ウィキペディア
末期養子 :ウィキペディア
高田馬場 :ウィキペディア
高田馬場(駅) :ウィキペディア
面影橋(東京都) :ウィキペディア
江戸時代の剣術 :「剣客商売の時代の剣術」
江戸時代の道場事情 :「時の旅人」
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『春風伝』 新潮社
『無双の花』 文藝春秋
『冬姫』 集英社
『螢草』 双葉社
『この君なくば』 朝日新聞出版
『星火瞬く』 講談社
『花や散るらん』 文藝春秋
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版
本書の一つの読ませ所は、二人の男のしのぶ恋の有り様の違いが萩乃を守るというプロセスで語られていく点だろう。それぞれがかつて互いの思いを大凡察しつつ、今の思いを忖度しながら、ある意味で出し抜かれたくないという気持ちがはたらく、そのこころの動きが描かれている。一方で、夫及び椎原家に複雑な思いを抱きながら、実父の密命を帯び、夫を追いかけて江戸に出て来た萩乃の心の内が少しずつ明かされていく。そのプロセスが興味深いところだ。萩乃の心の奥に重層した恋の思い、有り様が明らかになっていく。男女両極から描かれる「しのぶ恋」の姿である。
もう一つの読ませ所は、九州肥前の蓮乗寺藩で繰り返されるお家騒動の謎解き、主人公の二人との関わりという因縁話の展開である。ある意味で、藩を致仕した二人の力量を頼みにして、藩の根本問題を解決しようとする猪口民部の狡猾さ。そこには二人のしのぶ恋が二人を巻き込む要因になっていたということになる。
しのぶ恋の終局は、互いに思いを一旦吐露する機会を得た後に、おもかげ橋で再び、その思いを心の奥底に戻し、心の扉を閉じることになる。三者三様の思いの姿が残る。おもしろい作品に仕上がっている。
二人の男とは、草波弥市と小池喜平次である。二人は藩校で机を並べ、剣術道場でも常に席次を争った間柄。弥市の仇名はその顔立ちから糸瓜と呼ばれていた。剣術一筋で家中並ぶ者なしと剣名を高める。喜平次は牛蒡という仇名がついていたが、藩内では秀才として知られる。和歌の素養も身につけている。二人は勘定奉行猪口民部の配下だった。
蓮乗寺家の庶流に生まれたがその才気により中老にまで昇った左京亮は倹約令を出し厳しい改革政策を断行する一方で、不正の道に入っていく。藩主が江戸で病死したことを契機に、左京亮は自分の息子を末期養子にしようと図る。老中安藤壱岐守信利へ訴え出る目的で江戸に立とうとする。その左京亮を猿掛峠で阻止したのが、弥市と貴平次である。猪口民部の内意を受けての行動だったが、それが原因で二人は藩を追われる。
江戸に出た二人の生き方は分かれる。弥市は浪人のまま、微塵流剣術道場を開くが、閑古鳥が鳴くままの状態。三千石の旗本屋敷に月二度ほどの出稽古の仕事だけで糊口を凌ぐわびしい独身のままで中年となっている。喜平次は江戸の学塾に入るが、書物を買いに出た折、小料理屋の軒先での雨宿りがきっかけでやくざ者にからまれた若い娘の危難を助ける。この娘は飛脚問屋丹波屋五郎兵衛の跡取り娘だった。武家の身分をうとましく思っていた喜平次は、五郎兵衛の熱心な申し出を承諾して、丹波屋に婿入りし、その五年後には家督を継ぐ。一方で、気立てのいいお長との間に、娘と息子を授かる。問屋仲間ではしだいに重んじられる存在の商人になっている。
丹波屋の店先に、北上軍兵衛が喜平次を訪ねて行き、江戸に出て来た勘定奉行猪口民部の娘、今は椎原亨の妻女になっている萩乃を一時匿い、守って欲しいという難題を投げかけるのだ。軍兵衛は喜平次に言う。「萩乃殿はな、子を生んでおらぬからであろうか、三十路とも思えぬほど昔と変わらず、なかなかに見目麗しゅうてな。そのうえ、つき添っておるのは、女中と下僕のふたりだけゆえ匿えば、それなりによいこともあろう」と(p18)。
喜平次は、丹波屋が所有する高田村の寮に匿うことを承知するが、飛脚問屋の日頃の仕事があり、弥市に寮に住み込み萩乃の用心棒として警護することを依頼する。弥市の唯一の収入源になっている出稽古の時には、喜平次が用心棒を交代するということになる。それが逆に、二人が萩乃に対するしのぶ思いを互いに忖度しあう形に進展していく。
