パオと高床

あこがれの移動と定住

鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書2010年3月19日発行)

2024-06-14 14:22:20 | 国内・エッセイ・評論

鶴見俊輔80歳から7年にわたる『図書』連載をまとめた一冊。
ほぼ2ページくらいの短い文章が綴られている。

翻訳家でエッセイスト、評論、書評、詩の書き手でもある斎藤真理子が、その著書『本の栞にぶら下がる』で、
「美味しいふりかけ」と書いていた一冊。斎藤真理子はこう書く。

  例えば、食欲がガタンと落ちて、お粥にして、お粥からご飯に戻ったのだが、ちゃんとしたおかずがまだ食べられない。
 でも白飯だけではというのも味気なくて、何か欲しい……ふりかけぐらいなら……美味しいふりかけがあれば……という感じのときだったので、
 『思い出袋』は役立った。
  鶴見俊輔のふりかけは美味しい。何しろもともとの材料がいいので、あそこからこぼれてきたものを集めても美味しいに決まっている。

そう、美味しすぎる。
鶴見俊輔が出会った人や本、そして出来事が自在に重なってくる。一切の体験と思考が絡み合いながら、通念、常識を問い直していく。
2ページほどなのに、えっ、この文章どこにいくのと思わせながら、当初の場所に着地する。
そこにはきちんと思考の後、レアな問いが置かれている。
鶴見俊輔の合理性は、多くの不合理の中をくぐり抜けながら、良心にたどりつく。
しかも、良識はすでに疑いのふるいにかけられているから、そこにあらわれる良心は、時の勢威にあたふたしない。
そばにおいて、折に触れ、ふりかけたくなる一冊だ。
それにしても、射程の広さがすごい。
ジョン万次郎、金子ふみ子と入ってきて、大山巌、乱歩、クリスティ、正津勉、柳宗悦、丸山真男、加藤周一、
映画、相撲などなど、過去も現在も、あちらもこちらも 縦横無尽だ

斎藤真理子も引いていたが、そんな中で、こんな文が出てきたりする。
イラクの戦争で人質になった日本人へのバッシングのような論調について記している件だ。

  なぜ、日本では「国家社会のため」と、一息に言う言い回しが普通になったのか。社会のためと国家のためとは同じであると、どうして言えるのか。
 国家をつくるのが社会であり、さらに国家の中にいくつもの小社会があり、それら小社会が国家を支え、国家を批判し、国家を進めてゆくと考えないのか。

こういった剛直な思考が柔軟な躍動の中から現れてくる。
国体は国家じゃない。するりと合点をいかせながら、きちんと読者を立ち止まらせてくれる。
こんな一節もある。

  自分で定義をするとき、その定義のとおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す。
 自分の定義でとらえることができないとき。経験が定義のふちをあふれそうになる。あふれてもいいではないか。
 そのときの手ごたえ、そのはずみを得て、考えがのびてゆく。

鶴見俊輔に出会うことは、この定義を問う方法を学ぶことかも知れない。
詩が、現代詩が、行う定義づけも、実は、こんな感じなのだ。
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信田さよ子『暴力とアディクション』(青土社 2024年3月5日)

2024-05-29 03:48:24 | 国内・エッセイ・評論

著者は、公認心理師・臨床心理士という肩書になっている。
「現代思想」や「ユリイカ」「こころの科学」などに初出の文章を収めた一冊。「暴力」という問題について考えていた時に出会った本だった。

依存症、DV、虐待、トラウマなどを生みだす背景、その現れ方、そしてそこにある制度や権力の問題、それを含めた語彙や現在の対処法の問題などを、
臨床を基盤にしながら記述していく。
そこには報告、思索、提言があり、ほんのちょっとだけでも知ったつもりでいた自分自身が、実は何も知らないでいたと気づかされた。
と、同時に自分自身の中にある価値観がどんなに自らを縛っているか、あるいは心地よく思わせているか、
だからこそ、それがどんなに疑わしいものか、おぞましい(?)あるいは、おそろしい(?)ものかと思わせる本だった。
そんな本は結構多くて、というか最近、そんな思いばかりする。
黒川伊保子を読んでもそうだったし。そうだそうだと思いながらも、ああ、そんなだったよなと思ったり、
えっ、こっちの感覚でいたよとか感じて愕然としたり。
少し前に読んだ『戦争は女の顔をしていない』には、あるはずだと思っていたのに、気づかないようにしていた何ものかに連れだされて出会わされた。
開き直れば、だからこそ、本を読むのだが……。

