パオと高床

あこがれの移動と定住

俵万智『考える短歌』(新潮新書)

2011-10-08 11:35:05 | 国内・エッセイ・評論
俵万智が短歌を添削しながら、短歌を書くときに注意したいことを解説していく本である。と、書けばそれだけなのだが、8講座編集のこの本からは表現することの楽しさと読むことの愉しさが伝わってくる。

構成は、各講座、実践編と鑑賞コーナーからできている。実践編は、雑誌「考える人」への投稿歌がもとになっていて、最初に優秀作が掲載され、選評が加えられている。次に添削する作品が載り、実際に講座で伝えたい作る技術を示しながら添削を加えていく。ここでの作品の変化が見物である。読者は読者で、俵万智の指摘に添いながら掲載短歌をどう書きかえようかと考え、実際に添削されたものと比較して楽しむこともできる。また、添削されたものともとの状態との差に、表現する術の心地良いスリルを味わうことができる。
以前、短歌や俳句はオリジナルに添削が加えられ、作者はどんな気持なんだろうと思ったことがあったが、この〈習うー教える〉の関係も創造の場なのかもしれないという気がする。案外、この関係には共同体的な快感が存在するのかもしれないと思ったりもした。俳句もそうなのかもしれないが、短歌が31文字だからこそできることばの微妙な差や配置などによる、より完成された表現へと正解を求めていく作業が、どこか問題を解く気持ちよさに繋がっているようにも思う。もちろん数学のような正解があるわけではないのだが、31文字でできるエレガントな状態というものがあるはずで、それを追求する姿勢は、大仰にいえば、現代数学や物理の考えがエレガントな整合性を追求するのに似ているともいえそうで、そういえば歌人には理系の人も多いような気がする。

で、例えば第8講座は「主観的な形容詞は避けよう 会話体を活用しよう」という講座なのだが、こう書かれている。
「たとえば〈嬉しい〉〈愛しい〉〈苦しい〉と百回言われても、本人でないかぎり、どんなふうに嬉しいのか、どれほど愛しいのか、何がそんなに苦しいのか、はわからない。作者にとっては、あまりに自明のことなので、つい簡単に使ってしまいがちなのが、このような主観的な形容詞だ。形容詞に頼れば、ひとことですんでしまうが、その思いは読者には伝わらない。たったひとことの、その重みを伝えたいために、私たちは短歌を詠む。」
わかりやすくて的確な言い回しなのだ。言っちゃっうことで伝わらなくなってしまうものがあって、それを言わずに伝えるために表現をする。続けて書かれているのだが、「作者は、その風車の様子を見て〈寂しいなあ〉と思ったのだろう。が、短歌にするならば、その様子を描いて、読者に〈寂しいなあ〉と思ってもらわねばならない。そのとき、作者と読者の心に、同じ思いが共有される。」。こう書いたあとに実際の添削が示されるのだ。そうなのだ、主観的形容詞になっているものを、表現は実質のようにして読者に感じさせるのであり、それを読んだ読者が、主観的形容詞を思い浮かべるものなのだ。だから、主観的形容詞のことばだけをやりとりするわけでないのだ。そして、そのことばのみのやりとりでは実際伝わってはいかないのだ。
でもね、例えば現代詩は、そこを逆手にとって、主観的形容詞を使うことで、それを記号化する方法だって使ってしまう。そのあたりにも現代詩の難解さや困難はあるのかもしれないが、現代詩の面白さもあるのだと思ったら、俵万智もちゃんとその辺考えていて、鑑賞コーナーに穂村弘の短歌を載せて、主観的形容詞を生かした例をあげていた。「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」という短歌だ。お見事。

第1講座「も」があったら疑ってみよう、第2講座句切れを入れてみよう 思いきって構造改革をしよう などなど表紙裏に書かれているように「短歌だけに留まらない、俵版『文章読本』」である。

俵万智という人は、もちろん書き手だが、読み巧者、教え上手な人なのだと思える一冊だった。鑑賞文の日本語も適切な日本語だった。平易でありながら平板ではなく、自然と流れるようで背後に技術が隠れているといった文章なのだ。
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北京こんなレストランに行く3 北京に行く(4)

2011-10-07 22:27:12 | Weblog
北京3日目。
盧溝橋に行く途中、回族の人が多い牛街という場所で昼食を食べたレストラン。江南料理、雲南料理ときて、シルクロードの味を求めて入ったレストランだ。お店の名前は吐魯番(トルファン)餐庁。


食べたのはある意味定番かもの羊の串焼き「羊肉串」とシルクロードでポロといった羊肉の入ったピラフ「手抓飯」。

それにラグ麺というトマト味の麺「拉条子」。

あとはアスパラを絹さやだけで巻いた料理を食べる。
入ったときも込んでいたけれど、席にすぐ座ることはできたが、出るときには空き席を待っている人たちが数組いた。また、外の駐車スペースは満車状態で誘導の人が大変そうだった。
ああ、ここでも数年前に行ったカシュガル、トルファン、ウルムチを思いだした。
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カフカ『変身』想(8)~(10)完結

2011-10-03 13:07:34 | 海外・小説
8
 グレーゴルと家族との最後の交錯をどう考えるか。それは食事をしなくなったグレーゴルから繋がっていく問題なのだろう。「未知の食べ物」をどうとるか。グレーゴルの行動が、虫を抱えながら生活していたこの家族の平衡を壊す。グレーゴルを別室に封じ込めたままの、家族と間借人の食事。ヴァイオリンを弾く妹、あからさまに退屈する間借人。それに憤るグレーゴルの動き。気づかれないようにグレーゴルは部屋から妹のほうへ進み出る。間借人の「三人がそろって鼻や口からタバコの煙を吐き出す勢いからして、苛つきぶりが見てとれた。だが、妹はとても上手に弾いていたのだ。」と、グレーゴルの耳と目が動く。妹は「顔をわきに傾け、たしかめるように」そして、「悲しげに」楽譜を追っている。グレーゴルは「妹の眼差しに出くわすように」動く。妹にだけ気づかれようとしているのだ。妹を救えるのは自分しかいないかのようだ。ここで、問題の文章が入る。「獣だからこそ、それで音楽がこんなに身にしみるのか?」という文章だ。音楽に退屈する人間たちを逆手にとっているようなフレーズである。「悲しげ」な音楽は「獣」にこそしみわたるのか。作者カフカの人と獣の位置の逆転がこのフレーズの中をかすめる。池内紀の訳はそんな思いを抱かせる謎を孕ませている。もちろん、ここは、「獣だから、身にしみるのか。いや違う、獣になりきっていない人間だから、音楽が身にしみたのだろう」とも読める。城山良彦の訳は「これほど音楽に心を奪われても、彼は動物だろうか?」となっている。これだと、「獣だろうか」という、グレーゴルの「虫」性への疑問になっている。いずれにしても、ここで、虫と人ということを「獣」という言葉で、読者にもう一度喚起しているのだ。しかも、「身にしみる」という言葉ともどもに。そして、

