遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『凍土の密約』 今野 敏   文藝春秋

2011-10-21 23:40:07 | レビュー
 著者の警察小説のジャンルにはいくつかシリーズものがある。今まで著者の作品を読んできた範囲の判断で、たぶんこれは単独作品だと思う。この小説、刑事部と公安部が結果的に合同で特捜本部を設けて事件解決にあたるという、すこし特異な(と私が感じるだけか?)設定だ。

 主人公は公安部外事一課所属の倉島である。彼は上田係長から赤坂署に置かれた特捜本部に行くよう指示を受ける。外事一課が殺人の特捜本部に顔を出せという。それも公安総務課の名指しで・・・。その背景に整備企画課の意向があるらしい。倉島は整備企画課という名がでたことにひっかかりを感じる。

 被害者は高木英行(本名、高英逸)、韓国系の在日コリアンで右翼団体『旭日青年社』の幹部。鋭利な刃物による刺創および切創、傷はわずか二ヵ所だけ。ロシア大使館周辺で街宣をやっている行動右翼であるようだ。そして、週明けには成城署管内で野田誠司殺人の特捜部が立ち上がる。被害者は坂東連合多田山組の幹部である。多田山組はロシアとの密貿易を資金源の一部にしている。さらに、十二月半ば過ぎに、ミハイル・ペルメーノフという41歳のジャーナリストが他の二人同様に鋭利な刃物による刺し傷で死ぬ。大崎署の特捜部は公安が仕切る形になる。犯行の手口が同一人物、それもプロの手並みとみなされるが、被害者の繋がりが見えない。

 倉島は、ロシア大使館三等書記官アレクサンドル・セルゲイビッチ・コソラポフという情報源と接触し、ロシア絡みではないかとの疑いから情報を得ようとする。一方、在日ロシア連邦通商代表部に勤めるタチアナ・アデリーナとも接触し、ロシアンマフィアと日本の暴力団の関係での情報を得ようとする。さらに、彼は、『良虎会』という暴力団に渡りをつけてもらい理論右翼の大物で、保守系の政治家にも影響力のあると言われる大木一声との関係を築き、情報を得ようとはかる。
 倉敷は捜査の途中から、上田係長に要請し、外事一課の同僚二人(白崎・西本)の協力を得て、これら特捜部内に関わっていく。一方、コソラポフから、アンドレイ・シロコフという男を調べるようにという情報を得る。西本が、倉島の指示を受けて、独自の情報源からアンドレイ・シロコフについての情報の糸口を得るのだが、その情報源の日本人もまた鋭利な刃物で殺されてしまうことになる。

 日本人3人とロシア人1人の連続する刺殺が、同一犯人と断定され、合同捜査本部が設定され、公安部の仕切りという形で、捜査が展開され事件の究明を図る方向に進んでいく。アンドレイ・シロコフの素性が明らかになるにつれ、事件発生の理由が見え始めるが、それは国家機密にかかわるものへと展開していく

 本書のストーリー展開で副次的におもしろいのは、同じ警察機構にありながら刑事部と公安部はまさに犬猿の仲というような間柄であるのに、事件が両組織の合同捜査を余儀なくさせるという設定になっている点である。こんな一節が出てくる。
  *信頼しているとは言い難い眼差しだった。刑事は、公安を信用していない。それは仕方のないことなのだ。  p70
  *おまえら、公安は何のためにここに来てるんだ?
   どうして殺人事件の捜査に、公安がきているんだ、と訊いてるんだ。 p98
  *なんだと?おまえらの手伝いなんていらないんだ。第一、公安は何か知っていても公にしようとしないじゃないか。おまえら、むしろ捜査の邪魔なんだよ   p99
  *池田管理官の顔が、ごくわずかだが、不快そうに歪んだ。殺人事件を公安が仕切ることに、抵抗を感じるのだろう。 p121
  *わからないという話があるか。俺たち刑事に殺人の捜査をやらせておいて、陰で何かを嗅ぎ回っているんだろう?知っていることを話せよ。  p175
  *ふん、被疑者の身柄を拘束すれば、何でもしゃべってもらえると思っているんだな。常に送検のことだけを考えていればいい刑事は気楽なもんだ  p99
  *井上の態度は、公安捜査官の刑事に対する一般的な評価を表している。つまり、一段低く見ているのだ。  p99
  *殺人の捜査に関して口出しはしませんよ。自分らは、あくまで参考意見を述べさせていただくだけです。 p100
  *何者か、どういう背景を持ているのか、何のために日本に入国したのか・・・・。そういうことが明らかになる前に、刑事たちに教えるのは危険ですからね。 p139