蓮乗寺藩のお家騒動の当事者である左京亮は老中安藤壱岐守信利との繋がりがある。喜平次は飛脚問屋の株仲間に加わっている。その株仲間の会合に出た折、十組問屋の大行司、山崎屋庄兵衛から飛脚問屋の株仲間に課される冥加金を上げるという問題が伝えられる。喜平次がそのことに反対すると、庄兵衛が絡んでくる。そして、その問題がさらに波紋をひろげていく。庄兵衛の行動の背景に、老中安藤信利の影が見えてくる。喜平次への搦め手が迫っていく。
一方で、萩乃の用心棒を引き受けることになった弥市は、そのこととは全く無関係な出稽古先の旗本、笠井守昌から見合いの話を持ちかけられる。笠井の知人である御家人井戸甚右衛門の娘弥生との見合いである。弥生は嫁ぎ先で夫に短期間で先立たれ、二回の結婚がうまく行かなかったのだという。その弥生の婿養子となれば、生活も安定するだろうという笠井の働きかけである。断れば唯一の出稽古先を失うことになる。弥市に思わぬ難題が持ち上がってくるのだ。萩乃が江戸に現れる前ならば・・・・というところ。
若い頃思いを寄せた萩乃を守るという課題が、致仕した蓮乗寺藩のお家騒動に再び巻き込ませていく。萩乃と椎原亨の夫婦関係の問題もそこに絡みついてくる。また底流で、弥市、喜平次、萩乃に関わる過去のエピソードの思いが重ねられている。弥市と喜平次は、それぞれの立場で事情を抱えながら、これらの問題に巻き込まれていくことになる。そしてついに、弥市と喜平次は、高田の馬場で左京亮の一党との対決の場に臨むことになる。いくつもの糸が絡まり合っていく因縁のおもしろさがそこにある。
若い頃、弥市が萩乃に付け文を渡す。その返事は萩乃から来なかったという。
同じ頃、萩乃は喜平次から和歌の添削指導を受けている。その萩乃には椎原家への縁談が決まる。和歌の指導が今日限りという日に、喜平次は万葉集からの歌を詠じる。
振る雪の空に消えぬべく恋ふれども逢ふよしなしに月ぞ経にける
萩乃は古今和歌集からの歌を己の想いとして口にする。
紅のはつ花ぞめの色深く思ひし心われ忘れめや
初花染の歌が萩乃の複雑な女心を象徴するキーになっている。
著者は和歌を謎かけとして作品の背景に投げかけておく。他の作品でも使われた手法がここにも生かされている。これは著者の好みなのだろうか。和歌の原作者を離れ、本書の著者により、和歌に新たな意味や文脈が息づいていく面白さがまた味わえた。この構成が著者の作品に惹かれる一端にもなっている。私好みというところ。
本書はある意味で切ない結末となるが、そこにしのぶ恋の余韻が残る。
印象に残る文を最後にご紹介しておこう。
*強いだけでなく、弱いところをお見せになる殿方を慕う女子もいるのでございます。そして、そのような想いは深いものだとわたくしは思っております。 p244
*草波様も相手の強さではなく弱さをいとおしまれる方だと存じますから。 p245
*女子は心の奥深くに想いを秘めて、自分にも気づかせないようにすることがございます。草波様はそのことを見抜かれたのだと存じます。 p266
ご一読ありがとうございます。
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本書に関連する語句をいくつかネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。
飛脚問屋 → 飛脚 :ウィキペディア
株仲間 :ウィキペディア
三橋会所 :ウィキペディア
末期養子 :ウィキペディア
高田馬場 :ウィキペディア
高田馬場(駅) :ウィキペディア
面影橋(東京都) :ウィキペディア
江戸時代の剣術 :「剣客商売の時代の剣術」
江戸時代の道場事情 :「時の旅人」
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『春風伝』 新潮社
『無双の花』 文藝春秋
『冬姫』 集英社
『螢草』 双葉社
『この君なくば』 朝日新聞出版
『星火瞬く』 講談社
『花や散るらん』 文藝春秋
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版