 ひそかに求めている未知の食べ物への道が示されたような気がした。妹のと
 ころに進み出ようと、グレーゴルは決心した。スカートを引っぱって、それ
 となく示すのだ。妹はヴァイオリンをもって自分の部屋に来るといい。この
 部屋では甲斐がない。自分のもとでこそ演奏が生きてくる。そのあと、もう
 部屋から出したくない。少なくとも自分が生きている限りは、出さないだろ
 う。
                       カフカ『変身』池内紀訳

と、繋がっていくのだ。妹を活かすために、妹を自らのほうに引きずり込もうとする。それが、「未知の食べ物」への道になっている。もう一度、城山訳に触れれば、「未知の糧」となっている。「糧」となれば、生きる糧、目標、使命とも取れる。家族から脱落したグレーゴルは、ここで復帰への足がかりを見いだすと考えることができるのではないだろうか。しかし、虫であるグレーゴルにとって、それは「糧」よりも「食べ物」である。「未知」という言葉には、既知ではあり得ない既存でない奇妙な共生への示唆もある。さらに、この関係は、強制された制度ではないのだ。「妹は強いられてではなく、自分の意志で彼のもとにとどまるといい」と、グレーゴルは考えるのだ。鈴木の訳はここでもより強い。「妹は強制ではなく、自由意志で彼のところに留まらなくてはならない」となっている。そして、妹に音楽学校にやることを告げれば、「妹は感動のあまり泣き出すだろう」と想像する。ここで、何気なくグロテスクな文章が現れるのだ。
  
 グレーゴルは立ち上がり、妹の肩のところにのび上がって、首すじにキスを
 する。店に出るようになってから、リボンもカラーもつけていない。むき出
 しの首すじだった。

祝福と情愛のキスなのだろう。しかし、虫が首すじにキスをするのだ。これは、はたから見たら、刺しているのではないだろうか。ここで、「食べ物」という訳が活きる。さらに、この虫の大きさから考えれば、ここにある「未知の食べ物」というとらえ方は、より歪んだ共生を連想させる。食事をしなくなっているグレーゴルは死を前にしている。死を前にして虫が持つであろう本能的な保存の営みの暗示も、ここには含まれているような気がする。ベンヤミンが『フランツ・カフカ』で書いているように「今日の人間も自己の身体のなかで生きて」いて、そこにグレーゴルのように内的葛藤がなかったとしても、「この身体は彼から滑り落ち、彼に敵対している」のである。「獣だからこそ」の文章が告げる、グレーゴルの宿命は、このグレーゴルの「未知」の見いだしとともに、破綻する。三人の間借人がグレーゴルの侵攻に気づくのである。そして、まさにその妹が、グレーゴルを家族の枠から追放する。グレーゴルが見つけた「ひそかに求めている未知の食べ物」が、グレーゴルに引導を渡す。
 
 「お父さん、これしかないわ。これがグレーゴルだといった考えは捨てなく
 ては。そう思っているかぎり、わたしたちの不幸はつづく。どうしてこれが
 グレーゴルかしら?もしこれがグレーゴルなら、人間とこんな動物とがいっ
 しょに住めないことに、とっくに気がついている。自分から出て行っている。
 そうなると兄はいなくなるけど、暮らしていけるし、兄さんのことは大切に
 覚えている。このへんな生き物は、わたしたちを追い払うのだわ、間借人を
 追い出して、きっと住居をひとり占めにする。わたしたち、往来で寝なくち
 ゃあならない。ほら、お父さん、ほら」

 排除に向かう心的状況、不安がこのセリフの中に凝縮されている。グレーゴルの側からではない、家族の側の、グレーゴルという「権力」化されてしまったものへの怖れが排除と結びついている。そして、先ほど書いたグレーゴルの妹への思いが見事に断罪されているのだ。
 しかし、仮に追い払われてしまった人間たちのあとに、この家に残ったとしてグレーゴルのそのときの姿はどういった様相を見せるのだろうか。グレーゴルは依存することでしか生きられないのかもしれない。枠から逸脱しながらも依存しなければならない、そこにも、この虫の置かれた状況があるのだ。

9
 池内紀に導かれているのか。この解説が気になっていた。

  カフカは注意深く書いている。主人公がいつも三方から見守られていると
 いうこと。むしろ見張られている。家族で唯一の稼ぎ手であって、せっせと
 働いてもらわなくてはならない。
                       池内紀『となりのカフカ』

 虫になり部屋から出てこないグレーゴルに父、母、妹が三方から声をかける場面だ。この「見守られていること」の根拠を池内は「家族の稼ぎ手」という家族制度の中に見いだす。虫になったから「見守られている」のではない、すでに「三方」から「見守られている」存在なのだ。ここに、虫になる契機を見ることはできる。ベンヤミンは『フランツ・カフカ』の中で、マックス・ブロートによって伝えられた、ある短い会話として、次のようなカフカの会話を引きながら、思索を展開している。