 さらに、刑事部と公安部の捜査に対する方針・姿勢の違いに興味・関心を持たざるを得ない。著者は本書でこんなことを語らせている。
  *今回の事案については、おまえが端緒に触れている。だから、おまえが白崎たちに指示するのは当然のことだ。年齢のことなど気にするな。
   こういう指示は、警察においては珍しい。警察組織では、階級とともに年齢もものをいう。そういう意味では警察もやはりお役所なのだ。だが、公安の捜査官はちがう。上田はそう言いたいのだ。 p109-110
  *特捜本部や捜査本部を、どこが仕切るかで雰囲気が多少変わってくる。刑事部が仕切れば、刑事たちが第一線に立ち、容疑者を追い詰めていくだろう。公安が主導権を握れば、情報合戦の要素が強くなる。誰がどれだけの情報を握っていて、当該の事案がそれとどういう関係があるかを探っていくのだ。  p129
  *実行犯を特定するだけでは事案の解決はない。事案全体として見れば、刑事事案というより、やはり公安の事案と考えるべきだ。三件の殺人の背後に何があるのか、それを探りださなければならない。  p129
  *(公安マンは)あらゆる危機を想定して、それに対処しておかなければならない。  p171
  *公安捜査員は、毎日本庁に顔を出す必要はない。  p186
  *係長、刑事みたいなことを言わないでください。我々は、公判を維持する必要などないのですよ。  p191
  *俺たちは刑事じゃない。検事を納得させる必要はないんだ。だから、証拠、証拠と目くじらを立てることはない。話が通ればいいんだ。  p281
  *あんたたちは、犯罪者の検挙だと思っているかもしれないが、こっちは戦争だと思っているんでね・・・・ p319

 この刑事部と公安部の捜査におけるある種の対立・葛藤がストーリーの展開を刑事物とはちがった展開と雰囲気を生み出し、彩りを与えている。
 『陽炎 東京湾臨海署安積班』について以前、ここに書いた。その時に検索したリストにある項目のソースを見ていただけばおわかりのように、実際の警視庁には刑事部と公安部があり、一方警察庁には刑事局と警備局があって、警備局の中には公安課とか外事情報部がある。現実の組織にはそんな捜査風土や特質の違いがやはり厳然とあるのだろうか。事実は小説より奇なりか。

 四つの殺人事件のねらいが、「凍土の密約」に収斂する。

ご一読、ありがとうございます。

本書で出てきた語句の幾つかをネットで検索してみた。事実情報の範疇で、小説の背景情報として。

「釧路・留萌ライン」とは?
日本の分割統治計画 :ウィキペディアから

北方領土問題

北方四島の話  :ブログ「歴史~とはずがたり~」から

極東軍管区  :ウィキペディアから

極東地域に所在するロシア軍の将来像 :三井光夫氏
―東アジア・太平洋地域の安全保障への影響―

エシュロン  :ウィキペディアから

Echelon (signals intelligence) :From Wikipedia, the free encyclopedia

ロシア連邦軍参謀本部情報総局 :ウィキペディアから

GRU :From Wikipedia, the free encyclopedia

ロシア連邦保安庁 :ウィキペディアから

ロシア連邦保安庁(FSB)

通商代表部  :ウィキペディアから

未開の沃野、ロシアへようこそ
A・ラブレンチィエフ(在日ロシア通商代表部主席):ファイナンシャルジャパンから

対日有害活動 :「警備警察50年 現行警察法施行50周年記念特集号」
 『焦点』 警察庁 第269号 から
(第2章 警備情勢の推移)

ダガー  :ウィキペディアから

ダガーナイフの画像集