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『呂氏春秋』巻第十四孝行覧

2017-12-06 15:21:27 | 四書解読

巻十四 孝行覧

一 孝行

一に曰く、凡そ天下を為め、國家を治むるには、必ず本を務めて末を後にす。所謂本とは、耕耘種殖の謂に非ず、其の人を務むるなり。其の人を務むとは、貧にして之を富まし、寡にして之を衆くするに非ず。其の本を務むるなり。本を務むるは孝より貴きは莫し。人主孝なれば、則ち名章榮に、下服聽し、天下譽しむ(高注:「譽」は「樂」なり)。人臣孝なれば、則ち君に事えて忠、官に處りて廉、難に臨みて死す。士民孝なれば、則ち耕芸疾く、守戰固く、罷北(『御覧』は「罷」を「敗」に作るので、敗北の義に読む)せず。夫れ孝は、三皇五帝の本務にして、萬事の紀なり。夫れ一術(高注:「一術」は孝術なり)を執りて百善至り、百邪去り、天下從う者は、其れ惟だ孝なり。故に人を論ずるには必ず先づ親しむ所を以てし、而る後疏なる所に及ぶ。必ず先づ重んずる所を以てし、而る後輕んずる所に及ぶ。今此に人有り、親重に孝敬を行いて(底本は「行於親重」に作るが、陳奇猷に因り、「行孝敬於親重」に改める)、輕疏に簡慢(なおざりにする意)ならざれば、則ち是れ篤く孝道を謹む。先王の天下を治むる所以なり。故に其の親を愛すれば、敢て人を惡まず。其の親を敬すれば、敢て人を慢らず。愛敬を親に事うるに盡くして、光燿、百姓に加わり、四海に究(いたる)るは、此れ天子の孝なり。曾子曰く、「身は、父母の遺體なり。父母の遺體を行う、敢て敬せざらんや。居處莊ならざるは(高注:「荘」は「敬」なり)、孝に非ざるなり。君に事えて忠ならざるは、孝に非ざるなり。官に蒞みて敬ならざるは(高注:「蒞」は「臨」なり)、孝に非ざるなり。朋友に篤からざるは、孝に非ざるなり。戰陳に勇無きは、孝に非ざるなり。五行遂げざれば、災い親に及ぶ。敢て敬せざらんや。」商書に曰く、「刑三百、罪不孝より重きは莫し。」曾子曰く、「先王の天下を治むる所以の者は五、徳を貴び、貴を貴び、老を貴び、長を敬し、幼を慈しむ。此の五者は、先王の天下を定むる所以なり。所謂徳を貴ぶとは、其の聖に近きが為なり。所謂貴を貴ぶとは、其の君に近きが為なり。所謂老を貴ぶとは、其の親に近きが為なり。所謂長を敬すとは、其の兄に近きが為なり。所謂幼を慈しむとは、其の弟に近きが為なり。」曾子曰く、「父母之を生む、子敢て殺さず(身を損なわないという意味)。父母之を置く(高注:「置」は「立」なり)、子敢て廢せず。父母之を全くす、子敢て闕かず。故に舟して游がず(高注:水を濟るに、舟に載り、游(およぐ)がず)、道して徑せず。能く支體を全うして、以て宗廟を守るを、孝と謂う可し。」養うに五道有り(親を養うこと)。宮室を修め、牀笫(ショウ・シ、牀上の敷物を謂うことから、寝床を快適にする意)を安らかにし、飲食を節にするは、體を養うの道なり。五色を樹て(宮室を五色で飾ること)、五采を施し(衣服など身の回りを五色で飾ること)、文章を列ぬるは(高注:青と赤とを之れ文と曰い、赤と白とを之れ章と曰う)、目を養うの道なり。六律を正し、五聲を龢(「和」に同じ)し、八音を雜うるは、耳を養うの道なり(六律・五聲・八音は予備を参照)。五穀を熟し、六畜を烹、煎調(味付け)を龢するは、口を養うの道なり。顔色を龢らげ、言語を説ばし、進退を敬しくするは、志を養うの道なり。此の五者は、代わるがわる進めて厚く之を用うる、善く養うと謂う可し。樂正子春、堂を下りて足を傷つけ、瘳えて數月出でず、猶ほ憂色有り。門人之に問いて曰く、「夫子、堂を下りて足を傷つけ、瘳えて數月出でず、猶ほ憂色有り、敢て其の故を問う。」樂正子春曰く、「善きかな、而の之を問うこと。吾之を曾子に聞く、曾子は之を仲尼に聞く。父母全くして之を生み、子全くして之を歸す。其の身を虧かず、其の形を損わざるは、孝と謂う可し、と。君子咫歩(シ・ホ、「咫」は、わずか、ほんの少しの歩み)を行くも之を忘るること無し。余孝道を忘れたり、是を以て憂う。」故に曰く、身は其の私有に非ざるなり。嚴親の遺躬なり。民の本教を孝と曰い、其の行孝を養と曰う。養は能くす可し、敬を難しと為す。敬は能くす可し、安んずるを難しと為す。安んずるは能くす可し、卒りを難しと為す。父母既に沒するときは、敬みて其の身を行い、父母の惡名を遺すこと無き、能く終ると謂う可し。仁とは此を仁する者なり(これより以下の「此」は全て孝を指す)、禮とは此を履む者なり、義は此を宜しくする者なり、信とは此を信にする者なり、彊とは此を彊むる者なり。樂しみは此に順う自り生じ、刑は此に逆う自り作るなり。