  「いやまさか」、と彼は言った、「われわれの世界はたんに神の不機嫌、調
 子の悪い一日に過ぎないんだよ」。「それじゃ、われわれが知っている、世界
 というこの現象形態の外には、希望があるというわけなのか」。彼は微笑んだ。
 「ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。-ただ、われわれにと
 って、ではないんだ」(「詩人フランツ・カフカ」一九二一年)。この言葉は、
 カフカのあの最も奇妙な登場人物たちへの橋渡しをしてくれる。彼らは家族
 の懐を逃れた唯一の存在であり、彼らにとってはもしかしたら希望というも
 のがあるのかもしれない。それは動物たちではなく、猫羊やオドラデクとい
 った、あの雑種たちや糸巻きのような存在でもない。これらすべてのものた
 ちは、むしろまだ家族の呪縛のうちに生きている。グレゴール・ザムザが、
 ほかならぬ両親の住居で毒虫として目覚める(『変身』一九一五年)のは理由
 のないことではないし……
    ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション2』から
                    『フランツ・カフカ』西村龍一訳

 ベンヤミンの言う「希望」という言葉の難しさはあるのだが、カフカの「神の不機嫌」と、「われわれにとって」ではない「無限の希望」という言葉が制度の外と未知性をにじみ出している。その未知性は一体、何にとってなのだろう。川村二郎はここを引きながら、「ベンヤミンの『カフカ』論において最も異様な感銘を与えるのは、またしても、というべきか、「希望」についての実に独特なこだわり方である」と、ベンヤミンを解読していく。そして、希望があるものとないものの区別をするベンヤミンの言葉を受けて、

  さし当り、グレーゴルたちのために希望が存在しないのは、家族の圏内
 に彼らがいるからだという具合にベンヤミンの言葉を理解して敷衍すれば、
 とにもかくにも何らかの庇護のもとにある者に外から希望をさし向ける必
 要はないのだ、ということになろうか。グレーゴルが庇護されているかどう
 か、すこぶる疑問だとしても。
                     川村二郎『アレゴリーの織物』

と、続けられる。
 では、「われわれにとって」ではない「希望」は、どうやって、われわれの希望になりうるのだろうか。

  当り前すぎることをいうが、希望はやはり人間のためにあるのでなければ、
 そもそも存在理由はないはずなのだ。ただ、人間をめぐって、人間と関りの
 ない希望を孕んだ生が、瘴気を孕んだ沼地のようにひろがり、人間をその気
 にひたし、醜く縮ませる。その経過を通じて辛うじて、人間にも、そのため
 に希望が与えられる生物としての可能性が生じるのだと、考えてよいのかも
 しれない。
                     川村二郎『アレゴリーの織物』

できあいのヒューマニズムに溢れた啓蒙的希望とは違う。「無定型な生の沼地」、その「輪郭が定かでない」なにものかを、「名づけようもないと承知の上で任意の呼び方をあえてする方が、ほかならぬその命名を通じて、対象の名づけがたさを際立たせる時、客観的により誠実な態度ではなかろうか」と述べている。「沼」の沼としての見極めが、転位の契機を孕むと語っているのかもしれない。川村二郎はベンヤミンが書いた「カフカの小説は沼の世界で演ぜられる」という読みを解読していく。「ベンヤミンはただ、沼から現れた異形をカフカの世界に見定めながら、それらを逆転の契機を秘めた寓意的形象として受け取ろうとしている」と。そして、それは「希望なき者へ、ほかならぬその希望のなさ故に希望をさし向けるのも、同じ働きである」のだ。
 『ベンヤミン・コレクション2』では「家族の呪縛のうち」と訳され、『アレゴリーの織物』の中では同じ箇所の引用は、「家族の勢力圏の内」と訳されているが、池内の「カフカは注意深く書いている」という部分の、「主人公がいつも三方から見守られているということ。むしろ見張られている。家族で唯一の稼ぎ手であって、せっせと働いてもらわなくてはならない。」という指摘も、この家族の中での位置が示唆されている。ただ、どうにも、「三方」からと「見張られている」という言い方が気になるのだ。これは、僕の中では三人の間借人と重なってしまう。ここに、家族制度の先の遠景を見ることもできるのではないだろうか。
 プラハの町のカフカ。プラハに暮らすカフカの状況を『黄金のプラハ』という本が語っている。

  カフカのようなユダヤ人は、当時、自分がドイツ人の目には「完全なドイ
 ツ人」とは映らず、ユダヤ人と映っていることを意識させられた。しかも、
 チェコ人の目には、自分がドイツ人ないしその同類と映っていることを意識
 させられ、自分が(ドイツ人によって)排除されているドイツ人に属すると
 いう、矛盾した状態に置かれていることを、意識させられた。
                       石川達夫『黄金のプラハ』

 家族からのまなざしだけではなく、社会のまなざしにもさらされている、その存在の位置。

  つまり、チェコ人、ドイツ人、ユダヤ人が混在し、三つどもえの緊張関係
 にあったプラハという町のユダヤ人は、ドイツとチェコの二つの鏡に挟まれ
 た、合わせ鏡状態に置かれ、矛盾した自己像に引き裂かれていたわけである。
                        石川達夫『黄金のプラハ』

 虫が登場し、それを目撃してその存在を知ると家賃を払わずに解約すると言いだす三人の間借人。チェコの現代史にも思いは行く。
 一つの時代の中で一回性だけを生きる作家が、宿命的に引き受ける作家自身の生は、その作品の中で、生の不可能を生きながら、絶望や放擲ではない作家の生を刻みつけるのだ。仮に作品の成立によって作家の死が告げられたとしても、だ。

10
 グレーゴルの死の場面に向かう。
 虫に消えて欲しいと願う父は繰り返す。「こいつに言葉がわかるようだとな」と。その言葉は、一方通行でありながら伝わっているかのように書かれている。部屋に戻るグレーゴルは死を迎える。

 家族のことを懐しみと愛情をこめて思い返した。消え失せなくてはならない
 と、たぶん、妹以上に彼自身が思い定めていた。むなしいような、そしてや
 すらかな思いのなかで、グレーゴルは塔の時計が朝の三時を告げるまで、そ
 のままじっとしていた。窓の外がしらみかけていくのに、なお立ち会った。
 それから彼の頭が意志とかかわりなくガクリと落ちた。鼻孔から最後の息が
 弱々しく流れ出た。
                        カフカ『変身』池内紀訳

