パオと高床

あこがれの移動と定住

キム・ヨンス「世界の果て、彼女」呉永雅訳(クオン)

2014-09-27 09:40:18 | 海外・小説
短編集『世界の果て、彼女』の中の表題作は、こう書き出される。

  何かを予感させるものがある。翌日山に登るためにリュックサックを
 出してきて、期待に胸膨らませて見上げた窓の外に見た月の輪。二時間
 も待たされたにもかかわらず、便意でももよおしたのかこわばった表情
 で座り、何の質問もしない面接官。徹夜しっぱなしでも一週間ではとて
 も手に負えそうにない膨大な課題をすべてやり遂げて、誰よりも先に着
 いたのにしばし机につっぷし、気がつけば一時間も経っていて呆然と見
 回すがらんとした講義室。

どうだろう。ボクはここで気に入ってしまった。で、こんな喩えのあと、

  月の光の輪や、今にもトイレに駆け込みたそうな顔、あるいはいつの
 間にか過ぎ去ってしまった一時間には、僕らが人生とは不思議なものだ
 と言えない何かがある。

と続く。そして、さらに、

 あらゆることには痕跡が残ると決まっていて、そのせいで僕らは少し時
 間が経ってからやっと、何が最初の歯車だったのかわかる。

そのことの始まりの予感を思いだすということなのかもしれない。
きっかけ、そして、それがきっかけとなる予感。物語はこうして始まる。
小説の主人公「僕」が、「愛について語るようになる最初の歯車」は図書館勤務の「ある女性ボランティア職員の勤勉さだった」。彼女は、「掲示板の片隅」のいつも空いているところに毎週一篇の詩を印刷して画鋲でとめることにした。やがて「三つの季節」が過ぎ彼女が仕事を辞めた後、図書館利用者がそこに詩を貼った。すると、何人かが先を争うように、この国の素晴らしい詩人の詩を披露し始めた。そして、「掲示板がごちゃごちゃしてくると」、一週間に一度集まって、貼る詩を選ぼうということになり、輪読する集まり「一緒に詩を読む人々の会」略して「一詩会」ができた。そうして、「僕」は、その「一詩会」で、掲示板に貼ってあった詩「世界の果て、彼女」を朗読することになる。ここまでで、韓国の詩人の名前が数人出てくる。「ナ・ヒドク」「シン・ギョンニム」「チェ・ハリム」。ちょっと記憶しておきたくなる。
小説はこのあと、その「世界の果て、彼女」の詩を紹介する。

  その詩によれば、詩人が歩いている道の終わりにはメタセコイアの木
 が一本立っている。そこがまさに世界の果てで、そこで彼らは「人と涙
 が互いに沁み込むように、あるいは月と虹がそうなるように」並んでメ
 タセコイアの太い根元に寄りかかって座るはずだった。そうしている間
 に「愛はあんなふうに遅れて/触れさえすれば/跡形もなく、一片の曇り
 もなく/三月の雪のように」消え去るという。

「僕」は、詩の中の「湖を前にして立っている一本のメタセコイア」という一節に惹かれる。そして、「僕」は、メタセコイアに関する本から、詩の中のメタセコイアを突き止める。
「一詩会」で、この詩を朗読すると、その会に参加していた白髪の老婦人が「僕」に話しかけてきた。彼女は、かつて詩人を教えた国語教師だった。詩人は死を前にした病床で、先生に、この詩を読み、「この世の果てまで連れて行きたいほど」好きだった彼女と行った場所がメタセコイアの場所、湖の向こう側だったと告げる。
「僕」と老婦人は、メタセコイアの木のところに行き、そこに埋められた詩人の手紙を掘り出す。
このラストの方は、映画『猟奇的な彼女』を思いだす。
何だか、あらすじになってしまった。ストーリーも面白いと思うのだが、差し挟まれた言葉がいいのだ。例えば、

  やったことは、その結果がどうであれ心に何も残らないのに、やり残
 したことは、それをしたからってどうなるわけではないと知っていても
 忘れられないのよ。

とか、

  僕らはみんな、ほんとは賢くなんかない。たくさんのことを知ってい
 ると思っているが、僕らは大部分のことを知らないまま生きていく。僕
 らが知っていると思っていることの大部分は「僕らの側で」知っている
 事柄だ。ほかの人たちが知っていることを僕らは知らない。

とか。

詩人と彼が愛した人が行ったのは、世界の果てといってもメタセコイアの立つ湖の畔まででしかなかったのかもしれない。だが、そこが二人の世界の果てだったのだ。彼らの思いに、老婦人は自分の気持ちを重ねる。そして、「僕」も「僕」の恋人との思いを重ねる。