で、この本の中にフーコーの考えを引いた部分がある。
「ある行為をどう定義するかを〈状況の定義権〉と呼ぶが、それこそが権力そのものであると哲学者M・フーコーは述べた。」と書き、
DVの父親が「家族という状況の定義権は自分にあると信じて疑わなかったが」と続く。家族であれば、これが家族の中での自身の権力発動そのものになる。
考えてみれば、同様のことを国家間でも行ってしまう。「暴力」という構図の中では個対個の関係が、本来複数性を持つはずの集団対集団の関係でも同じ構図で起こりうる。
さらに、この本に書かれた「洗脳」の方法にまで触れれば、集団が巨大な一個の個になり得る状態が見えるのかもしれない。
「結婚と同時に、彼らは、状況の定義権を妻から奪うこと(妻に許さないこと)に腐心する。いや、楽しみながらそれを行うと言ってもいい。
植物にたとえれば、妻の育ってきた土壌から根っこを抜き、自分と同じ鉢に移植する作業に似ている。根っこを抜くために有効なのは、
否定し罵倒することでそれまでの妻の依拠していた自信を破壊し打ち砕くことだ。身体的暴力はそのための一つに過ぎない。
根っこを引き抜いてしまえば、あとは自分の植木鉢のルールに従って育てるだけである。これはあらゆる洗脳に共通のプロセスだ。」
結果、妻は夫の定義の「ワールドだけが彼女たちの世界」になり、「自発的服従によって支配は貫徹される」と書かれる。
かつて国家が、現在もおそらく国家が行う、集団が行う「洗脳」は、すでに社会的最小単位でも行われているのだ。
いや、すでにではなく、構図として同時的に相補的にあるのだ。
補完と連続。暴力の連鎖というが、それは微細と極大ではなく、遍在と偏在でもなく、様々なる様態であり、擬態なのかもしれない。

この本の痛みの否定と承認の文章も面白かった。
痛くて泣いた相手に、「痛くないよ」と言うのと、「痛いの痛いの飛んでけ」の違い。痛いの感覚主体を奪われるとどこにいくのかという問い。
それが生存の基盤を奪うということになるという言葉は、ちょうど並行して読んでいた高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』と重なった。
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斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス 2022年7月176日)

2023-04-01 08:51:48 | 国内・エッセイ・評論

斎藤真理子は韓国文学の翻訳家でライターである。
あっ、翻訳ってここまでその国と付き合いながら行っていく作業なのだと思った。
韓国の作家が自分たちの現状や歴史とどう向き合い、その中でいかにそれを内面化し、
なにを考え、なにを伝え発信し、どうそれを形にしていったのかが伝わってくる一冊。
そして、紹介されたこの小説を読んでみたいと思わせてくれる手引き書にもなっている。

章立ては、第1章「キム・ジヨンが私たちにくれたもの」から始まり、
「セウォル号以後文学とキャンドル革命」「IMF危機という未曾有の体験」「光州事件は生きている」
「維新の時代と『こびとが打ち上げた小さなボール』」「「分断文学」の代表『広場』」
「朝鮮戦争は韓国文学の背骨である」「「解放空間」を生きた文学者たち」「ある日本の小説を読み直しながら」の全9章。
章立てを見ただけで、韓国の現代史が見えてくるようだ。

『82年生まれ、キム・ジヨン』は「降臨」したと表現されている。
うん、確かに、この小説は視界と地平を転換させる発火装置だった。自身の価値観が何によって築かれ、
それが変わるものかを日常の隅々に到るまで問うてくる。
当然だろう、価値観は日常の些細なことまで決定しているのだから。その土台をしっかりと揺らした。揺らし続けている。

セウォル号事件が韓国の人々に、作家に与えた影響はこんなにも大きいのだと思った。
この事件を経て、小説にきざす気配が代わった作家たちを、読んでみたいと思った。
キム・エランのこの事件以降の作品を読んでいない。
キム・へスンの『死の自叙伝』は圧倒されたが重さを受けとめられなかった気がする。

「光州事件」では、テレビドラマ「砂時計」「第五共和国」に衝撃を受けた。
が、ハン・ガンの『少年が来る』は圧倒的だった。今でも、ボクの中の一押しの小説の一つだ。
ハン・ガンは『菜食主義者』で驚かされ、『ギリシャ語の時間』や『すべての、白いものたちの』
などなど多分翻訳されているものは読んでるんじゃないかなと思う
。今、詩集『引き出しに夕方を仕舞っておいた』を読んでいる。この書名がすでにいいよ。
韓国の作家でノーベル賞をとるとしたら多分、ハン・ガンではと思っている。

廉想渉(ヨムサンソプ)の『驟雨』については、そうか、こんな風に歴史の文脈の中で読めばいいのだと思った。

多くの書籍一覧もついていて、この本読んでみようと思える紹介書でありながら、読み方も示してくれる。
たびたび手に取ることになるだろうと思う本だった。
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若松英輔『日本人にとってキリスト教とは何か—遠藤周作『深い河』から考える』(NHK出版新書2021年9月10日)

2021-12-30 21:33:18 | 国内・エッセイ・評論

若松は、遠藤周作の集大成と考える小説『深い河(ディープリバー)』を軸にして、詳細に読解しながら、
遠藤周作が語ったこと、語りたかったこと、語り得なかったこと、語るという行為の先に、
なお続こうとする〈コトバ〉の気配を考察していく。
それはキリスト教と東洋的な霊性との出会う場所に至る。そうして、それぞれの宗教が持つ神の淵源に向き合っていく。
遠藤周作の『深い河』を読んだときに、ボクが感じたスリリングな体験(?)だった。
若松英輔は、そこに思想的な背景や、この考えの特殊性と普遍性を解説してくれる。
小説を読んだときの感覚は、若松の解読によって支柱を与えられる。