 しみるような死の場面である。しかし、小説はその後、父や母という表記から「ザムザ夫妻」へと表記を変えた家族が、間借人を追い出し手伝いの女をクビにし、三人そろって解放されたように郊外に出かける場面で終わる。池内紀も指摘していたが、その前に死の場面で時計が「三時」を告げるとして動き出しているのだ。さらにその前に家族の側で「時計が十時を打つと」という表現はあるが、グレーゴルの側で時間が動くのである。父や母がザムザ夫人となるように、時間はグレーゴルから社会的時間のほうに移行していく。グレーゴルの死によってひとつの時間も消滅する。死体は「すっかり平べたくなって、ひからびていた」。季節は「もう三月の終わり」である。春に一個の生は終える。
 虫がグレーゴルであったという事実は、家族の中でだけ生きている。間借人にとって虫はこの家に寄生する、あるいはこの家族が飼っている異様な虫なのだ。グレーゴルの職場ではどうだろう。グレーゴルは出社しなくなったものというだけで片づくだろう。日常の中に忘却される存在の裏の存在があるのだ。こうなると、この小説を読んだあとでは、実際の虫をかつて人だったものとして見るとどうだろうと考えてしまったりする。人の言葉を解する、かつて人だった虫たち。依存しながらも、虫にとって、実は人とはやっかいな生き物かもしれない。
 例えば、中島みゆきの「この空を飛べたら」の中の一節「人は 昔々 鳥だったのかもしれないね」や、長田弘の詩集『人はかつて樹だった』の、人であることに繋がっていく想像とは逆に、『変身』はかつて人だった虫の誕生と死が描かれている。自然からの逸脱が人間の悲しみを生む。そして、人は鳥や樹を見つめる。それは、「楽園追放」のイメージだと思う。ところが、人が人から滑り落ちてしまう。そこに楽園への帰還はない。それは神との関係なのか、人との関係なのか。「変身」という現象についての根の問いは消えない。例えば契約を破ることで何ものかに変えられる魔法があるとする。その契約は神となのか、悪魔となのか、そして人間となのか。どうしても思いは人が人を虫にする状況に向かってしまうのだが、このことだけでも、この小説『変身』の持つ多義性は思考の連鎖を生みだすのだ。そして、連鎖するのは思考だけではない。この小説の最終部分は「あたたかい陽射し」に包まれている。

 夫婦は口数が少なくなった。ほとんど無意識のうちに、たがいに目で了解し
 合って考えていた。そろそろ娘にいい相手を見つけてやるころあいだ。電車
 が目的地に着いて、娘がいちばん先に立ち上がり、若いからだで伸びをした
 とき、それが二人には、自分たちの新しい夢と、たのしいもくろみを保証し
 ているような気がした。
                       カフカ『変身』池内紀訳

 冒頭「不安な夢」から目覚めたグレーゴルに呼応するように「新しい夢」と未来への希望が小説を結ぶ「ような気がした」終わり方だ。小説の骨格を確かにしようとするラストと取れないことはないだろう。しかし、グレーゴルの死をラストにしなかった小説のラストなのだ。家族は、それぞれの日常を復帰させた。しかし、それは日常の継続でもあるのだ。グレーゴルの存在は、忘れられたもの、記憶の底に忘却されたものとなるのだろう。もし、虫がカフカ自身であったなら、作家カフカの小説背後への消滅は、ある決意なのかもしれない。そして、これは一回性で終わるだろう。しかし、この虫を一般化すれば、娘がむかえる「いい相手」は、家族の中で虫になる可能性を持ち続けることになるのだ。虫になったグレーゴルと継続してきた生活は、グレーゴルの死後の日常に繋がっている。
 そして、カフカの小説背後での死であるとしても、一般化された虫の死と継続であるとしても、読者は様々な読みを展開する謎の現場に立ち会うことになるのだ。しかも、そこは、ロラン・バルトが「テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストのうしろに、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない」(『テクストの快楽』)と書いたような、まなざしが交錯する読みと書きの現場なのだ。ここに、作品の連鎖という、もう一つの連鎖が起動する場があるのだ。
 さらに、これをカフカの側から言えば、ベンヤミンの「彼の力は、解釈できるもののなかで決して尽きてしまわず、むしろそのテクストの解釈に抵抗する」(『フランツ・カフカ』)となり、川村二郎も引いていたベンヤミンのカフカ寓話に対する有名な比喩「つぼみが展開して花開く」が出てくるのである。
 合点のいかなさをめぐるベンヤミンの比喩はこうである。「大人が子供にやり方を教える折り紙の船は、展開して平たい一枚の紙になってしまう。」それは、「寓話には本来ふさわしいのであって、寓話を平らにし、その意味を手のひらに乗せてしまうという、読者の楽しみに適うもの」なのだが、カフカの寓話は「つぼみが花になるように展開する」というものだ。むしろ、『変身』以外のさらに寓話的な寓話に適した言葉なのかもしれないが、この『変身』でも、十分、解釈は解釈を呼び込み、連想は連想を生み、謎は宙づりになる。
 カフカという特殊が、もちろん彼の生そのものが特殊というのではない、むしろ特権的地位の作家はカフカ以前のものなのかもしれないが、彼の置かれた環境において、このような想像力と創造性を発揮したカフカという特殊が、グレーゴルが虫になるという特殊を描きながら、その日常性を具体的克明に一般化し、普遍に至る。しかし、その普遍はむしろ普遍的何ものかを立ち上げるのではなく、あらゆる特殊の介在をもたらす。そこでは、実存主義的解釈が起これば、作家カフカの生活からの投影に、より解釈を見いだすべきだという主張が起こり、心理学的解釈や精神分析的解釈、神学的解釈、身体論など多くの読みが続いている。おそらく、そのどれもが面白いものなのだろう。で、ありながら、開かれた作品は閉じることはない。
 川村二郎が、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』から引いている一節がある。

 《名づけられず、ただ読まれること、しかもアレゴリーの信徒によって不正
 確に読まれ、もっぱらアレゴリーの信徒の手によってきわめて意味深いもの
 とされること、それは名づけられることに比べて、どれほど有意義だろうか。》
                      川村二郎『アレゴリーの織物』