  僕は僕たちが歩いている道を見た。湖の向こう側、メタセコイアが立
 っている世界の果てまで行き、そこからはそれ以上進めず、詩人と彼女
 が再びその道を歩いて家まで帰ったかもしれない道だった。だとすれば、
 二人はこれ以上ないほどに幸せだっただろうし、これ以上ないほどに悲
 しかっただろう。でも、おかげでその道に彼らの愛は永遠に残ることに
 なった。再び数万年を経てさまざまな木が絶滅する間にも、もしかした
 ら一本の木は生き残るかもしれず、その木はある恋人たちの思いを記憶
 するかもしれない。

韓国のドラマなどにも見られる、時間を超える思いが書き記される。お互いが関係を持ちながら、それぞれを重ねていく。関係の持ち方は人それぞれであるが、そうすることで時間は積まれていく。

作者のキム・ヨンスはこの本の「著者の言葉」で、「僕は、他者を理解することは可能だ、ということに懐疑的だ」と書いている。だからこそ、「僕が希望を感じるのは、こうした人間の限界を見つける時だ。僕たちは努力しなければ、互いを理解することができない。」そして、「他者のために努力するという行為そのものが、人生を生きるに価するものにしてくれる。だから、簡単に慰めたりしない代わりに簡単に絶望しないこと、それが核心だ」と書く。

 簡単に慰めない代わりに、簡単に絶望しない。これは、何かを否定する
 のでもなければ、何もしないという意味でもない。つまり、僕らの顔が
 互いに似ていくだろうと、同じ希望や理想を思い描いているであろうと
 信じる、嘘みたいな神話のような話なのだ。それでも、僕らが同じ時代
 を生きているという理由だけで、この神話のような話は僕を魅了する。

訳者は「あとがき」で、「疎通」がキム・ヨンス作品の重要なキーワードだと解説する。現代社会の中での「疎通」の可能性。同じ時代を生きる僕たちが手探りし続ける姿が小説となる。
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井伏鱒二「丹下氏邸」(「井伏鱒二自選全集1」新潮社)

2014-09-26 01:54:52 | 国内・小説
きっかけは、木田元のエッセイ集『新人生論ノート』だったか『哲学の余白』だったかで、木田元がこの小説を紹介していたからだ。小説や読書の楽しみ、時間の無駄の必要について書かれた文の中で、とにかく読んでみてくださいと。
それこそ多くの井伏鱒二ファンにとっては、何を今更なのかもしれないが、いやいや、納得、うなりました。書き出しいきなり破調である。

  丹下氏は男衆を折檻(ぎやうぎ)した。(丹下氏は六十七歳で、男衆は
 五十七歳である)この老いぼれの男衆はいつも昼寝ばかりして、丹下氏
 のいふところによると、ひとつ性根をいれかへてやらなければいけない
 といふのであつた。私は丹下氏がそんなに怒つたところをまだ一度も見
 たことがない。

あの有名な作品「山椒魚」の冒頭、「山椒魚は悲しんだ」のような簡潔な書き出しだ。ところが、すぐに括弧をつけて、登場人物の年齢を入れる。書き手の聞き手(読者)への語りがすぐに現れるのだ。で、年齢を入れてから、「このおいぼれ」と書く。そして、語り手の「私」をすぐに登場させる。うまいのは、この「私」が作者かといえば、この「私」も登場人物で、陶器の研究に来ている男なのだ。こうして、小説の書き手の問題と小説の持つ視線の問題を処理する。「私」の目撃談として視線の統一を行うのだ。
なんて、理屈が先にくるわけではない。
こんなお作法はあとで考えることで、小説は、その語りの持つユーモアに惹かれてすすむ。さぼった男衆への罰が面白い。
そのさばった姿勢のままでいろというのだ。

  私は風呂場のかげからのぞき見をして、その折檻の成行きを見た。丹
 下氏は物置のなかから三枚の筵をとり出して、それを柿の木の下に敷い
 た。
 「この筵の上に寝ころべ」

