百七十四節
弟子の陳子が尋ねた。
「昔の君子はどのような場合に仕えたのでしょうか。」
孟子は答えた。
「仕える場合が三つ、辞職して去る場合が三つある。一つは、心から敬い、礼をつくして招聘し、ご意見は実行しますので、と言ってきた場合は仕える。しかし心から敬い、礼をつくしてくれるが、意見が取り上げられなくなれば去る。二つは、意見は未だ採用されないが、心から敬い、礼をつくして招聘されれば仕える。しかしそれらの尊敬や礼儀の心が薄らいだら去る。三つは、朝夕の食べ物も無く、飢えて外にも出られないとき、領主がそれを聞いて、『私は大にしては彼の説く道を実行することはできず、更にはその意見に従うことも出来なかったが、自分の領内で飢えさせとなれば、私の羞じる所である。』と言って、禄を与えて救済して下さるなら受けてもよい。しかしそれで餓死を免れれば、久しく止まらず去るべきである。」
陳子曰、古之君子何如則仕。孟子曰、所就三、所去三。迎之致敬、以有禮、言將行其言也、則就之。禮貌未衰、言弗行也、則去之。其次、雖未行其言也、迎之致敬、以有禮、則就之。禮貌衰、則去之。其下、朝不食、夕不食、飢餓不能出門戶。君聞之曰、吾大者不能行其道、又不能從其言也。使飢餓於我土地、吾恥之。周之、亦可受也。免死而已矣。
陳子曰く、「古の君子は何如なれば則ち仕うる。」孟子曰く、「就く所は三、去る所は三。之を迎うるに敬を致して、以て禮有り、言、將に其の言を行わんとすれば、則ち之に就く。禮貌未だ衰えざるも、言行われざれば、則ち之を去る。其の次は、未だ其の言を行わずと雖も、之を迎うるに敬を致して、以て禮有れば、則ち之に就く。禮貌衰うれば、則ち之を去る。其の下は、朝に食わず、夕に食わず、飢餓して門戶を出づること能わず。君之を聞きて曰く、『吾大にしては其の道を行うこと能わず、又其の言に從うこと能わざるなり。我が土地に飢餓せしむるは、吾之を恥づ。』之を周(すくう)わば、亦た受く可きなり。死を免るるのみ。」
<語釈>
○「免死而已矣」、この語句の解釈には諸説がある。朱注には、死を免るるのみは、則ち其の受くる所も亦た節有るを曰うなり、とある。顧炎武は、死を免るるのみは、則ち亦た久しからずして去る、故に去る所三つと曰う、と述べている。私は「就く所は三、去る所は三」の語句を重視して、顧炎武の説を採用する。
百七十五節
孟子は言った。
「舜は田野の間から身を起こし天子になり、傅說は城を築く人夫から挙用され、膠鬲は魚や塩の商売人から挙用され、管夷吾は獄官の手の内から取り立てられ、孫叔敖は海辺から取り立てられ、百里奚は市場から挙用された。これらによれば、天はその人に大きな任務を負わせようとするとき、必ず先づその精神を苦しめ、その筋骨を痛めつけ、その肉体は飢えさせ、その身を窮乏に陥らせ、行動はその意志に反するようにさせる。それは心を動かし発奮させ、忍耐強くさせ、出来ないことを増やして試練を与える為である。人という者は恒に間違いをおかすもので、間違ってはじめて改め、心に苦しみ思慮に心を塞がれ苦しんだ後に発奮し、その困苦が顔色や声に現れるほど苦しんだ後に心から悟るものだ。国家でも同じことで、国内には法度を守る譜代の臣や君主を補佐する臣がおらず、国外には対抗する国や他国からの圧力が無かったら、国は必ず滅亡する。こうしてみると、個人も国家も同じで、うれいや悩みがあってこそ生き抜くことができ、安楽の中では死ぬことが分かる。」