そして、これに続けて「正確な読みというものがそもそも成り立たない対象に関しては、不正確な読みが正しいのだ、ということである」と、川村二郎は書いている。つまり、先に引用した「任意の呼び方」をあえてすることが「不正確な読み」になり、正確な読みの成り立たなさが「対象の名づけがたさ」になる。それは、また、「ああも呼びこうも呼ぶ方が、対象の性格に忠実に寄り添った行為でさえあり得よう」とする態度となる。ただし、「アレゴリーの信徒」にとってはなのだ。
 この『アレゴリーの織物』では、ベンヤミンによるカフカ論の章は「カフカの沼」という章題になっている。その沼沢にあるカフカの作品の群れたち。ブクリと浮かんだあぶくのひとつが『変身』だった。しかし、このあぶく、球形はこの惑星の相似形であったのだ。つまりは、僕らの生きる時間なのである。




引用・参考・参照

カフカ『変身』池内紀訳(白水Uブックス)
 『変身』からの引用は特記がないものはすべてこの本からだ。「グレーゴル」
 の表記は、それぞれの引用文献に従った。
カフカ『変身』城山良彦訳(集英社ギャラリー「世界の文学」)
川村二郎『アレゴリーの織物』から「カフカの沼」(講談社)
 川村二郎氏は2月8日の新聞で亡くなられたことが報道されていた。
ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション2』浅井健二郎編訳から「フランツ・カフカ」西村龍一訳(ちくま学芸文庫)
T・W・アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳(ちくま学芸文庫)
池内紀『となりのカフカ』から「第三章虫になった男」(光文社新書)
池内紀『カフカのかなたへ』から「変身譚」(講談社学術文庫)
木村敏『時間と自己』(中公新書)
内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社)
ミラン・クンデラ『小説の精神』から「そのうしろのどこかに」金井裕、浅野敏夫訳(法政大学出版局)
ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳(みすず書房)
三原弟平『カフカ変身注釈』(平凡社)
石川達夫『黄金のプラハ』から「Ⅳ プラハのユダヤ人街をめぐって」(平凡社)
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カフカ『変身』想(5)~(7)

2011-10-01 15:09:40 | 海外・小説
5
 虫になったグレーゴルの側からではなく、その家族の側から見たときに、まず読者であるボクらは異化される。虫に対して持つ人間の差別意識が克明に叙述されているからだ。虫をある社会から判断したときの異質なものと考えたときに、それに対する受け入れがたさ。そこで、異質なものを、むしろ生理的嫌悪を起こさせる認識しがたき対象に置くことで、ボクらの社会とボクらの意識の姿は引きずり出される。グレーゴルが虫になった事態当初のグレーゴルへの感情は、グレーゴルであることが、まるで家族の意識の側から消されていくように虫としての認識に代わり、嫌悪感を催すもの、厄介なものと変わっていく。ボクらは、そのありように気づかされる。
 しかし、このグレーゴルを権力と読むことはできないだろうか。仮に、状況を生み出し、その状況を牽引する力を権力とおいたとき。あるいは、明確な権力者の力の管理ではない、システムとしての制度に宿る価値の掌握を権力と置いた場合。家族の側は、虫によって蹂躙される家族制度を維持する姿勢によって、虫という権力の存在に絡め取られる。権力というにはあまりに弱体化している権力。アドルノはこの権力との関係を奇妙な「ずれ」として書いている。

  カフカの作品においてもっとも多く認められるもの、それは、際限のない
 権力にたいする反応である。ベンヤミンはこの権力、暴威をふるう家父長の
 権力を、寄生的となづけた。この権力は、みずからがのしかかっている生を
 蚕食する。しかしこの寄生のモメントが、カフカにあっては奇妙にずれてい
 る。南京虫になるのは父ではなくてグレゴール・ザムザなのだ。権力のほう
 ではなくて無力なる主人公たちのほうが余計者に見えるのだ。
  アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳

 虫になる以前のグレーゴルは家族を支える存在であり、セールスマンとしての社会成因であることで、社会制度と家族制度を支えていた。しかし、虫になったあと、家族がそれを引き受けることになる。

  このずれはひとつの全体を描き出しているが、そのなかでは、全体によっ
 てすがりつかれ、また、彼らのおかげで全体が保たれているところの人々が、
 余計者となるのである。
  アドルノ『プリズメン』から「カフカおぼえ書き」渡辺祐邦、三原弟平訳

 この社会の存在は、勤務に行けないグレーゴルを支配人が呼びに来ることで読者に印象づけられる。制度の中に人物はいるのだ。そして、見られているのである。誰に?相互に。そして家族間のやりとりの外に、支配人という存在があり、そこを通してグレーゴルに至る力の図式が連想される。ここには、王権や皇帝などによるのではない権力の非人称的移行を読み取ることが出来るのだ。もちろん、一九一二年執筆、一五年発表の『変身』は、まさに第一次世界大戦の時代であり、帝国主義国家の争いとハプスブルグの消滅にヨーロッパは向かっている。その一方、資本主義社会の加速、サラリーマンという階層の成立と官僚制の整備が進む中で、システムを維持する見えざる力の介在が捉えられていたのではないだろうか。
 そして、虫となったグレーゴルは、その弱体化した様相がむしろ家族に変化を余儀なくさせ、異形の権力として存在してしまう。家計を支えるため社会的に家父長に戻った父は息子であり虫であるグレーゴルにリンゴを投げつけ、彼が死んだとき、家族は「神様に感謝」し、ピクニックに出かけるのである。こう読むと、虫に対する家族の姿勢を非人道的と見るのではない見方も可能なのではないだろうか。つまり、目前に権力として存在してしまったものからの解放と読めるのではないだろうか。しかし、それは権力の死などというレベルではなく、ただ単に、見えない権力への復帰なのだ。もちろん、これが、僕たちを振り回すあの存在がいなけりゃいいのだ、という、排除の言い訳にもなるのだが、相互に移行し合う力をさらに大きな力が掌握しているという権力構造が『変身』からも読み取れるのだ。
 クンデラは『小説の精神』の中で、カフカの他の作品を引いて「カフカの作品において、家族の内輪の〈全体主義〉を、彼の大きな社会像の〈全体主義〉に結びつけている連続性」が見てとれると書いている。さらに、こう書く。

