日本庭園こぼれ話

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丹波篠山・盆地が育んだ町並みと文化・・・兵庫県(改編)

2022-01-10 | 歴史を語る町並み

丹波篠山が、今日あるような城下町として整備され始めたのは、慶長14年(1609)のこと。関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は、この地が交通の要衝であったため、豊臣秀頼のいる大坂城と西国大名に対する抑えとして、盆地の中央に城を築くことを命じます。

その土地が当時「笹山」と呼ばれていた小山だったことから、転じて「篠山」になったというのが、地名の由来の有力説。

この城は、築城の名手と言われた藤堂高虎が担当し、1日に8万人を動員した「古今未曾有の天下普請」と語り継がれる大突貫工事により、わずか6ヵ月で完成したということ。

(上: 石垣は、ありし日の篠山城を物語る歴史の証人)

篠山城の初代城主は、徳川家康の実子・松平康重。慶長14年12月に入城した家重は、直ちに城下町の建設に当たり、以来260年間、幕府が信頼を置いた譜代大名の四家14代の藩主によって統治され、明治を迎えます。

明治になり、城郭の建造物の大部分は取り壊されましたが、鉄道の駅が町の中心から5キロも西につくられたことが幸いし、開発の波に流されることなく、当時の城下町のたたずまいを色濃く留める町として残ったのでした。

その町並みは「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

(上: 武家屋敷の町並み / 下: 商家の町並み)

前置きが長くなりましたが、町の散策を始めます。

大阪駅から福知山線で北上。都会の風景を見せていた車窓が一変し、幾重にも重なる山々の間を縫うように走って、快速なら1時間15分で篠山口到着。

そこからバスで15分程で、「篠山城跡」です。

篠山城は一辺が400メートルの方形の平山城。建造物はありませんが、石垣、外濠、「馬出(うまだし)土塁」などは原形をよく残しているということで、国の史跡に指定されています。

建造物は無いと書きましたが、平成12年に「大書院(おおしょいん)」が、慶長の創建当時のままに復元されています。

(上: 復元された大書院が古城に生気を与えている)

大書院は「一大名の書院としては、破格の規模と古式の建築様式を備えたもの」と言われ、京都二条城の二の丸御殿に匹敵する建物だとか。

古城の石垣に昔を偲びながら階段を上りつめると、華やかな素木の大書院。外観、内部の意匠ともに、想像以上に壮麗なその姿は、歴史の奥に埋没していた城跡の中に、何か生気が甦ったような感じでした。

(上: 創建時の壮麗が再び甦った篠山城大書院)

東南の隅にひときわ高く石垣が積まれた天守台に上ると、遠く近く、山々の重なりに囲まれた篠山盆地が一望されます。

(上: 篠山盆地を一望する天守台からの眺め))

 

城跡からお濠の西側に進むと、「お徒士(かち)町武家屋敷群があります。

かつては外濠を取り囲むように多くの武家屋敷が配置されていたそうですが、現在その面影を伝えるのが、西外濠側の通りにある下級武士の家々。

(上: 武家屋敷群の家並み)

「屋敷群」といっても、現代風に改築された家も少なくないのですが、土塀に囲まれた茅葺屋根の屋敷が点在するその道筋は、江戸時代の余韻が残って、風情があります。

(上: 篠山の武家屋敷は、門と母屋の茅葺屋根の意匠がお揃いなのが印象的)

その中の一つ、「安間家(あんまけ)」が史料館として公開されています。

(上: 安間家)

武家屋敷群から南外濠に出ると、お濠端にあるのが小林家長屋門。文化年間(1805)に、藩主・青山忠裕が老女・小林千衛の労をねぎらうために建てたもので、曲家形式で住宅兼用の長屋門という珍しい構造です。

(上: 小林家長屋門)

お濠端の道をぶらぶら歩くと、満々を水をたたえたお濠の豊かな水景が、町の中に牧歌的な風景をもたらしているのを感じます。

(上: お濠端の眺め)

 

篠山城跡の南東にあるのが、「河原町妻入商家群」です。そこは京都からの街道の入口に当たり、城下の他の通りが直線であるのに対し、曲がりくねった、より狭い町筋になっています。それはつまり、「外敵侵入を防ぐ戦略的意図」によってだそうです。

篠山の商業の中心として栄えたその町には、間口が二間半から四間(5~8m)と狭く、奥行きが二十間(40m)以上と深い、典型的な妻入商家が並んでいます。

(上: 往時の町並みの特徴をよく残す河原町妻入商家群)

千本格子、荒格子、中二階の虫籠窓、袖壁・・・・。情緒豊かな町並みを行くと、「丹波古陶館」があります。土蔵造りを現代的にアレンジした瀟洒な建物。ここには、日本六古窯の一つに数えられた丹波焼の、創世期からの代表的な作品が展示されています。

(上: 河原町の景観に調和させた丹波古陶館。クラシックにもモダンにもなり得る土蔵造り)

古陶館の一軒おいた隣は、「能楽資料館」。中世の丹波猿楽を育んだ篠山の町にふさわしい資料館です。

河原町妻入商家群から北に進むと、「丹波杜氏(とうじ)記念館」です。篠山は全国に名高い丹波杜氏のふるさと。その歴史は200年以上も前にさかのぼり、最盛期には5000人もの人々が、灘五郷を中心に、全国各地へと酒造りに出かけて行ったそうです。

武家屋敷群、商家群の他、要所に配置されたいくつかの寺院など、近世城下町の都市計画がよくわかる篠山の町並みを見ながら城跡を一周し、最後は、城の北側のメインストリートにある「歴史美術館」。明治24年建築で、わが国最古の木造裁判所を利用したものです。

(上: 篠山歴史美術館)

その奥の春日神社には、音響効果に工夫が凝らされた能楽殿があります。

ところで、篠山はこうした歴史的建造物の宝庫ですが、町の名はむしろ、数々の名産品によって知られているのではないでしょうか?丹波栗、丹波黒豆、丹波松茸・・・。「丹波」の二文字は高級品の代名詞。

(上: 今風の装いを加えた老舗の外観。軒にぶら下がっているのは特産品の黒豆)

町を歩けば、ふと足を止めたくなるような店があちこちで、目に入るのでした。

 

* 本文は、最新情報ではありません。ご訪問の際は、公式HPなどをご確認ください。

* こぼれ話 : 「丹波篠山(たんばささやま)」は、かつて丹波修験道として栄えた多紀連山をはじめ、700メートル前後の山並みに囲まれた盆地の中にあり、その中心部は遠い昔、古多紀湖と呼ばれる湖の湖底だったとか。

そうした地理条件のため、晴天で寒い晩秋の朝は、盆地一帯が濃霧で覆われ、陽に映えた霧が盆地に漂う様は、「丹い波(あかいなみ)」にも見えるそうで、「丹波」の地名は、ここから生まれたという説も。

 

 

 


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