孟子曰、舜發於畎畝之中、傅說舉於版築之閒、膠鬲舉於魚鹽之中、管夷吾舉於士、孫叔敖舉於海、百里奚舉於市。故天將降大任於是人也、必先苦其心志、勞其筋骨、餓其體膚、空乏其身、行拂亂其所為。所以動心忍性、曾益其所不能。人恒過、然後能改、困於心、衡於慮、而後作、徴於色、發於聲、而後喻。入則無法家拂士、出則無敵國外患者、國恒亡。然後知生於憂患、而死於安樂也。
孟子曰:「舜は畎畝の中より發り、傅說は版築の閒より舉げられ、膠鬲は魚鹽の中より舉げられ、管夷吾は士より舉げられ、孫叔敖は海より舉げられ、百里奚は市より舉げらる。故に天の將に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を勞せしめ、其の體膚を餓えしめ、其の身を空乏にし、行うこと其の為さんとする所に拂亂せしむ。心を動かし性を忍ばせ、其の能くせざる所を曾益せしむる所以なり。人恒に過ちて、然る後に能く改め、心に困しみ、慮に衡わって、而る後に作り、色に徴れ、聲に發して、而る後に喻る。入りては則ち法家拂士無く、出でては則ち敵國外患無き者は、國恒に亡ぶ。然る後に憂患に生じて、安樂に死することを知るなり。」
<語釈>
○「舜發於畎畝之中~百里奚舉於市」、これらの語句は服部宇之吉氏の解説が分かりやすいので、それを紹介する、「發は與すなり、舉げらるること、畎畝は田畠なり、舜初め歷山に耕し、三十にして徴さる、傅說は殷人、人夫となりて城壁を築く、版は土を夾む工事なり、武丁之を用いて相とす、殷の膠鬲は紂の亂を避けて魚鹽を賣る、後文王に舉げらる、管夷吾(管仲)は魯より囚われて齊に送られ、獄官(士)の中より桓公に擢引せられ、孫叔敖は海濱に居りしが、楚荘王に舉げられて令尹となり、虞人百里奚は市に隱れたるを、秦の穆公に舉げられたり」。○「空乏」、窮乏に同じ。○「拂亂」、そむき乱す。○「曾益其所不能」、「曾益」は「増益」に同じで、よく為すことのできないところを増やす意だが、それではおかしいので、今まで出来なかったことが出来るようになったと解釈するのが一般的であるが、この語句からそのように解釈するのも少し無理があるような気がする。そこで私はこの語句の意をそのまま受けて、出来ないことを増やして試練を与えるという意味に解釈する。○「衡」、趙注:「衡」は、「横」なり。○「入則無法家拂士」、趙注:入るは國内を謂うなり、法度大臣の家、輔拂の士無し。
<解説>
天はその人物に大任を果たさせようとしたとき、先ず艱難辛苦を与えて成長させる。その後大望が達成されるのだというこの節の孟子の主張は、幕末の志士たちに愛唱されたらしい。今の迫害や苦しみは待望を達成するために天が与えた試練であると心に刻んで邁進したのであろう。我々も苦しみや憂いがあっても、この孟子の主張に感化されて頑張ることが出来れば喜ばしいことである。
百七十六節
孟子は言った。
「教育も亦た多くの方法がある。私がどうしても教える気が無く断った者も、それを機に反省して、自ら学を修めて徳に進むようになれば、此の謝絶も教えの一つだと言えるだろう。」
孟子曰、教亦多術矣。予不屑之教誨也者、是亦教誨之而已矣。
孟子曰く、「教えも亦た術多し。予、之が教誨するを屑しとせざる者も、是れ亦た之を教誨するのみ。」
<語釈>
○「教誨」、「誨」も「教」の意、教え諭すこと。○「屑」、趙注:「屑」は「絜」なり。
<解説>
短い文章なので、やはり諸説があるようだ。朱注に、「其の人を以て潔しと為さずして、之を拒絶する、所謂不屑の教誨なり、其の人若し能く此に感じ、退きて自ら脩省すれば、則ち是れ亦た我之を教誨するなり。」とあり、之に基づき解釈した。