パオと高床

あこがれの移動と定住

エドガー・アラン・ポー『黒猫』富士川義之訳(集英社文庫)

2008-08-31 12:01:00 | 海外・小説
久しぶりにポーを読んだ。この文庫には「リジーア」「アッシャー館の崩壊」「ウィリアム・ウィルソン」「群衆の人」「メエルシュトレエムの底へ」「赤死病の仮面」「黒猫」「盗まれた手紙」が収録されていて、ポーの語りに酔えた。ポーがいかに該博で、緻密で、論理的で、思索的か、そして、構築力があって幻視者かがわかる。「盗まれた手紙」に数学者批判が書かれているが、数学者であって詩人であること。さらに詩の優位を語るデュパンの口説に、真理と美の幻想的でありながら科学的な結びつき、時間と空間の超越された融合、物質界と精神界の万物照応への意志が感じられる。そして、ここにある短編群はその世界が表現されているのだ。さらに人の心理の不条理さへの論理的叙述など、真に先駆者と呼ぶに相応しい才能なのだ。幻想を語るに詳細であること、様々な語りによる作者の位置の置き方、ラストへの収束のさせ方など、小説の姿を創り出した作者の魅力的な作品群に触れられた。創元推理文庫の「ポオ小説全集」気になるな。あの文庫の『ポオ詩と詩論』は優れものの一冊だ。
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吉増剛造『詩の黄金の庭ー北への挨拶』(北海道立文学館)

2008-08-26 21:37:00 | 詩・戯曲その他
まさか、北海道旅行の最終日に出会うとは。地下鉄の駅で「吉増剛造展」のチラシを見た。会場は北海道立文学館。宿泊ホテルから近い。手招きされたような気分というのは、半分冗談だが、空港に向かう前、午前中、中島公園の中を歩いて訪れた。文字を刻み込んだ銅板が入り口へと誘う。「書物」「声」「撮る」「書く」「打つ」「教室」「写す」というエクリチュールが会場に溢れる。吉増剛造という巨大なエネルギーの一端が会場にあった。ノートにあふれる文字。それは密集しながらエクリチュールとして存在している。詩の細部に飛躍続ける言葉の連鎖。それが楽しい。この展示会の図録ではなく、道立文学館が制作した一冊の本は、吉増の様々な詩句や文章を閉じこめながら、それ自体が展示会の顔であり、また、一冊の書物というエクリチュールになっているようで、封じられた言葉たちが刺激的である。いい一冊だ。それから道立文学館の北海道ゆかりの作家たちの常設展。こういった地元へのアプローチは面白い。北海道の豊穣さを足早に感じることができた。あまりに足早だったけれど。
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楊逸『時が滲む朝』(文藝春秋9月号)

2008-08-19 22:31:00 | 国内・小説
芥川賞受賞作である。そのことは作家にとって幸せなことだとは思うが、この小説にとって芥川賞受賞作であることが幸せかどうか。余計なお世話と言われればそれまでなのだが、付加価値としてくっついてきてしまうものが、時に迷惑な作品もあるのかもしれない。芥川賞であるという先入観は、賞自体に対する勝手なイメージかもしれないし、それを崩し続けている最近の受賞作群があるとも言える。また、日本語を母語としない外国人作家の受賞や芥川賞初の中国人作家という言葉も果たして、いいのか悪いのか。そもそも、そんなことから考えてしまうのが、何だか、ちょっと、という感じがするわけだが。と、ぐにょぐにょ書いているが、じゃあ、どうだったのと言われれば、食い足りなかったけれど面白かった。不器用な青春を正面から描くことで生みだされた主人公に好感が持てたのだ。不器用な真っ直ぐさが、愚かさにみえない青春小説はいい。そして、楊逸が持っている、天安門や中国との距離感が、作品にも表れていて、表現が告発のような突っ込み方をしていかないし、事件の真実とかいう問いかけになっていないのだ。その分、薄味な感じがしないわけではないが、作家が描きたかったものが、どこにあるのかという問題と絡んでいるのだと思う。天安門事件を歴史の大きな屈折点にして、そこに至る青春と、その渦中の青春、そして、それ以降の青春期からの移行が描かれている。そこには、個人と国家の問題や個人と歴史の問題があるわけだが、それを何か、未来への、進展への足がかりと考えているような前向きな状態が描かれているのだ。天安門での挫折はある。しかし、それ以後の中国の改革開放政策の中での経済的な発展が、矛盾を孕みながら、主人公たちの生活を経済的に豊かなものに下支えしていく現在が書かれているし、その中で、むしろ天安門の青春やそこに至る民主化への歩みが置き忘れられていくような現在が滲みだしているのだ。しかし、そこにも顔を上げて歩いている人々がいる。その印象が小説に溢れている。常に、現在と現実の中にあることの強さのようなものが、溢れているのだ。ボクらは、個人として、国家や政治と無縁な世界にはいない。そのもたらす現在との距離感をどう感じ取るか。そのスタンスを感じさせる小説だった。天安門事件から、そろそろ20年。楊逸にとって書かなければならない小説だったのだろう。書かれるべきことは書かれたのだろうか。書かれたものからさらに、大きな書かれるべきものへの予感を感じた。
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