パオと高床

あこがれの移動と定住

長崎歴史文化博物館にいく

2006-02-26 21:19:00 | 旅行
長崎歴史文化博物館に行った。諏訪神社の近くで場所がいいし、建物もユニークだった。

企画は「北京故宮博物院展」で、これはちょっと珍しかった。展示物件自体より、清朝だけに絞り込んだ展示で、何となく流れがつかめた。
西太后の異様さとあわれと傲岸さも伝わってきた。十分な解説を期して文字情報が多く、少し疲れたが、その丁寧さは皇帝の移り変わりにとって必要なものだったと思う。

ちょうど、司馬遼太郎の小説を読んでいて、ヌルハチや女真族への知識がかぶってきて楽しかった。

昼食はもちろん、中華街でチャンポンと角煮を食べた。

ヘッセ『シッダールタ』高橋健二訳(新潮文庫)

2006-02-05 11:10:12 | 海外・小説
1922年刊行と書かれている。19年がベルサイユ条約だから第一次世界大戦が終わり、国際連盟が成立したあたりになる。
シッダールタという名前の主人公は釈迦の名前だが、釈迦の悟りの物語ではなく、むしろヘッセその人の仏教の探求から始まった解脱や悟りとは何か、人間と世界との関係は何かを模索した小説だ。そこでは当然、言葉の問題、時間の問題が語られる。常に分別とずれを生じざるおえない言葉に対して実在の在処を語り、過去から未来への時間的経過だけではなくすべてがあまねく世界にあるという共時性に至り、知識と知恵の違いを言い、世界を受け入れるとは、認識するとはどういった状態かをイメージに定着させる。それは人が自らの生をどう見いだすか、あるいは自らの生をどう受け入れるかの問題であり、つまりは二十世紀初頭の世界にあって精神がどこで世界と対峙するかを示そうとしているものだと考えられる。

とても緊張した、そして快感を得られる作品だった。緊張は寓話の含みの深さであり、快感はイメージや描写の心地よさである。

とらわれることから自在であることによって世界は開かれる。探り求めることにあってもそれにとらわれるのではなく、心を開くことで見いだせるのだという自由さへの言及は、世界の声を聞くという行為を促している。

時間の流れを意味しながら、それ自体が過去と未来を併せ持ちながら、漂っている地点では常に現在である川。それだからこそ時間の経緯ではなく、水そのものが今いる地点で常に新しく、また、多様なものをすべて同時に存在させている川。この川のイメージは鮮烈だった。
「永劫回帰」について書かれたエッセイを思い出した。