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『孟子』巻第八離廔章句下 百十九節、百二十節

2018-07-01 10:35:26 | 四書解読
百十九節

弟子の公都子が言った。
「齊の匡章は国中の者が不孝者と呼んでいる人物ですのに、先生は彼と交際なさるばかりか、穏やかな顔で敬意を表して接しておられます。たっておうかいいたします。それはなぜでございましょうか。」
孟子は言った。
「世間で普通言われている不幸には五つある。手足を動かすことを怠り、父母への孝養を顧みないのが第一の不孝。博打や酒におぼれて、父母への孝養を顧みないのが第二の不孝。金儲けが好きで、妻子ばかりをかわいがって、父母への孝養を顧みないのが第三の不孝。耳目の欲におぼれて、親にまで恥をかかせるのが第四の不孝。蛮勇を誇り血気にはやってすぐに喧嘩したり口論したりして、親にまで危害を及ぼすのが第五の不孝である。章子にはこのうちの一つでもあるのか。あの章子は親子の間で、善を行え、と求め責めあって、意見が合わず仲たがいしてしまったのだ。善を責めあうのは、友人の間ですべき事である。それを親子の間で行えば、恩愛の情を著しくそこなってしまう。あの章子だって夫婦親子のだんらんを望まないはずはない。ただ父の怒りにふれて、側で孝養を尽くせないが為に、自分も妻を離縁し、子供を寄せ付けずして、生涯誰からの孝養も受け付けないようにしたのである。彼は心に、こうでもしなければ、より大きな罪を犯すことになる、と思ったのであろう。これが章子という人物だ。」

公都子曰、匡章、通國皆稱不孝焉。夫子與之遊、又從而禮貌之。敢問何也。孟子曰、世俗所謂不孝者五。惰其四支、不顧父母之養、一不孝也。博弈好飲酒、不顧父母之養、二不孝也。好貨財、私妻子、不顧父母之養、三不孝也。從耳目之欲、以為父母戮、四不孝也。好勇鬭很、以危父母、五不孝也。章子有一於是乎。夫章子、子父責善而不相遇也。責善、朋友之道也。父子責善、賊恩之大者。夫章子、豈不欲有夫妻子母之屬哉。為得罪於父、不得近、出妻屏子、終身不養焉。其設心以為不若是、是則罪之大者。是則章子已矣。

公都子曰く、「匡章は、通國皆不孝と稱す。夫子之と遊び、又從って之を禮貌す。敢て問う何ぞや。」孟子曰く、「世俗の所謂不孝なる者は五あり。其の四支を惰り、父母の養いを顧みざるは、一の不孝なり。博奕し飲酒を好み、父母の養いを顧みざるは、二の不孝なり。貨財を好み、妻子に私して、父母の養いを顧みざるは、三の不孝なり。耳目の欲を從にして、以て父母の戮を為すは、四の不孝なり。勇を好みて鬭很し、以て父母を危うくするは、五の不孝なり。章子は是に一有るか。夫の章子は、子父、善を責めて、相遇わざるなり。善を責むるは、朋友の道なり。父子、善を責むるは、恩を賊うの大なる者なり。夫の章子は、豈に夫妻子母の屬有るを欲せざらんや。父に罪を得て、近づくことを得ざるが為に、妻を出だし子を屏け(しりぞける)て、終身養われず。其の心を設くるや以為えらく、是の若くならずんば、是れ則ち罪の大なる者なりと。是れ則ち章子のみ。」

<語釈>
○「通國」、国じゅうの意。○「禮貌」、服部宇之吉氏云う、「貌」は顔色を和ぐるなり。○「私妻子」、服部宇之吉氏云う、「私妻子」は妻子の愛に惑溺するなり。

<解説>
匡章の、妻を出だし子を屏ける行為は、今の我々には理解し難いものである。このほうがよっぽで道に外れているように感じる。しかしこの時代は、親への孝が何よりも尊ばれ、重要視されたのである。親の罪を見逃しにできず、訴えた結果、逆に親不孝であるとして罪に処せられたという話もある。時代が変われば価値観も変化する。

百二十節

曾子が魯の武城に居たとき、越の軍が攻めてきた。ある人が、「敵が攻めてきた、速く逃げなされ。」と言った。そこで曾子は、留守居の者に、「人を部屋に入れるな、庭の草や木を傷つけさせるな。」と言いつけて去った。敵軍が退却すると使いを出して、「へいや部屋を修理しておけ、やがて帰るから。」と言いつけた。やがて敵兵が全て去ったので、曾子は帰ってきた。門人たちは、「武城では、これほどまでに忠実に敬意を以て先生を厚遇してくれたのに、敵が来れば、いち早く逃げ去り、民への手本となり、敵が去れば復た帰ってくるというのは、あまりよろしくないと思う。」とうわさした。それを聞いた弟子の沈猶行は言った、「それは君たちには理解できないことだ。むかし、先生が我が沈猶家に来られたとき、負芻の乱暴者たちが我が家を襲ったとき、先生は七十人の弟子と一緒に逃げられ、この乱に一切関与されなかった。」

曾子居武城。有越寇。或曰、寇至、盍去諸。曰、無寓人於我室、毀傷其薪木。寇退、則曰、修我牆屋。我將反。寇退、曾子反。左右曰、待先生、如此其忠且敬也。寇至則先去以為民望、寇退則反。殆於不可。沈猶行曰、是非汝所知也。昔沈猶有負芻之禍。從先生者七十人、未有與焉。子思居於衛。有齊寇。或曰、寇至、盍去諸。子思曰、如伋去、君誰與守。孟子曰、曾子子思同道。曾子、師也、父兄也。子思、臣也、微也。曾子子思易地則皆然。

曾子、武城に居る。越の寇有り。或ひと曰く、「寇至る、盍ぞ諸を去らざるや。」曰く、「人を我が室に寓し、其の薪木を毀傷すること無かれ。」寇退けば、則ち曰く、「我が牆屋を修めよ。我將に反らんとす。」寇退き、曾子反る。左右曰く、「先生を待つこと、此の如く其れ忠にして且つ敬なり。寇至れば、則ち先づ去りて以て民の望みを為し、寇退けば則ち反る。不可なるに殆(ちかい)し。」沈猶行曰く、「是れ汝の知る所に非ざるなり。昔、沈猶、負芻の禍い有り。先生に従う者七十人、未だ與ること有らず。」子思、衛に居る。齊の寇有り。或ひと曰く、「寇至る。盍そ諸を去らざるや。」子思曰く、「如し伋去らば、君誰と與にか守らん。」孟子曰く、「曾子・子思は道を同じくす。曾子は師なり、父兄也なり。子思は臣なり、微なり。曾子・子思、地を易うれば則ち皆然り。」

<語釈>
○「薪木」、趙岐は、薪草樹木の意に解してる。ここでは庭の草木の意。○「左右」、朱注:左右は曾子の門人なり。

<解説>
この節の趣旨は少しわかりづらいが、百十八節とも関連して、人はおかれた立場により、実際の行動は違うものであるということを言いたいのであろう。朱注に、尹氏曰く、或いは害に遠ざかり、或いは難に死す、其の事同じならざるは、處る所の地同じならざればなり。君子の心は、利害に繁わされず、惟だ是れのみ、故に地を易えれば、則ち皆能く之を為す、とある。

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