そしてきまじめに、男衆がさぼって、「柿の木の瘤へ左の足の踵を載せて」、「左の足の臑坊主へ右の踵を載せて」、「憚りもなく」、「莨ばかりふかして」いたままの姿をしろと命じて、日がな一日そうしていろというのだ。そこの会話がまた面白い。そして、男衆は、丹下氏が仕事に行くのを見計らって、やれやれと、罰の姿勢を崩して、私相手に話を始める。うまいよ、この展開、この会話、この空気。よもやま話をぎゅっと詰めこんで、話の中心は、奉公人同士で、所帯を持ちながら住まいがない、男衆とその妻の逢う時間を丹下氏がそっと作る話になる。そのいきさつと心情が、会話や地の文織り交ぜながら、簡潔に、見事に一瞬だけ剥ぎ取るように描かれる。書かれたものから、物語の背景が見えるような手際。書き換えられないのではと思わせるような定着感がある。
さらに、手紙文まで上手に差し挟まれる。そして、

  森の方角から、木を挽く鋸の音がきこえて来た。その森は「ロクサの
 森」と云ひ、針葉樹の集団である。離れの窓からのぞいてみると。離れ
 は断崖の突端に建てられてゐるので、私は窓の殆ど真下にロクサの森を
 眺めることができた。こんなによく茂った森をその森の真上から眺める
 と、緑に光る陽の反射を避けるため目を細くしなければいけない。森か
 ら空中に立ち昇る一種の暑気は、風の吹き工合によつては私の頬に寧ろ
 冷たく感じられた。その森の底で男衆は鋸の音をひびかせてゐる。

あっ、描写が迫る。言葉がリアルに迫る。そう、いつから僕たちは見えもしないことを、見えるカメラになってしまったのか。なったつもりの目を備えたつもりになってしまったのか。ここには目が、耳が、そして肌の感じる触角がある。直接に関係できる世界が描かれる。

志賀直哉の文章もすごいが、井伏は拮抗していると思う。対峙している。すでに「城の崎にて」などを発表し、「暗夜行路」の前半を書いている志賀直哉に相対する文体を獲得している。描写の中に、間違いようのない毅然とした対峙が見られる。そして、この小説、会話に個性が光る。カギ括弧の文体に、地位の違いや、それに伴う教養の違いがかもされている。それが地の文とあいまって場の臨場を作りだす。
発表は昭和6年、1931年2月。9月には満州事変が勃発する。なんだか、まだまだ、時代は、転がる実感を伴っていないのかもしれない。小説の最後の描写が、いい。

  私は離れに帰って、窓から谷間の風景を見た。月は向こうの山からの
 ぼり、それはこのごろの月の出の工合にしたがって大きな赤い月で、谷
 底に立ち込めてゐる霧の上層を、その真上の空から照してゐた。

見えていたものは何だろう。霧の上層を、井伏はどうして見たのだろうか。

と、年号を書いても、それで時代性を云々するわけではない。
ただ、ひとつの表現には、その表現がある今その時と、大森荘蔵的にいえば、その直前過去と直後未来があるのだろう。あたりまえに、すべてのものに、そのものが持つ今がある。小説は、文学は、その刹那に自らを投企するものか。小説には、その当時の今があり、それを感じさせる文体の力がここにはある。
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ウン・ヒギョン「天気予報」呉永雅訳(クオン)

2014-09-20 13:37:01 | 海外・小説

クオンの「新しい韓国の文学」の一冊。短編集『美しさが僕をさげすむ』の中の一編。
ウン・ヒギョン。1959年全羅北道生まれと、略歴に書かれている。全羅道というと料理がおいしいことをすぐ連想するけれど、それはまた、別の話で。
以前にも、この短編集の小説についてブログに書いたけれど、今回はまた別の小説。
主人公は少女B。どこにでもいそうな、夢見がちな、妄想をする女の子。

  少女Bは、いつの日か世間をあっと言わせるんだと思っていた。その
 内容が何なのかは自分でもわからなかった。それでも、いつか突然、事
 件か何かが起きるに違いないと確信していた。このまま一生が終わって
 しまうとしたら、自分の人生はあまりにもつまらない。

この気持ちは、それ自体としては平凡だ。そして、それは、「見ず知らずの遠い親戚から莫大な遺産を受け取る」ことだったり、庭先で宝物を見つけることだったり、道を尋ねてきた大人が、子役を探している映画監督だったりとなり、妄想は膨らむ。境界から別世界に行くという四次元の世界にまで及ぶ。このあたりの具体性の積み上げが結構面白いのだ。テレビドラマや映画では、この妄想部分で、導入の掴みを実現してしまうかもしれない。
日々の中に、そんな妄想の種が溢れていて、

