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文京ふるさと歴史館

2013-04-02 11:18:03 | 日記

文京ふるさと歴史館

  先日友人らと「文京ふるさと歴史館」を訪れる機会が有った。此の歴史館へは17年前、平成8年3月16日にも訪れている、その時は「東京空襲と学童疎開展」を展示していた。

   これを語るには話を70年程前に遡らなければならない、小生らは当時の本郷区駒込にある「富士前国民学校」に在籍していた。

   時は昭和19年太平洋戦争も熾烈を極め、南方地域 南方諸島で、玉砕 撤退が相次ぎ日本の敗色も色濃くなってきた、南方諸島を手にした米軍はそこを基地にして、本土空襲を激化させてきた、B29数十機が1万メートルの高空から、爆弾 焼夷弾を無差別に投下してくる、その時の日本軍の高射砲は9千メートルしか届かず、B29の下で炸裂、B29は悠々と旋回帰投していた、だが後には高射砲も性能が上がり、B29へ直撃弾が当たるのを目にした、主翼と尾翼が分離、尾翼は大きな弧を描きながら東京湾に落ちた、後に引き上げ日比谷公園に展示されたが、その大きさには度肝を抜かれるほど。

   日本の将来を担う小学生を当時「小国民」として、空襲の犠牲にならぬよう、学童疎開を政府は打ち出し、国民学校4年生から6年生迄に学童疎開を実行した、田舎に縁故が有るものは親類に預けられ、縁故のない者は地方都市の、お寺 旅館等に分散して、団体生活をした、親元を離れ淋しさと空腹に苛まれ厳しいものだったようだ。

   空襲も熾烈さを加え、昭和20年3月10日未明には3百数十機を越す過去にない大規模なB29が3千m~4千mの低空で、ランダムに飛来無差別攻撃、東京の下町を中心に山の手も、都内大部分が焦土と化した、そんな中6年生は卒業を控え3月末には帰京した、卒業式を遣るにも、母校は灰燼に帰し跡かたもない、隣の学校は当時としては珍しい鉄筋作り、そこを借りて卒業式を行ったが、途中で「空襲警報」が発令され、サイレンの鳴り渡る中避難して、卒業式は中途で終わってしまった。

  時は移り終戦から50年目の平成7年に、同級生有志が都内3大新聞に、富士前国民学校昭和20年卒業生の名簿作りを掲載した、これにより多くの同級生が判明、その有志の交友関係 人脈を通して52年目に、修了証書を貰う会を結成した。

  その第一回会合が折しも「文京ふるさと歴史館」で行われていた空襲と学童疎開展を見学、あと会場を移して「文京婦人会館」現在「文京男女平等センター」の会議室へ、1組 2組 3組の幹事10数人が集まり、「52年目の卒業式」を行う会が発足したのである、事後2ヶ月に一度くらいの割合で準備会を開き、平成9年3月1日に卒業式の挙行が決まった。
 母校は空襲による焼失後、復活する事無く昭和21年に廃校になってしまった、改築新装なった隣の昭和小学校の講堂を借りて挙行する事になった。

 平成9年3月1日、文京区長 教育委員会 昭和小学校の全教員 同校在校生5年生 6年生全員その父兄方、
富士前小学校の先輩方、新聞社 テレビ局も来て、盛大かつ厳かに52年目の卒業式が行われた、そんな経緯がある為文京ふるさと歴史館には大きな思い入れが有る。



 

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