二 本味

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『孟子』巻第七離婁章句上 七十七節、七十八節

2017-12-01 10:29:22 | 四書解読
七十七節

孟子は言った。
「慎み深い者は人を侮らない。心清く質素な者は人から物を奪わない。人を侮り人から物を奪うような君は、ただ人民が自分に従おうとしない事だけを恐れている。そんなことでは外面をどんなに装っても、真の恭倹を為すことはできない。真の恭倹はうわべの言葉や笑顔でとりつくろえるものではない。」

孟子曰、恭者不侮人、儉者不奪人。侮奪人之君、惟恐不順焉。惡得為恭儉。恭儉豈可以聲音笑貌為哉。

孟子曰く、「恭者は人を侮らず、儉者は人より奪わず。人を侮り奪うの君は、惟だ順わざらんことを恐る。惡くんぞ恭儉を為すを得んや。恭儉は豈に聲音笑貌を以て為す可けんや。」

<解説>
趙岐の章指に云う、
「人君の恭倹は、下を率いて風を移す、人臣の恭倹は、其の廉忠を明らかにし、侮り奪うの惡、何ぞ由りて之を干して、其の心を錯わさん。」

七十八節

淳于髡は言った。
「男女は物のやり取りを直接にしないということは、礼義ですか。」
孟子は言った。
「その通り、礼義です。」
「兄嫁が溺れそうになった時、手を執って助け上げるのはどうですか。」
「兄嫁が溺れそうになっているのに、助けないのは、山犬や狼の如き獣の行為だ。男女は物のやり取りを直接にしないということは、礼義であるが、兄嫁が溺れそうになっている時に、手を差し伸べるのは善にかなった臨機応変の処置なのだ。」
「今、天下は乱れて人民は溺れかかっているようなものです。それなのに先生はいっこうに助けようとされない、それはどうしてですか。」
「天下が溺れるのは仁義の正道によって助けるものだ。兄嫁を助けるのは手によるのだ。同じ救うにも手段はそれぞれ違うのだ。それなのに、あなたは手を使って天下を救えとおっしゃるのですか。」

淳于髡曰、男女授受不親、禮與。孟子曰、禮也。曰、嫂溺則援之以手乎。曰、嫂溺不援、是豺狼也。男女授受不親、禮也。嫂溺援之以手者、權也。曰、今天下溺矣。夫子之不援、何也。曰、天下溺、援之以道。嫂溺,援之以手。子欲手援天下乎。

淳于髡曰く、「男女授受するに親しくせざるは、禮か。」孟子曰く、「禮なり。」曰く、「嫂溺るれば、則ち之を援くるに手を以てするか。」曰く、「嫂溺れて援けざるは、是れ豺狼なり。男女授受するに親しくせざるは、禮なり。嫂溺れて、之を援くるに手を以てする者は、權なり。」曰く、「今天下溺る。夫子の援けざるは、何ぞや。」曰く、「天下溺るれば、之を援くるに道を以てす。嫂溺るれば、之を援くるに手を以てす。子、手にて天下を援けんと欲するか。」

<語釈>
○「授受不親」、服部宇之吉氏云う、物のやり取りを直接にせざること。○「權」、權ははかりの分銅、そこから物事を量る義に。趙注に、經に反して、而も善なりとある。決まり事から外れても大局的に見れば善であるというのが、權である。○「天下溺、援之以道~」、趙注:孟子曰く、「當に道を以て天下を援く可べし、而れども道、行わるるを得ず、子、我をして手を以て天下を援けしむるか。」

<解説>
孟子の時代である戦国時代にもなれば、礼の形式も現実に適応しない例が沢山出て来る。その為に礼の精神を尊重しながら現実に対応してゆく柔軟な態度が必要になってくる。それが「權」である。孟子の中には毅然たる態度と、この權とが常に存在している。