  全体主義社会は、特に極端な形の場合には、公的なものと私的なものとの
 境界を廃棄する傾向にあります。ますます不透明なものと化した権力は、市
 民の生活がこの上なく透明なものであることを要求します。秘密のない生活
 という理想は、典型的な家族の理想に対応しています。
       ミラン・クンデラ『小説の精神』から「そのうしろのどこかに」
                          金井裕、浅野敏夫訳

 もちろん、クンデラが〈全体主義〉という言葉を使うとき、その言葉の強度は強く響くのだが、家族が、虫になったグレーゴルという状況を抱えて回っていく様子はクンデラの指摘を頷かせるものがあるのだ。そして、ここに何とも怪しい雰囲気を漂わせる「間借人」が登場するのだ。その間借人に対して、家族はグレーゴルを隠して、間借人を含んだ家庭を築こうとしている。「秘密のない」理想的な「典型的」家族。しかし、虫自身によって守られるべき秘密は暴かれてしまう。この時点で待ち受けるのは死の受容だけになってしまうのかもしれない。
 クンデラはグレーゴルの、そしてカフカの登場人物の「サラリーマン、役人」である職業に着目し、役人の官僚的世界は「服従の、機械的なものの、抽象の世界」であるとしながら、「このような世界の中に小説を位置づけること、これはまさに叙事詩の本質そのものに反するように見えます」と書き、むしろ、カフカが、その「まったく反詩的なひとつの素材を、極端に官僚化された社会という素材を、小説という偉大なポエジーに変容させ、凡庸きわまりないひとつの物語を、(中略)神話に、叙事詩に、かつて見られたことのない美に変容させることができた」という点に独創を見いだしている。

  カフカは役所の背景をひとつの巨大な次元に拡大したあとで、彼が決して
 知らなかった社会との、今日のプラハの人々の社会との類似性ゆえに私たち
 を魅惑するイメージを、それと気づかずに創りだすことに成功したのでした。
       ミラン・クンデラ『小説の精神』から「そのうしろのどこかに」
                          金井裕、浅野敏夫訳

 クンデラの現代とカフカの時代が見事にクロスする、想像力の伝達が行われているのである。ここに、先見性と普遍性が立ち現れているのだ。

6
 もう一度、『山月記』に思いはいく。『山月記』では、李徴の内部での虎と人の葛藤が描かれる。それがそのまま、人としての意識の喪失への時間経過を生み出していく。この内面の葛藤は凄絶である。

  しかし、其の時、眼の前を一匹の兎が駆け過ぎるのを見た途端に、自分の
 中の人間は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間が目を覚ました時、自分の
 口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばってゐた。
                          中島敦『山月記』
「眼」と「目」の漢字の使い分けがある。目覚めるの慣用かもしれないが動物的な眼光と人間の目の違いとも取れる。この意識を超えた身体の動きは『変身』にもある。虫の本性になってしまったグレーゴルの嗜好の変化や、体の動きはむしろ克明に描かれている。だが、この人と虎のせめぎ合いに見られる人間性の葛藤はないのだ。李徴には「一日の中に必ず数時間は、人間の心が還って来る」のであり、その「人間の心で、虎としての己の残虐な行のあとを見」ると、「最も情けなく、恐ろしく、憤ろしい」と感じてしまう。さらに、そう思う時間は短くなっていき、「どうして虎などになったか」という疑念は気が付けば「どうして以前、人間だったのか」の問いに変わっていることがあると記される。これが、李徴の、人間の「慟哭」へと繋がるのだ。
 一方、カフカは三人称の語りの微妙な位置を維持していく。グレーゴルの視線に立って小説は描かれるのだ。そして、グレーゴルの動きを外から見るときには、作者の語りの三人称が使われる。日本の小説にある「私」語りからくる作者の小説内部への板付きは、堅守されるべき作法としては、ない。といって、作者の自在な視線を駆使するのではなく、より定点観測的な立場を維持することで、微妙な視線の移動を駆使しているかのようだ。そこでは、グレーゴルの意識は明晰に人である。しかし、身体は明らかに、虫なのである。

  グレーゴルは自分にずっと、何てことはない、ちょっとした家具の移動に
 すぎないと言いきかせていたが、まもなく、ほとほと思い知った。この女た
 ちの往き来、小さな掛け声、家具が床にきしる音、そういったものがとっ拍
 子もない、四方八方から近づいてくる騒乱として襲いかかってきた。
                        カフカ『変身』池内紀訳

「何てことはない」と自分に言いきかせるグレーゴル。作者はグレーゴルの内面に触れる。人間的な意識だ。だが、そのあとの「音」への反応は身体的、虫的反射である。さらに、微妙な外の視線が、内の視線との入れ替わりをしながらグレーゴルをその部屋に位置づけていく。

  いまやグレーゴルは這い出てきた-女たちは隣室で書き物机を支えにして、
 ひと息ついていた-クルリクルリと四度にわたり向きを変えた。とにもかくに
 も何を守るべきか、自分でもはっきりしていなかった。すでにガランとした
 壁にことさらめだって、毛皮を着た婦人像だけがかかっていた。グレーゴル
 は大急ぎで這いのぼると、ガラスにからだを押しつけた。ぴったり寄りそっ
 たかたちで、熱い腹にガラスの冷たさがここちいい。

