戦況も厳しくなる中、軍事費もひっ迫してきた、政府も軍事臨時国債を発行したり、資金集めに大童。
4年生の後半昭和18年頃と記憶するが、担任の先生から放課後屑鉄を拾い集める様にと指示があった、街中に転がっている屑鉄を手当たり次第拾い集め、家に溜まると学校へ持って行き、校庭の片隅に集めた、クラス全員で集めた、どのくらいの期間だったか記憶が薄れたが可成りの量が溜まり、業者に引き取って貰い金銭に変えた、金額もいくらになったか記憶にない。
担任の引率でそのお金を海軍省へクラス全員で献金に行った、何故か校旗(略旗)を持たされ旗手として参加した、クラスの代表などというものではない、それ程頭もよくなく、只体が大きいから持たされたのだろう。
海軍省へ行き献金をすると、海軍大佐が対応してくれ、とても良い事で大臣がお会いするのだが、習志野練兵場の軍事訓練に陛下のお供で参列して留守なので大佐が会ってくれた、特別の計らいで、陛下がもう間もなく練兵場からお帰りになるので、陛下を拝ましてあげましょうと言ってくれた。
当時の陛下は現人神(あらひとがみ)で庶民は陛下のお顔を拝む事は恐れ多くできなかった、大佐の先導で桜田門か警視庁近くだったか整列して陛下のお通りを待った。 当時トラックは走っていたが乗用車は少なかった、荷物運搬手段として馬車も多く通行していて、馬の落下物を馬主が拾う事もなく行き過ぎて、道路には馬の落とし物が散乱していた、清掃人が荷車で落とし物を拾い集め道路を清めていた、陛下のお通りになる30分前には通行人は全てビルの中へ、カーテンをして外を見られないようにした、公園にも集められ道路には人一人いなくなる、当然車も通行禁止。
海軍大佐と担任の先生我々クラス63名が並んで陛下をお待ちした、大佐の指示で先生 生徒は陛下のお車が見えたら最敬礼して通り過ぎたら頭を挙げること大佐が指示してくれる、但し旗手は旗を棹に巻いて水平にして顔は正面を向く事と指示される。
先導バイクと先導車に続いて、天皇旗を掲げあずき色のお召し車、あとにオープンカーの 東条英機陸軍大臣 嶋田繁太郎海軍大臣をはじめ数台の後続車が続いた、誰も居ない道路に我々が並んでいたので、陛下も何事だろうと車窓からこちらを見て通られた、たまたま旗手を命じられたため、小生一人と大佐が挙手をして見送り陛下のお顔を拝めた、当時の庶民ではありえないこと、大変光栄なことだった。
級友一同もお国のために役に立ち、努力が報いられた。
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