若松は、『深い河』のさまざまな部分について遠藤周作の思いを読み取ろうし、また、そこに若松の思いを重ねていく。
小説は読者によって生きるし、読者は小説によって読書の意味に出会う。つまり、読者は小説によって生かされた時間に出会う。
案外それは、そのあと過ごす時間に影響を与える。過去は、現在を経て未来へとつながる。
同時に、未来は過去を可逆的に呼び覚ます。
この若松の著書の言葉にならえば、「クロノス」(生活の時間)と「カイロス」(人生の時間)に架橋すということか。

一気読み必至の小説がある。『深い河』もそうだ。でも、遠藤周作の『深い河』は、突然、一気読みしたくなくなる。
立ち止まってしまうのだ。
つまらないからではない。逆で、立ち止まらないと、見えない、感じられない、聞きとれないことがあるのではという、
ためらい=ブレーキがかかるのだ。
方法論的にはブレヒトは「異化」というのかもしれない。が、それとは違うような。
むしろ、もっと嚙まなきゃ出会えない味があるかもしれないと思わせる、やり過ごせない束の間の躊躇。
一気読みの小説は楽しい時間を過ごせていいのだけれど、一気読みしたくなる気持を、
「待ちませんか」とささやきながら、時間を脱臼させる小説っていいな。
という、読み方を示してくれる評論は、それこそ読書の快楽だ。

若松英輔の文章は、語りかけに本来性を持っている。
これは、彼が、伝達するとはどういうことか、私たちは伝え合いながらどのように他者に出会い、
また共有できるあなたに、どのように出会えるのか、
そのときに生まれる私たちの共時とは何なのかを求め続けている結果の文体だと思う。
それが、この本のこんな一節に書かれている。
遠藤周作が母から受けとったであろうことについて書かれた部分だが、
これは、単にキリスト教についてだけではない。

「遠藤にとってキリスト教は、本を開いて学ぶべきものであるよりも、人から人に伝えられるべきものだったのです。
//人から人、あるいは魂から魂へと伝わるべきもの、それは言葉になり得ないものでもあります。しかし、遠藤は、
言葉たり得ないと分かっているものを、生涯を賭して書いていったのです。」

と、若松はこう書く。
これは、遠藤周作でありながら、若松英輔の想いである。
人から人へ伝わるべきもの、言葉になり得なものを言葉で書きつづけるということ、
これは伝道者への敬意であり、作品が永遠を生きるための、必然的に取るべき態度なのかもしれない。
作品が永遠を生きるとは、作者が永遠性を作品によって付与されることかもしれないが、
作者の名のみが歴史的に刻まれるということではない。
作品の永遠性は、イエスの復活と類似的なものといえるのだろうか。
つまり、作者も含めて、作品に出会った者たちが、作品を生かし続けるという永遠性。
それを獲得したものは、つねに再来する、再帰する。
そして、語りつづけるのは、語り得ない大いなる地平を持った、今こそその時の、この束の間の、
ボクたちの立ち止まりかもしれない。
時よ、ただ流れるな、いま、このひとたびに立ち止まる時も、また、時。
時よ、振り返るな、いま、このひとたびに立ち現れる時は、また、時。

物理学的には時間の一方向性は、「?」マークがついている。
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吉田秀和『永遠の故郷 夜』(集英社 2008年2月5日)

2021-11-21 19:54:01 | 国内・エッセイ・評論

再読する。
というのも、リヒャルト・シュトラウスの歌曲「最後の四つの歌」のCDを図書館で借りたからで、
その時に、あっ、そうだと思い出したのだ、この本を。時間を越えてやってくる思い。
『永遠の故郷』シリーズは、音楽が共にあって、これからも音楽が流れつづける時間の中にいるはずなのだが、
いつか訪れてしまう時間の終焉に、でもそれでも、時間が流れつづけるように音楽はそこにあり、あるはずで、
という、そんな音楽への思いを滲ませている。
あのときボクはこの曲を聴いていたなとか、口ずさんでいたなとか、それは、これまでの膨大に積み重なった時間なのだけれど、
一瞬でもあって、そこにはたくさんの思いが漂っていて、でも、いつか音は止まるのだろうか、
いやそれでも、死が訪れても、音は実はあたりまえに流れ続けていって。
だが、やはり、そこでは音楽は消えていき、消えていきながら、その音楽の流れた時間は、記憶は、
それも薄れながらも消えていくようで、なくしそうで、そんな心のふるえが、旋律のように、音のように
空気のふるえに、ゆれになるのだろうな。

吉田秀和の『永遠の故郷』シリーズは、文章自体が音楽のようだ。
自在さや愉しさ、なんだか切ない感じとか、強靱さとか、そんなものがある。
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