 虫がどうやって部屋の鍵を開けるかを、カフカが友人の前で実際に演じて見せたという挿話が、あとがきに書かれていたが、彼は部屋で実際に虫の格好をして這い回っていたのではないかと想像させる。「グレーゴルは這い出てきた」には部屋に他の人物はいない。これは這い出てきたグレーゴルの意識と取れる。しかし、同時に、誰もいない部屋に出てきたグレーゴルを捉える作者の目でもあるのだ。女たちを捉える。これはグレーゴルの目である。「ひと息ついていた」は意識とも取れるし、外の描写とも取れる。「クルリクルリと」向きを変える。向きを変えるグレーゴルを見ているようでもありながら、グレーゴルの視線の動き自体にもなれる。「四度」というのがおかしい。「何をまもるべきかはっきりしなかった」はグレーゴルの意識である。「守る」は人間の守ろうとする意識だろうか、虫の反射としての意識だろうか。グレーゴルの内面に入っている。だが、ここで虫が微妙に思案げに佇んでいる姿は浮かぶ。壁に視線がいく。視線がいくと考えた段階ではグレーゴルの視線になっている。だが、部屋の描写でもある。「這いのぼる」グレーゴル。ここにも同様のグレーゴルを見る目とグレーゴルの壁を追う視線が交差する。そして、「ぴったり寄りそったかたち」で「ここちよい」という一文が現れる。かたちを捉える外からの視線と感触を捉える内部の視線が文を作り上げている。
 では、心と体が分裂しているのか。ここで、カフカのアクロバティクな先見性が発揮される。人間の本来性などが記述されないのだから、実際に心と体は分裂していても、虫と人の内的葛藤は生まれ得ないのである。「寄り添ったかたち」で「ここちよい」のように、それは、変な言い回しだか、存在として存在しているのだ。
 この作者の微妙な視線は翻訳の影響があるのだろうか。確かに別の訳だと、「いまやグレーゴルは這い出てきた」が、「そこで彼は跳び出した」(城山良彦訳)となっていて、「クルリクルリと四度にわたり向きを変えた」が「走る方向を四度変え」(城山良彦訳)になっている。この訳では内部であり外でもあるといった微妙さは失われるような気がする。しかし、それでも、作者が外から見る視線とグレーゴル自身の内部の視線は往来しあっている。
 また、「母」や「妹」ではなく「女」たちとなっている。ただ、外国語の場合の翻訳のうえでのことかもしれないが、これは虫ではなく、人の意識でありながら、「家族」としての距離の遠さが表れている表現とも読める。人の意識が捉えた関係の変化を表現したと考えられるのだ。

7
 変身した人物の内的葛藤から離れた小説は、外部との間に生み出される関係に向かう。池内紀は次のように指摘する。

  ショッキングな出だしのせいで、カフカの『変身』は虫になった男の物語
 と思われがちだが、その変身自体は最初の一行で終わっている。むしろ主人
 公が日常からズレ落ちたとたんにはじまる、べつの変身が問題だ。時間の変
 身、家族の変身、親子や血のつながりの変身。すべてがみるまに変わってい
 く。
                       池内紀『となりのカフカ』

 家族の生活は変わっていく。父の変化、妹の変化、母の変化、そして家庭自体の変化。間借人が住み、手伝いの女性が来るようになる。関係の変化へのカフカの配慮は、例えば、グレーゴルの死と同時に、父や母といった記述がザムザ氏、ザムザ夫人に変わるところなどにもうかがえる。詳細に描かれる現実は、この幻想譚を夢物語にせず、むしろ夢の持つ妙な細かさで夢的設定を現実に結びつける。現実に対してのカウンターとしての力を発揮するのだ。そのひとつに、「時間」の扱いがあるのかもしれない。
 カフカの克明さへのこだわりは、「時間」をないがしろにするわけにはいかなかったのだろう。彼はすでに「時間」というものが相対性を併せ持つものだと気づいていたのだ。チャップリンの『モダンタイムズ』は一九三六年の映画であるから、二十年ほど早いのだが、速度を増す社会は当然あったはずであり、その中で、時間の相対性はすでに認識されていた。ボクの時間はあなたの時間ではないと思えることが、時間の内容に関わるのではなく、時間の速度にも関わっているのだと知り得るために、僕らは特殊相対性理論をすでに現実で引き受けていたのである。
 社会的時間と自己の時間が一致している場合、僕らは社会との齟齬を起こすことはない。むしろ、社会にとって有益である自身を示すことは社会的時間への一体化を求める。社会の目ざす目的と自身の目ざす目的がひとつであるという思いは、いつ幻想となり、崩れてしまったのだろう。
 グレーゴルは虫になった朝にグチる。「なんてひどい仕事にとっついたものだ」と。寝返りできなくなった体。まだ、体の変化に対して意識はほとんど人間のまま変わっていない。意識が虫となった体になれて、明晰さと虫的意識を併せ持つようになる前の段階だ。「列車は五時」しかし、時計は「六時半」。慌てる。愚痴の中に「両親のことがなければ」や「親の借金を返しさえすれば」と、
働かなければならない動機が潜む。起こそうとする母の声もせかす。しかし、虫となった体は、そうそう動いてくれない。細かい時間の進行に、すでにグレーゴルのずれが描かれている。社会的時間から脱落していくのだ。それでも出てくるグレーゴルを、一章の最後で追い立て、傷つけるのは、父である。
 二章は夕方になる。味覚は変わり、触覚にも慣れている。「夜ぴて彼はそこにいた。ときおりうとうとしかかると、そのつど空腹にせめられて目が覚めた」と、朝の一瞬の慌ただしい時間の流れは緩んでいる。腐りかけの野菜などが好物になる。「繊細さってものが薄れたのかな」と思いながら「ガツガツと」食べる。「ソファの下から這い出して」、グレーゴルは「毎日、食べ物にありついた」というようにして日々が過ぎていく。その中で、借金がありながら実は貯蓄があること。そうとしらずに、一家を支えて働いていたグレーゴルのことなどが綴られていく。この間、父は「人生の最初の休暇というべきこの五年間」を過ごしていたし、「喘息持ちの母」は金が稼げない。妹は化粧し、寝坊し、家事をして、ヴァイオリンを弾くといった生活を送っていた。しかし、今ではグレーゴルが部屋のソファの下にもぐり込んだり、部屋を這い回ったりして日々が過ぎていく。
 そのうち、事情が変わってしまうのだ。「これがあの父であるか」と思えるように、「いつまでもベッドにもぐりこんで」いて、たまの休日に散歩に出ても、「遅れがち」に「とぼとぼとついてきていた」父が、銀行の守衛が着る「紺の制服に金ボタン」を付け、髪は「頭の真ん中で二つに分けられ」て「きちんと梳いてある」姿になっている。社会的時間に復帰しているのだ。家父長位の譲り渡し、移行が見られる。状況は虫であるグレーゴルに引っ張られながら、その関係が変化しているのである。グレーゴルの時間ではない家族の時間が成立している。部屋の区分けが領域の区分けになっている。そして、領域が侵されそうになった時、グレーゴルは追い立てられる。二章の終わりで、父は「小粒の赤いリンゴ」を次々にグレーゴルに投げつける。そのひとつがもろに背中に命中し、めりこんだままになる。
 三章で、この傷が癒えるのに「ひと月以上もかかる」と書かれている。時間はさらに一ヶ月以上経過する。この段階では「もっかの哀れな、おぞましい姿であれ、グレーゴルは家族の一員であって、敵のように扱ってはならず、嫌悪をのみこみ、我慢すること、ひとえに我慢することこそ家族の守るべき戒律なのだ」となっている。この「戒律」は「義務であり掟」(三原弟平訳)あるいは「義務の命じるところ」(城山良彦訳)と訳されている。家族にとってのグレーゴルの位置が示されている。家族が背負い込んでしまったものになっているのだ。部屋からのぞき見る家族の暮らしは、「働きづめで疲れはてた」ものだ。グレーゴルと家族のあいだで、時間は完全に逆転している。グレーゴルの中では日々は消えている。グレーゴルは「もはや、ほとんど何一つ」食べない。これをグレーゴルの生への意志、執着の放棄ととることもできるだろう。だが、一方で単に食べないだけとも取れるのだ。むしろ、ただ生を終えようとしている段階にきているということかもしれない。
 グレーゴルの見る光景は間借人と家族との食事の光景になる。ヴァイオリンを演奏する妹。間借人の三人は演奏に「失望し」、「飽きてしまい」ただ、「礼儀上から我慢している」だけである。そこで、グレーゴルが動き出してしまう。そして、家族とグレーゴルの最後の交錯になるのである。
 時間の経過の中で変わっていく家族と家族との関係。そして、時間自体も、その主体のありかによって変わってしまう。木村敏は『時間と自己』で、「目覚し時計のような完全に私的な時計による現在時刻の告示でも、すこし考えてみればわかるように、結局は学校や職場などの公共の時間やそれに基づく統一的な行動に自己の時間や行動を統合するという目的をもっている」と書き、「共同体の制度的な時間や行動よりも自己の固有の時間や行動を優先させる人にとっては、目覚し時計の音は有害無益な騒音以外のなにものでもないだろう」と続けながら、しかし、それでも「制度的時間を認知することなしには、われわれはもはやなんらの社会的行動をもいとなむことができないのである」と指摘する。そう、まさに虫は社会的行動を不可能としているのだ。ところが、僕らはその社会的時間にどこか疲弊してしまっているのではないだろうか。僕らはどこか実存性を延期させたいという日々の中にいないだろうか。時間は相対的なものである。しかし、虫となって時間自体が変化してしまったグレーゴルは、社会的時間の中で生きられないことによって、人が社会的時間の中で生きているということを証す。一方、社会的時間の中でしか人が生きていられないということを突きつけるのだ。