  ああ、人生はなんてたくさんの暗号にあふれていて、わたしたちは人
 生で、なんと多くの謎を解かなければならないのだろうか。

だが、妄想のもととなる実生活は、困難の連続だ。少女の家も貧しい。親は別れ、Bは母についていくことになる。そこでも、少女は夢を見る。この自分の変化を知っているものはいない、「以前の平凡なB」を知るものはいないので、別人になるのだと。だが、転校した少女を訪れるのは足長おじさんではなく、借金取りなのだ。そして、借金取りを家の母の元に連れていく間も、Bは妄想する。しかし、母は妄想を裏切るように、あまりにも自然に借金取りに対処する。平凡はBから離れない。人生は思い通りにならないが、平凡だ。

  ああ、こんなにたくさん人生の暗号を解読したというのに、この世に
 驚くようなことは何一つないのだろうか。

や、

  「全身を縛られたままどこか知らない暗がりに流されていく、そうい
 うのが人生ではないか」。これはBが本から書き写した一節だ。

といった部分を、Bの想像の中に織り交ぜながら、平凡を小説にしている。唐突な災厄や都市の不条理にさらされながら生きている現在にあって、一方で、徹底的な平凡さの中にも包まれている現在という時間。現代人にとって、現代小説は現代を生き抜く処方箋でもあるのかもしれない。記憶違いかもしれないが、アーヴィングはそんなことをいっていたような気がする。そして、否応なしに別の世界に行ってしまう時は訪れる。その死までも見つめながら、小説はシニカルに記述される。その距離感が、心地良い。


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笠井潔『吸血鬼と精神分析』(光文社)

2014-09-06 09:33:08 | 国内・小説
やっと読了。といってもこの小説のせいではなく、たんにボクの時間の問題。一気読みできる人は、一段ぐみ800ページのこの小説も一気に読める。
矢吹駆シリーズはやはり面白い。

今回の思想はラカン。ジャック・ラカンとおぼしき(というか、直でラカン)、ジャック・シャブロルという精神分析家が登場する。彼は、「フロイト回帰派」の指導者で、鏡像段階、想像界・象徴界・現実界、享楽と去勢などなど、ラカンの理論をめぐる議論が展開される。これに多重人格と解離の問題、ラカン批判としての父性と母性、父神と母神の葛藤などが加わる。
探偵小説についての文で、「今回はラカン」というところが、すでに笠井潔のシリーズの面白いところで、現代思想への考察と批判が小説の背景という以上のヴォリュームを占めていて、それが魅力なのだ。
これに、さらに、肯定神学と否定神学をめぐる神学論議、シニフィアンとシニフイエの逆転現象やシーニュ(記号)がシニフィアンとして、内容を指し示さずに次のシニフィアンとなるシニフィアンの連鎖、吸血の意味論、現象学と精神分析の戦い(?)、なども絡まり合って、当然のように、ページ数は増していく。
で、探偵小説のストーリーは、本のデータベースによる紹介文を引用すれば、
「パリ市東部に位置するヴァンセンヌの森で女性の焼屍体が発見された。奇妙なことに、その躰からはすべての血が抜かれていた。続いて、第二、第三の殺人が起こり、世間では「吸血鬼」事件として注目される。一方、体調不良に悩まされていた女子大生ナディアは友人の勧めで精神医のもとを訪れる。そこでタチアナと いう女性に遭遇し、奇妙な依頼を受ける。各々の出来事が、一つの線としてつながったときに見えてくる真実とは…。ナディアの友人である日本人青年が連続殺 人の謎に挑む。本格探偵小説『矢吹駆』シリーズ第6作。」
となる。
タチアナは、ルーマニアから亡命した元体操選手。チャウシェスクの政治体制がもたらす諜報活動も事件の流れのひとつにあり、駆の宿敵イリイチも登場する。

本質直観を駆使する駆の推理は論理的で、それを記述する笠井潔の文も執拗に論理性を重視しながら、事件の問題点を整理しながら進んでいく。そこにおかれた記号の多義性を丹念に読み解きながら、現象が指し示すものを記述していく。それが、そのまま読者の推理を誘い出していく。その現象に向けての考察が、小説をぶ厚くする。どこまでも作者の誘導や独善的な推理の道筋ではないという姿を示しながら、そのこと自体が推理小説自体への批判にもつながるメタ・フィクションの要素も持っている。批評家でもある作者ならではなのかもしれない。
また、ナディアの視線で書かれたところと物語作者笠井潔の視線で書かれた章や警視の心理で記述されたところなど語りの縦横さもある。
細部が織りなし、構築される物語世界をじゅうぶん楽しむことができた。
あとは、ウーム、シリーズの中で何番目ぐらいの作品かな。

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