暮らしの差し色

慢性腎臓病の夫と二人、静かな生活です

大地の子 山崎豊子

2016-01-10 09:09:10 | 
昨年、秋から11月にかけて、山崎豊子の「大地の子」(文庫版 全4巻)を読んだ。

ちょうど NHKBSでも毎週土曜の夜再放送していた。

本は、ブックオフオンラインで中古本を安く入手した。


     



若いころ、中国の残留孤児の帰国で親探しがさかんにテレビで放送された。

当時私とは年齢もかなり離れていることもあって、身近には感じられておらず、ずっと年下の私たちには遠い話のように思っていた。


満州に残された日本人のこどもたちが、悲惨な苦しい人生を歩んでいたことは見聞きしてはいた。

だが「大地の子」を読んでさらに現実を知ることになった。

私が社会人になったと同じ昭和50年代に、残留孤児は辛い身の上がまだ延々と続いていたのだ。


当時、私は水処理のプラントの会社の、工場用水や工場排水の水の分析をする部門で働いていた。


「大地の子」では、名称は変えているが、日本の新日本製鉄の多大な協力・支援のもと、国家的事業で宝山製鉄所を建設していたことを伝えている。

私の部署にも、宝山製鉄所から、たくさんの水のサンプルが送られてきて、分析をしていた。

男性社員も宝山へ出張していた。


その後、勤めていた会社がプラントを受注したかどうかは知らないが、私が働いていた年齢のころでも、残留孤児の方々は苦しい生活や待遇を強いられていたのだ。


そして、宝山製鉄所は、幾年月も掛けてさまざまな障害に遭いながらも完成し、中国の発展に寄与していったのだった。


中国に友人がいることを、以前ブログに書いた。

日本に1988年ごろ留学していた人たちだ。

その一人が、文化大革命の頃は怖かった、と語っていた。

インテリ階層の人たちは、民衆につるし上げられて、地方に送られ、過酷な年月を過ごしたと聞く。

「大地の子」にも詳しく書かれている。

友人が「怖かった」と話したことはこのようなことかと知った。


結婚してから、市営団地に住んでいた頃、その団地にも中国からの帰国者が家族で住んでいた。

連れてきた小学生の男の子は、きかん坊だった。

ことばが通じず、辛かっただろうと思う。


昨年末、韓国と慰安婦問題について、突然の合意となった。

だが、中国の残留孤児は、結局のところ、棄民となってしまったのだ。


4巻読み終えて、ためいきをついた。

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