  切実な問題になるのは、実は時計の示す時間が私的で個人的な時間である
 よりも、公共的な共同体時間だからなのではないのか。われわれが時計を見
 なければならないのは、人間が社会的な動物であって、共同体の制度を内面
 化することによってしか個人の生活をいとなむことができないからなのでは
 あるまいか。
                         木村敏『時間と自己』

さらに制度としての時間の問題に触れながら、次のように論をすすめる。

  真木悠介氏は、原始共同体の無限反復的な時間から、ヘブライズムにおけ
 る線分的な(つまり始めと終りのある)時間とヘレニズムにおける円環的な
 時間という二つの回路を経て、近代社会における計量的な直線的時間へと収
 斂する時間観念の変遷を、「自然からの人間の自立と疎外、それによる自然と
 の〈生きられる共時性〉の解体」と、「共同態からの個の自立と疎外、それに
 よる共同態の〈生きられる共時性〉の解体」との二つの契機を軸にして明快
 に解釈している(『時間の比較社会学』、岩波書店、とくに序章と第三章)。人
 間と自然との、そして原始共同体内部での「生きられる共時性」が解体して、
「知られる共時制」が析出してくるところに時計が成立する。その意味では、
 時計化され制度化された時間は、そのまま、物象化され客体化された時間だ
 ということになる。

ここで難しいのは、このあと、木村敏はベルグソンの「純粋持続」を引いてきて、「理想的な原始共同体」での「生きられる共時性」とは「純粋持続」と同じものであって「まだあまりにも純粋すぎ」て、「時間」という「観念を許さないような状態ではないのだろうか」と続くのだ。こうなると、また別の理解、追求を必要としてくるのだが、時間が観念として誕生することは、つまり「純粋持続」では許されない状態であるので、「生きられる共時性」の解体となると考え、それを、「個々のいま」への「分節」が起こる状態とすれば、「いまの成立に立ち会うべき私自身が、そこではまだ共同体から析出してきていない」と考える。なぜなら、個々の「いまからいまへ」の「拡がりにおける運動」はまだ生じていないからである。それは、おそらく、「分節」がおこっている「いま」があっても、その「いま」を引き受ける「いま」のつながる「拡がり」をもった私自身がまだ誕生していない状態ということを、木村敏はいっているのではないだろうか。そこで、「時間の誕生と個我の誕生とは厳密に同時的であって、両者はともに人間の自然状態からの疎外の症状とみなさなくてはならない」という文章に繋がる。そう、「厳密」に「同時的」誕生が、「拡がりにおける運動」としての「いま」を引き受ける「私自身」の誕生になるのだ。しかし、その誕生は「自然状態からの疎外」となる。
 そこで、「代補現象」としての次の指摘が続く。

  時計とは、このように考えてみるとき、時間の成立をその必須症状として
 伴うような個我の自立と疎外の過程が、失われた「生きられる共時性」を「知
 られる共時制」の形態で埋め合わせようとしている代補現象とでも見るべき
 であろうか。直接的自覚において原始共同体から独立した自己は、せめても
 の間接的役割行動を通じて共同体との連累を保とうとする。時計はこの役割
 行動にとって不可欠の道具となるのである。

 虫になる以前のグレーゴルによって生きられていた「物象化され客体化された時間」は、今やグレーゴルが見る家族の中で流れる時間になる。文字通り、物象化され客体化されている。ここに、時間の本質性はない。しかし、「知られる共時制」での補填がきかなくなった状況は、時間からの脱落の宿命的な距離と、その脱落の不可能性にまとわれた現代人の憂鬱をあぶり出している。

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